イールの書〜神々の⻩昏、⼈類の夜明け〜

なぎ

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第4部 4章:⼈類の選択

第141話:イールの犠牲

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イールの残留意識は、最後の力を振り絞って、スルトの精神領域に侵入した。それは、地球外生命体同士にしかできない、意識と意識の直接対話だった。物理的な距離を超え、火星と地球を繋ぐ、魂の架け橋。



スルトの精神防壁は強固だった。幾重にも張り巡らされた理性の壁が、感情の侵入を拒んでいた。しかし、イールは諦めなかった。3000年かけて学んだ人間の粘り強さが、彼を前に進ませた。



「お前も感じているはずだ」



イールの声が、スルトの意識の深層に響いた。



「人類を見て、我々が失ったものを思い出す苦痛を。彼らの笑顔、涙、怒り、喜び。すべてが、かつての我々を映し出している」



その瞬間、スルトの記憶の扉が、わずかに開いた。そこから流れ出してきたのは、遥か昔の記憶だった。



イールは見た。まだ若かりし頃のスルトを。彼らの母星で、仲間たちと笑い合う姿を。恋人と手を繋いで歩く姿を。子供が生まれた時の、純粋な喜びを。



彼らの種族も、かつては感情豊かな存在だった。愛し、憎み、喜び、悲しむ、人類と変わらない存在だった。しかし、ある時、彼らは決断した。感情は非効率だと。論理と理性だけで生きる方が、種として優れていると。



技術は飛躍的に進歩した。宇宙を渡り歩く力を得た。不老不死に近い肉体を手に入れた。しかし、その代償として、彼らは最も大切なものを失った。心を。



「黙れ」



スルトが精神攻撃を仕掛けた。純粋なエネルギーの槍が、イールの意識を貫こうとした。



「過去は関係ない。我々は進化した。感情という原始的な枷から解放された」



しかし、その攻撃の激しさこそが、スルトの動揺を物語っていた。イールの言葉が、彼の心の奥深くに眠っていた何かを、確実に揺さぶっていた。

イールは攻撃を受けながらも、語り続けた。



「人類は、我々の第二のチャンスだ。彼らを見ていると分かる。感情は弱さではない。それは、存在の本質だ。愛があるから戦える。希望があるから立ち上がれる。彼らを通じて、我々も救われる」

「綺麗事を」



スルトが激昂した。しかし、その怒りの裏に、イールは深い悲しみを感じ取った。それは、失ったものへの哀悼。取り戻せないものへの絶望。



スルトの記憶がさらに流れ込んできた。感情を捨てた後の虚無。効率的だが空虚な日々。永遠に近い寿命を得ながら、生きている実感を失った苦悩。仲間たちが一人、また一人と自ら機能を停止していく様子。種として緩やかに滅びていく恐怖。



「だから、お前は裏切った」



スルトの声には、理解と憎悪が混じっていた。



「人類に希望を見出し、我々を捨てた」



イールは、自分の存在が薄れていくのを感じていた。肉体を失った意識体として、これ以上の精神対話を続けることは、完全な消滅を意味していた。しかし、彼には悔いはなかった。



「ならば、私の全てを賭ける」



イールは最後の決断をした。



「これが、私からお前への、最後の贈り物だ」



イールは、自身の全記憶、全感情をスルトに向けて解放した。それは、3000年間の集大成だった。



人類との最初の出会い。実験体としてではなく、一つの生命として彼らを見た瞬間の衝撃。オーディンと語り合った夜。トールの純粋な笑顔。人間の女性との恋。子供たちの誕生と、その成長を見守る喜び。



裏切り者と呼ばれた苦悩。トリックスターとして振る舞いながら、人類を導こうとした葛藤。バルドルを手にかけた時の痛み。永遠の拷問の中で、それでも人類を信じ続けた理由。



そして、最後の3000年。封印から解放された後も、陰から人類を見守り続けた日々。彼らの成長、進化、そして今日の団結を目撃した感動。



すべての記憶が、感情と共にスルトの意識に流れ込んでいった。それは、単なる情報の伝達ではなかった。イールが感じたすべての感情を、スルトも追体験することになった。



「やめろ...」



スルトが苦しみ始めた。3000年分の感情の奔流は、感情を捨てて久しい彼には、耐え難い衝撃だった。冷徹な理性の鎧が、ひび割れ始めた。



愛の温かさ。失う恐怖。守りたいという衝動。信じることの強さ。裏切られても、なお信じ続ける勇気。すべてが、スルトの枯れた心に染み込んでいった。



「なぜだ...」



スルトの声が震えた。



「なぜ、そこまでして...」



イールの意識は、もはや風前の灯火だった。しかし、最後の力で答えた。



「お前も...まだ間に合う。人類を見れば分かる。感情は...弱さじゃない。それは...生きている証だ」



そして、イールの意識は完全に消えていった。最後の言葉を残して。



「人類を...頼む...」



その言葉は、命令でも懇願でもなかった。それは、古い友人への、信頼の言葉だった。



スルトは、火星の司令室で立ち尽くしていた。彼の頬を、一筋の液体が流れ落ちた。それが何なのか、最初は理解できなかった。涙。何千年ぶりだろうか。



反物質爆弾の発射まで、あと15分。しかし、スルトの中で、何かが決定的に変わっていた。イールの犠牲は、確実に、冷酷な司令官の心に、人間性の種を植え付けていた。



地球では、誰もがイールの消滅を感じ取っていた。賢吾の頬にも、涙が流れていた。



「イール...ありがとう。あなたの犠牲は、無駄にしません」



最後の戦いが、始まろうとしていた。
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