【完結】蒼海の王は朝の陽射しに恋焦がれ~冷徹な王の慈愛に溺れて~

奈波実璃

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第五章

出港②

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 ネレウスの船団は洋上にて帆を張り隊列を成し、揚々と西へと進んでいく。
 一番大きな船、そこにオズヴァルドはいた。
 船長室で彼と数人の船員が集まってテーブルを囲んでいる。
「このまま最短経路でルース本島まで進めば、岩礁地帯にぶつかるそうだ。北へ迂回すればルースが砦を構えた小島に辿り着ける。今はそこに住人はいないゆえ、そこで一度休息が取れるはずであろう」
 オズヴァルドはテーブルの上の海図にメモを書き添える。
 王たる者だというのに、戦の最前線まで躍り出る様はともすれば異常であるが、長らく将軍として軍を指揮していた彼の性には合っている。
 何より、彼ほど的確に軍の指揮を取れる人物は他にはいないのだから、反対する者はいなかった。
 会議が解散し、船員は次々に持ち場へと戻っていく。
 船長室に、オズヴァルド一人が残された。
 彼は神経質そうな表情で、椅子に深く腰をかけている。
 そんな彼の耳にふと、金属と木の軋む音が響いた。
 背後に置いてあったチェストが開く音だと気づいた瞬間、彼は反射的にその場から飛び退いた。
 けれどオズヴァルドはその中身に、更に驚かされるのだった。
「あ、貴女が何故ここに……!?」
 独りでに開き出したかと錯覚させたチェストの中には、モルガーナがいたのだ。
 彼女が重い蓋を持ち上げ、その中から姿を現した彼女は神妙な顔をしてオズヴァルドを見据えていた。
「勝手に乗船し驚かせてしまった無礼、誠に申し訳ありません」
 薄暗い船室の中で、凛とした気品を輝かせる彼女の姿はまるで地上に舞い降りた天女を思わせた。
 モルガーナは城を経った後、港まで降りていった。
 そして軍船に荷の中にオズヴァルドの調度品を見つけると、その中に身を潜めたのだ。
 そして彼が一人になるタイミングを見て、このように姿を見せたのだった。
 そんなモルガーナが頭を下げる姿を呆然と見つめていたオズヴァルドの表情は、徐々に怒りと焦りにまみれ始めた。
「何故そんな場所にいたのです! 何が目的だ!」
「この船を……戦を止めるためです」
 凄むオズヴァルドに、けれどモルガーナは眉一つ動かさなかった。
「戦を……? ハハッ、まだそんなことを仰るのか。船は止まりませぬ。ネレウスの名誉と貴女を汚した彼の国に報いを与えるまでは。そうだ、ちょうどいい。こんなところまでいらっしゃったのだ。いっそ貴女も彼の国が滅ぶまでをご覧になればいい。ルースの王の首を、いの一番にお見せいたしましょうか」
 モルガーナの目には、狂気じみた冷笑を浮かべるオズヴァルドが映っている。
 彼女はかつて自分を慕ってくれたそんな彼の変容に、悼ましげに目を伏せた。
 けれどもう、そんなことに嘆いてなどいられないのだ。
「まさか、その細腕で船員共を屈服し梶を繰るおつもりか? 貴女一人で何ができるというのか。貴女一人で、何を変えられるというのか……」
「……変えられますとも」
 大仰に肩を竦めるオズヴァルドはしかし、突然自分の脇をすり抜け甲板へと走り出したモルガーナの行動に再び驚かされるのだった。
 船長室を出たモルガーナは、朝日に染まる船の上を走り抜けた。
 すれ違う船員達は場違いなドレスを翻す人物、そしてその人物の正体にただ度肝を抜かれたじろいでいるばかり。
 モルガーナは船首まで辿り着くと、懐から短剣を取り出した。
 そしてその切っ先を、自分の喉元へと押し当てる。
「一歩たりとも近づいてはなりません! 一歩でも近づけば、私はこの刃をこのまま突き立てることも厭いません!」
 彼女の言葉は凪いだ海の上を広がり、航行する軍船の船員全員の耳に届くところだった。
 そしてその言葉と短剣は、甲板に集まってきた船員の足を止める。
「今すぐ引き返して、戦を止めるのです。さもなくば私は……この場でこの命を断たせていただきます」
 船上に、にわかに緊張が走った。
 モルガーナは続ける。
「もしネレウスがルースを攻撃した際、私はそれを苦に自害をしたことを公表するようにと、しかるべき者に頼んであります」
 彼女の言うようなことが実際行われれば、いよいよルースへの侵攻に対する反発は加速することだろう。
 そうなればオズヴァルド、ひいては王族の立場も危ういものとなる。
 またそれ以上に、彼はまだ自分のことを愛している……そんな打算もあった。
 到底応えることのできない歪んだ愛であったとしても、それは確かに存在している。
 彼女はそれを分かった上で、このような行動を選んだのだ。
 モルガーナの脳裏に蘇る、ネレウスでの記憶。
 暖かく自分を見守ってくれた民、時に自分を叱り守ってくれた宮仕えの者達、そして厳しかった父のことを。
 彼らに思うのは、こんな風に自分の命を投げ出そうとすることへの罪悪感だった。
 それでも、そんな彼らのためを思えばこそ、この船を停めなければならなかった。
 そんな彼女を遠巻きに見つめながら、戸惑い慌てふためく船員達の群れを掻き分けるように、オズヴァルドがその前に踊り出てきた。
 彼は呆然と、モルガーナの喉元に突き立てられる刃を眺めて絶句するばかりだった。
「そ、そんな……モルガーナ様、どうか冷静になってください……。そのようなことをして何になると言うのです? さぁ、剣を降ろしなされ……。そうだ、ルースの民の命は最低限保証いたしましょう! 無抵抗であれば命を奪わないよう兵に命じてしんぜましょう! どうです? 勿論、お父上の葬儀も早急に行いますとも!」
 オズヴァルドは何とかして彼女の愚行を止めようと、冷や汗を流しつつ慎重に言葉を選んでいる様子だった。
 モルガーナはそんな彼を悲しそうな瞳で見返すばかりだ。
 こんな状況でも、彼はルースへの侵攻を止めるという選択肢を捨ててはくれない。
 自分の命一つでは、彼を止めることはできなかった。
 ただ一言、撤退を命じてくれれば──淡い期待は叶えることはできなかったのだ。
 そんな彼にどこか冷めたような感情を覚えたモルガーナは、短剣を構え直して改めて自身の喉元に突き立てる。
 彼女の首筋に、剣先が僅かに沈み血が一滴垂れ落ちる。
 鋭い痛みにモルガーナの顔が歪む。
 それを眺めるオズヴァルドの表情からも、血の気が引いていく。
「お、お止め……」
 オズヴァルドがそれを制しようと、駆け出そうとしたその時だった。
「オズヴァルド様! 前方より十隻、近づいて来ております……! ……あれは」
 見張り台にいた船員が叫んだのだ。
 二人と船員達は、一斉にそちらを振り返る。
 確かにネレウスの軍船よりも二回り程小さな船の群れが、こちらへと駆けているのが見てとれた。
「あれは……」
 見覚えのある船に、モルガーナは息を飲んだ。
 あれはルースの船だ。
 船の帆全てに、ルースの国の紋が描かれている。
「お前達、持ち場について迎撃しろ! ちょうどいい、どうやら向こうからお出ましのようだ!」
 にわかに騒がしくなる船の上。
 けれどモルガーナはルースの軍船から目が離せないでいた。
 先頭を走る船の船首、そこにいたのは。
「……! カルロス様……!」
 よく知った、堂々たる佇まいで彼はそこにいた。
 カルロスが率いる船団は、その船首をネレウス側の船団に突き立てんばかりに近づいてきた。
「葬儀からの送りにしては、随分と大仰だな。……まるで行軍ではないか」
 カルロスは悠々とた相対する船団を見渡した。
「ど、どうしていらっしゃるのです……!?」
 モルガーナは船上のカルロスが、自分の姿を認めた一瞬、顔を綻ばせたことに気がついた。
 が、すぐにその瞳は鋭く細められる。
 同じようにオズヴァルドを睨む人物が、モルガーナの後ろから寄ってきたからだ。
 モルガーナは自分の前に、まるで庇うかのように立ったその人物を見上げた。
 オズヴァルドだった。
 彼もただ、真っ直ぐにカルロスを見つめている。
 しかしその固まった表情は、我を忘れて怒り狂い出してしまいたいのを、必死に抑えているようにも見えた。
まるで少しの衝撃で爆発してしまう爆弾を思わせる横顔だ。
「貴様がルース国の王、カルロスか」
「そういう貴様は……ネレウスの国王オズヴァルドか」
 二人の王の邂逅。
 広い海の只中に、突如鋭い緊張感が走る。
 その間にいるモルガーナは、ただその睨み合いを不安げに見つめるばかりだった。
「さて、如何なる用向きで我が国に大挙して押し寄せているか。事と次第に依っては、このまま武力行使も厭わぬが」
「知れたこと。小国の分際で我が国を愚弄し、我が国の宝同然の姫君すら手にしようと画策したではないか。その首、前王の手向けとして頂戴させてもらう!」
 海に、オズヴァルドの怒声がは響き渡った。
 カルロスはそれを聞くと、深く瞳を閉じた。
 その顔色は、どこか悲しみの色すらも感じ取れるものだった。
 けれど、カルロスは叫んだ。
「総員、迎撃開始! これ以上のネレウスの侵攻を許してはならぬ!」
 それが開戦の合図だった。
 両軍の船が、木の軋む音や波を裂く音を上げながら進軍を開始した。
 ネレウス側の大砲が、次々に炸裂する。
しかしルースの船団は、小ぶりな船体を活かしてそれを俊敏にかわしていく。
大砲の弾は虚しく水飛沫を上げるばかりとなっていた。
 大砲が放たれる度、船が大きく揺れる。
モルガーナはその度に、必死の思いで船の欄干にしがみついた。
 その側でオズヴァルドは叫ぶ。
「ええい! 何をしておる! 今あの船に乗る王さえ狩ることができれば勝ったも同然! 弾を惜しむな!」
「し、しかし味方の船との距離が近すぎます! 下手をすれば同士討ちになってしまいます!」
 この戦況に、オズヴァルドはやきもきするばかりだった。
 単純な戦力ならば、此方が勝っている。
 船の装備もそうである。
 しかしネレウスの船団は、相手の船一つ沈めることが叶わなかった。
 海を知り尽くした、海の民。
 その経験と知識は、そんな物量差すらひっくり返したのだった。
 ついにモルガーナとオズヴァルドの乗る船の側部に、カルロスの乗る船が近接した。
 互いの船の欄干が、擦り合わされ木片が散る。
 オズヴァルドもモルガーナもその衝撃で、大きくバランスを崩して甲板へと倒れこんでしまった。
 その瞬間、ネレウスの船にルースの船員が乗り込み始めた。
 その中には、カルロスの姿もあった。
「全く、これから戦に向かう船に乗り込むなど恐れ知らずにも程がある」
 ネレウスの船に乗り込んだカルロスは、モルガーナに駆け寄ると船の揺れのせいで転倒していたモルガーナを立ち上がらせた。
「それはカルロス様も一緒です。国王が戦線に出るなんて、聞いたことがございません」
 モルガーナはそんな彼にふくれているものの、それでもこうして自分を支える彼かの腕が、暖かく感じられた。
 そこが帰るべき場所なのだと、改めて実感する。
「……と、戯れを言っている場合ではないな」
 カルロスの視線を追って、モルガーナも顔を甲板の方へと向けた。
 剣戟が繰り広げられる様を背に、ゆらりと立ち上がるのはオズヴァルド。
太陽を背にカルロスを睨み付けるオズヴァルドは、最早幽鬼にも似ていた。
「その手を離せ。その方は我が国の宝。貴様ごときが手にしていい人ではない」
 モルガーナは一歩、後ずさった。
 そんな彼女を庇うように、カルロスは彼女を自分の後ろへ回した。
 そんな二人の様子に、オズヴァルドを更に怒りを募らせる。
 カルロスはただ静かに、そんな彼に鋭い眼差しを射る。
「最後の勧告だ。今すぐ引き返すと言うのならば、この一連の件は不問に致す。さもなくば、どちらか一方が海の底に沈むことになるぞ」
 カルロスの声音が、微かに緊張しているようにも聞こえた。
 その理由に、モルガーナは心当たりがあった。
 ──モルガーナ、お前には……そんな二国の架け橋になって欲しかった。
 いつか自分に語ってくれたことを思い出す。
 こんな状況を、彼は望んでなどいなかったはずだ。
 一縷の望みを、目の前にいる他国の王に賭けているのかもしれない。
 しかし対するオズヴァルドは、そんな彼の希望など知るよしもなく。
「ハハッ」
 短く笑ったオズヴァルド。
 その声が内包するのは焦燥と憤怒と、そして狂ってしまいそうなほどの喜びだった。
「この期に及んでそのような戯れ言を。私の望みはただ一つ。……貴様の首だ!」
 オズヴァルドが腰の剣を抜いた。
 そして間髪入れず、真っ直ぐにカルロスの方へと踏み込んでいく。
 カルロスがモルガーナを突き飛ばし自分から引き離したのは、それと同時だった。
 カルロスはすぐさま懐の短剣を抜き、オズヴァルドの剣を受ける。
 金属と金属がぶつかる音が響く。
 一瞬のつばぜり合いの後、僅かに体勢を崩したカルロス。
 オズヴァルドは好機とはがり踏み込み、切っ先をカルロスに突き立てる。
 カルロスはそれを瞬時に身を翻して躱す。
 長剣を華麗に操りカルロスを捉えようとするオズヴァルドと、それを見事に受け流し軽やかにオズヴァルドの懐を狙うカルロス。
 ともすれば、その力と技の応酬は雄壮ですらあっただろう。
 波に揺れ、怒声と砲撃の音が響く甲板の上にへたり込むモルガーナ。
彼女はその瞳を悲しみと絶望に湛えてそれを見つめていた。
 ──一体何を、間違えてしまったのだろう。
 ──何故、愛する二つの国が争わなければならなくなったのだろう。
 今彼女に出きることは、ただ目の前で起きていることに嘆き、過去を顧みることばかりだった。
 ふと、彼女の視界に鮮やかな赤色が飛び散った。
 カルロスの肩口に、オズヴァルドの剣が掠めたのだ。
「! カルロス様!?」
 モルガーナの悲鳴が木霊する。
 彼女には、ただ傍観する他に成せることはない。
 けれどモルガーナ自身は、そんな自分を許せるはずがなかった。
 カルロスの短剣が、オズヴァルドに向かって真っ直ぐ伸ばされる。
 オズヴァルドはそれを難なく往なし、自身の刃を振り下ろす。
 しかしその刃が自身に届くよりも前に、カルロスは身を屈めオズヴァルドの足首を蹴り上げた。
 不意の攻撃は、オズヴァルドにしっかりと入った。
 彼は剣を取り落としながら、甲板へ身を強かに打ち付ける。
 カルロスはその機を逃さない。
 カルロスは躊躇うことなく、よろけるオズヴァルドに向けて短剣を振り下ろし──。
「お止めください! カルロス様!」
 そんな二人の間に、モルガーナの叫び声が滑り込んだ。
 カルロスが振り下ろそうとした剣は、オズヴァルドの首筋を切り裂く寸前で止まった。
 二人は声のした方へ、振り返る。
 激しく揺れる甲板の上を、モルガーナは辛うじてバランスを 取りながら二人の元へと駆け寄る。
 モルガーナはカルロスが剣を止めたことに安堵をしつつ、じっと彼を見上げた。
 その視線は、静かに訴えていた。
 ──彼を殺めることは、貴方の本意ではないでしょう。
 カルロスは、はたと気づいたように僅かに短剣を握る手を緩めた。
 そうして目の前で自分を睨み上げるオズヴァルドに向かって、静かに言った。
「もう貴殿の敗けだ。今すぐ投降すれば悪いようにはしない。だから……」
 その時だった。
 彼らの乗る船が、強い衝撃と共に左舷側に大きく揺れたのだ。
 「きゃあっ」
 叫んだモルガーナは、振り落とされないように辛うじて欄干にしがみつく。
 どこからか飛んできた流れ弾が当たったらしい。
 しかし大半の者はそんなことに気を止めることなく、突然の衝撃から身を守ることに精一杯だった。
 しかしその隙を逃さなかった者がいた。
 オズヴァルドだ。
 カルロスが大きくよろめいたその瞬間、彼は取り落としていた剣を再び手にしていた。
 ──大波を上げて傾き行く船の上。
 ──必死に欄干に掴まるモルガーナは、目の前の出来事をにわかには信じることができなかった。
「カルロス……様……?」
 オズヴァルドは拾い上げた長剣を、片膝をついたまま真っ直ぐに突き上げていたのだ。
 剣の切っ先に、真っ赤な血を滴らせながら。
 カルロスの腹を、貫きながら。
 カルロスは自分を貫いた刃を、そしてじわりと広がる血だまりを、しばし呆然と見下ろしていた。
 ふいに、その体がぐらりと崩れ落ちた。
 自分の体から流れる血の中に、その身が力なく倒れていく。
「い……いやぁぁぁ! !」
 轟く大砲の音や方々から上がる怒声を、モルガーナの叫び声が引き裂いた。
 モルガーナは倒れたカルロスの方へ、慌てて駆け寄ろうとした。
 けれど傾き行く甲板は、それをはばむ。
 モルガーナと力なく伏せるカルロスの体は、今まさに海の中へと投げ出されようとしていた。
 そんな最中でも、悠然としている者がいた。
 オズヴァルドだった。
 彼は手元の長剣を見下ろしている。
 赤黒い血が彼の刃を伝い、甲板へ滴り落ちて黒い滲みを作っている。
 それを見下ろしていたオズヴァルドの口角が、歪に持ち上がった。
「ルースの王カルロス! 討ち取ったりぃ!」
 高らかなオズヴァルドの宣言は、しかし再びの轟音でかき消されることとなった。
 彼の乗る船は、再び砲撃を浮けたのだ。
 いよいよ船体に入った亀裂は、船全体を崩壊へと導いた。
 船体は砲撃を受けた箇所から悲鳴にも似た轟音を立てながら、木片となって海面へと崩れていく。
 その船に乗るものは、皆為す術もなくその海の中へと放り出されていく。
 オズヴァルドも、そして血を吹き出し続けるカルロスも、皆一様に。
「カルロス様……カルロス様……!」
 モルガーナは最後にそう叫んだ。
 夫の名を、懸命に。
 彼女にできる、最後の足掻きだった。
 無論、どうにかなるわけもなく、彼女も同様に海の底へとその身を沈めさせるのだった。
 海の中は、ひどく冷たいものだった。
 モルガーナは襲い来る波から懸命に顔を出そうと両の手足をバタつかせていた。
 けれどろくに泳法の知らない彼女に、その場を切り抜ける力などあるはずもない。
 遂に彼女の体は、深い海へとただただ沈んでいくばかりだった。
 そんな最中に、彼女は見つけた。
 ほの暗い海に射す、陽光が照らした海中。
 そこに靄のように広がる赤黒い血液。
 カルロスだった。
 カルロスは血を流しながら、深い深い海へと沈みこもうとしていた。
 深く目を閉じた青白い顔の彼からは、まるで生気を感じられない。
 モルガーナはそんな彼に手を伸ばした。
 ただただ苦しくて冷たいだけの海の中。
 自然の脅威の中では、あまりに非力な細腕を精一杯に伸ばした。
(カルロス様……カルロス様……! どうか、目を覚まして……! )
 愛する人を海の底に眠らせるなど、堪えられるはずもない──その一心で。
 伸ばした腕は、遂にカルロスの指先に触れた。
 けれど、彼女の体力もそこまでだった。
 モルガーナは堪らず止めた息を吐き出して、海水を目一杯に吸い込んだ。
 そこで彼女の意識は、途切れてしまった。
 
 次に彼女が聞いた音は、火にくべた薪のはぜる音だった。
(ん……)
 体を捩ると、柔らかい毛布がかけられていることに気がついた。
 ベッドに寝かせられているようだ。
 重たいまぶたを、無理矢理に開けて辺りを確認しようとする。
 暗い石造りの壁に囲まれた部屋だった。
 彼女には見覚えがあった。
 ルースの東端にあるあの砦だ。
 初めてルースに向かう折りに、船が沈没して急遽立ち寄った場所。
「目覚めましたか。何よりです」
 まさか部屋に自分以外の人間がいるとは思わなかったモルガーナは、心臓が止まりそうになりながら声のする方に振り向いた。
 石壁に穿たれた小窓に、凭れるようにして立っていたのはエンリコだった。
 カルロスと同じ長い銀髪が、夜の闇を映す窓の前で靡いていた。
「あ、あなたは……! っ痛……」
 体を起こそうとしたモルガーナ。
しかし節々を走った痛みが、それを許さなかった。
エンリコはそんなモルガーナを一瞥したのみで、すぐにその奥の方へと目をやった。
モルガーナもそれを追って、自分の背後を振り返った。
「……! カルロス様!」
 今度こそモルガーナは起き上がって、彼の元へと駆け寄った。
 体に走る痛みのことなど忘れて。
「カルロス様……カルロス様!」
 モルガーナは彼の体にすがりつくようにして揺さぶった。
「止めておきなさい、傷口が開きます」
 エンリコはその場から身動ぎ一つせず、つっけんどんに言い放った。
 けれどそんなエンリコの言葉は、モルガーナを冷静にさせた。
 モルガーナがすがりついたカルロスの体からは、確かに体温を感じられた。
 そして僅かに呼吸で胸部が上下していることも、見て取ることができた。
 生きている──。
 それが分かっただけでも、安堵の息が漏れた。
 そんなモルガーナとは対照的に、エンリコは不機嫌そうに眉間に眉を寄せている。
 ふと彼は窓辺からゆるりと離れると、モルガーナの側に立って自分の兄を見下ろした。
「貴方はどこまでも甘すぎる。貴方を殺そうとした私すらも赦し、あまつさえ今作戦の指揮官に指命するとは……。あの騒乱の中でなら、私は貴方を謀殺することもできたでしょう。まさか、微塵もその可能性に思い至らなかったのですか?」
 モルガーナが見上げたエンリコの表情は、不機嫌を通り越して恨みが込もったものだった。
 エンリコは続けた。
「そしてその甘さが生んだ結果がこの様です。身内どころか、敵対さえしうる国すらも赦そうとした甘さの結果です。貴方という人が敵将に食らわされ、そのように臥していらっしゃる。聞けば情をかけてその隙を付かれたとか……お人好しを通り越して、いっそ馬鹿者です。あぁ、そうですね。ネレウスがルースを侵略する可能性すら考えていなかったことも、言っておかねばならないでしょう。私が進言していなければ、今頃ルースの大地は火の海となっていたことでしょうから」
「エンリコ様……!」
 モルガーナの口から、自然と抗議の声が上がった。
 しかし恨みのこもったエンリコの表情が、次第に悲しみを帯びていくのを感じて、モルガーナは咄嗟に口をつぐんだ。
「ですが、怨恨によって国を動かそうとした私は……貴方以上の馬鹿者なのでしょう。恨みを募らせたネレウス王の姿は……到底国を統治するもののそれには見えませんでした。貴方がいなければ、私もきっと……同じような最期を辿っていたことでしょう……」
エンリコはカルロスから目を伏せるようにしながら反らすと、窓の外に広がる黒い空を見据えた。
ふとモルガーナは、船が沈没すると際にオズヴァルドも海へ投げ出されていたのを思い出した。
「オズヴァルド様は……!? オズヴァルド様はどちらに!?」
はたと思い至ってエンリコを見上げる。
当のエンリコは彼女から目を反らすようにして、自身の兄を睨んでいた。
「私は、兄のように生きることはできない。きっと兄ならどんな危険も顧みることなく、自分に刃を突き立てた者すらも救うでしょう。しかし少なくとも、私にはできなかった。我が国王とその妃を救うことしか、私には……」
 恨みなのか、悲しみなのか、果たしてそれを向けているのはオズヴァルドになのか、カルロスになのか、はたまた自分自身にか。
 モルガーナもそれ以上は何も言わなかった。
 かつて愛した人の姿を、モルガーナはもう上手く思い出すことができないでいたから。
 モルガーナは改めて、目の前で深く眠る自分の愛する人を見下ろした。
 血の気の引いた冷たい頬を、モルガーナは撫でた。
 僅かな呼吸や鼓動の音が、掌を通して伝わってくる。
 今はただ、彼の無事に安堵をしていた。
 彼女はカルロスの肩口に額を寄せた。
 ただ、彼の安寧を願いながら。
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