上 下
1 / 15

1話 聖都ロージア

しおりを挟む
「君……は……」
男を呼び止めようと手を伸ばしたローラン。
しかしそれは叶わなかった。
遂に限界を迎えてしまったから。
限界を迎たローランの体は、再び地面へと倒れた。
そうしてゆるゆると、意識を深い闇の中へと落としていった。
意識が消えかける直前、ローランは見た。
銀髪に縁取られた、青い瞳が自分の姿を映しているところを。
そして感じた。
自分を抱きかかえる、人の温もりを。


──いつか必ず……を、迎えに……


誰かの悲痛な呟きが、消えかける意識の隙間に潜り込んできたような気がした。
けれどその正体は、ローランには捕まえることができなかった。
(……そんな風に、悲しそうな顔をしないでよ)
ローランは自分を見下ろす見知らぬ男の眼差しに、ただただ仄かな痛みを覚えるばかりだった。



□■□


聖都ロージア国領内の南、広い平原に大隊規模の兵士が展開している。
その大隊が対峙しているのは、小山ほどの大きさの牛にも似た怪物。
地響きのような唸り声を上げるその怪牛は、まさに猪突猛進とばかりに大隊に向かって疾走をしている。
目を爛々と赤く光らせ牙を剥く様からは、最早こちらを恨み害することこそが生の意味であると語っているかのよう。
「弓兵、射てーー!」
指揮隊長の号令で、弓兵が一斉に弓を弾く。
放たれた無数の矢は、それぞれ白に紫に黄色のオーラを纏っていた。
皆怪牛を滅しようと放物線を描き空を飛ぶ。
しかしそれは一筋たりとも傷をつけることはできなかった。
大きさの割に俊敏な獣は、恨みに理性を犯されながらも尚その射られた矢を避けることができたのだ。
辛うじて当たった矢も、獣の硬い毛皮を傷つけるには至らなかった。
指揮隊長の退避を命じる怒号が響いた。
けれどその強靭な怪物の巨体、そこから振るわれる圧倒的な力……騎士団の士気を削いでいくばかりだった。
いよいよもって、混乱し始めた大隊にその牙が届こうとした、その時。
「みんな! 伏せて!」
一閃の刃と雄叫びが、怪牛を突き刺した。
大隊の後方から白馬で弓兵の隊列を飛び越え、一人の青年が獣の前へと躍り出たのだ。
少しクセのある金髪を靡かせ青年は、腰から剣を抜いた。
その刃には、深紅のオーラを纏わせていた。
綻び盛りとなった薔薇を思わせる、鋭い刃。
青年のまだ少しあどけないアンバーの瞳が、まっすぐに獣を捉えている。
ただ一刀、青年は白馬の走る勢いに刃を乗せ、怪牛に突き立てた。
その刃は、真っ直ぐに獣の額へと突き立った。
あれ程の矢を受けて傷ひとつ付かなかった硬い毛皮を引き裂き、刃は確かに怪牛の肉を絶ったのだ。
深紅のオーラが、その傷から怪牛の体へと流れていく。
獣の、一際大きな咆哮が平原に木霊した。
今度は痛みに絶叫する悲鳴だ。
その深紅のオーラによって、獣に多大なダメージを与えることが敵ったようだ。
のたうち回る獣を前に、白馬の青年は叫んだ。
「歩兵部隊、突撃! 叩き込んでしまえ!」
今度は青年の号令が響く。
その一閃は、巨体の圧倒的な力を前に失われかけた士気を取り戻す一撃でもあった。
青年の号令と共に、怪牛への反撃が開始された。


怪牛の巨体が地面に伏し、その身から溢れた黒い霧状ものが平原に広がろうとしている。
その霧に当てられた地面の草は、みるみるうちに生気を失い枯れていく。
「聖痕のクラスがジョーンヌ以下の者は負傷者の手当てと周辺の警戒を。クラスがヴィオレ以上の者はこのヴィスの体の解体と検分を手伝ってくれ。この大きさだ。瘴気の量も相当だ。みんな、再度気を引き締めてくれ」
兵達は皆、彼の言葉に従って動いた。
それを優しげな、ホッとしたような表情で眺めていた青年。
そんな彼の側に、翼を背負った小動物が一匹、文字通り飛んで来た。
「ローラン様! 勝手に飛び出されては困ります! 何度も申しているというのに……」
大きな耳とふわふわの白い毛に覆われた短い四肢──まるで犬や狐を思わせる可愛らしい見た目とは裏腹に、しわがれた老人のような声音で小動物は喋った。
その額にはルビーのような宝石が輝いている。
カーバンクルという生物だ。
「なんだい、イニャス? せっかくヴィスを倒せたというのにお説教かい? あれは『禁忌の森』の方から来たヴィスだった。中々手強かったよ。人手は多いに越したことはないよ」
青年──ローランは腰に手を当てて不満げに、しかし同時にその功績を誇っているかのようにイニャスと呼び掛けた小動物を見上げた。
その顔つきは怪物と戦ったり、騎士団に指示をしていた時とはうって変わって、愛くるしい小動物を思わせる、あどけない笑顔を浮かべていた。
「ですから! 何度も申し上げている通り! 貴方は聖都ロージアの王であるのです! 王自ら最前線にまで躍り出て戦うなど、このイニャス、三百年この聖都で仕えておりますが初めてお目にかかりました!」
イニャスの、大きな身振り手振りを交えてのお説教はしかし、ローランには届いていない様子。
「歴史書によると五百年前にはいたそうだよ。当時ロージアを治めていたエリク・ロージアは『大厄災』と呼ばれたヴィスを、王でありながら先陣を切ってヴィスを倒してきたんだってね」
などと、先程の精悍な突撃とは打って変わって呑気に笑うのだった。
「そういうことを申しているのではなく……」
イニャスのお説教は、そこで中断されてしまった。
「おい、こいつ瘴気に充てられているぞ!」
誰かの叫びに、はっとローランは振り返り、そちらの方へと駆け出した。
彼が駆け出した先には、兵が集まり何かを遠巻きに取り囲み眺めていた。
そこには一人の兵士が、地に伏していた。
その兵士の右半身では、黒い霧がまるで触腕のように蠢いていたのだ。
伏した兵はその触腕に絡まれる苦痛を堪えるために、呻きとも叫びともつかない声を上げて
騎士団の者が皆、遠巻きにそれを警戒する他にない中で、ローランだけが違った。
彼は地面に伏す兵に駆け寄ると、苦痛に脂汗を流す兵を抱きかかえた。
黒い霧──瘴気は、じわじわとその兵の体に広がっていく。
「……!! しっかりして!! 今……えぇっと……」
兵を抱きかかえたローランだったけれど、しかしそれ以上のことを彼が施すことはできなかった。
「なりません!」
そう叫んだのはイニャスだった。
イニャスはまたもローランの側に飛んで来ると、今度は毅然とした声音と表情でローランと対峙した。
「ローラン様! いくら貴方が最高位の聖痕を持っていたとしても、瘴気に安易に触れていいものではありません! それに……」
イニャスはローランが抱えた兵を覗きこんだ。
「この者はもう、施しようがございません……。後はこのまま瘴気に体が犯され朽ち果てるか、心が犯され正気を失うかのいずれかで……」
イニャスが言いかけた直後だった。
ローランが抱えていた兵が、一際大きな呻き声を上げた。
かと思うと、自分を抱えていたローランに向かい、まるで獣が牙を剥くかの如く襲い出したのだ。
「……!!」
ローランは咄嗟に、自身の手甲でその歯を受け止めた。
地面に仰向けに倒れたローランを襲う兵の目は、爛々と輝き呻き声はもはや人の上げるそれではなかった。
そしてただただローランを食らうことのみを目的に、彼の腕へと食らいついているようだった。
次第に彼が纏っていた瘴気が、徐々に一定の形をとりはじめた。
固い外皮に、禍々しい角、そしてローランに噛みつく牙は、徐々に硬く長くなっていく。
それはまさに彼が人間とは別の、恐ろしいものに変わっていく兆候でもあった。
ローランはそれを辛うじてそれを止めているが、しかし長く持ちこたえることはできないだろう。
「ローラン様!!」
イニャスの叫びが、ローランに届いた。
純粋に彼の身を案ずる悲痛な思いと、そんな彼の甘い考えに対する叱咤の込められた叫びだった。
ローランの瞳に、悲痛な影が落ちた。
悔恨に揺れるその瞳はしかし、真っ直ぐに正気を失った兵を見つめていた。
「……すまない」
それだけ囁くと、彼は腰の剣を抜いた。
その剣が、再び深紅のオーラを帯びだした。
そして、ローランはその剣を水平に薙いだ。
……兵の体から血飛沫が舞った。
それと共に兵の纏っていた瘴気が、深紅のオーラに焼かれるようにして浄化されていった。
辺りが、にわかに静寂に包まれた。
騒動の中心にいたローランは、振り抜いた刃もそのまま、ただ肩で息をしているばかりだった。
一人の亡骸を前に。


それから小一時間は経った頃だろうか。
「よいですか、ローラン様。貴方は一国の国王。国王が討たれること、それ即ち国が討たれると同義です。前線に出て戦うことは、貴方の責務ではないのです」
聖都ロージア中心に聳える王城。
太陽の光を受けて真っ白に輝く城の廊下を、ローランが歩いていた。
眼下を見れば、城と同様に真っ白な壁を有した家々に、それを護ろうと聳える真っ白な城壁が広がっている。
全てが白く染まる国ではあるけれど、ロージアが聖なる花と定めた、色とりどりの薔薇があちらこちらに咲き誇っている。
それはキャンバスを染める絵の具のように、国に彩りを添えている。
そんな美しい世界にあって、ローランは鎧だけは外したものの、未だ泥や埃、そして返り血にまみれていた。
その傍らで、イニャスが白い翼を羽ばたかせて寄り添って説教をしている。
「う~ん。でも僕、ちゃんと倒せたよ? それに、僕は最高クラスの聖痕を授けられたんだ。むしろ積極的に使わないと聖痕がかわいそうだと思うのだけど……どう?」
「ですから、貴方は王としての自覚が……」
「お説教は後で聞くよ。それより今は着替えをさせてくれないかな? さすがにこの格好のままで歩き続けては、掃除の者が困ってしまうだろ」
困ったように微笑まれながらそう言われてしまっては、イニャスも口をつぐむしかなかった。
「それじゃ、後でね」
ローランはイニャスの元からスタスタ歩き去り、自分の部屋へと向かった。



聖都・ロージアが建てられる大陸は、数千年より昔から、瘴気によって人々──いや、ここに住まう全ての生物達の生命を脅かし続けていた。
瘴気が生物の体に取り込まれると、体は凶悪な姿に歪められ、理性は消え失せ、精神に内在する衝動や攻撃性、そして欲望が高められる。
勿論、それらの矛先として人間が襲われることもしばしばあった。
それゆえに、瘴気にあてられた生物や人間は『ヴィス』と呼ばれ恐れられてきた。
特に瘴気の濃い、聖都の南部にある『禁忌の森』から出現するヴィスは、特別強いものが多く、幾多の犠牲を出していた。
そのヴィスを倒し、瘴気を浄化できる者達が、聖都ロージアにはいた。
ロージアの都市を守護する神からの祝福を受けた、聖騎士団。
神からの祝福を得た者は、体の一部に薔薇の花を模した聖痕が現れる。
その聖痕から湧き出るオーラを武器に乗せ、瘴気やヴィスと対峙するのが、ロージアの聖騎士団だった。


「そんなことを言われてもさ……」
ローランは一人、自分の部屋で服を全て脱ぎ捨てて体を清めていた。
本来は召し使いに拭ってもらうべきものだが、全員に引き払ってもらっていた。
召し使いが持ってきた盥でタオルを浸し、自分の体をそのタオルで汚れた体を拭う。
泥や埃、返り血が少しずつ彼の体から剥がれていく。
鍛えられた若い体には、目立った傷痕はない。
代わりに神から受けた祝福の証明である、聖痕が右脇腹に咲いていた。
「力あるものがそれを行使せず、城の奥でふんぞり返るばかりなんて、やっぱり納得できそうにないや」
ローランはその聖痕を撫でながら呟いた。
ロージアの現王・ローランも、神から祝福を受けた一人だった。
二年前、齢二十を前に王座に就いたこの若い王は、最前線で戦おうとするその無邪気な無鉄砲さによって、城中の者の頭を悩ませていた。
そしてそんなローランの持つ聖痕は深紅のオーラを放っている。
その色は聖痕の中で一番ランクの高いことを示している。
聖都の中でもそれをもっている者は、今は彼を除けばどこにもいないという。
ローランが盥にタオルを浸した。
タオルが吸った血液が、盥の中にもやのように広がる。
それを見つめながら、ローランは悲しそうに目を伏せた。
その血は、自分が守ることのできなかった者の血。
──ともすれば、流すことなく戦闘を終わらせることができたかもしれない。
ローランの頭の中には、今さら考えても詮のないことばかりが流れていく。
──もしも自分が王でなければ、こんなことで悩まずに済んだのだろうか。
それもやはり考えても詮のないことで。
ローランは部屋に誂えられた鏡台を見上げた。
そこには、いくらか小綺麗になったローランの、疲れた顔が同じように相対する自分を見つめていた。
ローランはしばらくそれを、ぼんやりと眺めていた。
疲れて部屋に戻った時、眠りから覚め顔を洗う時、そして式典用の服を召し使いに着させられている時部屋に誂えられた鏡を覗き込むたび、彼は妙な気分になる。
鏡に映る自分が、自分ではないような、そんな気分。
自分を見つめる鏡の中の自分の視線が、まるで他人の視線のように感じるのだ。
自分の行いが正道なものか、王として……はたまた人としての道を外れていないか。
そんなことを見定められているような、そんな感覚を覚えるのだ。
ローランは鏡から目を離すと、苦笑しながら肩を竦めた。
──鏡像は鏡像。気のせいだから。
と、その度に自分で自分に言い聞かせるのだった。
彼は服を着ると、それを振り払うようにして部屋を後にした。


そして体を清めた彼は、今度は王城の中に誂えられた礼拝堂へと足を運んだ。
礼拝堂も例のごとく、真っ白な空間だった。
白い壁に白い長椅子、そして白い祭壇。
祭壇の上にある薔薇の花の蔓を纏う女神の御像は、ステンドグラスの光を受けて優しく七色に輝いていた。
聖痕は儀式を執り行い、この御像より賜れるものだった。
勿論ローランの聖痕も、この薔薇の女神によってもたらされた。
ローランはしばらくその御像を見上げた後、その前に膝をついて、祈りを捧げた。
──どうかこの国に住まう全ての人を守れる力を、僕にお与えください。
それが彼の願う、たったひとつのことだった。
それを念じて顔を上げたローランは、今度は女神の後ろに誂えられたステンドグラスを見上げた。
ステンドグラスには、特にヴィスとの闘いで英雄の活躍を見せた歴代の王の姿を写している。
中にはエリク・ロージア──ローランと同様に先陣を切りヴィスを倒したという、千年も前に玉座についていた王の姿もあった。
──どうかこの国に住まう全ての人を守れる力を、僕にお与えください。
──例えば、貴方のように。
ステンドグラスに映る、五百年前の王の姿を見上げる琥珀色の瞳が、眩しそうに細められた。
そうしてそのステンドグラスに照らされた彼は、改めて決意をするのだった。
彼の王が目指したであろう世界を、瘴気やヴィスに対して怯えなくてもいい世界を目指すのだ、と。
しおりを挟む

処理中です...