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2話 ヴィス

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その日も、彼はそんな調子で出陣を決めていた。
「……鎧の用意を」
その日も聖都ロージア周辺に、ヴィスが出現したという報告がローランの元に届いた。
それを聞いたローランは、一言そう呟いた。
その命にオロオロしていた召し使い達は、しかし王に逆らえるわけもなく、最後には彼の命に従うのだった。
「ローラン様! また前線へと出るおつもりですか!? なりません! なりませんぞ!」
ただ一人、イニャスを除いて。
ローランはイニャスの忠告を無視しながら鎧を纏う。
「ごめんね、イニャス。君の言うことは尤もなのは分かるんだ。だけど僕はこれからも、きっと自分以外から流れる血を無視することはできないだろうから」
ローランは鎧の着用が終了するや否や、廊下へと駆け出した。
背中に向けられたイニャスのお小言を、振り払うようにして。



ローランが向かったのは、聖都を取り囲む白い城壁に誂えられた物見櫓だった。
「状況はどう? ……といっても、あまり芳しくない様子だね」
彼が櫓に登った頃には、既に戦闘は始まっていた。
数百羽もの鳥の群れが、ロージア目掛けて飛んできていた。
どれもが瘴気にあてられ嘴も翼も足も異形と化し、ヴィスとなっていた。
一羽一羽は大したものではないものの、何分数が多い。
城壁に登った弓兵が、矢を射って一羽ずつ倒していっているものの、数に押されいずれは城壁を越えられてしまうのは目に見えている。
「僕はあまり弓は得意ではないのだけど……」
ローランがどれ程強くとも、武器が届かなければ決して倒すことは敵わない。
ローランは苦い思いを覚えながら、鳥の群れを眺めた。
その時、そんなローランの目に一羽のヴィスが目に入った。
他のヴィスよりも一回りも二回りも大きなその鳥は、飛んでくる矢を物ともせずに悠然と翼で空を切っていた。
「……」
ローランはその大きなヴィスを凝視した。
次第にヴィスの群れの先頭が城壁にまで到達しようとしていた。
その瞬間、ローランは櫓の手すりに足をかけると、力一杯城壁の外へと飛び上がった。
周りにいた兵はただただ驚くばかりで、その場で固まる他になかった。
当のローランは群れの鳥の中で、一番大きなヴィスの上に飛び移っていた
大きな怪鳥も、そしてロージアの聖騎士達も、皆彼の行動を唖然と見つめていた。
当のローランは、暴れる怪鳥の背を片手で必死に掴みながら、もう片方の手で剣を振った。
ローランの周りにいた怪鳥の群れは、一匹、また一匹とその剣撃を受けて地に身を落としていく。
「僕のことはいい! 構わず矢を放て! 一匹たりとも聖都への侵入を許すな!」
張り上げられたローランの命が、騎士団の元へと届く。
それに奮起した弓兵は、皆再び弓を取った。
白、紫、黄色……様々な色のオーラを纏った弓が、再びヴィスの群れを呑み込んでいく。
無数の弓と最高位の聖痕を有する剣撃は、確実にヴィスの群れを仕留め、一匹たりとも聖都への侵入は叶うことはなかった。
──しかし、ここでローランの誤算が生じてしまった。
突然、ローランを乗せた大きな怪鳥が空中で身を捩り出したのだ。
「……!!」
怪鳥は自身の体の上にいるものが、自身の敵であると認識したのか、それを振り落とさんともがいているようだ。
ローランは怪鳥に掴まりながら、辛うじて眼下を確認する。
例え飛び降りたとしても、到底無事に着地はできそうにない。
「……ははっ」
ローランは自嘲の乾いた笑いをその顔に浮かべた。
背中に冷や汗が垂れる。
正真正銘のピンチだ。
ローランは、片手で握っていた剣を改めて強く握った。
どちらにせよ、一か八かに賭けるしかない現状。
ローランは握った剣を、大きく振りかぶった。
深紅のオーラが、一際強く放たれた。
「……はぁあああっ!!」
そして自分が乗るヴィスの翼に、一太刀を浴びせるのだった。
片手で、しかも暴れる怪鳥の上で落とした刃は、大した傷をつけることも敵わなかった。
しかし聖痕から生じるオーラは、ヴィスにとっては大きな痛手にさえなりえるのだ。
それが最高クラスであれば……。
ローランの乗るヴィスは、より激しく身を捩らせた。
今度は痛みにである。
急降下していく、ヴィスの体。
ローランは歯を食い縛り、その降下速度に耐えるばかりだ。
ふと、ローランは気がついた。
このヴィスが墜ちようとしている場所に。
彼の眼前には、深い森の木々が広がっていた。
『禁忌の森』である。
人の足では丸1日かけなければ行けない場所だけれど、強靭なヴィスにとっては大した距離ではなかったようだ。
(あんなところに落ちて、一人で帰って来られるかなぁ……?)
ただでさえ一か八かの賭けで、自身が飛び乗ったヴィスを斬ったのだ。
その上更に墜落場所がそんな森の中では、いよいよ彼の命運は窮地であろう。
ローランをもってしても、これから出来る手立てなど最早思いつくことはできなかった。
ただただ墜ちるに任せる他に、出来ることはなかったのだ。
ローランを乗せた怪鳥は、ついにその森へと身を横たえさせることとなった。


(……っ?)
ローランは深い森の真ん中で目を覚ました。
彼は森のただ中で、仰向けに倒れていた。
落ちた衝撃で破壊された鎧が、近くに散らばっている。
鎧が落下の衝撃を上手く吸収してくれたのだろうか、だとしたらとんでもない悪運だな、などとローランは考えていた。
そんなローランが目にしたのは、自分の傍らで伏せる大きな鳥のヴィスであった。
ヴィスの瘴気で犯された体は、注がれた深紅のオーラによって徐々に浄化されて消え去ろうとしていた。
ローランは体が痛むのを一瞬だけ忘れて、誇らしげに……しかし力なく笑った。
ヴィスを倒してから、どのくらい時間が経っただろうか。
ローランは空を見上げた。
木々に遮られて小さく切り取られてしまった空を。
(あはは、やっぱりイニャスの言うことは聞いておくべきだったのかなぁ……)
鬱蒼と繁る木々は、地面まで降り注ぐ光を漏れなく遮っていた。
薄暗くて湿度の高い空気を湛えた森は、陰湿なものだった。
ローランはそんな森の片隅で、四肢を投げ出して転がっていた。
彼はその陰険な木々を見上げた。
空から墜ちて無事だったなんて、と彼は自分自身を誉めたい気分だった。
しかし体を動かそうとすると、全身に激しい痛みが走る。
強く打ったか、骨折しているかもしれない。
こんな体では、森を抜けるどころか歩くことすらままならないだろう。
そんな中で、ローランは考えた。
自分がいなくなった後の、聖都ロージアのことを。
「僕が……僕でしか……ロージアは……」
呟いたロージアの声は、酷くか細いものだった。
彼は少し視線を動かして、さっきまで自分が着ていた鎧を見上げた。
森へ落ちた拍子で、歪んで外れてしまった鎧。
鎧に映るのは、泥で汚れた自分の顔。
(ねぇ、そんな目で見ないでよ……)
自分を見つめ返す鏡像の自分の視線。
自分を咎めに来ているのではないか──その視線に曝されている内、ローランはそんな気持ちにさせられていく。
最後に鏡像に向かって力なく笑ったローラン。
そんなローランの傍らで、何かが蠢き出した。
彼が斬り伏せたと思っていた、彼の傍らに倒れていたヴィスだった。
酷く重たそうに、その首をもたげている。
しかし倒れたローランを捉えた瞳は、強い憎しみの炎が上がっていた。
鳥のヴィスは立ち上がり、傷ついた体を引きずって、一歩一歩彼の元へと歩み寄って来る。
(あ~あ、やっちゃったなぁ……)
迫る禍々しい姿に、ローランは瞳を閉じた。
自分の不甲斐なさ、迫る死への覚悟、そして。
(ごめんね、ロージアのみんな……こんな馬鹿な王で……)
自分が守らなければいけない国への懺悔の気持ちで。
ローランの頭上に、いよいよヴィスの凶爪が迫る。
彼がその気配に息を飲む。
そんな時だった。
怪鳥が酷くけたたましい叫び声を上げたのだ。
驚いたローランは、ハッと瞳を見開いた。
ローランの視界いっぱいに、怪鳥が暴れていた。
その怪鳥の翼には、ローランがつけたものとは違う大きな傷がつけられていた。
(赤い……オーラ……?)
その傷からは赤いオーラが吹き出ている。
ローランが自分以外の赤のオーラを見るのは、これが初めてであった。
そんなローランが呆気に囚われている内に、今度こそ怪鳥は地面に倒れ、そのまま動かなくなってしまった。
倒れたヴィスは、今度こそ息が止まっている。
ローランは、そのヴィスのすぐ脇に立っている人物を見上げようと、痛みに耐えながら上体を起こした。
ローランを背に立っている人物の髪は、長く月光のように美しい銀色をしていた。
その男が振り返りる。
精悍な顔が、ローランを真っ直ぐに見返した。
着ている服は、聖都ロージアの騎士階級のものが着る礼服に似ているけれど、ローランの見知ったものとは少し意匠が違うように思えた。
しかし何より、一番にローランの目を惹いたのはその男の右手足。
剣を持つ男の右手足は、獣のような、いやもっと恐ろしくおぞましいものを思わせる、歪な爪と硬そうな毛皮で覆われた手足を持っていた。
男の右手足は、瘴気に当てられヴィス化しているものだということはすぐに気がついた。
「君……は……」
男を呼び止めようと手を伸ばしたローラン。
しかしそれは叶わなかった。
遂に限界を迎えてしまったから。
限界を迎たローランの体は、再び地面へと倒れた。
そうしてゆるゆると、意識を深い闇の中へと落としていった。
意識が消えかける直前、ローランは見た。
銀髪に縁取られた、青い瞳が自分の姿を映しているところを。
そして感じた。
自分を抱きかかえる、人の温もりを。


──いつか必ず君を……迎えに行くからね。


誰かの悲痛な呟きが、消えかける意識の隙間に潜り込んできたような気がした。
けれどその正体は、ローランには捕まえることができなかった。
(……そんな風に、悲しそうな顔をしないでよ)
ローランは自分を見下ろす見知らぬ男の眼差しに、ただただ仄かな痛みを覚えるばかりだった。
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