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第1章 美少年の来訪
1、黒髪碧眼の美少年
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三月にしては肌寒い土曜日の夜。
冬が出戻ってきたかのような冷たい風に身を縮めながら、笹原百花はアパートに帰ってきた。
「うぅ、さっぶ!」
明日は仕事が休みだから友人と飲んできたのだが、その酔いも帰り道ですっかり醒めてしまった。熱燗であたたまった体も、芯から冷えてしまっている。
(お風呂は明日入るとして、とりあえずこたつの電源入れよう!)
こたつを片付けないでおいて本当に良かった。六畳ワンルームの狭い部屋でベッドとこたつが共存するのはなかなかの圧迫感があるが、冬にこれはかかせない。
たった今決意したことを実行するため、百花はパタパタと廊下に面したキッチンを素通りして、寝室のドアを開けた。真正面にあるこじんまりとしたこたつと奥のベッドが、暗闇の中で陰影を作っている。いつもやっているように電気をつけて、さあこたつの電源をとかがんだ瞬間だった。
「!?」
何者かに背後から押さえ付けられて、ちょうどしゃがみかけていた百花はべしゃりとつぶれた。床にはいつくばるような姿勢のまま首の後ろを抑えられてしまう。あっと思った時には、両手は後ろ手で拘束され、完全に自由を封じられてしまった。
この間、数秒。声をあげる間もなかった。
肩甲骨あたりに強い圧迫感があり、ぎりぎりと押さえつけられて、息をすることも苦しい。
「ここどこ、目的は何」
いきなりのことに真っ白になった頭に、だれかの声が響く。低音だけれど、どこか若い声だった。声変わりしたばかりの少年のようだ。頭をまわすこともかなわずその姿を確認はできないが、百花がどんなにもがいてもびくともしない力で押さえ付けているから、相当力は強いのではないだろうか。
「な、な、なんのこと!?」
潰れた姿勢のまま懸命に声をあげると「は!?」と驚いた声とともに唐突に解放された。
「モモカ!?」
焦った声で名前を呼ばれ、百花も困惑して目を白黒させた。
(なんで名前知ってるの!?)
それを問いただそうと口を開くより先に、脇の下に手を入れられて潰れた姿勢から上体を起こされる。間近で見た相手は、見知らぬ少年だった。
彼は驚きで目を見開いていたが、それがなくてもかなり大きな瞳の持ち主だとわかった。特筆すべきはその目の色で、まさかの青だった。マッシュルームみたいなふわっとした髪型も相まって、少年は高校生くらいに見えた。
けれど百花に、黒髪碧眼の知り合いはいない。
「だ、誰っ!?」
百花が混乱して身を引こうとするのを見て、少年は一瞬だけ傷ついたような表情を見せた。けれどすぐにその視線を鋭いものに変えて、百花の目をのぞきこんでくる。
「……僕のこと、分からないの?」
少年の方は確信を持っているようで、迷いなく百花を見つめている。それは痛いくらいに感じたけれど、こっちは何もわからない。百花は首を横に振って「えーと……もしかしてお店に来てくれたことあるとか?」と恐る恐る聞いてみた。
百花は、駅前のベーカリーに勤めている。基本的には厨房でパン生地をこねたり成形したり焼いたりと製造作業をしているのだが、たまに接客をすることもあった。その時に来たことがあるならば、向こうが百花を知っていても不思議はない。ただ百花からしたら客の顔など常連さんくらいしか覚えていないから、知ってるかと聞かれてもうなずけないのだ。
(こんなに美少年だったら、忘れないはずなんだけどなぁ……)
学生の客も多く訪れるが、ここまでアイドルのような華々しいオーラを持つ子は知らない。もし実際に来てたら、パートのおばちゃんあたりが「かっこいい子が来たのよー!」と騒ぎそうなくらい、少年の容姿は秀でている。
少年は無言で百花に視線を注ぎ続けたが「もしかして……ここがモモカの家?」と部屋の中を見回した。こたつやベッドなど、部屋の中にある家具を興味深そうに見たあと、天井を見あげたきり電気を注視している。
(そんなに電気を凝視して、眩しくないの?)
少年の不思議な行動に首をひねりつつ「もちろん、わたしの家だけど」ととりあえず無難な返事をしておいた。少年は再び百花を見て、ついでうつむいた。
「……そうか……今だったのか……」
小さな独りごとだったけれど、無音の部屋だったら声を拾えた。一体なんのこと? と聞こうとしたところで、ゲホっと少年が咳き込む。身体の奥の奥からこみあげているような、深く重い咳だった。少年は口元を押さえ、顔を歪ませている。
「だ、大丈夫!?」
とっさに百花は彼の背中に手をあてた。激しく上下する背中をさすると、少年はちらりと百花を見て「だいじょう……ぶ……」とうなずく。
急に弱々しくなった声で言われても、全然信憑性がない。今の今までそんな素振りはなかったというのに、どうしてしまったのだろう。
「お茶、とりあえずお茶飲もう!」
あわててキッチンスペースに走り、麦茶とコップを用意する。それをしている間にも少年が何度も咳き込む音が聞こえてきた。喉が焼けてしまうのではないかと思うくらいに、ひどく苦しげな咳だった。百花が戻ると、少年は壁に体を預けるようにして、明らかに元気がない。これやばくない!? と慌ただしく麦茶をコップに注いで飲ませたが、まだ苦しそうだ。百花が再び背中をさすり始めると、少年は咳き込みながら呟いた。
「……おかしい……出ない」
「出ない? 何が?」
「魔法」
「……は?!」
(い、今の言葉何!? 聞かなかったことにしたいけど、聞いちゃったよ!! カラコン入れてるっぽいし、中二病か!? いやでも咳は本物だし……)
ドン引きしたり、心配したりと、百花の心も慌ただしく動く。その間にも少年はごほんごほんと激しい咳をしては、苦しそうにしている。
「ちょっと病院行った方がいいよ! 親御さんに連絡するから、スマホ出して!」
「……スマホって?」
「いやいやいやいや、さすがにそこはすっとぼけなくていいから! 持ってないわけないでしょ!」
「ない」
「嘘でしょー!! じゃあもういい、救急車呼ぶから名前と住所教えて!」
「──カイリ」
「名字は!?」
「言いたくない」
「こんな時にそんなこと言ってる場合か!!」
名字くらい言えーっ! と怒りながら、百花はバッグを取りに行こうと立ち上がった。中にあるスマホをとろうと探っていると、背後から少年──カイリに抱きつかれる。身体全体がとても熱い。これは発熱もしてるパターンだ。
「ちょっと!」
もはや不法侵入されて、最初は乱暴に押さえ付けられていたことなど頭から抜け落ちていた。瀕死の重病人にしか見えないカイリに背後から抱きしめられていても、襲われているという感覚にもならない。
(しいて言うなら、すがられてるみたいな……?)
カイリは力強く百花を抱きしめて、彼女が動くのをまるで邪魔しているかのようだ。彼が咳をするたびに、振動が百花の身体にも伝わってくる。なかなかしゃがむのも難しくてバッグに手が届かず、百花が「ちょっと! いいかげん離して……」といよいよ彼の手でもつねってやろうとした時「今……まで……ごめんね……」とか細い声が耳元でした。
「え……?」
(今までって、さっきからのこと?)
まるでもっと前からのことを示すような言い方な気がして、腕の力が弱まったのを機に百花は振り向いてカイリの顔をまじまじと見やった。苦しそうに眉をひそめながらも、彼は百花に目を合わせると微笑んだ。
その微笑みには無邪気な美しさがあった。見とれそうになって、そんな場合じゃないとすぐにハッとする。
(笑ってる場合じゃないから!)
バッグをさぐってスマートフォンを取り出したところで、ひときわ大きな咳の音がした。119番と押してスマートフォンを耳に添えながら百花が見たのは、カイリの手のひらに広がる赤黒いもの。鉄臭い匂いですぐにわかる。
彼は血を吐いていた。
冬が出戻ってきたかのような冷たい風に身を縮めながら、笹原百花はアパートに帰ってきた。
「うぅ、さっぶ!」
明日は仕事が休みだから友人と飲んできたのだが、その酔いも帰り道ですっかり醒めてしまった。熱燗であたたまった体も、芯から冷えてしまっている。
(お風呂は明日入るとして、とりあえずこたつの電源入れよう!)
こたつを片付けないでおいて本当に良かった。六畳ワンルームの狭い部屋でベッドとこたつが共存するのはなかなかの圧迫感があるが、冬にこれはかかせない。
たった今決意したことを実行するため、百花はパタパタと廊下に面したキッチンを素通りして、寝室のドアを開けた。真正面にあるこじんまりとしたこたつと奥のベッドが、暗闇の中で陰影を作っている。いつもやっているように電気をつけて、さあこたつの電源をとかがんだ瞬間だった。
「!?」
何者かに背後から押さえ付けられて、ちょうどしゃがみかけていた百花はべしゃりとつぶれた。床にはいつくばるような姿勢のまま首の後ろを抑えられてしまう。あっと思った時には、両手は後ろ手で拘束され、完全に自由を封じられてしまった。
この間、数秒。声をあげる間もなかった。
肩甲骨あたりに強い圧迫感があり、ぎりぎりと押さえつけられて、息をすることも苦しい。
「ここどこ、目的は何」
いきなりのことに真っ白になった頭に、だれかの声が響く。低音だけれど、どこか若い声だった。声変わりしたばかりの少年のようだ。頭をまわすこともかなわずその姿を確認はできないが、百花がどんなにもがいてもびくともしない力で押さえ付けているから、相当力は強いのではないだろうか。
「な、な、なんのこと!?」
潰れた姿勢のまま懸命に声をあげると「は!?」と驚いた声とともに唐突に解放された。
「モモカ!?」
焦った声で名前を呼ばれ、百花も困惑して目を白黒させた。
(なんで名前知ってるの!?)
それを問いただそうと口を開くより先に、脇の下に手を入れられて潰れた姿勢から上体を起こされる。間近で見た相手は、見知らぬ少年だった。
彼は驚きで目を見開いていたが、それがなくてもかなり大きな瞳の持ち主だとわかった。特筆すべきはその目の色で、まさかの青だった。マッシュルームみたいなふわっとした髪型も相まって、少年は高校生くらいに見えた。
けれど百花に、黒髪碧眼の知り合いはいない。
「だ、誰っ!?」
百花が混乱して身を引こうとするのを見て、少年は一瞬だけ傷ついたような表情を見せた。けれどすぐにその視線を鋭いものに変えて、百花の目をのぞきこんでくる。
「……僕のこと、分からないの?」
少年の方は確信を持っているようで、迷いなく百花を見つめている。それは痛いくらいに感じたけれど、こっちは何もわからない。百花は首を横に振って「えーと……もしかしてお店に来てくれたことあるとか?」と恐る恐る聞いてみた。
百花は、駅前のベーカリーに勤めている。基本的には厨房でパン生地をこねたり成形したり焼いたりと製造作業をしているのだが、たまに接客をすることもあった。その時に来たことがあるならば、向こうが百花を知っていても不思議はない。ただ百花からしたら客の顔など常連さんくらいしか覚えていないから、知ってるかと聞かれてもうなずけないのだ。
(こんなに美少年だったら、忘れないはずなんだけどなぁ……)
学生の客も多く訪れるが、ここまでアイドルのような華々しいオーラを持つ子は知らない。もし実際に来てたら、パートのおばちゃんあたりが「かっこいい子が来たのよー!」と騒ぎそうなくらい、少年の容姿は秀でている。
少年は無言で百花に視線を注ぎ続けたが「もしかして……ここがモモカの家?」と部屋の中を見回した。こたつやベッドなど、部屋の中にある家具を興味深そうに見たあと、天井を見あげたきり電気を注視している。
(そんなに電気を凝視して、眩しくないの?)
少年の不思議な行動に首をひねりつつ「もちろん、わたしの家だけど」ととりあえず無難な返事をしておいた。少年は再び百花を見て、ついでうつむいた。
「……そうか……今だったのか……」
小さな独りごとだったけれど、無音の部屋だったら声を拾えた。一体なんのこと? と聞こうとしたところで、ゲホっと少年が咳き込む。身体の奥の奥からこみあげているような、深く重い咳だった。少年は口元を押さえ、顔を歪ませている。
「だ、大丈夫!?」
とっさに百花は彼の背中に手をあてた。激しく上下する背中をさすると、少年はちらりと百花を見て「だいじょう……ぶ……」とうなずく。
急に弱々しくなった声で言われても、全然信憑性がない。今の今までそんな素振りはなかったというのに、どうしてしまったのだろう。
「お茶、とりあえずお茶飲もう!」
あわててキッチンスペースに走り、麦茶とコップを用意する。それをしている間にも少年が何度も咳き込む音が聞こえてきた。喉が焼けてしまうのではないかと思うくらいに、ひどく苦しげな咳だった。百花が戻ると、少年は壁に体を預けるようにして、明らかに元気がない。これやばくない!? と慌ただしく麦茶をコップに注いで飲ませたが、まだ苦しそうだ。百花が再び背中をさすり始めると、少年は咳き込みながら呟いた。
「……おかしい……出ない」
「出ない? 何が?」
「魔法」
「……は?!」
(い、今の言葉何!? 聞かなかったことにしたいけど、聞いちゃったよ!! カラコン入れてるっぽいし、中二病か!? いやでも咳は本物だし……)
ドン引きしたり、心配したりと、百花の心も慌ただしく動く。その間にも少年はごほんごほんと激しい咳をしては、苦しそうにしている。
「ちょっと病院行った方がいいよ! 親御さんに連絡するから、スマホ出して!」
「……スマホって?」
「いやいやいやいや、さすがにそこはすっとぼけなくていいから! 持ってないわけないでしょ!」
「ない」
「嘘でしょー!! じゃあもういい、救急車呼ぶから名前と住所教えて!」
「──カイリ」
「名字は!?」
「言いたくない」
「こんな時にそんなこと言ってる場合か!!」
名字くらい言えーっ! と怒りながら、百花はバッグを取りに行こうと立ち上がった。中にあるスマホをとろうと探っていると、背後から少年──カイリに抱きつかれる。身体全体がとても熱い。これは発熱もしてるパターンだ。
「ちょっと!」
もはや不法侵入されて、最初は乱暴に押さえ付けられていたことなど頭から抜け落ちていた。瀕死の重病人にしか見えないカイリに背後から抱きしめられていても、襲われているという感覚にもならない。
(しいて言うなら、すがられてるみたいな……?)
カイリは力強く百花を抱きしめて、彼女が動くのをまるで邪魔しているかのようだ。彼が咳をするたびに、振動が百花の身体にも伝わってくる。なかなかしゃがむのも難しくてバッグに手が届かず、百花が「ちょっと! いいかげん離して……」といよいよ彼の手でもつねってやろうとした時「今……まで……ごめんね……」とか細い声が耳元でした。
「え……?」
(今までって、さっきからのこと?)
まるでもっと前からのことを示すような言い方な気がして、腕の力が弱まったのを機に百花は振り向いてカイリの顔をまじまじと見やった。苦しそうに眉をひそめながらも、彼は百花に目を合わせると微笑んだ。
その微笑みには無邪気な美しさがあった。見とれそうになって、そんな場合じゃないとすぐにハッとする。
(笑ってる場合じゃないから!)
バッグをさぐってスマートフォンを取り出したところで、ひときわ大きな咳の音がした。119番と押してスマートフォンを耳に添えながら百花が見たのは、カイリの手のひらに広がる赤黒いもの。鉄臭い匂いですぐにわかる。
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