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第1章 美少年の来訪
4、魔法に神様、さもありなん
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その日の夕食は、サツキベーカリーのパン一択だった。ただ、せっかく退院したのにパンだけと言うのも味気ないかと思い、ありあわせでスープも作る。春キャベツとベーコンのコンソメスープに卵を落として出せば、カイリはおおいに喜んでくれた。
ローテーブルに向かい合って、山盛りのパンを切り分けながら食べる。聞いてみると、カイリの国ではパンといえば日持ちするかたいもの、というイメージなのだそうだ。やっぱり食文化も全然違うのだろう。
「でもモモカがパンを……うっ」
何気ない話の途中で、急にカイリが頭を抑える。手に持っていたコッペパンがぼろりと落ちて、ラグの上を転がった。
「あ……うぅっ……」
「カイリ!?」
呻き声が尋常じゃない響きを持ち、額に脂汗まで浮いている。あわてて彼の身体を支えながら、今しがたまで食べていたパンを確認。それは卵サラダが入ったもので、百花も口にしたばかりだ。
(まさか異世界の人にとっては口にしちゃいけない食べ物だったとか!? ま、また救急車かっ!?)
カイリは頭を抑えて苦しんでいたが、スマホを手にした百花を止めた。
「……大丈夫……」
今更やせ我慢しなくていいって、と百花が救急車を呼ぼうとすると「病気じゃないから……」とカイリは必死の形相で首を横に振った。
「病気じゃないって言っても……」
「ただ……ニアが、僕に……警告、してるだけ」
荒く息を吐きながらカイリはうつむき、そのまま何度か深呼吸した。顔をあげた時、確かにカイリの表情は落ち着いていた。息を震わせてはいるが、眉間のしわはもうない。
「痛み、ひいたの?」
「……うん、もう平気」
百花は探るようにカイリを見つめたが、すでに彼は平素の状態に戻っているようだった。お茶を一口飲んでからは、呼吸も整っている。
「それならいいけど。また何か病気かと思ってびっくりしたよ。それで……ニア? って何?」
「ニアは、僕たちの世界の唯一神の名前」
「神様!? 実在するの!?」
驚く百花を見て、カイリも目を丸くして「モモカの世界にはいないの?」と逆に聞いてくる。
「いや、伝説としては神様たくさんいるけど、本当なのかどうかは誰も知らないの。カイリの世界にはちゃんと神様っていうのが実在してるってこと?」
「してる。普段姿を現したりはしないけれど、確かにいる。今だって『余計なことは話すな』だってさ」
「え、今? 神様にそんなこと言われたの?」
「うん」
「いやー、ほんと異文化だ……」
今回カイリがオミの国から日本へと飛ばされたのも、このニアという神の力だそうだ。彼の国ではそういう『異界渡り』の事例がいくつもあって、期間や飛ばされる先などはまちまちなんだとか。だからカイリもその事例と同じようにいつかオミの国に帰れるかもしれないし、もしかしたら帰れないかもしれない。すべてはニアの手のひらの上で転がされること。
その話を聞いても、百花はもう驚かなかった。
カイリという存在自体が、その不思議な現象を証明しているのだ。彼の魔法だって見ている身としては、神様が出てきたってさもありなんという感じでしかない。
魔法に神様、これでモンスターがいたら、まさしくファンタジーRPGの世界だ。子供の頃いくつもプレイしては楽しんできた想像の世界。
(カイリは目の色以外はわたしたちと同じ外見なのに、本当に不思議だなぁ……)
改めて自分の置かれている状況を実感していると、カイリは「ごめん」と百花をのぞきこんできた。彼を支えたままの状態だったから顔が近い。至近距離から見る青の瞳はまるでビー玉のように透明で、きめ細かい肌は彼の美しさを際立たせていた。なんだかすごく照れてしまって「な、何が?」と聞き返しながら、百花はあわてて体を離した。
ローテーブルをはさんで向かい合う位置に座り直しカイリを見ると、彼は反対に目を伏せて「モモカに話したいことはたくさんあるけど……それができない」と悔しさをにじませた。
「話したいことってもしかして……初めて見た時、わたしを知ってるみたいだったことについて?」
無言のままカイリは一度視線を上げた。それが答えだった。
初対面だったのに、どうしてカイリは自分を知っている素振りを見せたのか。確かにそれは気になっていた。
きっとカイリはそれも含め百花に説明しようとしたのだろう。けれどあの苦しみようを見た今となっては、無理やりにでも聞きたいなんて思いは露ほどにもわかない。
「謝ることないよ。気になるっちゃ気になるけど、それよりも大事なことはもっとあるし」
「大事なこと?」
「今カイリがここにいること」
百花はにっこりと笑って「色々と事情はあるだろうけど、こうして一緒にいる時間を楽しむのが一番なのかなーって思ってるの」と言い切った。カイリは思ってもみない言葉だったのか、虚をつかれた表情で百花を見返す。ぽかんとした表情はあどけなくて、少年らしかった。
「せっかくこうして病気も治ったわけだしさ。明日からは色んなことしようね。まずは生活に必要なこと教えるから、慣れたらこっちの世界も案外楽しめると思うよ!」
ようこそ日本へ!
おどけて言うと、カイリもつられたように微笑んだ。肩から力の抜けた柔らかい笑みだった。
◆
それから一ヶ月。
カイリは体調を崩すこともなく、そして自分の国に帰ることもなく、百花の部屋にいる。
彼は勤勉で吸収力も高かったので、この一ヶ月でかなりのことを覚えた。
いまや百花の部屋にある家電はすべて使いこなせるし、識字に関してもひらがなとカタカナなら読めるようになっていた。
『きょうはかれー』
サツキベーカリーでの勤務を終えてスマホを確認すると、カイリからメッセージが入っていた。いいねぇと百花は小さくこぼし、クマが喜んでいるスタンプを送る。すぐに既読がつき、今度は『じこちゅうい』と返信がきた。
「心配性……」
百花は苦笑して『すぐかえるよ』と返信し、スマホをバッグにしまった。
◆
一緒に暮らし始めてすぐ、百花はカイリにスマホを購入した。
勤務中にカイリを家に一人残していくのが心配だったからだ。
彼の国では科学技術はまだ発達していないそうで、どの電化製品にも目を丸くしていたのだが、きわめつけはこのスマホだった。指でさわると画面が次々とうつりかわることや、メッセージや電話などの機能に驚愕していたが、次の日には難なく使いこなせるようになっていた。
今では電話やメッセージのやりとりはもちろん、昼間など子供用の検索ページを開いて色々な知識を得たりもしているようだ。毎日新しい知識を仕入れて、どんどんとこちらの世界への理解が深まっている。
おまけに家事能力も高く、百花が働いている間にこうして夕食を作ってくれているし、部屋の掃除や洗濯までしてくれる。はっきりいってかなり助かる。
その日彼が作ってくれていたカレーも、しっかりと煮込まれていて美味しかった。鶏肉がほろほろと柔らかいカレーなんて、百花は作ったことがない。
(本当にカイリって何でもできるなぁ。しかも顔もいいし)
ふわふわの黒髪に大きな青い瞳。それだけで雰囲気がある。アイドルだって目じゃない容姿なのである。
「さっきから何」
声をかけられて、ようやく百花は自分がずっとカイリを凝視していたことに気づいた。あわてて謝って、テーブルに置かれているコーヒーを口に含む。
カイリと暮らすようになって良かったと思うことの一番は、この食後のコーヒータイムだった。
一緒に食事をして、のんびりとお茶を飲み、たわいもない話をする。そういうことができる相手がいることで、百花の心は満たされていた。
百花の不躾な視線の理由が気になるようで「教えてよ」とカイリが食い下がるので、百花は素直に「いやー、カイリって顔も良いし、順応力高いし、運動神経も良さそうだし、すごいなぁって」と告げた。
「なっ……に言ってるの、急に……」
「あ、照れてる」
「照れてない!」
そんなふうに否定したって、耳まで真っ赤になってればすぐにわかる。
かわいい反応につい口角が上がってしまう。ただ、あんまりにもからかうとヘソを曲げそうなので「そういえば、カイリが言ってたやつ少し調べてみたよ」とスマホの画面の操作して、彼の前へと差し出した。
「漢方とか薬草とかの博物館の中で、一番近いのがこの薬草園だったの」
ブックマークしておいた薬草園のトップページには『太古から続く医薬品の世界へようこそ』とともに、いくつかの薬用植物の画像が並んでいた。それをカイリは食い入るように見つめている。
──きっかけはささいなことだった。
つい三日ほど前、頭痛と悪寒がしたからあわてて漢方の風邪薬を飲んだのだ。その粉末の薬を見て、カイリが「病院じゃなくても薬はもらえるの?」と興味を持った。市販薬というものの存在を教え、しかも漢方は植物が原材料と伝えたら、彼の目の色が変わった。
カイリの世界の薬も、薬用植物を煎じたりして作られているが、あまり効果のあるものはない。けれどこちらの知識や技術を学べば、祖国で何かにいかせるかもしれないと思ったようだ。「僕の国には、治らない病気が結構あるから……」と呟いた時の声音がとても低く重かったので、「それならとことん調べてみようよ!」と百花がはっぱをかけたのだ。
「ここでは育ててる薬草を見るだけじゃなくて、薬のあらましみたいなことも展示してるみたいだから、何か得られるかもしれないよね。あさっては日曜でお店休みだし、行ってみようか」
「──いいの?」
「もちろん」
カイリはうつむきがちに「……迷惑じゃない?」と小声で呟いた。彼は、百花がいくら気にしないと言っても、百花に世話してもらっている負い目があるようだ。たまにこんなふうに遠慮がちな態度を見せる。
確かに育ち盛りの少年が一人増えた生活は金銭的な負担があったけれど、貯金もまだあるし、カイリはカイリで家事を担ってくれたりしている。迷惑なんて思うわけがなかった。
だから百花はいつものように「そんなことあるわけないでしょ」とカイリのネガティブ発言を軽く笑い飛ばした。
「せっかくこっちに来てるんだから、ここでしかできないことをしようよ! もしこっちで色々なことがわかって、いつか自分の国に戻った時に役に立ったら、わたしも嬉しいし」
言いながら、かすかに何か棘のようなものが胸を刺した。あれ? と思ったが理由がわからず、百花のスマホを操作するカイリのつむじをぼんやり眺める。
何だろうなぁと首をかしげつつコーヒーを飲んでいると、ブルブルと百花のスマホが震えてメッセージの着信を告げた。
「あ、ごめん」
カイリからスマホを受け取り、内容を確認する。
それは大学時代の友人からのもので『明日のお店と集合時間を知らせるね』とあった。はて、明日? と一瞬思ったけれど、すぐに思い至り「あー……」と百花はうめいて額に手をあてた。
「何? どうしたの?」
「いや、明日ね、合コンの予定があったの忘れてたの」
「ゴーコンって何?」
「何て言うのかなぁ……男女で集まって、お酒飲んだりご飯食べたりする会。まあ一応男女の出会いの場ってやつだね。とりあえず一次会終わったら帰るけど、ごはんはいらな──」
「何それ」
百花の言葉の途中で、カイリの眉がつり上がった。眼光鋭く「なんでモモカがそんなの行くの」と詰問される。
それまでの和やかな空気が一転、いきなり緊迫感が漂い、百花は呆気にとられてカイリを見つめ返した。
「いや、なんでって……前に彼氏が欲しい時期があって……」
「カレシって恋人ってこと?」
「そうだけど」
「冗談でしょ」
(え、何が? 彼氏が欲しいってことが?)
カイリが怒っている理由がまるでわからず、百花は焦りながら「いや今は別に欲しいわけじゃないんだよ? ただ、前にそういうのが盛り上がってた時に友達にセッティング頼んでたんだよね。なかなか予定あわなくて、明日ようやく開催されることになって、わたしも言い出した手前行かないわけにも行かなくて」と言い訳めいた言葉を並べる。
ちょうどカイリが退院する直前の時期に、友人からはこの日付で打診があった。その頃には既に百花としては合コン気分は消えていたのだが、友人の方が燃えていたので『やっぱりなしに』と言えなかったのだ。
(実際、カイリがこんなに早く退院するとも思ってなかったしなぁ)
そのへんの事情を言ったとしても、カイリの表情は変わらないだろう。それが感じ取れたので百花は作戦を変えることにした。
「大丈夫だって! 出会いの場って言ったって、ただ飲み食いして帰ることがほとんどだし」
「──ただ食事するだけって言うなら、僕が一緒に行ってもいいんでしょ?」
「ええっ、カイリが!?」
のけぞって百花は驚いたが、カイリは真剣な表情だ。その顔を少しだけ客観的に見て「残念だけど無理」と百花は首を横に振った。もちろんカイリは「なんで!?」と憤るが「年齢が足りないよ」と百花はぴしゃりと言った。
カイリの年齢は十八歳だった。しかも外見はそれより年下に見えるから、確実に居酒屋に行っても止められてしまうだろう。
「こっちでは二十歳から成人だから」
「僕はもう成人してる」
「いや、それはカイリの国での話でしょ? しかも見た目的にも二十歳に見せるのは無理だよ。店入った瞬間に身分証出せって言われちゃう」
「ミブンショウって?」
その説明と、どう頑張ってもそれをカイリが手にいれることはできないと伝えると、カイリは「くそっ」と舌打ちせんばかりに怒りをあらわにしている。
「ほんっと、そこまで心配しなくても大丈夫だって」
一体合コンをどんな危険な場所と勘違いしてるんだろうか。
百花は苦笑しながらぶすくれるカイリを何とかなだめすかし、きちんと連絡を入れることと一次会で必ず帰ることを約束させられたのだった。
ローテーブルに向かい合って、山盛りのパンを切り分けながら食べる。聞いてみると、カイリの国ではパンといえば日持ちするかたいもの、というイメージなのだそうだ。やっぱり食文化も全然違うのだろう。
「でもモモカがパンを……うっ」
何気ない話の途中で、急にカイリが頭を抑える。手に持っていたコッペパンがぼろりと落ちて、ラグの上を転がった。
「あ……うぅっ……」
「カイリ!?」
呻き声が尋常じゃない響きを持ち、額に脂汗まで浮いている。あわてて彼の身体を支えながら、今しがたまで食べていたパンを確認。それは卵サラダが入ったもので、百花も口にしたばかりだ。
(まさか異世界の人にとっては口にしちゃいけない食べ物だったとか!? ま、また救急車かっ!?)
カイリは頭を抑えて苦しんでいたが、スマホを手にした百花を止めた。
「……大丈夫……」
今更やせ我慢しなくていいって、と百花が救急車を呼ぼうとすると「病気じゃないから……」とカイリは必死の形相で首を横に振った。
「病気じゃないって言っても……」
「ただ……ニアが、僕に……警告、してるだけ」
荒く息を吐きながらカイリはうつむき、そのまま何度か深呼吸した。顔をあげた時、確かにカイリの表情は落ち着いていた。息を震わせてはいるが、眉間のしわはもうない。
「痛み、ひいたの?」
「……うん、もう平気」
百花は探るようにカイリを見つめたが、すでに彼は平素の状態に戻っているようだった。お茶を一口飲んでからは、呼吸も整っている。
「それならいいけど。また何か病気かと思ってびっくりしたよ。それで……ニア? って何?」
「ニアは、僕たちの世界の唯一神の名前」
「神様!? 実在するの!?」
驚く百花を見て、カイリも目を丸くして「モモカの世界にはいないの?」と逆に聞いてくる。
「いや、伝説としては神様たくさんいるけど、本当なのかどうかは誰も知らないの。カイリの世界にはちゃんと神様っていうのが実在してるってこと?」
「してる。普段姿を現したりはしないけれど、確かにいる。今だって『余計なことは話すな』だってさ」
「え、今? 神様にそんなこと言われたの?」
「うん」
「いやー、ほんと異文化だ……」
今回カイリがオミの国から日本へと飛ばされたのも、このニアという神の力だそうだ。彼の国ではそういう『異界渡り』の事例がいくつもあって、期間や飛ばされる先などはまちまちなんだとか。だからカイリもその事例と同じようにいつかオミの国に帰れるかもしれないし、もしかしたら帰れないかもしれない。すべてはニアの手のひらの上で転がされること。
その話を聞いても、百花はもう驚かなかった。
カイリという存在自体が、その不思議な現象を証明しているのだ。彼の魔法だって見ている身としては、神様が出てきたってさもありなんという感じでしかない。
魔法に神様、これでモンスターがいたら、まさしくファンタジーRPGの世界だ。子供の頃いくつもプレイしては楽しんできた想像の世界。
(カイリは目の色以外はわたしたちと同じ外見なのに、本当に不思議だなぁ……)
改めて自分の置かれている状況を実感していると、カイリは「ごめん」と百花をのぞきこんできた。彼を支えたままの状態だったから顔が近い。至近距離から見る青の瞳はまるでビー玉のように透明で、きめ細かい肌は彼の美しさを際立たせていた。なんだかすごく照れてしまって「な、何が?」と聞き返しながら、百花はあわてて体を離した。
ローテーブルをはさんで向かい合う位置に座り直しカイリを見ると、彼は反対に目を伏せて「モモカに話したいことはたくさんあるけど……それができない」と悔しさをにじませた。
「話したいことってもしかして……初めて見た時、わたしを知ってるみたいだったことについて?」
無言のままカイリは一度視線を上げた。それが答えだった。
初対面だったのに、どうしてカイリは自分を知っている素振りを見せたのか。確かにそれは気になっていた。
きっとカイリはそれも含め百花に説明しようとしたのだろう。けれどあの苦しみようを見た今となっては、無理やりにでも聞きたいなんて思いは露ほどにもわかない。
「謝ることないよ。気になるっちゃ気になるけど、それよりも大事なことはもっとあるし」
「大事なこと?」
「今カイリがここにいること」
百花はにっこりと笑って「色々と事情はあるだろうけど、こうして一緒にいる時間を楽しむのが一番なのかなーって思ってるの」と言い切った。カイリは思ってもみない言葉だったのか、虚をつかれた表情で百花を見返す。ぽかんとした表情はあどけなくて、少年らしかった。
「せっかくこうして病気も治ったわけだしさ。明日からは色んなことしようね。まずは生活に必要なこと教えるから、慣れたらこっちの世界も案外楽しめると思うよ!」
ようこそ日本へ!
おどけて言うと、カイリもつられたように微笑んだ。肩から力の抜けた柔らかい笑みだった。
◆
それから一ヶ月。
カイリは体調を崩すこともなく、そして自分の国に帰ることもなく、百花の部屋にいる。
彼は勤勉で吸収力も高かったので、この一ヶ月でかなりのことを覚えた。
いまや百花の部屋にある家電はすべて使いこなせるし、識字に関してもひらがなとカタカナなら読めるようになっていた。
『きょうはかれー』
サツキベーカリーでの勤務を終えてスマホを確認すると、カイリからメッセージが入っていた。いいねぇと百花は小さくこぼし、クマが喜んでいるスタンプを送る。すぐに既読がつき、今度は『じこちゅうい』と返信がきた。
「心配性……」
百花は苦笑して『すぐかえるよ』と返信し、スマホをバッグにしまった。
◆
一緒に暮らし始めてすぐ、百花はカイリにスマホを購入した。
勤務中にカイリを家に一人残していくのが心配だったからだ。
彼の国では科学技術はまだ発達していないそうで、どの電化製品にも目を丸くしていたのだが、きわめつけはこのスマホだった。指でさわると画面が次々とうつりかわることや、メッセージや電話などの機能に驚愕していたが、次の日には難なく使いこなせるようになっていた。
今では電話やメッセージのやりとりはもちろん、昼間など子供用の検索ページを開いて色々な知識を得たりもしているようだ。毎日新しい知識を仕入れて、どんどんとこちらの世界への理解が深まっている。
おまけに家事能力も高く、百花が働いている間にこうして夕食を作ってくれているし、部屋の掃除や洗濯までしてくれる。はっきりいってかなり助かる。
その日彼が作ってくれていたカレーも、しっかりと煮込まれていて美味しかった。鶏肉がほろほろと柔らかいカレーなんて、百花は作ったことがない。
(本当にカイリって何でもできるなぁ。しかも顔もいいし)
ふわふわの黒髪に大きな青い瞳。それだけで雰囲気がある。アイドルだって目じゃない容姿なのである。
「さっきから何」
声をかけられて、ようやく百花は自分がずっとカイリを凝視していたことに気づいた。あわてて謝って、テーブルに置かれているコーヒーを口に含む。
カイリと暮らすようになって良かったと思うことの一番は、この食後のコーヒータイムだった。
一緒に食事をして、のんびりとお茶を飲み、たわいもない話をする。そういうことができる相手がいることで、百花の心は満たされていた。
百花の不躾な視線の理由が気になるようで「教えてよ」とカイリが食い下がるので、百花は素直に「いやー、カイリって顔も良いし、順応力高いし、運動神経も良さそうだし、すごいなぁって」と告げた。
「なっ……に言ってるの、急に……」
「あ、照れてる」
「照れてない!」
そんなふうに否定したって、耳まで真っ赤になってればすぐにわかる。
かわいい反応につい口角が上がってしまう。ただ、あんまりにもからかうとヘソを曲げそうなので「そういえば、カイリが言ってたやつ少し調べてみたよ」とスマホの画面の操作して、彼の前へと差し出した。
「漢方とか薬草とかの博物館の中で、一番近いのがこの薬草園だったの」
ブックマークしておいた薬草園のトップページには『太古から続く医薬品の世界へようこそ』とともに、いくつかの薬用植物の画像が並んでいた。それをカイリは食い入るように見つめている。
──きっかけはささいなことだった。
つい三日ほど前、頭痛と悪寒がしたからあわてて漢方の風邪薬を飲んだのだ。その粉末の薬を見て、カイリが「病院じゃなくても薬はもらえるの?」と興味を持った。市販薬というものの存在を教え、しかも漢方は植物が原材料と伝えたら、彼の目の色が変わった。
カイリの世界の薬も、薬用植物を煎じたりして作られているが、あまり効果のあるものはない。けれどこちらの知識や技術を学べば、祖国で何かにいかせるかもしれないと思ったようだ。「僕の国には、治らない病気が結構あるから……」と呟いた時の声音がとても低く重かったので、「それならとことん調べてみようよ!」と百花がはっぱをかけたのだ。
「ここでは育ててる薬草を見るだけじゃなくて、薬のあらましみたいなことも展示してるみたいだから、何か得られるかもしれないよね。あさっては日曜でお店休みだし、行ってみようか」
「──いいの?」
「もちろん」
カイリはうつむきがちに「……迷惑じゃない?」と小声で呟いた。彼は、百花がいくら気にしないと言っても、百花に世話してもらっている負い目があるようだ。たまにこんなふうに遠慮がちな態度を見せる。
確かに育ち盛りの少年が一人増えた生活は金銭的な負担があったけれど、貯金もまだあるし、カイリはカイリで家事を担ってくれたりしている。迷惑なんて思うわけがなかった。
だから百花はいつものように「そんなことあるわけないでしょ」とカイリのネガティブ発言を軽く笑い飛ばした。
「せっかくこっちに来てるんだから、ここでしかできないことをしようよ! もしこっちで色々なことがわかって、いつか自分の国に戻った時に役に立ったら、わたしも嬉しいし」
言いながら、かすかに何か棘のようなものが胸を刺した。あれ? と思ったが理由がわからず、百花のスマホを操作するカイリのつむじをぼんやり眺める。
何だろうなぁと首をかしげつつコーヒーを飲んでいると、ブルブルと百花のスマホが震えてメッセージの着信を告げた。
「あ、ごめん」
カイリからスマホを受け取り、内容を確認する。
それは大学時代の友人からのもので『明日のお店と集合時間を知らせるね』とあった。はて、明日? と一瞬思ったけれど、すぐに思い至り「あー……」と百花はうめいて額に手をあてた。
「何? どうしたの?」
「いや、明日ね、合コンの予定があったの忘れてたの」
「ゴーコンって何?」
「何て言うのかなぁ……男女で集まって、お酒飲んだりご飯食べたりする会。まあ一応男女の出会いの場ってやつだね。とりあえず一次会終わったら帰るけど、ごはんはいらな──」
「何それ」
百花の言葉の途中で、カイリの眉がつり上がった。眼光鋭く「なんでモモカがそんなの行くの」と詰問される。
それまでの和やかな空気が一転、いきなり緊迫感が漂い、百花は呆気にとられてカイリを見つめ返した。
「いや、なんでって……前に彼氏が欲しい時期があって……」
「カレシって恋人ってこと?」
「そうだけど」
「冗談でしょ」
(え、何が? 彼氏が欲しいってことが?)
カイリが怒っている理由がまるでわからず、百花は焦りながら「いや今は別に欲しいわけじゃないんだよ? ただ、前にそういうのが盛り上がってた時に友達にセッティング頼んでたんだよね。なかなか予定あわなくて、明日ようやく開催されることになって、わたしも言い出した手前行かないわけにも行かなくて」と言い訳めいた言葉を並べる。
ちょうどカイリが退院する直前の時期に、友人からはこの日付で打診があった。その頃には既に百花としては合コン気分は消えていたのだが、友人の方が燃えていたので『やっぱりなしに』と言えなかったのだ。
(実際、カイリがこんなに早く退院するとも思ってなかったしなぁ)
そのへんの事情を言ったとしても、カイリの表情は変わらないだろう。それが感じ取れたので百花は作戦を変えることにした。
「大丈夫だって! 出会いの場って言ったって、ただ飲み食いして帰ることがほとんどだし」
「──ただ食事するだけって言うなら、僕が一緒に行ってもいいんでしょ?」
「ええっ、カイリが!?」
のけぞって百花は驚いたが、カイリは真剣な表情だ。その顔を少しだけ客観的に見て「残念だけど無理」と百花は首を横に振った。もちろんカイリは「なんで!?」と憤るが「年齢が足りないよ」と百花はぴしゃりと言った。
カイリの年齢は十八歳だった。しかも外見はそれより年下に見えるから、確実に居酒屋に行っても止められてしまうだろう。
「こっちでは二十歳から成人だから」
「僕はもう成人してる」
「いや、それはカイリの国での話でしょ? しかも見た目的にも二十歳に見せるのは無理だよ。店入った瞬間に身分証出せって言われちゃう」
「ミブンショウって?」
その説明と、どう頑張ってもそれをカイリが手にいれることはできないと伝えると、カイリは「くそっ」と舌打ちせんばかりに怒りをあらわにしている。
「ほんっと、そこまで心配しなくても大丈夫だって」
一体合コンをどんな危険な場所と勘違いしてるんだろうか。
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