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番外編
王子の惚れ薬 3
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それから更に一週間後、再びエンハンスがやってきた。今度は到着時間の指定があったから、カイリもそれに合わせて研究所から戻ってきている。
昼の鐘がなってしばらくした頃、三週間前と同じ軽装でエンハンスはやってきた。
百花がお茶を出すのを待って、カイリはエンハンスの前に小瓶を三つ並べた。それぞれに青い液体が揺らめく。カイリは使い方の説明をした後で、こう付け加えた。
「あんまり魔力をいれすぎないようにね。大変なことになる」
カイリの目元が少し赤いことにエンハンスは気づいているのかいないのか。一瞥しただけで視線を小瓶へと戻すと「大変なこと?」としれっと聞いた。
「それは──あれか? 効果が出すぎるっていうことか?」
「ほんとそうだよ! ハンスじゃなくてフィルリーン様に使うか、むしろ二人で同時に使った方が盛り上がると思う!」
「モモカ……」
咎めるようなカイリの視線と、吹き出したエンハンスの反応を見て、百花は自分がいらないことをこぼしたことに気づいた。
「盛り上がるね……なるほど」
エンハンスは百花とカイリを交互に見遣ってから、にやりと意地の悪い笑みを見せた。
カイリはエンハンスを恨めしげに見つめたあと「……僕は何も言ってない」と精一杯のそっけなさで答えた。百花は瞬時に頬が熱くなって、ぱくぱくと口を開けたりしめたりすることしかできない。自分のうっかりを呪うばかりだ。
エンハンスは声をあげて笑いながら、小瓶を自身のポーチにしまうと「仲が良くて羨ましいよ」と上機嫌に言った。
「俺もフィルリーン嬢とそのくらい仲睦まじくなりたいものだね」
「ハンスは、すごく魅力的だよ! だからきっと大丈夫!」
心底からの気持ちで百花がそう太鼓判を押すと、エンハンスの瞳は少しだけ陰りを見せた。けれどそれも一瞬のことで、すぐに微笑むと「ありがとう」と答える。
「このお礼は後日改めて届けるとして……。ところで、何か余ってるパンはないか? 実は食事をとってないんだ」
そう言って、エンハンスはおどけた調子でお腹に手をあてた。
「えっ、そうだったの!?」
百花とカイリは、エンハンスの来訪に備えて早めに食事をとっていた。その時のスープやパンはまだ残っている。
調理台に置かれたままの鍋と、かごにいれたままのパンの数を確認してから、百花は「パンとスープあるから食べて行きなよ。今、お茶いれるね」と声をかけた。
「ありがとう。助かる」
「──ハンス」
「あ、カイリはもう研究所に戻ってていいぞ。俺の依頼のせいで、元々の研究が遅れてるんだろ? 悪かったな」
「いや、別にそれはいいけど……」
カイリは、どこか煮え切らない、というか、微妙な表情だ。百花は首をかしげて「そうだね、カイリはあっちに戻った方がいいんじゃない? お茶の時間になったら呼びにいくよ」と声をかける。
「モモカ、でも──」
「今日は何のスープを作ったんだ?」
カイリが言おうとした言葉は、エンハンスのおおらかな声で遮られた。一瞬だけカイリは眉をよせたけれど、結局「……わかった。じゃあ行ってくる」とどことなく恨みがましい声で言って、家を出て行ったのだった。
◆
ダイスは、年がら年中あたたかい国だ。
天気のいい日は暑いくらいだから、スープも自然と冷製のものを作ることが多い。
その日も、豆類をすりつぶして作った冷製ポタージュを用意していた。パンの方は、猪肉の煮込みを具にした揚げパンと、甘い生地の上にキャラメルをかけて焼いたパンの二種類がある。
その全てを皿にもって出すと、エンハンスは相好を崩した。
「相変わらず美味しそうなパンだな」
「ありがと! 今日のは両方とも美味しくできたよ」
揚げパンの方は少しだけフライパンで温めなおしたから、皮がまたパリッとしている。
エンハンスは相当お腹がすいていたようで、かなりの勢いでパンもスープも食べすすめていく。
その見事な食べっぷりに、百花は胸があたたかくなった。
「ハンスって、本当に美味しそうに食べてくれるよね。お城ではもっと立派なもの食べてるのに」
「マナーを気にしながら食べる料理はあんまり好きじゃないんだ。俺はこっちの方が断然好きだし、できればこういうものを毎日食べたいよ」
「今度お城でもお願いしてみたらいいんじゃない?」
「残念ながら、聞く耳持つような人たちじゃない。上品な料理にしか価値を見出してないからな」
「──それは大変だね」
エンハンスは、不思議な人だ。
今こうして目の前にいる姿を見ても、王子だなんて思えない。
がさつとまでは言わないけれど、彼の立派な体格や豪快な仕草からは親しみやすさしか感じない。実際、彼の正体を知るまでは、ただ明るいだけの人だと思っていた。
いつ会っても笑っていて、毎日楽しそうだなという印象しかなかった。
けれど第二王子という立場を知ってから、その印象は彼が『そう見られたい』という意図的なものだと気付いた。
本当の彼は、国を憂い、その未来のために自身をささげる覚悟のある──厳しい中で生きる人だった。
彼の本質がどちらなのかはわからない。
けれど、どちらも彼にとっては必要な姿のはずだ。
(ハンスが抱えているものの大きさは、わたしには想像もできないけれど……)
こうして城を離れて、王子としてではなく友人としてここに訪れてくれた時には、気兼ねなく過ごして欲しいなと思う。
「──何?」
百花の視線に応えるように、エンハンスが視線を向けた。その目は柔らかく、優しい。
「美味しそうに食べてくれてありがとう」
「こちらこそ、美味しい料理をありがとう」
パンもスープも、すっかりなくなっていた。最後にお茶を一口飲んでから、エンハンスは「こうしてのんびり過ごせるのも最後かもしれないな」と、目を伏せた。
結婚して帝国に行ったら、しばらくは自由な時間などもてないだろう。国外へ行くなどもってのほか。
そんな話を前に聞いた。
だから、それを思ってエンハンスがナーバスになるのも致し方ないこと。
百花はせめて明るい気分になれるように「二人で遊びに行くよ。その時はいっぱいおみやげ持って行くからね」と笑った。
エンハンスは力の抜けた笑みを浮かべてお礼を言ったあと「──どう思う?」とたずねてきた。
「俺の結婚。──賛成してくれるか?」
すぐにうなずけなくて、百花は黙ってエンハンスを見返した。その反応を見て、エンハンスは視線をそらして苦笑した。
「建国式典の時に、カイリには言われたんだ。俺がオミの国を離れたら、国が瓦解するって。あの欲にまみれた国王とその傀儡にしかなりえないリンガードじゃ、すぐに傾くぞって」
「……そんなの初めて聞いたよ」
いつのまにそんな話をしていたのだろう。カイリはエンハンスの結婚について、あの時何と言っていたっけ。
うまく思い出せない。
「そういう可能性もあると思う。……でも俺は、俺が帝国に飛び込むことで、うまく橋渡しができると思った。あの二人が暴走しそうになっても圧力をかけることができるし、外側から干渉できることもある気がするんだ」
「……そうだね」
「もちろん未来はどうなるかわからない。俺は俺の選んだ道こそが正しいと思っているが、もしもそうじゃなかったら」
エンハンスの手はいつのまにか止まっていた。そして、百花を見つめる目には強い光が宿っている。どこか空気が張り詰めた気がして、百花がごくりとつばを飲み込むと、エンハンスは突然ふにゃりと笑った。
「時流を読みきれなかった愚かな男がいたと、カイリと二人で笑ってくれ」
まるで失敗したら死が待っているとでも言いたげなエンハンスに、百花は首を横に振った。
「そんなことになる前に、二人で助けにいくよ、絶対」
いざとなれば、百花には眷属としての力がある。ウェインやアリスに、見える未来を聞いたって良い。雲行きが怪しいとわかったら、手立てを打つことができる。
「大丈夫。離れていたって、わたしもカイリもハンスの味方だし、困った時は力になる!」
エンハンスが抱える不安がどのくらいの大きさなのかは分からない。多分どんなに話を聞いても、百花には想像しきれない部分があるだろう。
だって百花は国を背負うなんて考えたことも経験したこともないのだから。
けれど、彼を大事だと思い、心配する気持ちは本当だ。
エンハンスはますます笑みを深めると「嬉しいよ、本当に」と言った。ゆったりとした動作でお茶を飲み、静かに息をつく。
急にエンハンスが『王子』の顔を身にまとった気がして、百花の胸がざわついた。
(なんだか……思いつめてるみたい)
内にこもるものがあるなら吐き出して欲しい。話を聞くことくらいならできるから。
そう言おうと口を開いたけれど、それよりも先にエンハンスが「……そろそろ、モモカのマーキングをとかないといけないな」とつぶやいた。
(ああ……マーキングって、あれか。GPSみたいな魔法)
以前、カイリと逃げた時にあっというまに追いつかれたのは、この魔法をエンハンスにかけられていたからだった。右手の甲を見るけれど、今は何も浮かんでこない。おそらく発動したのはあの一回だけだったんだろう。百花の方は、そんな魔法がかけられていることもすっかり忘れていた。
「そういえば、そうだったね」
(別に困ってるわけじゃないし、このままでも気にならないけどな……)
今このタイミングでそういうことを言われると、エンハンスが自分との関係に区切りをつけたいように見える。また少し、胸さわぎがよみがえった。
「もしかして、忘れてた?」
「うん」
素直に答えると、エンハンスは吹き出した。よっぽど面白かったのか、声を震わせて「そうか……モモカはほんっとうに面白いな」と言う。
「面白いかな? だって、ハンスがわたしの場所がわかっても別に困らないもん。ていうか大体ここにいるし」
「モモカのそういうおおらかなところ、本当に眩しいよ」
「おおらかさで言ったら、ハンスの方が上だと思うよ?」
「それは光栄だな」
エンハンスは嬉しそうな反応を見せたあと、席を立って百花のそばにやってきた。合わせて百花も立ち上がり、彼と向かい合う。
見上げると、エンハンスは見たこともない表情で微笑んでいた。
どこか含みのある顔を見せたまま、エンハンスは百花の右手をとった。熱い体温だなと思うのと同時に、手の甲には紋章が浮かび上がる。それをお互い見つめたまま少し沈黙が流れた。
「──もしも」
百花の手を握ったまま、紋章を浮かび上がらせたまま、エンハンスが低い声で呟いた。
「惚れ薬を使う相手がフィルリーン嬢じゃないって言ったらどうする?」
秘密を打ち明けるような、かすれ声。他の誰にも聞かせたくない、というようなひそやかな雰囲気を感じ取って、百花は息をのんだ。
また、二人の間の空気が変わる。
緊迫したとまでは言わないけれど、どこか張り詰めたようなものを肌で感じた。
しばらくお互いにその中で息を殺していたけれど、先にそれを壊したのはエンハンスだった。手の甲に落としていた視線を、ゆっくりと百花に移動させてくる。
「国も、家族も、友人も。──全てを投げ打ってでも欲しい女のために使うと言ったら……モモカは俺を止めるか?」
その目にうつしだされる感情に、百花は見覚えがあった。
(まるで……すがってくるみたいな……たよりない顔、してる)
以前、カイリが見せたことのある寄る辺のない表情。切ない、寂しい、不安。色々な感情がうずまいているときの表情。
エンハンスも今、あの時のカイリと同じような表情をしていた。
(ハンスでも、こんな顔をすることあるんだ……)
百花は少し迷ってから、右手に添えられているエンハンスの手を左手で触れた。ハッと瞬きするエンハンスに微笑んでみせる。
「わたし、ハンスには幸せになってほしいと思ってる。だから……一番使いたい人に使ったらいいよ」
誰も傷つけない恋愛ができれば、それが一番いい。
でもきっとそれは無理なことだ。
百花とカイリの恋だって、誰かを傷つけた上に成立していた。
例えば、榊とか。百花は彼のプロポーズの返事を保留にしたまま、ついに向こうへは戻らないのだ。それに両親にだって、同じことが言える。
──けれど、それでもカイリを諦められなかった。
エンハンスは黙って百花を見つめ続けた。何かを確かめるように、答えを探すかのように。
そして、目をそらしてから「──その相手すら、傷つけるとしても?」と絞り出すように呟く。
「その人は……ハンスのことは好きじゃないの?」
「友人としてはきっと好かれてるさ。でもそれ以上じゃない」
「そっか……それは、つらいね」
自分がいくら好きでも、相手にその気がなければ、通じ合うことはない。
でもこの薬を使えば、一瞬でも心を向けることができる。
(でも、薬がきれたら……その先は──)
薬の効果が切れれば、感情は元に戻る。とは言っても、百花の場合はもともとの想いがあるから、判断しづらい部分もあるけれど。少なくともカイリの姿が見えなくなった時に感じていた焦燥感は、もうわきあがることはなかった。
(最中の記憶はなくならないから、もしかしたらそれをきっかけに……というのはあるかもしれないけど……)
再び、右手の紋章に視線を落として考えにふけっていると「最初は俺も、全然意識なんてしてなかったんだ」とエンハンスが低く呟いた。
「身分を隠して出会ったが、彼女は俺の正体を知っても変わらないでいてくれた。彼女のそばにいると、やけに気楽な気持ちでいられて……気づくのが、遅すぎたけどな」
毎日気をはっているエンハンスの身を思うと、自分が自然体でいられる相手というのは貴重だろう。言葉ににじむ彼の想いに、つい感情移入してしまう。
それだけ想っているのなら、つかの間の幸福でもいいんじゃないだろうか。
きっとどちらを選んだって後悔はつきまとう。ならば、それがせめて軽い方を選んでほしい。
それを伝えようと口を開きかけた時。
「……モモカ」
エンハンスが百花の手に口付けた。先ほどから浮かんでいる紋章の中央に、彼の唇が押し当てられている。
ちりっと熱いものを感じた。それは一瞬でかき消えて、みるみるうちに紋章が薄れていった。
「ハンス……」
完全に紋章が消えてから、エンハンスの唇がそこから離れていった。ずっと感じていた彼の熱が失われ、右手がやけに軽くなった感じがする。
「はい、おしまい」
エンハンスは微笑んで、ぱっと両手を上にあげてみせた。
「なんてな」
いつもの軽い調子で笑って、エンハンスはきびすを返した。あわててその背中に駆け寄る百花を「大丈夫だよ」という言葉で制する。
ゆったりと振り向いたエンハンスは、気持ちのいいくらいの笑顔だった。
「俺は道を踏み外さない。──結婚も、うまくやるさ」
その言葉が、細められた目の色が、彼の全てをあらわしている。笑顔の裏にかくされたものは、鈍い方だと自覚している百花にだって察することができた。
(あきらめないで、って言いたい。言いたいけど……)
「じゃあ俺がカイリを迎えに行ってくるかな」
のんびりと口笛を吹くような陽気さで言ったエンハンスの背中に、百花は結局声をかけることはできなかった。
◆
その夜、話を聞いたカイリに、あまり驚いた様子はなかった。
寝支度を整えた百花を、カイリがベッドの上から呼ぶ。いつものように寝転がろうとした百花だったけれど、カイリが体を起こして足を広げたから、その間にちょこんとおさまった。
すぐに後ろから手がまわされて、ゆるく抱きしめられる。
「……そうなんじゃないかと思ってた」
カイリの声は、決して明るいとは言えない。
「知ってたの?」
振り向いて見上げると、カイリの困ったような表情とかちあった。
「しっかり聞いたことはないけど、なんとなくね」
「相手の人のことも?」
「──多分」
カイリは深いため息をついて、その腕に力をこめた。
「そっかぁ。……どんな人なの? エンハンスのこと、ちょっとは意識してたりする?」
「どんな人って言われても言いづらいけど……とりあえずエンハンスに芽はないことだけは確かだよ」
友達としては好かれているけれど、というエンハンスの言葉がよみがえる。
カイリの目から見てもそうだと言うなら、やっぱりエンハンスの想いが叶うことはないのかもしれない。
(惚れ薬を使うか使わないか。──わたしだったらどうするだろう)
つかのまの夢でも見たいだろうか。
儚く散ると知っていても?
「──ないでしょ?」
つい自分に置き換えて考え込んでいたから、カイリの質問にすぐに反応ができなかった。というより、何を聞かれているのかもわからなかった。
「え?」
百花が振り向くと、やけに真面目な顔をしたカイリと目が合う。
「今なんて言った? もっかい言って?」
「──いい。なんでもない」
「えー? 気になるじゃん!」
「いいの」
カイリはゆるく首を振ると、腕の力を強めてくる。さらりと彼の黒髪が頬にふれた。
「──好きだよ、モモカ」
小さいけれど、確かな響きが耳にこだまする。照れ屋のカイリが、理由もなくそんなことを言うのは珍しい。
(ううん……理由はきっと……)
エンハンスの顔が浮かんで、消えた。
(もしかして……)
ようやくカイリの言いたいことがわかった気がして、でも確かめるのは違うような気がして──百花は、そっとうなずいた。
「わたしも、好きだよ」
誰も二人を咎める者はいない。
けれど、傷つく人間はきっといる。
それがたった一人を選び取るということだった。
どちらともなく引き寄せられて、唇同士が重なる。
それはお互いをいたわりあうような優しいキスだった。
改めて想いを重ねて、それが誓いとなるように。
昼の鐘がなってしばらくした頃、三週間前と同じ軽装でエンハンスはやってきた。
百花がお茶を出すのを待って、カイリはエンハンスの前に小瓶を三つ並べた。それぞれに青い液体が揺らめく。カイリは使い方の説明をした後で、こう付け加えた。
「あんまり魔力をいれすぎないようにね。大変なことになる」
カイリの目元が少し赤いことにエンハンスは気づいているのかいないのか。一瞥しただけで視線を小瓶へと戻すと「大変なこと?」としれっと聞いた。
「それは──あれか? 効果が出すぎるっていうことか?」
「ほんとそうだよ! ハンスじゃなくてフィルリーン様に使うか、むしろ二人で同時に使った方が盛り上がると思う!」
「モモカ……」
咎めるようなカイリの視線と、吹き出したエンハンスの反応を見て、百花は自分がいらないことをこぼしたことに気づいた。
「盛り上がるね……なるほど」
エンハンスは百花とカイリを交互に見遣ってから、にやりと意地の悪い笑みを見せた。
カイリはエンハンスを恨めしげに見つめたあと「……僕は何も言ってない」と精一杯のそっけなさで答えた。百花は瞬時に頬が熱くなって、ぱくぱくと口を開けたりしめたりすることしかできない。自分のうっかりを呪うばかりだ。
エンハンスは声をあげて笑いながら、小瓶を自身のポーチにしまうと「仲が良くて羨ましいよ」と上機嫌に言った。
「俺もフィルリーン嬢とそのくらい仲睦まじくなりたいものだね」
「ハンスは、すごく魅力的だよ! だからきっと大丈夫!」
心底からの気持ちで百花がそう太鼓判を押すと、エンハンスの瞳は少しだけ陰りを見せた。けれどそれも一瞬のことで、すぐに微笑むと「ありがとう」と答える。
「このお礼は後日改めて届けるとして……。ところで、何か余ってるパンはないか? 実は食事をとってないんだ」
そう言って、エンハンスはおどけた調子でお腹に手をあてた。
「えっ、そうだったの!?」
百花とカイリは、エンハンスの来訪に備えて早めに食事をとっていた。その時のスープやパンはまだ残っている。
調理台に置かれたままの鍋と、かごにいれたままのパンの数を確認してから、百花は「パンとスープあるから食べて行きなよ。今、お茶いれるね」と声をかけた。
「ありがとう。助かる」
「──ハンス」
「あ、カイリはもう研究所に戻ってていいぞ。俺の依頼のせいで、元々の研究が遅れてるんだろ? 悪かったな」
「いや、別にそれはいいけど……」
カイリは、どこか煮え切らない、というか、微妙な表情だ。百花は首をかしげて「そうだね、カイリはあっちに戻った方がいいんじゃない? お茶の時間になったら呼びにいくよ」と声をかける。
「モモカ、でも──」
「今日は何のスープを作ったんだ?」
カイリが言おうとした言葉は、エンハンスのおおらかな声で遮られた。一瞬だけカイリは眉をよせたけれど、結局「……わかった。じゃあ行ってくる」とどことなく恨みがましい声で言って、家を出て行ったのだった。
◆
ダイスは、年がら年中あたたかい国だ。
天気のいい日は暑いくらいだから、スープも自然と冷製のものを作ることが多い。
その日も、豆類をすりつぶして作った冷製ポタージュを用意していた。パンの方は、猪肉の煮込みを具にした揚げパンと、甘い生地の上にキャラメルをかけて焼いたパンの二種類がある。
その全てを皿にもって出すと、エンハンスは相好を崩した。
「相変わらず美味しそうなパンだな」
「ありがと! 今日のは両方とも美味しくできたよ」
揚げパンの方は少しだけフライパンで温めなおしたから、皮がまたパリッとしている。
エンハンスは相当お腹がすいていたようで、かなりの勢いでパンもスープも食べすすめていく。
その見事な食べっぷりに、百花は胸があたたかくなった。
「ハンスって、本当に美味しそうに食べてくれるよね。お城ではもっと立派なもの食べてるのに」
「マナーを気にしながら食べる料理はあんまり好きじゃないんだ。俺はこっちの方が断然好きだし、できればこういうものを毎日食べたいよ」
「今度お城でもお願いしてみたらいいんじゃない?」
「残念ながら、聞く耳持つような人たちじゃない。上品な料理にしか価値を見出してないからな」
「──それは大変だね」
エンハンスは、不思議な人だ。
今こうして目の前にいる姿を見ても、王子だなんて思えない。
がさつとまでは言わないけれど、彼の立派な体格や豪快な仕草からは親しみやすさしか感じない。実際、彼の正体を知るまでは、ただ明るいだけの人だと思っていた。
いつ会っても笑っていて、毎日楽しそうだなという印象しかなかった。
けれど第二王子という立場を知ってから、その印象は彼が『そう見られたい』という意図的なものだと気付いた。
本当の彼は、国を憂い、その未来のために自身をささげる覚悟のある──厳しい中で生きる人だった。
彼の本質がどちらなのかはわからない。
けれど、どちらも彼にとっては必要な姿のはずだ。
(ハンスが抱えているものの大きさは、わたしには想像もできないけれど……)
こうして城を離れて、王子としてではなく友人としてここに訪れてくれた時には、気兼ねなく過ごして欲しいなと思う。
「──何?」
百花の視線に応えるように、エンハンスが視線を向けた。その目は柔らかく、優しい。
「美味しそうに食べてくれてありがとう」
「こちらこそ、美味しい料理をありがとう」
パンもスープも、すっかりなくなっていた。最後にお茶を一口飲んでから、エンハンスは「こうしてのんびり過ごせるのも最後かもしれないな」と、目を伏せた。
結婚して帝国に行ったら、しばらくは自由な時間などもてないだろう。国外へ行くなどもってのほか。
そんな話を前に聞いた。
だから、それを思ってエンハンスがナーバスになるのも致し方ないこと。
百花はせめて明るい気分になれるように「二人で遊びに行くよ。その時はいっぱいおみやげ持って行くからね」と笑った。
エンハンスは力の抜けた笑みを浮かべてお礼を言ったあと「──どう思う?」とたずねてきた。
「俺の結婚。──賛成してくれるか?」
すぐにうなずけなくて、百花は黙ってエンハンスを見返した。その反応を見て、エンハンスは視線をそらして苦笑した。
「建国式典の時に、カイリには言われたんだ。俺がオミの国を離れたら、国が瓦解するって。あの欲にまみれた国王とその傀儡にしかなりえないリンガードじゃ、すぐに傾くぞって」
「……そんなの初めて聞いたよ」
いつのまにそんな話をしていたのだろう。カイリはエンハンスの結婚について、あの時何と言っていたっけ。
うまく思い出せない。
「そういう可能性もあると思う。……でも俺は、俺が帝国に飛び込むことで、うまく橋渡しができると思った。あの二人が暴走しそうになっても圧力をかけることができるし、外側から干渉できることもある気がするんだ」
「……そうだね」
「もちろん未来はどうなるかわからない。俺は俺の選んだ道こそが正しいと思っているが、もしもそうじゃなかったら」
エンハンスの手はいつのまにか止まっていた。そして、百花を見つめる目には強い光が宿っている。どこか空気が張り詰めた気がして、百花がごくりとつばを飲み込むと、エンハンスは突然ふにゃりと笑った。
「時流を読みきれなかった愚かな男がいたと、カイリと二人で笑ってくれ」
まるで失敗したら死が待っているとでも言いたげなエンハンスに、百花は首を横に振った。
「そんなことになる前に、二人で助けにいくよ、絶対」
いざとなれば、百花には眷属としての力がある。ウェインやアリスに、見える未来を聞いたって良い。雲行きが怪しいとわかったら、手立てを打つことができる。
「大丈夫。離れていたって、わたしもカイリもハンスの味方だし、困った時は力になる!」
エンハンスが抱える不安がどのくらいの大きさなのかは分からない。多分どんなに話を聞いても、百花には想像しきれない部分があるだろう。
だって百花は国を背負うなんて考えたことも経験したこともないのだから。
けれど、彼を大事だと思い、心配する気持ちは本当だ。
エンハンスはますます笑みを深めると「嬉しいよ、本当に」と言った。ゆったりとした動作でお茶を飲み、静かに息をつく。
急にエンハンスが『王子』の顔を身にまとった気がして、百花の胸がざわついた。
(なんだか……思いつめてるみたい)
内にこもるものがあるなら吐き出して欲しい。話を聞くことくらいならできるから。
そう言おうと口を開いたけれど、それよりも先にエンハンスが「……そろそろ、モモカのマーキングをとかないといけないな」とつぶやいた。
(ああ……マーキングって、あれか。GPSみたいな魔法)
以前、カイリと逃げた時にあっというまに追いつかれたのは、この魔法をエンハンスにかけられていたからだった。右手の甲を見るけれど、今は何も浮かんでこない。おそらく発動したのはあの一回だけだったんだろう。百花の方は、そんな魔法がかけられていることもすっかり忘れていた。
「そういえば、そうだったね」
(別に困ってるわけじゃないし、このままでも気にならないけどな……)
今このタイミングでそういうことを言われると、エンハンスが自分との関係に区切りをつけたいように見える。また少し、胸さわぎがよみがえった。
「もしかして、忘れてた?」
「うん」
素直に答えると、エンハンスは吹き出した。よっぽど面白かったのか、声を震わせて「そうか……モモカはほんっとうに面白いな」と言う。
「面白いかな? だって、ハンスがわたしの場所がわかっても別に困らないもん。ていうか大体ここにいるし」
「モモカのそういうおおらかなところ、本当に眩しいよ」
「おおらかさで言ったら、ハンスの方が上だと思うよ?」
「それは光栄だな」
エンハンスは嬉しそうな反応を見せたあと、席を立って百花のそばにやってきた。合わせて百花も立ち上がり、彼と向かい合う。
見上げると、エンハンスは見たこともない表情で微笑んでいた。
どこか含みのある顔を見せたまま、エンハンスは百花の右手をとった。熱い体温だなと思うのと同時に、手の甲には紋章が浮かび上がる。それをお互い見つめたまま少し沈黙が流れた。
「──もしも」
百花の手を握ったまま、紋章を浮かび上がらせたまま、エンハンスが低い声で呟いた。
「惚れ薬を使う相手がフィルリーン嬢じゃないって言ったらどうする?」
秘密を打ち明けるような、かすれ声。他の誰にも聞かせたくない、というようなひそやかな雰囲気を感じ取って、百花は息をのんだ。
また、二人の間の空気が変わる。
緊迫したとまでは言わないけれど、どこか張り詰めたようなものを肌で感じた。
しばらくお互いにその中で息を殺していたけれど、先にそれを壊したのはエンハンスだった。手の甲に落としていた視線を、ゆっくりと百花に移動させてくる。
「国も、家族も、友人も。──全てを投げ打ってでも欲しい女のために使うと言ったら……モモカは俺を止めるか?」
その目にうつしだされる感情に、百花は見覚えがあった。
(まるで……すがってくるみたいな……たよりない顔、してる)
以前、カイリが見せたことのある寄る辺のない表情。切ない、寂しい、不安。色々な感情がうずまいているときの表情。
エンハンスも今、あの時のカイリと同じような表情をしていた。
(ハンスでも、こんな顔をすることあるんだ……)
百花は少し迷ってから、右手に添えられているエンハンスの手を左手で触れた。ハッと瞬きするエンハンスに微笑んでみせる。
「わたし、ハンスには幸せになってほしいと思ってる。だから……一番使いたい人に使ったらいいよ」
誰も傷つけない恋愛ができれば、それが一番いい。
でもきっとそれは無理なことだ。
百花とカイリの恋だって、誰かを傷つけた上に成立していた。
例えば、榊とか。百花は彼のプロポーズの返事を保留にしたまま、ついに向こうへは戻らないのだ。それに両親にだって、同じことが言える。
──けれど、それでもカイリを諦められなかった。
エンハンスは黙って百花を見つめ続けた。何かを確かめるように、答えを探すかのように。
そして、目をそらしてから「──その相手すら、傷つけるとしても?」と絞り出すように呟く。
「その人は……ハンスのことは好きじゃないの?」
「友人としてはきっと好かれてるさ。でもそれ以上じゃない」
「そっか……それは、つらいね」
自分がいくら好きでも、相手にその気がなければ、通じ合うことはない。
でもこの薬を使えば、一瞬でも心を向けることができる。
(でも、薬がきれたら……その先は──)
薬の効果が切れれば、感情は元に戻る。とは言っても、百花の場合はもともとの想いがあるから、判断しづらい部分もあるけれど。少なくともカイリの姿が見えなくなった時に感じていた焦燥感は、もうわきあがることはなかった。
(最中の記憶はなくならないから、もしかしたらそれをきっかけに……というのはあるかもしれないけど……)
再び、右手の紋章に視線を落として考えにふけっていると「最初は俺も、全然意識なんてしてなかったんだ」とエンハンスが低く呟いた。
「身分を隠して出会ったが、彼女は俺の正体を知っても変わらないでいてくれた。彼女のそばにいると、やけに気楽な気持ちでいられて……気づくのが、遅すぎたけどな」
毎日気をはっているエンハンスの身を思うと、自分が自然体でいられる相手というのは貴重だろう。言葉ににじむ彼の想いに、つい感情移入してしまう。
それだけ想っているのなら、つかの間の幸福でもいいんじゃないだろうか。
きっとどちらを選んだって後悔はつきまとう。ならば、それがせめて軽い方を選んでほしい。
それを伝えようと口を開きかけた時。
「……モモカ」
エンハンスが百花の手に口付けた。先ほどから浮かんでいる紋章の中央に、彼の唇が押し当てられている。
ちりっと熱いものを感じた。それは一瞬でかき消えて、みるみるうちに紋章が薄れていった。
「ハンス……」
完全に紋章が消えてから、エンハンスの唇がそこから離れていった。ずっと感じていた彼の熱が失われ、右手がやけに軽くなった感じがする。
「はい、おしまい」
エンハンスは微笑んで、ぱっと両手を上にあげてみせた。
「なんてな」
いつもの軽い調子で笑って、エンハンスはきびすを返した。あわててその背中に駆け寄る百花を「大丈夫だよ」という言葉で制する。
ゆったりと振り向いたエンハンスは、気持ちのいいくらいの笑顔だった。
「俺は道を踏み外さない。──結婚も、うまくやるさ」
その言葉が、細められた目の色が、彼の全てをあらわしている。笑顔の裏にかくされたものは、鈍い方だと自覚している百花にだって察することができた。
(あきらめないで、って言いたい。言いたいけど……)
「じゃあ俺がカイリを迎えに行ってくるかな」
のんびりと口笛を吹くような陽気さで言ったエンハンスの背中に、百花は結局声をかけることはできなかった。
◆
その夜、話を聞いたカイリに、あまり驚いた様子はなかった。
寝支度を整えた百花を、カイリがベッドの上から呼ぶ。いつものように寝転がろうとした百花だったけれど、カイリが体を起こして足を広げたから、その間にちょこんとおさまった。
すぐに後ろから手がまわされて、ゆるく抱きしめられる。
「……そうなんじゃないかと思ってた」
カイリの声は、決して明るいとは言えない。
「知ってたの?」
振り向いて見上げると、カイリの困ったような表情とかちあった。
「しっかり聞いたことはないけど、なんとなくね」
「相手の人のことも?」
「──多分」
カイリは深いため息をついて、その腕に力をこめた。
「そっかぁ。……どんな人なの? エンハンスのこと、ちょっとは意識してたりする?」
「どんな人って言われても言いづらいけど……とりあえずエンハンスに芽はないことだけは確かだよ」
友達としては好かれているけれど、というエンハンスの言葉がよみがえる。
カイリの目から見てもそうだと言うなら、やっぱりエンハンスの想いが叶うことはないのかもしれない。
(惚れ薬を使うか使わないか。──わたしだったらどうするだろう)
つかのまの夢でも見たいだろうか。
儚く散ると知っていても?
「──ないでしょ?」
つい自分に置き換えて考え込んでいたから、カイリの質問にすぐに反応ができなかった。というより、何を聞かれているのかもわからなかった。
「え?」
百花が振り向くと、やけに真面目な顔をしたカイリと目が合う。
「今なんて言った? もっかい言って?」
「──いい。なんでもない」
「えー? 気になるじゃん!」
「いいの」
カイリはゆるく首を振ると、腕の力を強めてくる。さらりと彼の黒髪が頬にふれた。
「──好きだよ、モモカ」
小さいけれど、確かな響きが耳にこだまする。照れ屋のカイリが、理由もなくそんなことを言うのは珍しい。
(ううん……理由はきっと……)
エンハンスの顔が浮かんで、消えた。
(もしかして……)
ようやくカイリの言いたいことがわかった気がして、でも確かめるのは違うような気がして──百花は、そっとうなずいた。
「わたしも、好きだよ」
誰も二人を咎める者はいない。
けれど、傷つく人間はきっといる。
それがたった一人を選び取るということだった。
どちらともなく引き寄せられて、唇同士が重なる。
それはお互いをいたわりあうような優しいキスだった。
改めて想いを重ねて、それが誓いとなるように。
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花子さぁんっ、感想ありがとうーーー!
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退会済ユーザのコメントです
わぁ!こっちのアカウントも持ってるんですね(´∀`*)ありがとうございますっ!
あっちでも同時進行なので、CHANELさんの読みやすい方でお付き合いいただけたら嬉しいですっ\(*ˊᗜˋ*)/