忘八侍そばかす半兵衛

北部九州在住

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延宝七年 夏  蓬莱楼喧嘩始末 その4

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 石川新右衛門が諭した大老酒井忠清への根回しだが、聞いた半兵衛はいつもと違う迅速さで動いた。
 蓬莱弥九郎に頼んで豪商河村十右衛門に繋ぎを取ると、彼経由で酒井家に情報を流したのだ。
 かくして、将軍の御成り前というのにお忍びで大老酒井忠清が豪商河村十右衛門の宴会に顔を出すという茶番が行われた。
 それは、石川新右衛門と酒井忠清の顔合わせという側面があった事を半兵衛は後になって理解する。

「ああ。名乗りは不要だ。
 この吉原にて名乗りなど不要であろう?」

 あくまでお忍びで身分を出さないからこそ、半兵衛や石川新右衛門も酒井忠清と顔を合わせる事ができる訳で。
 夏の山海の珍味が並べられた膳を前に手をつけていない酒井忠清は、この宴席の一番の見世物である石川新右衛門を楽しそうな目で値踏みしていた。

「左様ですな。
 今の我らは太鼓持ちみたいなものでして、この席を盛り上げる小話などを披露できればと」

「うむ。吉原の幇間の小話だ。
 さぞ面白い話を聞かせてくれるのだろうな」

 そう言って酒井忠清は盃を手に取ると、隣に居た河村十右衛門が酒を注ぐ。
 あくまで宴会の席の小話という体裁でのやばい話なので、この席には半兵衛と石川新右衛門に蓬莱弥九郎と河村十右衛門と酒井忠清の五人しかいない。
 権勢を誇る大老酒井忠清と豪商河村十右衛門の宴にしてはあまりに質素に見えるが、蓬莱楼を丸ごと借り切って主なしの宴があちこちから聞こえてくる。
 木を隠すには森の中。宴会を隠すには大宴会の中。

「では、小話を一席。
 将軍様の御成りを前に喧嘩を行おうという旗本奴の顛末についてでございます」

 そう切り出した石川新右衛門の言葉に、半兵衛は思わず吹き出しそうになる。
 あくまでこれから行う事の了解を求めるはずなのに、小話では鮮やかに旗本奴たちは吉原にて喧嘩を行って負けて叩きだされる結果となっていた。
 戯言と前置きしているせいか、酒井忠清と河村十右衛門は顔色を変えないが、半兵衛の隣りの蓬莱弥九郎は顔一面に夏の夜のせいではない脂汗が浮き出ていた。

「ほう? 面白そうだな。
 だが、少し気に入らぬ所もある」

 石川新右衛門の語りを聞き終わった酒井忠清の感想がそれである。
 彼の眼は酒に酔っていなかった。

「御成りは将軍様の御威光を天下に示す行為。
 旗本奴の喧嘩が離れた吉原でとはいえ、同日に行われては鼎の軽重を問われかねん」

 そう言った酒井忠清に、河村十右衛門が黙って頷いて追従する。
 彼ら二人とも旗本奴が何かするのは知っていたが、まさか吉原で喧嘩を行うとは思ってなかったらしい。
 御成りの失敗は迎える酒井忠清の権勢に傷をつけかねない。

「これは失礼をば。
 では、喧嘩の日取りをずらす事にしましょう。
 さて、日がずれた旗本奴をどうやって吉原に呼び寄せましょうか?」

 下馬将軍と称される大老酒井忠清を前にして石川新右衛門は臆せずに盃を口にする。
 その度胸は彼が敵対する堀田正俊に仕えているからなのか、剣豪としてなのかは半兵衛にはわからない。
 だが、傍で聞いていた半兵衛にも分かった事がある。
 酒井忠清は御成りと同日なのが気に入らぬと言って、旗本奴の喧嘩については何も言わなかった。
 つまり、実質的了承が得られたという事だ。

「ふむ。
 ならば、御成りの前日までに吉原で喧嘩を行えばよいだろう。
 旗本奴だが、呼び寄せるならば、手がない訳ではない」

 そう言って盃を傾ける酒井忠清の顔を見て、半兵衛は悟る。
 これが天下を差配する大老酒井忠清なのだと。
 良いも悪いも身分の上下すら無視して、天下泰平の為ならば誰にでも会うしその策を了承する。
 傍観者だからこそ、半兵衛は酒井忠清の懐の大きさを見た。

「御成りの前は騒ぎが起きぬように芝居小屋などは休ませるよう町奉行に既に命じている。
 とはいえ、町衆の楽しみを御成りで奪う事は上様とて望んではおらぬ。
 たとえば、江戸ではない、この吉原のような場所で行う芝居を止めるのは無理な話よ」

 実に白々しく酒井忠清はお目こぼしを口にする。
 その言い草は太鼓持ちのふりをしている半兵衛や石川新右衛門よりもよほど太鼓持ちらしく、緩急をつけてすっと人の心に入った。

「何しろ、吉原には吉原の理があるのだからな」

 そう言って笑う酒井忠清の顔は、今まで見たどんな男よりも大きく見えた。
 暑さを忘れるぐらいの、幕府を支える男の凄みを半兵衛は見ることでしかできなかった。

 お忍びで来た酒井忠清や河村十右衛門が帰っても蓬莱楼の宴は続けられる。
 その日の蓬莱楼の全てを買い切ったのだから、むしろ主無き宴こそ豪商河村十右衛門の権勢を吉原に示せるという訳で。
 そんな宴を楽しむつもりもはない半兵衛が早々に蓬莱楼を後にして己の家に帰ると、独り身の己の家に灯りがともっていた。

「おかえりなさい。半兵衛。
 お忍びだから、朝までには酒井様の御屋敷に戻らないといけないのだけど」

 笑顔で出迎えてくれた冬花と彼女が作った食事を見て半兵衛は何も言えなかった。
 こういう粋な計らいをしてくれた酒井忠清に恩ができた事を自覚しつつ半兵衛は冬花を抱きしめ、冬花も抵抗はしなかった。
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