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延宝八年 春 吉原籠城決闘 急
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吉原で下馬将軍酒井忠清がお忍びで来るほど栄えた遊郭『蓬莱楼』。
その店から夜だというのに灯りが消え、華やかな声も途絶え、かつての栄華の面影は何処にもない。
灯りの消えた『蓬莱楼』はそれだけで幕閣の争いの結果を示しているかのようであった。
格子向こうで男を誘っていた遊女たちの姿はなく、店と遊女たちを品定めしていた男たちは灯りの消えたこの店に立ち寄らないする。
その向かいでは引手茶屋に向かう太夫が共をつれて花魁道中を練り歩くが、花魁道中の華やかさをもってしてもこの店の灯りが消えたことを消しきれない。
店に入ると灯りの消えた一階で座っていた場所には座布団のみが残され、楼主が咥えていた煙管が帰る事のない楼主の帰りを待っていた。
一夜の宴の為やり手婆以下多くの人たちが動いていた一階も誰もおらず、もちろん二階にも男女ともにいないので聞こえるのは喘ぎ声でなる隙間風。
「蓬莱楼がこの有様とは、どうやら酒井様と堀田様の争いは堀田様が勝ったみたいだな」
「既に舘林藩藩主松平綱吉様がお城に呼ばれて、次期将軍として将軍様の養嗣子として江戸城二の丸に迎えられたとか」
「老中となった堀田様も松平様のお声がかりとか」
「そうなれば、酒井様の権勢もこれまでという事」
「蓬莱楼はその先ぶれか。怖い怖い」
往来の噂声を聞きながら半兵衛は『蓬莱楼』入口に立つ。
蓬莱弥九郎が去って半兵衛の物になった『蓬莱楼』を閉める決断をしてから、季節は冬から春になろうとしていた。
働いていた遊女や忘八者たちについては、河村十右衛門と唐犬権兵衛の手を借りて暮らしに困らないように手配したのだが、その際に残された千両箱が大いに役に立ったのは言うまでもない。
綺麗になくなった千両箱の中身を知っているだけに、半兵衛の隣りに立っていた唐犬権兵衛は実にもったいなさそうな声でぼやく。
「本当にきれいさっぱり使っちまって……残そうとは思わなかったので?」
「最初から表に出せない金だ。それに一度やってみたかったんでな。お大尽」
「確かにそうですけどねぇ……華やかどころかこれじゃ出てくるのは花魁じゃなくて幽霊じゃないですか」
「ははっ。うまい事を言うじゃないか」
からりと笑う半兵衛だが、ふとその表情を曇らせ、唐犬権兵衛も顔を引き締める。
二人の脳裏に浮かんだのは一人の侍の姿。
人を追い出した半兵衛が出迎える『蓬莱楼』最後の客の名前は石川新右衛門。
「半兵衛の旦那。
石川の旦那がいらっしゃるので?」
唐犬権兵衛の声には疑念が残る。
既に両者の飼い主である大老酒井忠清と老中堀田正俊の争いは堀田正俊の勝利で終わりつつある今。わざわざ半兵衛と石川新右衛門がここで戦う必要はないのだ。
しかし、それは唐犬権兵衛の考えであって半兵衛は違うらしい。
「さあな。来るかもしれないし、来ないかもしれん。
けど、来て欲しいなと思っている」
「……半兵衛の旦那と石川の旦那が入って、出てくるのはどちらか一人。
しかもする必要のない勝負なのは分かっているのにですか?」
半兵衛の腰に慣れない刀が揺れる。
『村正』。名刀ではあるが、種子島撃ちの半兵衛にとってまったく使わないものを差しているのは、今の半兵衛は忘八者ではなく侍なのだという意思表示。
「俺はまだ石川新右衛門はと決着をつけていない。
だからあいつと戦う為に俺はここにいるんだよ」
その言葉を聞いて唐犬権兵衛は納得するしかない。
自分が半兵衛に付き従う理由はそういう所にあるのだと改めて思い知らされた気がして苦笑する。
「どっちが出てきても恨みっこなし。後はこの唐犬権兵衛にお任せを」
「すまんな。墓の手配までしてもらって」
「構いませんよ。旦那。
あっしとしては、このまま逃げてもらっても構わないんですがね。
河村の旦那も同じことをおっしゃっていましたよ」
無駄なことを未練がましく唐犬権兵衛は言う。
それぐらい半兵衛という男に惚れている証左でもあるのだが、当の本人はまったく気づいてはいないようだ。
「生きていたら花見でもしようか?じゃあな」
「……ご武運を」
手を上げて半兵衛は一人『蓬莱楼』の中に入ってゆく。
店の奥の広間の隠し部屋に陣取り、種子島の火縄に火をつける。
その部屋の中央に無造作に置かれたのが、高田藩の御家騒動の証拠となる風魔夜盗が持っていた文の写し。
今更これが必要なのかと言えば必要ないのだろうが、半兵衛と石川新右衛門の関係は高田藩の騒動から始まり、高田藩の騒動で終わる事に半兵衛は隠し部屋の中で苦笑するしかない。
この策は高田藩の騒動に絡む形で依頼された仙台藩の仙台高尾の墓に入って待ち伏せするのとさして変わらない。
だが、入るはずだった桶と比べて隠し部屋には違う所があった。
床が軋む音がした。
今この『蓬莱楼』に入ってくるもの好きは石川新右衛門しかおらず、半兵衛は息を整えて得物を持って構える。
隠し部屋の覗き穴から障子の開く音がすると、足音が止まる。
石川新右衛門は舘林藩剣術指南役を務める剣豪である。
まともに戦って勝てる相手ではない。
そして、半兵衛が隠し部屋の中で得物を持って構えているのも分かっていた。
勝負は一瞬。
石川新右衛門の刀が半兵衛に届くか、あるいは半兵衛の得物が先に新右衛門に届くか。
どちらにせよそれで勝敗は決まる。
緊張の糸が張りつめてゆく。
部屋の端で灯された灯篭に虫が焼かれる音がするが、それとは別に火縄が燃える音が漏れた。
一秒が十倍に延びたような錯覚すら覚えながら、半兵衛はその瞬間を待つ。
音よりも空気が跳ね、隠し部屋の板を石川新右衛門の刀が貫いた時、その勝敗は決まった。
墓桶と違う点。
それは、隠し部屋の奥に密偵用の隠し通路があり、石川新右衛門の刀から逃れる事ができる事。
石川新右衛門は貫いた板の穴から隠し部屋の手前でただ燃えている火縄と、『村正』を板越しに突き立てようとする半兵衛を見た。
それだけで十分だった。
板に当たる鈍い音から血と命が漏れる音がした。
「ははっ……見事なり」
「すまぬ。俺の腕ではどうしても新右衛門に勝つ手が浮かばなかった。
あんたが、侍として正々堂々とする事に賭けた」
「……これも戦よ。誇れ。雑賀半兵衛」
新右衛門は笑みを浮かべたまま崩れ落ち、隠し部屋から出た半兵衛が石川新右衛門を抱き上げる。
半兵衛は新右衛門の言葉を聞きながらも、半兵衛の目から涙がこぼれているのに気づいた。
「……泣く……奴が……あるか……お主は……勝ったのだぞ」
「ああ。俺は。俺は……新右衛門!」
半兵衛の悲痛な声に答えるように新右衛門の手が半兵衛の頬を撫でる。
師の元を去り独り立ちする弟子のように誇らしく。
子供をあやす親のように優しく。
新右衛門の手の動きは止まらずに、半兵衛に血まみれで微笑を浮かべる。
「……気にするな……これが侍というものだ……由井先生も…お前を……」
それが石川新右衛門の最期の言葉となった。
半兵衛は黙ったまま、その言葉を噛みしめるように目を閉じて、その手を強く握ると、そのまま静かに横たえる。
そして、部屋に置かれた書状を燃して、ゆっくりと立ち上がる。
これですべて終わった。
「半兵衛の旦那!」
待っていた唐犬権兵衛が声をかけるが、半兵衛は振り返らない。
その背は侍として誇らしく、忘八者としてどこか寂しげに見えた。
その店から夜だというのに灯りが消え、華やかな声も途絶え、かつての栄華の面影は何処にもない。
灯りの消えた『蓬莱楼』はそれだけで幕閣の争いの結果を示しているかのようであった。
格子向こうで男を誘っていた遊女たちの姿はなく、店と遊女たちを品定めしていた男たちは灯りの消えたこの店に立ち寄らないする。
その向かいでは引手茶屋に向かう太夫が共をつれて花魁道中を練り歩くが、花魁道中の華やかさをもってしてもこの店の灯りが消えたことを消しきれない。
店に入ると灯りの消えた一階で座っていた場所には座布団のみが残され、楼主が咥えていた煙管が帰る事のない楼主の帰りを待っていた。
一夜の宴の為やり手婆以下多くの人たちが動いていた一階も誰もおらず、もちろん二階にも男女ともにいないので聞こえるのは喘ぎ声でなる隙間風。
「蓬莱楼がこの有様とは、どうやら酒井様と堀田様の争いは堀田様が勝ったみたいだな」
「既に舘林藩藩主松平綱吉様がお城に呼ばれて、次期将軍として将軍様の養嗣子として江戸城二の丸に迎えられたとか」
「老中となった堀田様も松平様のお声がかりとか」
「そうなれば、酒井様の権勢もこれまでという事」
「蓬莱楼はその先ぶれか。怖い怖い」
往来の噂声を聞きながら半兵衛は『蓬莱楼』入口に立つ。
蓬莱弥九郎が去って半兵衛の物になった『蓬莱楼』を閉める決断をしてから、季節は冬から春になろうとしていた。
働いていた遊女や忘八者たちについては、河村十右衛門と唐犬権兵衛の手を借りて暮らしに困らないように手配したのだが、その際に残された千両箱が大いに役に立ったのは言うまでもない。
綺麗になくなった千両箱の中身を知っているだけに、半兵衛の隣りに立っていた唐犬権兵衛は実にもったいなさそうな声でぼやく。
「本当にきれいさっぱり使っちまって……残そうとは思わなかったので?」
「最初から表に出せない金だ。それに一度やってみたかったんでな。お大尽」
「確かにそうですけどねぇ……華やかどころかこれじゃ出てくるのは花魁じゃなくて幽霊じゃないですか」
「ははっ。うまい事を言うじゃないか」
からりと笑う半兵衛だが、ふとその表情を曇らせ、唐犬権兵衛も顔を引き締める。
二人の脳裏に浮かんだのは一人の侍の姿。
人を追い出した半兵衛が出迎える『蓬莱楼』最後の客の名前は石川新右衛門。
「半兵衛の旦那。
石川の旦那がいらっしゃるので?」
唐犬権兵衛の声には疑念が残る。
既に両者の飼い主である大老酒井忠清と老中堀田正俊の争いは堀田正俊の勝利で終わりつつある今。わざわざ半兵衛と石川新右衛門がここで戦う必要はないのだ。
しかし、それは唐犬権兵衛の考えであって半兵衛は違うらしい。
「さあな。来るかもしれないし、来ないかもしれん。
けど、来て欲しいなと思っている」
「……半兵衛の旦那と石川の旦那が入って、出てくるのはどちらか一人。
しかもする必要のない勝負なのは分かっているのにですか?」
半兵衛の腰に慣れない刀が揺れる。
『村正』。名刀ではあるが、種子島撃ちの半兵衛にとってまったく使わないものを差しているのは、今の半兵衛は忘八者ではなく侍なのだという意思表示。
「俺はまだ石川新右衛門はと決着をつけていない。
だからあいつと戦う為に俺はここにいるんだよ」
その言葉を聞いて唐犬権兵衛は納得するしかない。
自分が半兵衛に付き従う理由はそういう所にあるのだと改めて思い知らされた気がして苦笑する。
「どっちが出てきても恨みっこなし。後はこの唐犬権兵衛にお任せを」
「すまんな。墓の手配までしてもらって」
「構いませんよ。旦那。
あっしとしては、このまま逃げてもらっても構わないんですがね。
河村の旦那も同じことをおっしゃっていましたよ」
無駄なことを未練がましく唐犬権兵衛は言う。
それぐらい半兵衛という男に惚れている証左でもあるのだが、当の本人はまったく気づいてはいないようだ。
「生きていたら花見でもしようか?じゃあな」
「……ご武運を」
手を上げて半兵衛は一人『蓬莱楼』の中に入ってゆく。
店の奥の広間の隠し部屋に陣取り、種子島の火縄に火をつける。
その部屋の中央に無造作に置かれたのが、高田藩の御家騒動の証拠となる風魔夜盗が持っていた文の写し。
今更これが必要なのかと言えば必要ないのだろうが、半兵衛と石川新右衛門の関係は高田藩の騒動から始まり、高田藩の騒動で終わる事に半兵衛は隠し部屋の中で苦笑するしかない。
この策は高田藩の騒動に絡む形で依頼された仙台藩の仙台高尾の墓に入って待ち伏せするのとさして変わらない。
だが、入るはずだった桶と比べて隠し部屋には違う所があった。
床が軋む音がした。
今この『蓬莱楼』に入ってくるもの好きは石川新右衛門しかおらず、半兵衛は息を整えて得物を持って構える。
隠し部屋の覗き穴から障子の開く音がすると、足音が止まる。
石川新右衛門は舘林藩剣術指南役を務める剣豪である。
まともに戦って勝てる相手ではない。
そして、半兵衛が隠し部屋の中で得物を持って構えているのも分かっていた。
勝負は一瞬。
石川新右衛門の刀が半兵衛に届くか、あるいは半兵衛の得物が先に新右衛門に届くか。
どちらにせよそれで勝敗は決まる。
緊張の糸が張りつめてゆく。
部屋の端で灯された灯篭に虫が焼かれる音がするが、それとは別に火縄が燃える音が漏れた。
一秒が十倍に延びたような錯覚すら覚えながら、半兵衛はその瞬間を待つ。
音よりも空気が跳ね、隠し部屋の板を石川新右衛門の刀が貫いた時、その勝敗は決まった。
墓桶と違う点。
それは、隠し部屋の奥に密偵用の隠し通路があり、石川新右衛門の刀から逃れる事ができる事。
石川新右衛門は貫いた板の穴から隠し部屋の手前でただ燃えている火縄と、『村正』を板越しに突き立てようとする半兵衛を見た。
それだけで十分だった。
板に当たる鈍い音から血と命が漏れる音がした。
「ははっ……見事なり」
「すまぬ。俺の腕ではどうしても新右衛門に勝つ手が浮かばなかった。
あんたが、侍として正々堂々とする事に賭けた」
「……これも戦よ。誇れ。雑賀半兵衛」
新右衛門は笑みを浮かべたまま崩れ落ち、隠し部屋から出た半兵衛が石川新右衛門を抱き上げる。
半兵衛は新右衛門の言葉を聞きながらも、半兵衛の目から涙がこぼれているのに気づいた。
「……泣く……奴が……あるか……お主は……勝ったのだぞ」
「ああ。俺は。俺は……新右衛門!」
半兵衛の悲痛な声に答えるように新右衛門の手が半兵衛の頬を撫でる。
師の元を去り独り立ちする弟子のように誇らしく。
子供をあやす親のように優しく。
新右衛門の手の動きは止まらずに、半兵衛に血まみれで微笑を浮かべる。
「……気にするな……これが侍というものだ……由井先生も…お前を……」
それが石川新右衛門の最期の言葉となった。
半兵衛は黙ったまま、その言葉を噛みしめるように目を閉じて、その手を強く握ると、そのまま静かに横たえる。
そして、部屋に置かれた書状を燃して、ゆっくりと立ち上がる。
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そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
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