リコリスの花

山木楪

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6月のある梅雨晴れの日のこと

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 「峻、いい加減起きて」
 「ん―……」
 「分かった、起きなくていいから離れて」
 「やっ!」
 「そこはハッキリ喋るのね」

 私の呼びかけは失敗し、さらに力強く抱きつかれるという失態を招いてしまった。
 今日は、土曜日。外は気持ちいいくらいに晴れている。
 まるで、私の家からようやく出ていく峻を祝っているかのように。
 そんなことを本人に言おうものならば、疲れ果てるまで大声で泣かれることは目に見えているので、思うだけでやめておく。
 それにしても、毎日こうして抱きつかれて寝ていたわけなのだが、こいつは飽きるということを知らないのだろうか。
 親に決められた、実現するかもわからない8歳年上の許嫁に、ここまで懐かれる理由が分からない。特にこれと言って何かをしてあげた覚えはない。気に入られるようなことをしていた記憶もない。
 なのに、毎日寝るたびにこうして抱きついてくる峻の意図が、私には全く理解できない。
 小学生の峻の就寝時間に合わせるため、バイトの方はここ一か月ほどバーに顔を出していない。
 下手をすると私が帰ってくるまで起きているのだから、早く帰ってこないわけにはいかないのだ。
 その分減ったバイト代は、東雲の家の方で出してもらえた。
 出してもらえたといっても、資産的に見れば微々たるものだ。こちらが何も言わなければ、3倍ほどの値を出してくるに違いない。自立した生活を送りたいのだといい、丁重にお断りしたが。
 壁に掛けられた無愛想な時計を見れば、午前8時になる頃だった。田中さんは確か、10時ごろに迎えに来ると言っていたっけ。
 昨日は最後の日だからと駄々をこね、峻は珍しく日付が変わる頃まで起きていた。
 そのせいで今、こんな状態になっているのだが、面倒くさいと思うより、そんな峻がかわいらしいと思う自分がいる。
 この一か月の間、同棲(と言うのは断固として認めたくないが、田中さんも峻も、挙句に明日香までもが口を揃えて言うものだから私が折れるしかなかった)をしてみて心底楽しいと思った。
 私と一緒にいるということだけで嬉しそうな峻が、私のやることなすことすべてに反応するのが面白かった。
 峻がさっさと宿題を終えてしまっても、私の課題は早々に終わるものばかりではなく、自然、パソコンに向き合っていたり、机にかじりついていたりする時間が長くなる。
 そうすると、うずうずしてくるのだ。
 かまってほしい、だけど晶さんの邪魔をしてはいけない、という葛藤が峻のなかでなされていたのだろう。
 パソコン越しにチラリと目線をあげて様子見をしたら、全身を身悶えさせながら耐えていた。我慢しきれずに笑ってしまったら、顔を真っ赤にして突進してきた。
 『僕のことを観察する暇はあるならここにいてもいいですよね?!』と勢いで胡座を書いていた膝の間に座られてしまった。
 普通は逆じゃないか、とか、パソコンの画面が見づらい、とか、煙草吸いに行きたい、とか色々思い浮かんだが結局その日はそのまま課題を仕上げた。
 料理をすれば、手伝いという名目で私の足の周りをちょろちょろするし、買い物に行けば必ずついてきて、手をつなぎながらカゴを持とうとした。
 重い買い物では流石にカゴは持てなかったが、好奇心旺盛な年頃のくせに、私と手をつないで片時も離れようとしなかった。
 スーパーのおば様方に『仲のいい兄弟ねぇ』と微笑ましげに言われた時は、ブスくれた顔をして小さな声で『……許嫁だもん』と言っていた。大声で騒ぎ立てることを私が嫌うため、大きな声では言わなかったのだろうが、それでも訂正はしたかったのだろう。繋いだ手に力を入れられたのは不覚にも胸がきゅんとしてしまった。
 学校に行くときはこの世の終わりのような顔をして家を出ていき、帰ってきたときは毎日毎日極上の笑顔で飛びついてきた。
 部屋の中では吸えないからと思い、ベランダで煙草を吸っている時でも、寂しそうにこちらを見ていた時は思わず苦笑してしまった。
 思い返してみれば、この一か月でずいぶんと峻が私の生活に入りこんできていた。
 みごとなまでに。
 峻が今日帰ってしまえば、きっと私は寂しく感じるのだろう。
 峻は泣くだろう。だけど、私も表に出さないだけで、きっと泣く。
 峻がいなくなってしまうことで、また1人で生活しなければならなくなる自分が、かわいそうで。
 一人きりで生活しなくてはいけない自分が、みじめで。
 人同士が身を寄せて眠る暑苦しさがなくなってしまう、虚しさで。
 自分のために、泣くのだろう。
 峻と離れることを悲しいと思うくせに、私は峻に対してどう思っているのかが、ものすごく曖昧だ。
 恋愛感情、ではない。
 大学2年の私が、8歳年下の、まだ男の子と呼ぶにふさわし年頃の峻に抱ける感情ではない。
 でもだからと言って、家族でも親戚でもない、仲のいい男の子、に留めておくのは嫌なのだ。
 きっと、これから先。
 峻が高校生になった時、彼は今では想像もできない程成長しているだろう。
 心も、体も。
 その時にはもしかしたら、私との婚約を破棄したいと言い出すかもしれない。好きな子が出来たり、自分の境遇に嫌気がさしたり。もしそうなったら、私は大人しく受け入れるつもりだ。
 だから、それまでは。
 無条件で懐かれて、すり寄られて、甘えられることに、溺れてみようかと思う。
 田中さんがくるまで、あと2時間。
 日の光を浴びて、小さな温もりを確かめながら、二度寝をするのも悪くない。


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