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第一章.死後の世界へ
§1.死後から始まるデスディニー7
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車内に広がるのはなんとも形容し難い空気。沈黙に浸る車内は、相変わらずなんの工夫も施されていないフルノーマル車をより一層つまらない空間にしていた。
太一はこの空気をどうにかして改善しようと思考を巡らすが、心に付いた傷がチリチリと痛み思うように頭が働かない。
(おもっくそ気にしてんじゃねーかよ……)
とはいえ、求めていた情報は手に入った。結果的に二人の間には見えない溝が出来てしまったが、これ以上家に留まる理由もない。太一は、未だよそよそしい態度を取る真由美に情報をリークし、とりあえず葬儀場への移動を促したのだった。
しかし、待っていたのは更なる地獄。家よりも遥かに狭く、密閉された車内は、真由美から醸し出されるどんよりとしたオーラをより鮮明に伝達する。
これだけでも胃痛を覚えてしまうのに、悲劇はまだ終わらない。太一が乗車の際に助手席側へ回ると、一足先に乗車を終えた真由美がそそくさと助手席にバッグを置いてしまったのだ。
堂々と置かれたバッグは異彩を放ち、これ以上の接近を禁じると言わんばかりに無言のプレッシャーを感じさせる。これには流石の太一も吐き気を覚え、涙目にならざるを得なかった。
沈黙は着々と車内を支配し、太一の体感時間を何百倍にも引き延ばす。せめてエンジンでも掛けてくれれば、この静まり返った空間に生活音が鳴り響き、幾分にもマシになると太一は切に願うのだが、当の運転手は地図と睨めっこ状態で、願いを叶えてくれそうにはない。
(な、なんかいわなきゃ……)
何度もそう思うのだが、掛けるべき言葉が見つからない。
単純な言い争いだったら良かったのだが、事が事なだけに下手な言い訳は墓穴を掘る可能性すらある。
そもそも真由美はなにも勘違いなどしておらず、彼女が見たものに嘘偽りは一切ない。むしろ、太一の脳内で構築していたものを根掘り葉掘り話せば、もはや修復不可能な事態にまで発展してしまうだろう。それを考えるとどうしても尻込みしてしまい、口を開くことさえ不安になってしまうのだった。
永遠にも感じられる時間は、太一に二度目の死さえも予感させる。だが、その障壁は意外なほどに脆く、ほんの些細な出来事で崩壊した。
沈黙を破ったのは真由美だった。どこかマヌケで、それでいて可愛らしい音が冷え切った空間を切り裂いく。
真由美の腹の虫が歌ったのだ。本人も気付いているようで、一瞬地図から顔を上げる。
太一は突然のチャンス到来に取り乱しそうになるが、全力で平然を取り繕い口を開く。
「あ、あれぇ~? もしかして、お腹減っちゃった系?」
再び車内を沈黙が包み込む。
とっさの出来事だったとはいえ、太一は自分の口から出たセリフの白々しさに絶望する。出来るだけライトな切り口で、微笑ましい痴話喧嘩のように他愛もない感じを狙ったのだが、その意図は見事に玉砕。真由美はビクッと体を震わただけで、そのまま俯いてしまった。
(や、やばい……なんかフォローを……)
太一は必死に脳内の辞書を参照するが、こういった場面に有効な言葉が見付からない。しかし、なにか言わなければ事態は最悪のまま終演を迎えてしまう。
果たして自分はその空気に耐えられるのか。ならばいっそのこと車を降りてしまおうか。そんな考えが頭を過る。
(よくよく考えたら、なんで俺はこんなに焦ってるんだ? そもそも向こうが勝手にだんまり決め込んでるだけじゃん。俺はただ好きな子のことを考えてただけだ! 他人につべこべいわれる筋合いはない!!)
思考はみるみるうちに大きくなり、行き場のなかった気持ちを怒りへと変えていく。怒りは心を震わせ、奮い立った心は行動意欲を駆り立てる。太一はゆっくりと座席から腰を上げた。
このまま車を降りれば、恐らく真由美は追い掛けてくるだろう。そして、真由美は自分の非礼を詫び、無事に仲直り。
真由美の仕事に対する真面目さを考えれば、成功率は決して低くないと思われる。汚いやり方ではあるが、今の太一にとって大切なのは結果であって、そこまでの工程など興味の範疇外。安全で効率的な作戦こそが全てなのだ。
一頻り作戦を展開した太一はニヒルな笑いらを浮かべ、ドアノブに手を掛ける。
このドアが開かれた瞬間が開戦の合図。その瞬間、真由美がどんな顔をするのか、それもまた一興だろう。
低劣な妄想に花を咲かせる太一は、変化前の真由美の顔を目に焼き付けようとバックミラーを覗き込んだ。
(どれどれ……人を変態扱いして無視しやがる顔は、さぞむすッとしてんだろうな~。さぁ、その顔が泣き顔に変わるまであとなん秒かね?)
しかし、真由美の表情は太一の予想に反したものだった。角度的に全てをカバー出来たわけではないが、斜めからでも分かるほどに顔を赤らめている。羞恥心から来るもので間違いはないのだろうが、今朝とは違まるで雰囲気が違う。なにかを我慢しているかのようにギュッと口を結び、両手は力いっぱい地図を握り締めている。まるで、餌の器を前に待てを命じられた犬のそれだ。
それに気付いた太一は、バックミラーから助手席に置かれたバックへと目線を移す。バッグ隙間からはギザギザにカットされたビニールの端が見える。瞬間、太一は全てを察した。
「お腹、減ったんでしょ?」
「……」
「バッグに入ってるパン、食べたいんでしょ?」
「……」
真由美は答えない。ひたすらに一点を見つめたまま、決してその姿勢を崩そうとはしない。
それでも太一は思い付く限りの言葉を絞り出し、真由美の素直な気持ちを探っていく。
「朝ごはん食べそこなっちゃった?」
「……」
「朝、眠そうだったもんね。寝坊しちゃった?」
「……」
沈黙を貫く真由美を余所に、太一の問い掛けは続く。
傍から見れば、ヘソを曲げた妹を宥める兄のように見えるかもしれない。
太一をここまで突き動かすもの。それは単なる興味なのかもしれない。しかし、なにか漠然とした感情が渦巻いているのも事実。真由美がなにに意固地になり、何故このような態度を取るのか。
もっといえば真由美がどんな子なのか、なにを思っているのか。それを感じ取りたい、共有したいという気持ちがあった。
結果的に考えていた作戦は未遂に終わった。事実、太一もその件について残念に思っている。それでも、今の状況を本気で楽しんでいるのもまた事実。
いつしか車内に渦巻いていた重い空気は薄れ、真由美の表情も少しずつ和らいでいく。やがて閉ざされていた小さな唇が震え出し、吐息のような声が漏れ出す。
「お腹……減りました……」
今にも消え入りそうな声で、頬を真っ赤に染めた少女は言葉を紡ぐ。か細くて、震えていて、聞き取りにくい声。しかし、それは太一が待ち望んでいたものに間違いはない。
真由美の声だ。
「バッグにパン入ってるんでしょ? 移動は後でいいから、先に食べちゃいなよ」
真由美はコクリと頷き、助手席に置かれたバッグへと手を伸ばした。半開きだったファスナーを最後まで開けると、透明なビニールに包装されたオールドファッションドーナツが二つ姿を現す。真由美はその一方を手に取り、体ごと後部座席へと向け、太一へとドーナツを差し出した。
「あ、あの……よかったら食べてください……」
「え? い、いや、いいよ。お腹減ったんでしょ? 自分で食べなよ」
「ううん。私は一つでいいです。そ、その……椎名さんはお腹減ってないんですか?」
「だ、大丈夫!!」
反射的に遠慮してしまう太一だったが、いわれてみれば不思議と空腹を感じてくる。
確かに、最後に摂った食事は昨日の朝食で、それを考えれば空腹感を覚えるのは当然といえる。事故に遭って以降一度も空腹を感じなかったことから、心の何処かで死人に食事は必要のないものだと思っていたが、どうやらその考えは間違っていたのだろう。
ドーナツを目にした辺りから、太一の腹の虫は思い出したかのように活動を再開する。
(つっても、一回断っちゃったしな……今更やっぱくれとはいえないよな……)
自分の浅はかな言動に後悔の念を抱きながらも、太一は空腹と戦うことを決意した。
しかし、真由美は一向に差し出した手を引っ込めない。視界にチラつくドーナツが太一の胃を刺激し、立てたばかりの誓いを早くも揺るがす。
これには太一の腹の虫も機嫌を悪くし、一斉に合唱を始めてしまった。
「あっ……」
車内に間抜けな音を響かせ、太一の表情はバツの悪いものへと変わっていく。なんとか取り繕おうと笑顔を作ってみるが、苦味は増すばかり。
そんな表情をされては、どんなに鈍い人間でも流石に気付いてしまう。真由美は体を乗り出し、無言でドーナツを太一の膝の上へと乗せると、なにもなかったかのように前へと向き直ってしまった。
「いただきます……」
さっきまで空気を掌握していた者とは思えない程に情けない声で、太一はドーナツを受け取ったのだった。
♦︎♦︎♦︎
死亡から葬儀までは三日ほど掛かるのが一般的だろう。遺体検分、事件への関連性、死亡診断書の発行と提出。特に今回のケースだと、死因が自殺の可能性を含む交通事故によるものだったために、警察の調査が念入りに行われた。
その間、同時進行で葬儀の手配や遺族への連絡を進めていく。
どれだけスムーズに進もうとも、準備が完了する頃には日付が変わることも珍しくはない。
葬儀場へと移動した太一たちを待っていたのは、めまぐるしく動き回る職員の姿だった。白と黒で彩られた会場へは次々に物が運びこまれていき、祭壇はこじんまりとした花で飾られていく。しかし、会場には見知った顔は一つもなく、太一はこの現状に唖然としてしまった。
「なんだよー、夕方からとか聞いてねーぞ!!」
「仕方ないですよ。今日はお通夜ですから……」
太一はてっきり今日が自分との最後の別れだと気いを入れていたのだが、とんだ勘違いをしていたようだ。生前に葬儀への参列経験はあるものの、地方に住む遠い親戚のものだったため、葬式に顔を出しただけで終了してしまった。
葬儀の流れはおろか、親戚の詳しい命日すら知らない。故に、まさか死亡から火葬までこれほど時間が掛かるものだと思いもしなかったのだ。
「夕方までどーすんだよー! ってか、そのいい回しだと、今日が葬式じゃないって知ってたよね?」
「え、ま、まぁ……」
「それ先にいえって!!」
呆れ果てた太一はホールの出口へと歩き出す。
それに引っ付くようにして真由美も太一の後を追い、二人はホールを後にした。
ロビーの隅に設置された休憩スペースへと移動した二人は、その場に腰を落とす。
本当はすぐ隣に置かれている柔らかそうなソファーに座りたかったのだが、油断するとすり抜けてしまうことから敢え無く断念。太一がまた変な声を出し、真由美と険悪なムードになるのを未然に防いだと思えば、この判断も間違っていないだろう。
「このまま夕方まで待機か……」
現在の時刻は午前十一時。対して、通夜の開式は午後六時からになっている。
なにかしていても充分すぎる時間だろうし、なにもせずに待機となれば地獄にも近い。霊体となった今、太一の手元にはスマートフォンや音楽プレーヤーといった暇つぶしに最適な道具は一切存在しない。唯一の救いは話し相手が居ることなのだろうが、真由美の対人スキルを考えると先が思いやられる。
太一にとって、たった一つの娯楽であるはずの会話はもはや風前の灯だろう。
「い、家に居るよりもエアコン効いてるんで、その……ここに居た方がいいと思いますっ!」
真由美なりに空気を察して気を使ってくれたのだろうが、そんな回答は求めていない。相変わらずのズレた思考に、太一からはつい深い溜息が漏れてしまう。
このままでは自分の身が持たないと感じた太一は、話題の転換を試みることにした。
「なんであんなに意地張ったの?」
「へ?」
「車ん中ですげぇー怒ってたでしょ?」
太一の努力もあって、なんとか緊迫した空気を打開できたのだが、よくよく考えてみると問題はなにも解決していない。変態呼ばわりされたままだ。
触らぬ神に祟りなしとはいうが、傷付いた名誉はしっかり修復しておかねばなるまい。
「お、怒ってなんていませんよ! た、ただ……」
「ただ?」
「あ、あのような場合どう対応すればいいのか……よく分からなくて……」
「つまり、気まずくてなに話せばいいか分かんなかったってこと?」
真由美は無言で頷く。
きっと彼女は異性に対する知識が無いのだろうと、同じく異性への経験に乏しい太一は納得する。そして、自分が彼女に男という生き物を教えてやらねばという変な使命感が湧き、再び口を開く。
「俺、変態じゃないからね」
「っ!?」
予想だにしなかった言葉を聞いて、真由美の顔は一気に蒼白する。勢いでいってしまったが、対象者に暴言を吐いたことに変わりはない。
研修でも対象者には親身に接するよう教えられていたし、そもそも死亡して間もない人間に取っていいような態度ではなかった。ただでさえ心に傷を負っているのに、それを更に傷付けるなど人としてあってはならない。万が一、真由美の言葉が引き金になり、なにか大きな事件にでもなっていれば非力な自分ではとても補えるものではなかっただろう。
幸い大事には至らなかったが、これを機に傷付けてしまったとについてはしっかり謝罪をしておくべきだろう。
「あ、あの、その……ご、ごめんなさいっ! わた、私、酷いことを言ってしまいました」
真由美は勢い良く立ち上がり、頭を下げる。深々と下げられた、綺麗な四十五度のお辞儀からは反省の念が見て取れる。
しかし、太一が望んでいるのは反省などではない。どれだけ反省しようとも、自分が変態だと思われたままでは全くの意味をなさない。真由美が抱く異性への固定概念を変えることが今回の目的なのだ。
「怒ってやしないから、頭を上げなよ」
少し間を置いて、真由美はゆっくりと頭を上げた。それに合わせて太一も立ち上がり、しっかりと目を合わせる。
結構な身長差があるため、真由美は上目遣いで太一を見つめる形になってしまう。その仕草に謎の罪悪感を覚えてしまう太一だったが、ここで引くほど彼は善人ではない。物事の優先順位を間違えない強さこそが、彼最大の武器なのだ。
「単刀直入に聞く。俺のことをどう思った? 怒らないから素直な気持ちを言ってみなさい」
「い、いや、あの……」
「正直、引いたんでしょ?」
「あ、はぅ……そ、そんなことは全然、ま、全く――」
一瞬、太一の醸し出す空気に飲まれそうになったが、真由美はなんとか気丈な自分を取り戻し言葉を返す。だが、それも肩に手を置かれてしまい、最後まで言い切ることが出来なかった。
軽く置かれたとはいえ、異性に触れられた経験などほぼ無い彼女にとってすれば驚異的体験に他ならない。知らずに俯いてしまった顔を無理やりに持ち上げると、そこには優しく微笑む太一の顔があった。
「みなまで言うな。君の気持ちもちゃんと理解している」
突然のボディタッチにすっかりペースを乱された真由美には、太一の笑顔の意味が全く理解できず、ただ呆然と目の前を見つめることしか出来なかった。
しかし、そんな真由美に構わず太一は言葉を続ける。
「確かに、君の思っている通り、男子という生物は下賤で野蛮で汚いのかもしれない……。だけど、我々は女子が思っている以上にピュアなハートを所持しているんだ」
「ぴ、ぴゅあ……?」
「そうさ。男の子はね、好きな子のためならいくらでも頑張れるんだよ!!」
その後も、太一の芝居じみた演説は続く。極力イヤらしい言葉を避け、極限まで美化し、少女趣味な単語を選んで言葉を紡いでいく。真実かと問われれば素直に頷けないし、実際問題そんなピュアな男子はいないだろう。
しかし、相手はあの真由美だ。見た目も然ることながら、そこらの女子小学生よりも遥かにピュアな心を持っている。同年代がフィクションと割り切ってしまうことでも、彼女のなら親身に受け入れてくれるだろう。
そんな太一の狙いが功を成し、真由美は怯えていた瞳をキラキラと輝かせ、話を聞いているではないか。
「男の子も一緒なんですね!!」
「あぁ。恋する気持ちはみんな一緒さ」
見事に洗脳された真由美は、興奮した面持ちで太一に尊敬の眼差しを向ける。
こうもあっさり心動かされる子が交渉を主とする仕事をしていていいのかという疑問は残るが、今は関係無い。太一は脳細胞をフル動員し、一気に畳み掛ける。
「俺だって同じさ……」
「あ、あの、椎名さん……?」
どこかノスタルジックに微笑む太一の顔は、真由美に心配の念を植え付ける。
温まっていた空気は急速に冷却され、物寂しい雰囲気を作り出していく。そして、新たに構築された空気は、太一の心に住まう闇をわざとらしく投影する。
「おっと、失言だったね」
「そ、そんな……」
「ちょっと、昔を思い出しただけだから気にしないでくれ」
昭和のトレンディードラマのように、わざとらしく俯き真由美を誘う。日常的にこんな態度を取ったら一瞬で友達を失いそうなものだが、今回のターゲットはそうではない。テレビの中と現実の境目が酷く曖昧な、お花畑的思考の持ち主なのだ。
「あ、あの……よかったら聞かせてください。わ、私で力になれることがあれば……その、お手伝いします」
――釣れた。
太一の脳裏にボーナス確定の文字が表示される。あとは三割増しで理恵への想いを語ればいいだけだ。余程のことがない限り、一度ハマったレールから脱線することはないだろう。
「俺にも好きな子がいてね――」
太一は語る。生前に胸を痛め続けた想いを包み隠さずに。
そして、理解していく。自分が生きていた世界にはもう戻れはしない。もう二度と想い人には触れられない。
言葉にすればするほどに痛みは振り返し、再び太一の胸を締め付ける。真由美を変えるための作戦のはずが、まさか自分が苦しむとは思いもしなかったろう。惨めな気持ちは心を支配し、太一から余裕を消し去っていく。
(あ、あれ……? やばい、なんか泣きそうなんだけど)
しかし、傷付いた太一に微かな温もりが訪れた。小さくて弱々しいが、確かに感じるそれは、太一の心を優しく撫でるように包み込む。
「酷いこといってごめんなさい。椎名さんは純情なんですね。辛かった分、必ず幸せもやってきます」
声が届き、我を取り戻した太一が目を落とすと、自分を優しく抱きしめる真由美の姿があった。慌て引き剥がそうか悩むが、体を包む心地良い温もりに迷いは溶けていく。次第に強張っていた体からは力が抜け、悲観的になっていた心は希望に包まれる。少女が与えてくれた一筋の光は、太一が見ない振りをしていた部分を優しく照らしてくれた。
やっと今、本当の意味で自分の死を受け入れられたのかもしれない。そして、それを乗り越える力もきっと――
「ありがとう……もう、大丈夫だと思う」
言葉と共に、太一は真由美をゆっくりと引き離していく。名残惜しさが無いと言えば嘘になるが、いつまでも立ち止まっているわけにもいかない。
今やるべきことは先に進むこと。そう決心した太一は、甘えた自分を振り払い、真由美に言葉を掛ける。
「本当にありがとう。俺、なんとか頑張ってみるよ」
太一の決意に、真由美は笑顔で答える。満開に咲き誇るヒマワリの様な笑顔に、思わず太一も顔を赤らめてしまう。
(こ、この子、やっぱり可愛いよな……)
そう思った瞬間、目に映る全てのものが色を変えていくのを太一は感じた。
体に残る柔らかい少女の感触。抱き締められた時に移ったのか、服からは優しい石鹸の香りがする。また、離れる時に真由美の両肩に置いた手は未だ離れてはおらず、少女の温もりを現在進行形で伝達し続けている。
(も、もっかい抱き締めちゃおうかな……)
突如、挙動不審になった太一に疑問を抱いたのか、真由美は首を傾げ、不思議そうな顔で太一を見つめている。しかし、その仕草が太一の思考を更に悪化させる。
「あ、あの……椎名さん?」
控えめに問いかける真由美。それと同時に、ちょこんと動く可愛らしいアヒル口。艶やかで、血色の良い唇。
太一は無意識に生唾を飲む。真由美がなにか喋る度に、太一の理性は音を立てて崩れていく。気付けば、太一は身を乗り出し、ゆっくりと真由美に顔を近付けていた。
「ちょっ! えっ、えっ? ししし椎名さんっ!?」
必死に声を上げる真由美だが、自分の世界に入り込んでしまった太一には届かない。
じわじわと接近する、柔らかそうな薄桃色。あと数センチ。
「ぐうぉぉあぅおっはっ!?」
太一に訪れたのは求めていた感触ではなく、腹からこみ上げてくる激痛。逆流してくる空気は嘔吐を誘い、その場に立っていることさえもままならず、太一は床に膝を付く。
激痛と共に戻ってきた意識を巡らせ状況の把握に勤しむと、右手を正面に突きつけた真由美の姿が目に入った。
「な、なるほど……げっほげっほ……見かけによらず高精度なパンチをお持ちで……げっほげっほ」
太一を襲った衝撃の正体は、真由美のパンチ。真由美の腕の高さと自分の身長を照らし合わせるに、おそらく彼女の繰り出したパンチは太一のみぞおちにジャストミートしたのだろう。
冷静に分析をする太一とは裏腹に、真由美は凄まじい形相で太一を睨みつける。その様子を見て、やっと自分の仕出かしたことの重大さに気付く。太一はなんとか痛みを抑え込み、立ち上がった。
「ち、違うんだこれは! そ、その誤解だ! やめろっそんな目で見ないでくれっ!!」
しかし、真由美からの突き刺さるような視線は一向に消えない。居ても立ってもいられなくなった太一は、状況を説明するべく真由美へと一歩近づく。
「こ、来ないでぇぇぇぇ変態ぃぃぃっ!!」
この瞬間、太一の抱いていた野望は見事に砕け散り、名誉はもはや修復不可能になほどボロボロになってしまったのだった。
太一はこの空気をどうにかして改善しようと思考を巡らすが、心に付いた傷がチリチリと痛み思うように頭が働かない。
(おもっくそ気にしてんじゃねーかよ……)
とはいえ、求めていた情報は手に入った。結果的に二人の間には見えない溝が出来てしまったが、これ以上家に留まる理由もない。太一は、未だよそよそしい態度を取る真由美に情報をリークし、とりあえず葬儀場への移動を促したのだった。
しかし、待っていたのは更なる地獄。家よりも遥かに狭く、密閉された車内は、真由美から醸し出されるどんよりとしたオーラをより鮮明に伝達する。
これだけでも胃痛を覚えてしまうのに、悲劇はまだ終わらない。太一が乗車の際に助手席側へ回ると、一足先に乗車を終えた真由美がそそくさと助手席にバッグを置いてしまったのだ。
堂々と置かれたバッグは異彩を放ち、これ以上の接近を禁じると言わんばかりに無言のプレッシャーを感じさせる。これには流石の太一も吐き気を覚え、涙目にならざるを得なかった。
沈黙は着々と車内を支配し、太一の体感時間を何百倍にも引き延ばす。せめてエンジンでも掛けてくれれば、この静まり返った空間に生活音が鳴り響き、幾分にもマシになると太一は切に願うのだが、当の運転手は地図と睨めっこ状態で、願いを叶えてくれそうにはない。
(な、なんかいわなきゃ……)
何度もそう思うのだが、掛けるべき言葉が見つからない。
単純な言い争いだったら良かったのだが、事が事なだけに下手な言い訳は墓穴を掘る可能性すらある。
そもそも真由美はなにも勘違いなどしておらず、彼女が見たものに嘘偽りは一切ない。むしろ、太一の脳内で構築していたものを根掘り葉掘り話せば、もはや修復不可能な事態にまで発展してしまうだろう。それを考えるとどうしても尻込みしてしまい、口を開くことさえ不安になってしまうのだった。
永遠にも感じられる時間は、太一に二度目の死さえも予感させる。だが、その障壁は意外なほどに脆く、ほんの些細な出来事で崩壊した。
沈黙を破ったのは真由美だった。どこかマヌケで、それでいて可愛らしい音が冷え切った空間を切り裂いく。
真由美の腹の虫が歌ったのだ。本人も気付いているようで、一瞬地図から顔を上げる。
太一は突然のチャンス到来に取り乱しそうになるが、全力で平然を取り繕い口を開く。
「あ、あれぇ~? もしかして、お腹減っちゃった系?」
再び車内を沈黙が包み込む。
とっさの出来事だったとはいえ、太一は自分の口から出たセリフの白々しさに絶望する。出来るだけライトな切り口で、微笑ましい痴話喧嘩のように他愛もない感じを狙ったのだが、その意図は見事に玉砕。真由美はビクッと体を震わただけで、そのまま俯いてしまった。
(や、やばい……なんかフォローを……)
太一は必死に脳内の辞書を参照するが、こういった場面に有効な言葉が見付からない。しかし、なにか言わなければ事態は最悪のまま終演を迎えてしまう。
果たして自分はその空気に耐えられるのか。ならばいっそのこと車を降りてしまおうか。そんな考えが頭を過る。
(よくよく考えたら、なんで俺はこんなに焦ってるんだ? そもそも向こうが勝手にだんまり決め込んでるだけじゃん。俺はただ好きな子のことを考えてただけだ! 他人につべこべいわれる筋合いはない!!)
思考はみるみるうちに大きくなり、行き場のなかった気持ちを怒りへと変えていく。怒りは心を震わせ、奮い立った心は行動意欲を駆り立てる。太一はゆっくりと座席から腰を上げた。
このまま車を降りれば、恐らく真由美は追い掛けてくるだろう。そして、真由美は自分の非礼を詫び、無事に仲直り。
真由美の仕事に対する真面目さを考えれば、成功率は決して低くないと思われる。汚いやり方ではあるが、今の太一にとって大切なのは結果であって、そこまでの工程など興味の範疇外。安全で効率的な作戦こそが全てなのだ。
一頻り作戦を展開した太一はニヒルな笑いらを浮かべ、ドアノブに手を掛ける。
このドアが開かれた瞬間が開戦の合図。その瞬間、真由美がどんな顔をするのか、それもまた一興だろう。
低劣な妄想に花を咲かせる太一は、変化前の真由美の顔を目に焼き付けようとバックミラーを覗き込んだ。
(どれどれ……人を変態扱いして無視しやがる顔は、さぞむすッとしてんだろうな~。さぁ、その顔が泣き顔に変わるまであとなん秒かね?)
しかし、真由美の表情は太一の予想に反したものだった。角度的に全てをカバー出来たわけではないが、斜めからでも分かるほどに顔を赤らめている。羞恥心から来るもので間違いはないのだろうが、今朝とは違まるで雰囲気が違う。なにかを我慢しているかのようにギュッと口を結び、両手は力いっぱい地図を握り締めている。まるで、餌の器を前に待てを命じられた犬のそれだ。
それに気付いた太一は、バックミラーから助手席に置かれたバックへと目線を移す。バッグ隙間からはギザギザにカットされたビニールの端が見える。瞬間、太一は全てを察した。
「お腹、減ったんでしょ?」
「……」
「バッグに入ってるパン、食べたいんでしょ?」
「……」
真由美は答えない。ひたすらに一点を見つめたまま、決してその姿勢を崩そうとはしない。
それでも太一は思い付く限りの言葉を絞り出し、真由美の素直な気持ちを探っていく。
「朝ごはん食べそこなっちゃった?」
「……」
「朝、眠そうだったもんね。寝坊しちゃった?」
「……」
沈黙を貫く真由美を余所に、太一の問い掛けは続く。
傍から見れば、ヘソを曲げた妹を宥める兄のように見えるかもしれない。
太一をここまで突き動かすもの。それは単なる興味なのかもしれない。しかし、なにか漠然とした感情が渦巻いているのも事実。真由美がなにに意固地になり、何故このような態度を取るのか。
もっといえば真由美がどんな子なのか、なにを思っているのか。それを感じ取りたい、共有したいという気持ちがあった。
結果的に考えていた作戦は未遂に終わった。事実、太一もその件について残念に思っている。それでも、今の状況を本気で楽しんでいるのもまた事実。
いつしか車内に渦巻いていた重い空気は薄れ、真由美の表情も少しずつ和らいでいく。やがて閉ざされていた小さな唇が震え出し、吐息のような声が漏れ出す。
「お腹……減りました……」
今にも消え入りそうな声で、頬を真っ赤に染めた少女は言葉を紡ぐ。か細くて、震えていて、聞き取りにくい声。しかし、それは太一が待ち望んでいたものに間違いはない。
真由美の声だ。
「バッグにパン入ってるんでしょ? 移動は後でいいから、先に食べちゃいなよ」
真由美はコクリと頷き、助手席に置かれたバッグへと手を伸ばした。半開きだったファスナーを最後まで開けると、透明なビニールに包装されたオールドファッションドーナツが二つ姿を現す。真由美はその一方を手に取り、体ごと後部座席へと向け、太一へとドーナツを差し出した。
「あ、あの……よかったら食べてください……」
「え? い、いや、いいよ。お腹減ったんでしょ? 自分で食べなよ」
「ううん。私は一つでいいです。そ、その……椎名さんはお腹減ってないんですか?」
「だ、大丈夫!!」
反射的に遠慮してしまう太一だったが、いわれてみれば不思議と空腹を感じてくる。
確かに、最後に摂った食事は昨日の朝食で、それを考えれば空腹感を覚えるのは当然といえる。事故に遭って以降一度も空腹を感じなかったことから、心の何処かで死人に食事は必要のないものだと思っていたが、どうやらその考えは間違っていたのだろう。
ドーナツを目にした辺りから、太一の腹の虫は思い出したかのように活動を再開する。
(つっても、一回断っちゃったしな……今更やっぱくれとはいえないよな……)
自分の浅はかな言動に後悔の念を抱きながらも、太一は空腹と戦うことを決意した。
しかし、真由美は一向に差し出した手を引っ込めない。視界にチラつくドーナツが太一の胃を刺激し、立てたばかりの誓いを早くも揺るがす。
これには太一の腹の虫も機嫌を悪くし、一斉に合唱を始めてしまった。
「あっ……」
車内に間抜けな音を響かせ、太一の表情はバツの悪いものへと変わっていく。なんとか取り繕おうと笑顔を作ってみるが、苦味は増すばかり。
そんな表情をされては、どんなに鈍い人間でも流石に気付いてしまう。真由美は体を乗り出し、無言でドーナツを太一の膝の上へと乗せると、なにもなかったかのように前へと向き直ってしまった。
「いただきます……」
さっきまで空気を掌握していた者とは思えない程に情けない声で、太一はドーナツを受け取ったのだった。
♦︎♦︎♦︎
死亡から葬儀までは三日ほど掛かるのが一般的だろう。遺体検分、事件への関連性、死亡診断書の発行と提出。特に今回のケースだと、死因が自殺の可能性を含む交通事故によるものだったために、警察の調査が念入りに行われた。
その間、同時進行で葬儀の手配や遺族への連絡を進めていく。
どれだけスムーズに進もうとも、準備が完了する頃には日付が変わることも珍しくはない。
葬儀場へと移動した太一たちを待っていたのは、めまぐるしく動き回る職員の姿だった。白と黒で彩られた会場へは次々に物が運びこまれていき、祭壇はこじんまりとした花で飾られていく。しかし、会場には見知った顔は一つもなく、太一はこの現状に唖然としてしまった。
「なんだよー、夕方からとか聞いてねーぞ!!」
「仕方ないですよ。今日はお通夜ですから……」
太一はてっきり今日が自分との最後の別れだと気いを入れていたのだが、とんだ勘違いをしていたようだ。生前に葬儀への参列経験はあるものの、地方に住む遠い親戚のものだったため、葬式に顔を出しただけで終了してしまった。
葬儀の流れはおろか、親戚の詳しい命日すら知らない。故に、まさか死亡から火葬までこれほど時間が掛かるものだと思いもしなかったのだ。
「夕方までどーすんだよー! ってか、そのいい回しだと、今日が葬式じゃないって知ってたよね?」
「え、ま、まぁ……」
「それ先にいえって!!」
呆れ果てた太一はホールの出口へと歩き出す。
それに引っ付くようにして真由美も太一の後を追い、二人はホールを後にした。
ロビーの隅に設置された休憩スペースへと移動した二人は、その場に腰を落とす。
本当はすぐ隣に置かれている柔らかそうなソファーに座りたかったのだが、油断するとすり抜けてしまうことから敢え無く断念。太一がまた変な声を出し、真由美と険悪なムードになるのを未然に防いだと思えば、この判断も間違っていないだろう。
「このまま夕方まで待機か……」
現在の時刻は午前十一時。対して、通夜の開式は午後六時からになっている。
なにかしていても充分すぎる時間だろうし、なにもせずに待機となれば地獄にも近い。霊体となった今、太一の手元にはスマートフォンや音楽プレーヤーといった暇つぶしに最適な道具は一切存在しない。唯一の救いは話し相手が居ることなのだろうが、真由美の対人スキルを考えると先が思いやられる。
太一にとって、たった一つの娯楽であるはずの会話はもはや風前の灯だろう。
「い、家に居るよりもエアコン効いてるんで、その……ここに居た方がいいと思いますっ!」
真由美なりに空気を察して気を使ってくれたのだろうが、そんな回答は求めていない。相変わらずのズレた思考に、太一からはつい深い溜息が漏れてしまう。
このままでは自分の身が持たないと感じた太一は、話題の転換を試みることにした。
「なんであんなに意地張ったの?」
「へ?」
「車ん中ですげぇー怒ってたでしょ?」
太一の努力もあって、なんとか緊迫した空気を打開できたのだが、よくよく考えてみると問題はなにも解決していない。変態呼ばわりされたままだ。
触らぬ神に祟りなしとはいうが、傷付いた名誉はしっかり修復しておかねばなるまい。
「お、怒ってなんていませんよ! た、ただ……」
「ただ?」
「あ、あのような場合どう対応すればいいのか……よく分からなくて……」
「つまり、気まずくてなに話せばいいか分かんなかったってこと?」
真由美は無言で頷く。
きっと彼女は異性に対する知識が無いのだろうと、同じく異性への経験に乏しい太一は納得する。そして、自分が彼女に男という生き物を教えてやらねばという変な使命感が湧き、再び口を開く。
「俺、変態じゃないからね」
「っ!?」
予想だにしなかった言葉を聞いて、真由美の顔は一気に蒼白する。勢いでいってしまったが、対象者に暴言を吐いたことに変わりはない。
研修でも対象者には親身に接するよう教えられていたし、そもそも死亡して間もない人間に取っていいような態度ではなかった。ただでさえ心に傷を負っているのに、それを更に傷付けるなど人としてあってはならない。万が一、真由美の言葉が引き金になり、なにか大きな事件にでもなっていれば非力な自分ではとても補えるものではなかっただろう。
幸い大事には至らなかったが、これを機に傷付けてしまったとについてはしっかり謝罪をしておくべきだろう。
「あ、あの、その……ご、ごめんなさいっ! わた、私、酷いことを言ってしまいました」
真由美は勢い良く立ち上がり、頭を下げる。深々と下げられた、綺麗な四十五度のお辞儀からは反省の念が見て取れる。
しかし、太一が望んでいるのは反省などではない。どれだけ反省しようとも、自分が変態だと思われたままでは全くの意味をなさない。真由美が抱く異性への固定概念を変えることが今回の目的なのだ。
「怒ってやしないから、頭を上げなよ」
少し間を置いて、真由美はゆっくりと頭を上げた。それに合わせて太一も立ち上がり、しっかりと目を合わせる。
結構な身長差があるため、真由美は上目遣いで太一を見つめる形になってしまう。その仕草に謎の罪悪感を覚えてしまう太一だったが、ここで引くほど彼は善人ではない。物事の優先順位を間違えない強さこそが、彼最大の武器なのだ。
「単刀直入に聞く。俺のことをどう思った? 怒らないから素直な気持ちを言ってみなさい」
「い、いや、あの……」
「正直、引いたんでしょ?」
「あ、はぅ……そ、そんなことは全然、ま、全く――」
一瞬、太一の醸し出す空気に飲まれそうになったが、真由美はなんとか気丈な自分を取り戻し言葉を返す。だが、それも肩に手を置かれてしまい、最後まで言い切ることが出来なかった。
軽く置かれたとはいえ、異性に触れられた経験などほぼ無い彼女にとってすれば驚異的体験に他ならない。知らずに俯いてしまった顔を無理やりに持ち上げると、そこには優しく微笑む太一の顔があった。
「みなまで言うな。君の気持ちもちゃんと理解している」
突然のボディタッチにすっかりペースを乱された真由美には、太一の笑顔の意味が全く理解できず、ただ呆然と目の前を見つめることしか出来なかった。
しかし、そんな真由美に構わず太一は言葉を続ける。
「確かに、君の思っている通り、男子という生物は下賤で野蛮で汚いのかもしれない……。だけど、我々は女子が思っている以上にピュアなハートを所持しているんだ」
「ぴ、ぴゅあ……?」
「そうさ。男の子はね、好きな子のためならいくらでも頑張れるんだよ!!」
その後も、太一の芝居じみた演説は続く。極力イヤらしい言葉を避け、極限まで美化し、少女趣味な単語を選んで言葉を紡いでいく。真実かと問われれば素直に頷けないし、実際問題そんなピュアな男子はいないだろう。
しかし、相手はあの真由美だ。見た目も然ることながら、そこらの女子小学生よりも遥かにピュアな心を持っている。同年代がフィクションと割り切ってしまうことでも、彼女のなら親身に受け入れてくれるだろう。
そんな太一の狙いが功を成し、真由美は怯えていた瞳をキラキラと輝かせ、話を聞いているではないか。
「男の子も一緒なんですね!!」
「あぁ。恋する気持ちはみんな一緒さ」
見事に洗脳された真由美は、興奮した面持ちで太一に尊敬の眼差しを向ける。
こうもあっさり心動かされる子が交渉を主とする仕事をしていていいのかという疑問は残るが、今は関係無い。太一は脳細胞をフル動員し、一気に畳み掛ける。
「俺だって同じさ……」
「あ、あの、椎名さん……?」
どこかノスタルジックに微笑む太一の顔は、真由美に心配の念を植え付ける。
温まっていた空気は急速に冷却され、物寂しい雰囲気を作り出していく。そして、新たに構築された空気は、太一の心に住まう闇をわざとらしく投影する。
「おっと、失言だったね」
「そ、そんな……」
「ちょっと、昔を思い出しただけだから気にしないでくれ」
昭和のトレンディードラマのように、わざとらしく俯き真由美を誘う。日常的にこんな態度を取ったら一瞬で友達を失いそうなものだが、今回のターゲットはそうではない。テレビの中と現実の境目が酷く曖昧な、お花畑的思考の持ち主なのだ。
「あ、あの……よかったら聞かせてください。わ、私で力になれることがあれば……その、お手伝いします」
――釣れた。
太一の脳裏にボーナス確定の文字が表示される。あとは三割増しで理恵への想いを語ればいいだけだ。余程のことがない限り、一度ハマったレールから脱線することはないだろう。
「俺にも好きな子がいてね――」
太一は語る。生前に胸を痛め続けた想いを包み隠さずに。
そして、理解していく。自分が生きていた世界にはもう戻れはしない。もう二度と想い人には触れられない。
言葉にすればするほどに痛みは振り返し、再び太一の胸を締め付ける。真由美を変えるための作戦のはずが、まさか自分が苦しむとは思いもしなかったろう。惨めな気持ちは心を支配し、太一から余裕を消し去っていく。
(あ、あれ……? やばい、なんか泣きそうなんだけど)
しかし、傷付いた太一に微かな温もりが訪れた。小さくて弱々しいが、確かに感じるそれは、太一の心を優しく撫でるように包み込む。
「酷いこといってごめんなさい。椎名さんは純情なんですね。辛かった分、必ず幸せもやってきます」
声が届き、我を取り戻した太一が目を落とすと、自分を優しく抱きしめる真由美の姿があった。慌て引き剥がそうか悩むが、体を包む心地良い温もりに迷いは溶けていく。次第に強張っていた体からは力が抜け、悲観的になっていた心は希望に包まれる。少女が与えてくれた一筋の光は、太一が見ない振りをしていた部分を優しく照らしてくれた。
やっと今、本当の意味で自分の死を受け入れられたのかもしれない。そして、それを乗り越える力もきっと――
「ありがとう……もう、大丈夫だと思う」
言葉と共に、太一は真由美をゆっくりと引き離していく。名残惜しさが無いと言えば嘘になるが、いつまでも立ち止まっているわけにもいかない。
今やるべきことは先に進むこと。そう決心した太一は、甘えた自分を振り払い、真由美に言葉を掛ける。
「本当にありがとう。俺、なんとか頑張ってみるよ」
太一の決意に、真由美は笑顔で答える。満開に咲き誇るヒマワリの様な笑顔に、思わず太一も顔を赤らめてしまう。
(こ、この子、やっぱり可愛いよな……)
そう思った瞬間、目に映る全てのものが色を変えていくのを太一は感じた。
体に残る柔らかい少女の感触。抱き締められた時に移ったのか、服からは優しい石鹸の香りがする。また、離れる時に真由美の両肩に置いた手は未だ離れてはおらず、少女の温もりを現在進行形で伝達し続けている。
(も、もっかい抱き締めちゃおうかな……)
突如、挙動不審になった太一に疑問を抱いたのか、真由美は首を傾げ、不思議そうな顔で太一を見つめている。しかし、その仕草が太一の思考を更に悪化させる。
「あ、あの……椎名さん?」
控えめに問いかける真由美。それと同時に、ちょこんと動く可愛らしいアヒル口。艶やかで、血色の良い唇。
太一は無意識に生唾を飲む。真由美がなにか喋る度に、太一の理性は音を立てて崩れていく。気付けば、太一は身を乗り出し、ゆっくりと真由美に顔を近付けていた。
「ちょっ! えっ、えっ? ししし椎名さんっ!?」
必死に声を上げる真由美だが、自分の世界に入り込んでしまった太一には届かない。
じわじわと接近する、柔らかそうな薄桃色。あと数センチ。
「ぐうぉぉあぅおっはっ!?」
太一に訪れたのは求めていた感触ではなく、腹からこみ上げてくる激痛。逆流してくる空気は嘔吐を誘い、その場に立っていることさえもままならず、太一は床に膝を付く。
激痛と共に戻ってきた意識を巡らせ状況の把握に勤しむと、右手を正面に突きつけた真由美の姿が目に入った。
「な、なるほど……げっほげっほ……見かけによらず高精度なパンチをお持ちで……げっほげっほ」
太一を襲った衝撃の正体は、真由美のパンチ。真由美の腕の高さと自分の身長を照らし合わせるに、おそらく彼女の繰り出したパンチは太一のみぞおちにジャストミートしたのだろう。
冷静に分析をする太一とは裏腹に、真由美は凄まじい形相で太一を睨みつける。その様子を見て、やっと自分の仕出かしたことの重大さに気付く。太一はなんとか痛みを抑え込み、立ち上がった。
「ち、違うんだこれは! そ、その誤解だ! やめろっそんな目で見ないでくれっ!!」
しかし、真由美からの突き刺さるような視線は一向に消えない。居ても立ってもいられなくなった太一は、状況を説明するべく真由美へと一歩近づく。
「こ、来ないでぇぇぇぇ変態ぃぃぃっ!!」
この瞬間、太一の抱いていた野望は見事に砕け散り、名誉はもはや修復不可能になほどボロボロになってしまったのだった。
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