アマツバメ

夜野トバリ

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9.驟雨(しゅうう)

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 夜間徘徊していたことは母親にはバレずに済み、おとがめを受けることなかった。代わりに睡眠不足で頭が終始痛くて、睡魔と闘いながら体を引きずって登校した。教室に入るなり、昨晩の火災の話題があちこちで展開されていた。放火したのは納屋を借りていた人や、世の中に憤りを感じた不良が気晴らしに放火した等、様々なゴシップが教室内で飛び交っていた。ホームルームでも先生から火災の説明があったけれど、やっぱり詳細は不明だった。「まさか、興味本位で現場に見に行った奴はいないだろうな?」と摘発を受け、ヒヤリとする場面もあった。結局名乗り出る生徒は一人もおらず、しぶしぶ先生はホームルームを切り上げた。
 そんな中、話題に真っ先に食いつきそうな浩人は机に頬杖を突き、珍しく渋面を作っていた。朝一の授業は化学実験で、別棟の理科室に移らなければならないのに彼は身動きしようとせず、ひたすら何かを考え込んでいるようだった。
「おい、どうしたんだ?」
 浩人に近づいて声をかけてみるも、彼は微動だにしなかった。
「早くしないと遅れるぞ」
「……分かってる」
 けだるそうに浩人は呟いた。
「……何かあったのか?」
 注意を研ぎ澄ましながら僕は訊ねた。「別に」と気のない返事をするなり、乱暴に教材を机の中から取り出して立ち上がった。普段ならジョークの一本くらい挟んでくるはずなのに、彼の表情はどこか固かった。
 僕と浩人との間にできた溝は未だに埋まっていなかった。完全にお互いが隔離されたわけではないにしろ、計れない彼との距離感に僕はけっこうまいっていた。会話の中にも以前あった弾みはなく、退屈なものへと変わっていた。ケンカだったらすぐ笑って仲直りできるはずなのに、時間でさえも上手く解決してくれずにいた。
 浩人と一緒に教室を出て別棟に繋がる渡り廊下へと向かう。天候は良好で、窓からは眩しい日光とセミの鳴き声が差していた。海が近いとはいえ、熱気がこもる時は冬が恋しくなるくらいだった。
 渡り廊下に差し掛かったところで、急に浩人が歩調を緩めた。ちょうど向かい側からツバメが歩いてきていた。登校してきたばかりなのか、肩からはバックを提げ、左手にはご愛好の日傘を携えていた。睡眠時間は僕と大して変わらないはずなのに、彼女は涼しげな顔でしっかりとした足取りで廊下の右側を歩いていた。
 ツバメはこちらに気づくと一瞬だけ目配せして、そのまま通り過ぎようとした。
 その時、
「待てよ」
 突然、浩人が立ち止まりツバメを呼び止めた。僕もつられて立ち止まり、振り返って彼女を見やる。ツバメは前を向いたままだったけれど声だけは届いたらしく、静かに歩を止めた。
「何?」
 振り向きざまに素っ気なくツバメは言った。
「夜中に起こったあの火事。小山内、もしかしてお前が放火犯なんじゃないのか?」
 冷たく浩人が言うなり、眠気に押されて靄がかかっていた僕の意識が、一気にクリアになった。
 放火犯?
 ツバメが?
「おい、それどういう……」
「どうなんだよ?」
 僕の問いかけを気にもかけず浩人はツバメに訊ねた。
 するとツバメはゆっくりと振り返り、浩人を冷ややかな視線で捉えた。
「どうしてそんなこと訊くの?」
「見たんだよ。俺、昨日お前が現場に来てるのを」
 浩人の言い分から、昨日彼も現場に来ていたということがすぐ理解できた。幸い僕は見つからなかったのか、それとも見過ごされているだけなのか、この時点では分からなかった。
「そう」
 ツバメは否定せず軽やかに受け流した。
「何で昨日現場にいたんだ?」
「興味があったから」あっさりとツバメは述べた。「でも現場に居たっていう理由で犯人扱いされるのは納得いかない。それなら、あなたも犯人候補に挙がるんじゃないの?」
 好戦的に言い放つツバメに対し、浩人の顔が徐々に歪んでいった。
「ふざけんなよ」仄かに声を震わせて浩人が言う。「確かに俺も興味本意で見に行ったよ。火の勢いはどうだとか、どこが燃えてるとか色々知りたかったからな。けどお前の場合はリスクがでかすぎるだろ? 一つ目でバランスが取りづらくて夜道は危ないくせに、よく一人で見に行こうと思ったな」
 一つ目?
 僕は反射的にツバメを見やった。ちゃんと僕らと同じように彼女の眼は二つ揃っている。前に洗浄綿を付けた眼帯を右目に付けていたこともあったけれど、見る限りおかしな点はどこにも見あたらない。
 でもその一言に、ツバメの瞳は大きく見開らかれていた。日傘を胸元に引き寄せ、ツバメは口を半開きにしたままじりじりと後ずさった。さっきまでの余裕は表情から完全に消え失せている。
 ふと辺りを見やると騒ぎを聞きつけ小規模なギャラリーが形成されていた。ツバメの後方には不安そうに見守る月森の姿もあった。
「ちょっと待て浩人」展開についていけず、思わず僕は二人の間に割って入った。「一つ目ってどういうことだよ?」
 浩人はちらりとこちらを見やり、再びツバメに視線を戻した。
「こいつ、右目が見えてないんだよ」
 顎でツバメをしゃくりながら浩人は言った。
  ツバメは眉間に縦皺を寄せ、険しい面持ちで浩人を睨んでいる。
「右目が見えてないって……」
「片方の目が見えないから、遠近感覚とバランス感覚が上手く取れない。だからいっつも体育は見学するんだろ? そんなんで激しく体を動かしたらケガするのがオチだからな」
 根拠ならまだある、と浩人は続けた。
「右側がいつも死角になるから、歩くときは絶対右側が壁側になるよう歩いてる。それに、階段を上り下りするのもいちいち気を遣ってる。それに教科書もだ」
「教科書?」僕は訊ねた。
「普通の教科書じゃなくて、文字が大きい弱視生徒用の教科書使ってるんだよ。だから教科書の貸し借り拒否してるんだろ、違うかよ雨女?」
 ツバメは、右目が見えていない。
 浩人の言葉を踏まえて、頭の中を整理した。
 右側を歩いていた廊下。
 眼帯が付けられた右目。
 二つとも、そのことを踏まえて考えれば納得のいくような気がした。初めて会ったあの雨の日、至近距離だったのにも関わらずクラッカーを落とした理由も、遠近感覚が関わっていたとすれば説明がつく。いくら懐中電灯があるとはいえ、嫌でも暗がりが目立つ夜は足下がおぼつかなくなる。
 そんな負荷を抱えてまで外出したのは、ただ単に現場を見たいという衝動よりも、もっと重要な目的があったから。浩人は、その点を指摘しているようだった。
 でも右目が見えていないことが本当なら、何故そのことをツバメはひた隠しに隠していたのか分からなかった。
「……違う」
 低く、震える声でツバメが言った。
「私は、一つ目なんかじゃない」
「ウソつけ」鋭く言い切り、浩人はツバメに歩み寄る。「だったらその鞄に入ってる手帳を……」
「突っかかってこないでよっ!」
 浩人が言い終える前に、絹を裂くようなツバメの叫びが辺り一体に響いた。同時にツバメは持っていた日傘で力任せに浩人を叩いた。日傘は浩人の右肩に直撃した。
 とっさのことに浩人は反撃できず、右肩を押さえながらツバメを呆然と見やっていた。
「何よ……」息を切らしながらツバメが呟いた。「私にフラれたことが、そんなに悔しいわけ?」
 ツバメは力任せに怒鳴った。 
「さんざん人に好意寄せといて手のひら返すなんて、逆恨みもいい加減にしてよっ!」
 ざわめきが、より一層大きくなった。
 それを聞くなり、浩人の表情がみるみるうちに豹変していった。怒りや恨みが混じったどす黒いものだった。ずっとつるんできた僕でさえ、そんな表情は今まで一度も見たことがなかった。
 気づいたときには、浩人はツバメに殴りかかっていた。それをツバメは細い華奢な体で、日傘一本で受け止めていた。
 野球部で鍛えている浩人。
 陽を嫌い外出を控えているツバメ。
 力の差は歴然だった。
 甲高い女子の悲鳴が上がるなり、僕は彼を後ろから羽交い締めしようと飛びついた。けれど感情に呑まれて暴走した彼の力は強く、一瞬で振りほどかれて僕は反動で尻餅を付いた。
 その間に悲鳴がいくつも上がった。
 顔を上げる。
 ツバメ目がけて振り降ろされる浩人の拳。
 生まれては消えていく鈍い音。
 視界の中で、ツバメが揺れていた。
「浩人っ!」
 渾身の力で浩人に飛びかかる。そこに職員室から騒動を聞きつけたのか体育顧問の先生が僕の加勢に入り、ようやく浩人をツバメから引き離した。
 ツバメは仰向けの形で床にぐったりと倒れていて、僅かに胸が上下していた。日傘で上手く拳をガードしていたのか、見る限りひどいケガは負っていないようだった。
「小山内さんっ」
 泣きだしてしまいそうな声を上げながら月森がツバメの側に駆け寄った。彼女が声を二言ほどかけるとツバメはよろけながら立ち上がり、落ちていた鞄をおもむろに拾い上げた。
 ツバメが、ゆっくりとこちらを振り返った。
 うっすらと瞳に赤みが差し、目尻に透明なものが浮かび上がっていた。それが流れ星みたいに、悲しく頬を伝っていった。
 息を呑んだ。
 背中に、怖気が走った。
 ツバメは何事もなかったかのように膝元を払い、体を引きづりながら歩き出した。すぐさま月森が彼女を支えてサポートに入り、一緒に保健室に行くよう促した。でもツバメはそれさえも煙たがり、首を横に振って拒否していた。
 彼女たちの姿が遠ざかるなり、先生が浩人を乱暴に立ち上がらせた。我に還ったのか浩人の顔からは攻撃的な色がなくなり、肩を小刻みに振るわせていた。先生が腕を引っ張ると浩人は抵抗せずにそれ従い、一緒に去っていった。
 僕はしばらく動けず、辺りを見渡した。ギャラリーは疎らに散り始めていて、二人が取っ組み合った所にボロボロになった日傘だけ残されていた。傘の骨は一つ残らず折れ曲がっていて、生地もところどころ破れていた。
 視界の隅が一瞬光った。
 窓から外を見やると、空一帯を膨れあがった入道雲が埋め尽くしていた。それから稲光と雷鳴が数回激しくなり、やがて滝のような雨が乱暴に降り始め、窓から見える景色を雨粒がすべてシャットアウトした。急な悪天候に、生徒がいっせいにどよめいた。
 ――でも感情がこもってたり、昂ぶっていた方が、より強い雨を降らせられるかな。
 ツバメが前に言っていたことを思い出す。これが彼女の感情により引き起こされていたものだとしたら、相当なものだ。
 そんな目の前に広がる景色が何かのシーンと被った。
 瞬間、フラッシュで焚いたかのようにいくつかのシーンが頭の中で激しくちらついてフラッシュバックした。
 雨。
 雨。
 雨。
 見渡す限りの雨。
 僕はそれがいつだったか覚えていた。 
 無理矢理かぶりを振り、僕は立ち上がって理科室へと向かった。
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