アマツバメ

明野空

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15.雨燕(あまつばめ)

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 非常警報設備のボタンを押すことに、僕はまったくといっていいほど罪悪感を感じなかった。それは幼い頃から仕込まれたイタズラ心のせいもあったし、何よりツバメの頼みという点が大きく作用していたからだと思う。
 一階の入り口付近にあるボタンを押すとけたたましいベルの音が病院全体に響き渡り、患者と看護師問わず皆軽いパニック状態になっていた。火災と勘違いして火の元を探す人、我先に逃げ出す人と様々だった。
 僕はそれをよそ目に屋上へと続く階段を急いで駆け上がっていった。上の階から駆け下りてくる看護師さんをものともせず、僕はステップよく上を目指した。
 屋上へ着いた時には息が切れ、体中が汗ばんでいた。解放されている扉をくぐると、一気に視界が開けた。屋上にはささやかな庭園が設けられていて、僅かな緑や花々が殺風景な屋上を彩っていた。洗濯竿には白いシーツがいくつもかけられていて、吹き抜ける風が愉快そうに揺らしていた。視線を上げると町の景色を一望に収めることができた。住宅街から水平線まで続いている海岸まで見渡せた。
 町を眺めた後、周囲を見渡して彼女を見つけた。屋上の一角に設けられている長椅子に松葉杖を携えて腰掛けていた。日光に当たってはいけないはずなのに、彼女はまるでひなたごっこするみたいに陽を一身に浴びていた。
「浩人と月森は?」
 近寄りながら声をかける。
 セミロングの黒髪が揺れ、ツバメが振り返る。
「近くのコンビニで飲み物を買ってきてもらってる。月森さんが買ってきた和菓子、あれだけだと喉渇くから。途中で会わなかった?」
「いや……」
 二人とも別階段を使ったのか、すれ違うことはなかった。警報ベルによる騒動という不安材料もあったけれど、浩人がついているなら大丈夫のはずだ。
「上手くいったね、まさかこんなに効き目があるとは思わなかった」
 笑いを含みながらツバメは言った。
「おかげで下はパニック状態だ」
「でしょうね」
「発覚したらただじゃすなまいぞ」
 母親が鬼のような形相で迫ってくる光景が目に浮かんだ。
「ごめんなさい、けどこれしか方法が思いつかなかったから。屋上に行きたいって、素直に看護師さんが許してくれるとは思わなかったし」
 そう言いながら、彼女が左腕をむしょうに掻いているのが目にとまった。白い肌が赤々と腫れ上がっている。
「……大丈夫なのか?」
「いいの、久々に陽に当たってみたかったから」
 あからさまな強がりだった。
「日向野君と月森さんもは早く帰ってこないと思う。父も病院に来るのは仕事が終わってからだから……」
 僕はそれを聞くなりはっとなった。看護師さんを巻くためにツバメは僕を一階まで行かせたのだと思っていた。でも実際それはおまけ程度の役割だったのだ。一人では上手く歩けない自分に月森と浩人をわざと同行させ、人目がない屋上へ上がったところで「飲み物が飲みたい」とお願いをして、自販機がある病院からあえてコンビニへと誘導する。そうすれば役目を終えた僕は自然と屋上に上がってきて、何不自由なく二人だけの状況を作れるというわけだ。ツバメにしてはやけに手の込んだ作戦だ。
 でも言い返してみれば、それは彼女自身の決意の表れとも受け取れた。
 少し潤んだ彼女の左目が上目遣いに、僕と青空を映していた。今にも吸い込まれそうなくらい、綺麗に澄んだ瞳だった。
「病院で目が覚めた時に決めたの。あの時自暴自棄になってこんな足になっちゃったけど……」
 すっと瞳を閉じ、そして強く見開いた。
「私は、あなたに助けられた。そんな気がする。大げさかもしれないけど、この世界に繋ぎ止めてくれたっていうか……上手く言えないけど、でも私は、私が知ってる事実を包み隠さず、全部話そうって決めたの。あなたに」
 僕は、ツバメの覚悟を無言で受け止めた。
「痛み分けって思うかもしれないけど誤解しないで、私ここで逃げたら……もうどこにも着地できないと思うから」
 青空を仰ぎ、ツバメが大きく息を吸った。
 それに合わせるかのように、そよ風が僕らの間を縫い合わせながら吹き抜けた。
 干してあるシーツがばたばたとはためく。
 庭園の草花が気持ちよさそうに揺れた。
「……逃げるなら今のうちよ?」
 ツバメが冗談めかしにほくそ笑んだ。
 表情は、少し強ばっていた。

「父さんは大学を卒業してから銀行に勤めだして、そこから二、三年の間隔で各地を点々としていってたの。母さんとは赴任先のとある町で出会った」
「場所は聞いてないのか?」
「聞いてない。気恥ずかしいんでしょ」
 僕は長椅子に座り、彼女の隣で耳を傾けながら庭園を眺めていた。
「出会うなり交際を始めてね、二年で入籍することになったんだけど、互いの両親から猛反発を受けたみたいなの。子どもの私に遠慮して父さんは理由を言ってくれないけど、結局二人は反対を押し切って駆け落ちして……」
「駆け落ち?」
 僕は思わず声を上げた。あの仏像似の人がそんな大胆なことをするなんて。
「本当かどうかは分かんないけどね」
 ツバメはそこで保険の予防線を張った。
「二人とも負い目は感じていたらしいけれど、すぐ他県に移ることになったから、その点では転勤が上手いこと働いてくれた。でも転勤に不慣れな母さんは見ず知らずの土地に馴染むことができなくて、ふせぎこむことが多かったみたい」
 誰だって体験のないことに最初は戸惑いを覚える。けれどツバメの母親がふせぎこむ原因は土地だけではなかったはずだ。人間関係、私生活。不安材料は叩けばいくらでも出たはずだろう。
「それにね、二人の間にはなかなか子どもができなかったの」そう言い、ツバメはうつむき加減になる。「同じ時期に色々重なって、落ち込んでた母さんを父さんは必死に励ましてたみたい。そして新しい赴任先に移住して二年経って、母さんは私を身籠ることができたの。バカみたいに喜んでたって、父さんいつも言ってて……」
 そこでツバメは少し間を空けた。
「私は、それで無事に生まれた。でも生まれた時に大きい病気を持っててね、すぐ緊急の手術が施されたの。手術は無事成功したけど、代わりに私はアレルギーを患う形になった」
 ツバメが静かに自分の左手の手のひらを見やった。深く爪を食い込ませた生々しい跡が残っている。
「この、不思議な力と一緒にね」
「それって、生まれてからすぐ発覚したのか?」
「ううん、生まれてかなり経ってから」手のひらをぎゅっと握る。「普通の子とは違う二つの性質を両親がやっと認識するようになってから、だんだん世界が狂ってきたの」
 傍らで僕は息を呑んだ。
「初めはやっぱり確信が持てなかったみたい。泣くと雨を降らせることや、陽にあたると炎症を起こすこともね。それでようやくアトピー性皮膚炎だと分かって、両親は医師に相談してステロイド外用剤を私に服用するようになった」
「ステロイド外用剤?」
「簡単に言ってしまえば日焼け止めみたいなもの。せめて外出くらいはできるようにって。でも母さんは周囲の視線から小さい私を想うばかりに、薬の投与を過剰にしたの。最後は内服薬の劇薬にまで手を出すようになって、結果、私は薬の副作用を受けるようになった」
 ツバメがぎゅっと奥歯を噛みしめるのが分かった。
骨粗鬆症こつそしょうしょう。それが今、私が患ってる病名よ」
 聞いたことのある病名だった。確か骨が脆くなる病気だ。
 僕はそこでツバメがいつも口にしていた物が頭に浮かんだ。
「じゃああのウエハースって」
「いくらか和らげられないかって、慰め程度に食べてるだけ。でも子どもの時にかなり薬を体が吸ってるみたいでね、治る兆しなんてちっともないの。骨折も、もうこれで何回目か分からない」
 悲しげにツバメはギプスで固定されている右足をぎこちなく動かした。骨が脆くなっているなら、体を無理に動かす体育の授業なんてナンセンスだ。転倒しただけで骨に異常が生じる可能性がある。ツバメが自転車に乗ったことがないのも、その懸念があったからだろう。
 そうこうしてるうちにツバメは我慢できなくなって体をさすりだした。アレルギーの症状が出始めているのだと、僕はすぐ干し竿を彼女の背に移動させ、シーツの影でツバメの体を陽から守った。
「ありがとう」
「……無理はするなよ」
「うん、大丈夫」
 ツバメの心は揺らがない。
「副作用の症状は特に母さんを困惑させた。そこに追い打ちをかけるように、雨を降らせる力に両親は次第に確信を抱くようになった。母さんは、そこからどんどんおかしくなっていった。周囲とも打ち解けられず、授かった子どもも普通の子とは違っておかしな病気を持っている。それも自分のせいで病気をさらに押しつけることにもなった。ただただ苦痛が伴って毎日を過ごしていたんだと思う。父さんだけが相手になっていたけれど、受け皿としては多分母さんは満足しなかったんでしょうね……そして、矛先は私に向けられた」
 重い沈黙が流れた。
 庭園の花に留まっていた蝶が一匹飛び立ち、ツバメの側を一週ぐるりと旋回した。
 そよ風をシーツが一身に受けて、白い布地がはためいてツバメの横顔を一瞬隠す。
「もう分かるでしょ?」
 はためくシーツの音に紛れながらツバメが言う。
 風が止み、再び彼女の横顔が現われると、ツバメは右目にかかっている眼帯にそっと手をかけていた。
 そして。
 ツバメは、ゆっくりと眼帯を外した。
 見開かれた右目。
 月森が以前説明してくれた瞳の中央にある黒い瞳孔、その周囲にある茶色の光彩。
 それがところどころ白く変色していた。大きさも形もばらばらで、まだら模様を形成している。とても気味がいいものではなかった。
「この右目は当時……母さんに手を振るわれてできたものなの」
 目元をさすりながらツバメは告白した。
 僕は彼女の右目に完全に意識を取られ、息をするのさえ忘れていた。
 右目のことは何より、あの写真に写っていた女性がツバメに暴力を振るっていたことが受け止めがたかった。
 「診断の結果、右目は完全に失明。光彩の筋力も死んでて、瞳孔の伸縮もできない。それなのに涙腺だけ生きてるなんて、皮肉だよね……」
 ツバメの声がほんのわずかに震えていた。
「じゃあ、お前の部屋にあったコンタクトは……」
「特注品のレンズよ。カラーコンタクトの模造品といった方がいいかもね。普通、カラーコンタクトは瞳孔部分が透けてるんだけど、こんなんだから、隠すために中央も黒く塗られてるの」
「……それで外してるときは眼帯を付けてるのか」
「ご名答」
 素っ気なくツバメが言う。海沿いで彼女を見かけた時、あんなに顔の右側を隠していたのはカラーコンタクトも眼帯もしていなかったせいだろう。
「左目の方は?」
「左目は視力がもう〇・一しかなくて、レンズしてないと何が何だが見えない感じ。それで両目が悪いから、障害者に認定されてるの。専門用語を使えばロービジョンって言うんだけどね」
「じゃあ、あの時タクシーで提示してたのは」
「障害者手帳を使ったの。気休め程度だけど、いくらか安くしてくれるんだ。もちろん、適用されない場合もあるけど」
 声のトーンを幾分か下げてツバメは言った。
 右目の補足が終わったところで、話を前に進めなければと僕は懸命に会話の切り口を探した。落ち着きがなくなり、無意味に僕は自分の髪をいじった。
「……父親は止めなかったのか。その……」
 結局僕はまともな言葉を手に入れることができず、彼女に二の句をゆだねた。
 母親に暴力を振るわれて父親は何もしなかったのか?
 本音を言えばストレートに訊きたかった。
 僕にはとてもできなかった。
「もちろん行動は起こしてくれた。でも母さんは父さんがそういった話題を切り出すと、途端に逆上したり、時には自分が悪かったと泣きながら謝ることもあったの。今思えば、一種の暴力心理サイクルの症状に陥ってたんだけれど、実際母さんばかりを責めきれるわけでもなかった……当時の私も母さんに手を上げられたことは何度もあったけれど、それをいけないと自覚しながら『ごめんね』って抱きしめてくれたりもした。だから母さんは絶対悪ではないと思っていたし、むしろ原因は自分自身にあるんじゃないかって疑うこともあった。そして、六歳の時にこの町に移住してきた」
 鼓動が、一際大きく呼応した。
「母さんの容態は悪化するばかりで、父さんもどうにか抑えようとしてくれたけど、日に日に痣は増えていって、私も母さんもどんどん衰弱していってね……そうしてある夜、私は家をひっそり抜け出したの。当てもなく、ひたすら夜道をさまよってた。それで、私は誰も使ってなさそうな納屋に逃げ込んだの」
 納屋。聞き覚えのあるキーワードだった。
「どうせまだ六歳だから、どうせ一人で生きていけない。けどうちに帰ったら優しくしてくれない母さんがいる。また叩かれて、叱られて、それで狂ったみたいに謝って抱きしめてくれる。でも私には、どれが素顔の母さんなのか分からなくなってた。体は陽に当たるといけないし、骨の中はすかすか。おまけに右目は失明して、遠近感覚もろくに取れなくて……私はもうボロボロだった」
 ツバメは切なげに表情を歪めた。
「神様はなんて不公平なんだろうって恨んだ。この力もアレルギーもなければ幸せに暮らせたかもしれないのにって……声が枯れるまで泣いてた。そして、当然のように雨が降り始めた」言葉尻を弱めながらツバメは言った。「八年前の豪雨を引き起こしたのも、あなたのお父さんを巻き込んだのも、全部私なの」
 何となく、予感はしていた。事実を受け止める覚悟もそれなりにあったはずだった。
 でも何故だろう。やっと腑に落ちた、という感情はこれっぽっちも生まれなかった。むしろ心の中にあったシミがよけいに濃くなって、広がったような気がした。
 自分に近寄ってきた理由。
 母親のことを多く語らない理由。
 慰霊碑の前で佇んでいた理由。
 靄がかかってはっきりとしていなかった部分が、くっきりと僕の頭の中に映し出された。
「……続けてくれ」
 鉄の鉛でも吐き出すように僕は重々しく言った。大切なシーンだったけれど、とにかく今は話を先に進めなければならない。
「母さんはいなくなった私を闇雲に捜して、そのまま行方が分からなくなったって父さんは言ってた……見つかったのは明け方、海岸の浅瀬で」
「待てよ」僕はたまりかねてツバメを遮った。「……そこは、よせよ」
 僕は察してくれと言わんばかりに渋面を作った。ツバメはこちらを一瞥してしばらく考え込んで、また語り出した。
「母さんのことを知った時、どうしたらいいか分からなかった。私は運良く助かったけれど、悲しめばいいのか、開放感に浸ればいいのか……私は、ひたすらごめんなさいって、父さんに謝り続けた」
 多分、あの父親のことだ。きっとツバメのせいではないと庇ったに違いない。けれど人生のパートナーを失ったことに変わりはない。悲しみは人一倍大きかったはずだ。
「不思議な感覚だった。今まで受けていた圧迫感がウソみたいになくなってた。頬を叩かれる日も、青あざに苦しむ日も消えた……でもそれで良かったって、素直に言えなくて、心の整理ができないうちにまたよそに移って、小学校へ上がった。右目のせいで顔を合わせる同級生に仲間外れされないようにって、その時に特注のコンタクトレンズを父さんからもらった」
「学校の先生に事情とか説明はしたのか?」
「雨を降らせること以外はね。でも周りはまだ七歳の子どもばっかりだから、私はすぐいじめられる格好の的になった。右目が見えないことや、癒えてない痣が体のあちこちにあるのをバカにされ続けた。先生も最初こそ構ってくれたけど……」
 ツバメはぐっと堪えるように目をつぶった。
「それからは同級生に絶対気づかれないよう注意を払い続けた。担当の先生には一切口外しないよう脅迫めいた感じで念を押してたりもした。どうせ短い期間の同学年だし、そのうち忘れられるなんてわかりきってたから、できるかぎり、強い印象を与えずこぢんまりと生きてきた」
「……誰の記憶にもとどまりたくなかったから、距離をおいていたのか」
 力なくツバメは頷いた。
「この町でも、そんな風にして過ごすはずだった」ツバメがこちらを見やる。「でも、この町にはあなたがいた」
 心地よく肌を撫でていたそよ風が、急に止んだ。
 汗がじんわりとにじみ出てくる。
「転校には慣れてるはずなのに、この町へ来る時は不安で仕方なかった。あなたのことを知った時、きっと私のことを恨むに違いないって警戒した。幸い、母さんがこの町で亡くなっていることが公になっていなかったからよかったけれど……後は、知っての通りよ」
 ツバメは僕に次の展開を預けるようにそれっきり黙り込んだ。
 言いたことは山ほどあった。でもその表現方法が僕には思いつかなかった。泡玉みたいに次から次に伝えたいメッセージは出てくるのに、形になる前に無残に破裂していく。ひどくもどかしかった。
「私のこと、恨んでる?」
  しばらく時間を置いて、怯えるようにツバメが訊いてきた。
 でも答える前に、僕は彼女に訊かなければならないことがあった。
「その前に、一つだけ訊いてもいいか?」
「何?」
「誰かの記憶に残ること、そんなに嫌いか?」
 ツバメが眉を細める。
「私は、ね」気弱にツバメが言う。「人は誰かに忘れられたときに初めて死ぬんだって、小さい頃に誰かに教わった」
 憂いが混じった瞳でツバメが遠くを見つめる。
「どうせ二、三年で遠くに行くんだから、誰かと知り合ってもその内忘れられる。もう目に見えていたの。そんなことなら最初からいっそのこと記憶に残らないようにって、いつからかそう考えてやってたの」
「それって……その人の言葉を借りれば、お前は生きていないことになるんだぞ?」
「その方がいい。元からいないように扱ってくれれば、誰にも触れず記憶にも刻まれないのにっていつも思う。昔のクラスメイトもどうせ私のことは覚えていない。手紙が届いたこともあったけど、長続きしたことなんて一度もなかった」
 かなりドライな感じでツバメは答えた。同じ年代にしてはやけに異常な世渡りだなと思う。けれどそんな彼女を作ったのは彼女自身でもある一方で、家庭や周りの環境で接してきた人物が関わっているのもまた事実だ。
 でも、
「これから先もそんな感じで生きていく気か?」
 僕の問いに、彼女は言葉を詰まらせた。忙しく瞳が左右に動く。
「僕はまだ十四歳で、偉い学者でもないけどさ、意識して特定の記憶を消すなんてきっとできないんだよ。忘れていたってひょんなことや、ある場面と重なってふとした瞬間に思い出すことだってある。お前だって経験あるだろ?」
 認めたくないように、ツバメは口をつぐんだまま動かなかった。
「きっとお前は、誰かの中で生きてるよ。今は忘れていてはいても、数年後に思い出すかもしれないだろ? それに、お前だってこの町や母親のことを覚えていたじゃないか」
 ツバメははっとなり、こちらを見やった。ほんのわずかに、目尻に涙が浮かんでいた。
「今の話はウソだって言っても、僕は信じるよ。だからもうそんなことにエネルギー使うなよ」
 信じる、と口にはしたけれど、それは彼女にとって重みをもった言葉に違いなかった。災害を起こしたことを信じるなら、彼女は僕の父を奪った張本人ということを認めることにもなる。
「でも私は、あなたのお父さんを……いくら間接的だからって」
「僕は」
 ツバメの言葉を遮る。
「別に恨んでなんかない。もう済んだことだし、泣いたからって親父が戻ってくるわけでもないんだ。それこそ無駄なエネルギーだ。でも、僕や果穂、浩人、それにこの町のことや皆のことは忘れないでいてほしい」
 それは僕の切実な思いだった。ずっと彼女の中では亡霊なんかじゃなくて、真っ赤で熱い血の通う存在でいたい。遠くに行ったとしても寝る時や、無性に寂しくなった時でもいい。深い深い海底にある記憶を、たまにでいいからサルベージする。そうして一瞬眺めて、また静かに降ろせばいい。記憶の容量に限界はあるかもしれないけど、隅っこでもいいから、思い留めていてほしかった。
「でもずっと覚えていられるのか、自信がない……」
「いや」そう言って僕はツバメに向き直った。「お前は大丈夫だよ。今までならダメだったかもしれないけど、今は違うような気がする」
 大丈夫。
 安っぽくて、そこら辺に普通に浮かんでる使い古された言葉。それでも今の彼女には、それがもっとも必要な言葉に思えた。
 それから僕は立ち上がり、青空を仰ぎながらツバメに訊ねた。
「月森から聞いたんだけどさ、アマツバメっていう鳥知ってるだろ?」
「知ってるも何も、私が月森さんに話したのよ?」
「そうだったな」
 アマツバメ。名前の通り燕の一種だけれど、その生態はとても変わっている。特筆すべきは採餌、睡眠、交尾に至る全てを空中で済ませてしまう点だ。他にも脚の構造が少し変わっていて、後ろにかぎ爪がない。そのため地上から飛ぶ時にふんばりが効かないから、滅多に地上には降りずに崖なんか爪を引っかけて過ごすことが常だ。鳥の中でその飛行スピードはトップクラスだけれど、脚は脆くて折れることもしばしばある。
「燕が低く飛ぶと雨が降るって聞いたことない? それと同じで、アマツバメも同じ習性を持ってるの。だから雨に基づいてアマツバメって名付けられてたの」
 悲しげにツバメは言った。
「図鑑でこの鳥を見た時、まるで私みたいだなってすごく共感した」
 転勤族の父の元で、各地を点々とする着地点のない旅路。
 降り立つことのない飛翔生活。
 骨粗鬆症こつそしょうしょう
 脆く折れやすい脚。
 泣くと雨を降らせる力。
 名の由来となった雨。
 アマツバメの生態は、悲しいくらい彼女に酷似こくじしているように思えた。
「ずっとあてもない流浪人みたいな生活をしてきたから、誰にも覚えられていたくないって考えるようになったのかもね……この間、自分が逃げ込んだ納屋を消し去さればそんな昔とケリが着くと思ったけれど、それも結局できなかった。でもちゃんとした着地点があれば、私、もう少し上手く歩けていたのかもしれない。同じツバメっていう名前なのに、私は名前負けしてるよね」
 彼女は息をまとわせながら笑った。気丈に取り繕うその姿勢が、却って胸を突いた。
 ふと、僕はずっと考えを巡らせていたことを彼女に伝えることにした。
「ツバメっていう名前さ、お前のお母さんが名付けたんだろ?」
「父さんはそう言ってるけどね、でもなんでこんな名前にしたかは分からないまま」
「最初お前の家に行った時、お父さんから僕もそのことを聞かされてさ、ずっと何でツバメって名付けてたのか気になってたんだ。でもお前の話を聞いてて、何となく分かった気がしたんだ」
 弾けるようにツバメが顔を上げる。
「燕は季節を巡って遠くに渡っても、生まれ故郷のことを覚えていて帰ってくる習性がある。転校続きで、確かに着地点は見つからないかもしれない。小山内のお母さんも最初それを覚悟していたんだと思う。でもどこへ移り住んでも、住んでいた場所のことを忘れて欲しくなかったんじゃないかな。だから、ツバメって名前を付けたんじゃないか?」
 あくまでこれは僕の憶測だ。でも二年間も待ち望んで生まれた我が子だ。彼女の母親がふざけた理由で命名するとは思えなかった。それにあの掴みようのない父親のことだ。実は彼女の名の由来を本当は知っているのかもしれない。
 ツバメは、瞳を滲ませていた。今ではもう母親に尋ねることもできない。僕も同じように、親父と腕相撲することも叶わない。それでも、その人のことを思い続けていればずっと一緒にいることができる。あまりにもチープな言い草かもしれないけれど、僕はそれが事実だと思っている。
 頬の一点が急にひんやりしたのを感じた。僕はてっきり自分が泣いていたのかと錯覚して、反射的に頬に手を当ててそれを拭った。それからゆっくりと空を見上げた。
 清々しく晴れた空がどこまでも広がっている。陽はぎらぎらと強く照っていて、雲は一つも無く、頭上は濃厚な青一色で染まっている。
 そんな空から、数滴の雨粒が降り注いでいた。陽に反射して時折光り、風に吹かれて舞ったり、螺旋を描きながら落ちているものもあった。花びらや雪が降る時とはまた違った印象だ。
 綺麗。
 ツバメが、そっとささやいた。
 同時に、誰かの声が遠くで聞こえた。気づくと屋上の入り口付近で月森と浩人が遠巻きにこちらを見ていた。浩人は片手にビニール袋を携えている。僕が軽く手を挙げると二人は怪訝に顔を見合わせた。するとその背後からぬっと看護師姿の母が姿を現し、僕とツバメを確認するなりけたたましい声を上げながら、こちらにずんずん小走りで駆けてきた。後ろの二人はその光景を苦笑しながら見守っている。
 僕とツバメは互いに顔を見合わせてくすっと笑いあった。彼女の頬を涙が弧を描いて滑り落ちた。
 この後、僕は恐らく母からたくさんゲンコツを食らってお説教をくらう。
 それを残る三人は笑いながら眺める。
 そうやって、世界はぐるぐる回っていく。
  ツバメは数年経たないうちにまた移り住むことになるだろう。遠いかどうかは分からない。いつしか連絡が途絶え、音信不通になるかもしれない。
 けれど、僕はふとした時に彼女を思い出すと思う。
 夕暮れ時に泣き出す空。
 部屋干しした後の湿った香り。
 青葉がぬれて揺れている緑の日。
 一夜明けでできた水たまり。
 誰かが作った軒下の照る照る坊主。
 知らない誰かの嗚咽おえつ
 そんないくつかのシーンに紛れて。あるいは投影されて。
 その度に、彼女も生きていると思い返す。
 この世界の、きっとどこかで。
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