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二章
3 日常を蝕むもの、宇宙の気配
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神に捧げる神饌を育て、一族の法衣を繕うのは、吾宸子の役職に就いていない宇津僚家の血を引く者。
つまり、今では吾宸子を退いた艶子の役目であった。
裏庭の畑に立ちながら、太陽の熱がその銀髪に溜まっていくのも忘れ、深夜美の赤い瞳の中に意識を浸らせていた。
荒津は死の穢れを司る一族だ。
深夜美が荒津と親密になり、深夜美まで同様の迫害を受けるようなことになったら、見ていられない。
それでなくても、艶子は荒津家の婚姻にまつわる噂や、彼らのいじけた目が嫌いだった。
「艶子様、ただいま戻りました」
声に振り返ると、勝手口から深夜美が顔を出していた。
身につけている服や身体のラインは男性的でも、指先まで芯の通ったような優美な仕草は、艶子が今まで出会ってきたどの男たちにも無かったものだ。
「おかえりなさい。荒津様には会えた?」
「ええ。それより」
深夜美が、ずいと艶子の側へ寄ってくる。
長い睫毛の一本一本まで見下ろせるような近さに立たれ、息をが浅くなる。
「畑仕事、お手伝いできることはございませんか」
「いえ、これは宇津僚の血を引く者だけでやらなくてはいけないお仕事なので。お気持ちだけ頂きますね」
「そうですか。でも帽子を被るくらいはしないと、夏場は日射病なんかが怖いですよ」
「ああ……去年まで使ってたやつが駄目になってから、買い直してなかったわ。
主人が死んで、ばたばたしてたせいで」
「じゃあ、明日私が買ってきますよ。プレゼントってことで」
閃いたとばかりに深夜美は言う。
艶子の身体が、ぐっと強張った。
夫は艶子の身を案じたことも、贈り物をしてくれたことも、一度として無かった。
「それは有難いですけど、プレゼントだなんて。お金はちゃんと私から渡しますから、お遣いとしてお願いします。
そんなに気を遣っていただかなくても、働いて頂いているだけで、お母様の件での恩返しなら十分なのですよ」
諭すように言う声は、少し震えていた。
深夜美の赤い瞳が、艶子を突き刺す。
「恩返しだなんて思っていませんよ。理屈抜きに、艶子様に何かしたいと思ったのです」
思えばこの人生は、全て理屈の連続であった。
空磯のために愛してもいない男と娶わせられ、空磯のために子を産み育てた。
しかし目の前の美しく優しい人を好きだということに訳など無い。
手の甲に皴の刻まれだした頃、初めて恋を知った。
今日はなぜか真祈が構ってこなかった。
顔を合わせたのは食事時だけで、その他の時間、鎮神は部屋に籠ってミシンと向き合っていた――心労からかスランプ気味で、あまり進捗はなかった――が、真祈は訪れることもなかった。
楽でいいが、嵐の前の静けさというやつではないかとつい身構えてしまう。
吾宸子は巫女のようなものだとは聞いているが、その仕事のために真祈が具体的には何をしているのかは知らない。
そして仕事のとき以外は何をして過ごしているのか、どんな音楽が好きで、どんな服が好きなのか、それすら知らないのだ。
これから少しずつ知っていけばいい、と誰もが言うだろうが、真祈や宇津僚家のことを知ることは、鎮神に恐ろしい現実が突きつけられることだと、そう予感していた。
「宇宙人、か……」
ベッドに寝転びながら自身の銀髪を指で絡めて弄ぶ。
すると、外から襖を軽く叩かれた。襖を開くと、深夜美が風呂を勧めに来ていた。
礼を言いつつタオルと着替えを持って出て行く。
鎮神の目が、深夜美の細腕に抱えられたぶ厚く堅い本に留まると、深夜美はそれを察した。
「真祈様に頼まれて書庫から出してきた本です。なんだか難しそうですよね」
「これを読むのが……真祈さんにとっての楽しみなんでしょうか」
「さあ。研究に使うので運ぶのを手伝ってと頼まれただけで――」
俄かに華奢な指に限界がきたらしく、深夜美の足の真上で本が手から離れた。
しかし本は落下の半ばで軌道を少し変え、二人の足の間の床に強かに叩きつけられる。
「申し訳ありません! 大丈夫ですか、鎮神様」
「ええ、おれは大丈夫です。赤松さんこそ」
深夜美は慌てて本を拾い上げ、鎮神の足が掠り傷一つ無いのを見るとやっと安心したようだった。
「しかし、今の本の落ち方、ちょっと変でしたよね……なんだったんでしょう」
深夜美の蘇芳色の瞳が、無遠慮なほどに鎮神を見つめてくる。
内臓を暴くような視線に、身が竦む。
「大丈夫ですか、凄い音でしたけど」
視界の隅で、電灯に照らされて赤い光を放つ銀髪がちらついた。
真祈は今しがた風呂から上がったらしく、瞳と同じ紫色のネグリジェ姿で、こちらも重そうな本を抱えている。
「すみません、本を落としちゃって……」
「怪我が無いならいいのです」
薄くやわらかな布のネグリジェを纏った真祈は、電球色が照らす田舎の日本家屋に似つかわしくないどころか、そのミスマッチすら奇妙な魅力に変えてしまう。
正統な美術よりも、スクワットが廃墟で育んだ夢のような美しさ。それが怖いくらいで、鎮神はそろりと二人の側を通り抜けて風呂へ向かおうとした。
「そうだ、深夜美さん。一つ忠告を」
何やら不穏なことを真祈が言う。
「本物の空磯が、私たちの信じているようなものだとは限らない、とだけ」
空磯――我らがあるべき遠いところ。
鎮神がここに来た理由にも関わるらしき、宇津僚の信仰の要素だ。
それを、吾宸子である真祈が否定するようなことを言う。
深夜美が来る前に交わされた、食堂での会話を思い出す。
真祈は深夜美が宇津僚の秘儀や奇蹟を狙っているのではないかと危惧していた。
真祈は深夜美に探りを入れているのかもしれない。
深夜美は笑みを一切崩さずに真祈の奇妙な言葉を聴き、やがて明るい声色で答えた。
「ええ、肝に銘じておきます」
つまり、今では吾宸子を退いた艶子の役目であった。
裏庭の畑に立ちながら、太陽の熱がその銀髪に溜まっていくのも忘れ、深夜美の赤い瞳の中に意識を浸らせていた。
荒津は死の穢れを司る一族だ。
深夜美が荒津と親密になり、深夜美まで同様の迫害を受けるようなことになったら、見ていられない。
それでなくても、艶子は荒津家の婚姻にまつわる噂や、彼らのいじけた目が嫌いだった。
「艶子様、ただいま戻りました」
声に振り返ると、勝手口から深夜美が顔を出していた。
身につけている服や身体のラインは男性的でも、指先まで芯の通ったような優美な仕草は、艶子が今まで出会ってきたどの男たちにも無かったものだ。
「おかえりなさい。荒津様には会えた?」
「ええ。それより」
深夜美が、ずいと艶子の側へ寄ってくる。
長い睫毛の一本一本まで見下ろせるような近さに立たれ、息をが浅くなる。
「畑仕事、お手伝いできることはございませんか」
「いえ、これは宇津僚の血を引く者だけでやらなくてはいけないお仕事なので。お気持ちだけ頂きますね」
「そうですか。でも帽子を被るくらいはしないと、夏場は日射病なんかが怖いですよ」
「ああ……去年まで使ってたやつが駄目になってから、買い直してなかったわ。
主人が死んで、ばたばたしてたせいで」
「じゃあ、明日私が買ってきますよ。プレゼントってことで」
閃いたとばかりに深夜美は言う。
艶子の身体が、ぐっと強張った。
夫は艶子の身を案じたことも、贈り物をしてくれたことも、一度として無かった。
「それは有難いですけど、プレゼントだなんて。お金はちゃんと私から渡しますから、お遣いとしてお願いします。
そんなに気を遣っていただかなくても、働いて頂いているだけで、お母様の件での恩返しなら十分なのですよ」
諭すように言う声は、少し震えていた。
深夜美の赤い瞳が、艶子を突き刺す。
「恩返しだなんて思っていませんよ。理屈抜きに、艶子様に何かしたいと思ったのです」
思えばこの人生は、全て理屈の連続であった。
空磯のために愛してもいない男と娶わせられ、空磯のために子を産み育てた。
しかし目の前の美しく優しい人を好きだということに訳など無い。
手の甲に皴の刻まれだした頃、初めて恋を知った。
今日はなぜか真祈が構ってこなかった。
顔を合わせたのは食事時だけで、その他の時間、鎮神は部屋に籠ってミシンと向き合っていた――心労からかスランプ気味で、あまり進捗はなかった――が、真祈は訪れることもなかった。
楽でいいが、嵐の前の静けさというやつではないかとつい身構えてしまう。
吾宸子は巫女のようなものだとは聞いているが、その仕事のために真祈が具体的には何をしているのかは知らない。
そして仕事のとき以外は何をして過ごしているのか、どんな音楽が好きで、どんな服が好きなのか、それすら知らないのだ。
これから少しずつ知っていけばいい、と誰もが言うだろうが、真祈や宇津僚家のことを知ることは、鎮神に恐ろしい現実が突きつけられることだと、そう予感していた。
「宇宙人、か……」
ベッドに寝転びながら自身の銀髪を指で絡めて弄ぶ。
すると、外から襖を軽く叩かれた。襖を開くと、深夜美が風呂を勧めに来ていた。
礼を言いつつタオルと着替えを持って出て行く。
鎮神の目が、深夜美の細腕に抱えられたぶ厚く堅い本に留まると、深夜美はそれを察した。
「真祈様に頼まれて書庫から出してきた本です。なんだか難しそうですよね」
「これを読むのが……真祈さんにとっての楽しみなんでしょうか」
「さあ。研究に使うので運ぶのを手伝ってと頼まれただけで――」
俄かに華奢な指に限界がきたらしく、深夜美の足の真上で本が手から離れた。
しかし本は落下の半ばで軌道を少し変え、二人の足の間の床に強かに叩きつけられる。
「申し訳ありません! 大丈夫ですか、鎮神様」
「ええ、おれは大丈夫です。赤松さんこそ」
深夜美は慌てて本を拾い上げ、鎮神の足が掠り傷一つ無いのを見るとやっと安心したようだった。
「しかし、今の本の落ち方、ちょっと変でしたよね……なんだったんでしょう」
深夜美の蘇芳色の瞳が、無遠慮なほどに鎮神を見つめてくる。
内臓を暴くような視線に、身が竦む。
「大丈夫ですか、凄い音でしたけど」
視界の隅で、電灯に照らされて赤い光を放つ銀髪がちらついた。
真祈は今しがた風呂から上がったらしく、瞳と同じ紫色のネグリジェ姿で、こちらも重そうな本を抱えている。
「すみません、本を落としちゃって……」
「怪我が無いならいいのです」
薄くやわらかな布のネグリジェを纏った真祈は、電球色が照らす田舎の日本家屋に似つかわしくないどころか、そのミスマッチすら奇妙な魅力に変えてしまう。
正統な美術よりも、スクワットが廃墟で育んだ夢のような美しさ。それが怖いくらいで、鎮神はそろりと二人の側を通り抜けて風呂へ向かおうとした。
「そうだ、深夜美さん。一つ忠告を」
何やら不穏なことを真祈が言う。
「本物の空磯が、私たちの信じているようなものだとは限らない、とだけ」
空磯――我らがあるべき遠いところ。
鎮神がここに来た理由にも関わるらしき、宇津僚の信仰の要素だ。
それを、吾宸子である真祈が否定するようなことを言う。
深夜美が来る前に交わされた、食堂での会話を思い出す。
真祈は深夜美が宇津僚の秘儀や奇蹟を狙っているのではないかと危惧していた。
真祈は深夜美に探りを入れているのかもしれない。
深夜美は笑みを一切崩さずに真祈の奇妙な言葉を聴き、やがて明るい声色で答えた。
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