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五章
5 楽園崩壊、深夜美の自刃
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いつも通り、しかし少しずつ狂いながら、今日も夜は訪れる。
昼は艶子が楼夫と睦み合っていた荒津家の寝室。
夜には、そこに深夜美が居た。
「深夜美様にとっても艶子はただの贄。
夫婦の愛情など無いのですよね」
楼夫にとって艶子は、深夜美に命じられたので相手してやっているだけに過ぎないただの贄だ。
訊ねると、深夜美は読んでいた漫画から顔を上げて悪戯っぽく笑った。
「分かってるくせに」
しかし深夜美の表情は、ふと真顔に塗り替わる。
「しかし私は、あの残酷な神とは違う。
羊の初子も作物も等しく喰らい、心に留めておくだろう。
それともこれが、私の詰めの甘さだろうか……」
感情の読めない面持ちで呟く深夜美に対し、楼夫は頭を振る。
「いいえ、だからこそ貴方は悪でいられるのでしょう。
私はそういうところも含めて、貴方をお慕いしているのです」
深夜美は音もなく、楼夫が腰掛けるベッドまで寄って来ると、楼夫の眉間をなぞる。
「楼夫は怖くないのか?
私は他人を洗脳する力を手に入れた……。
時系列的には、楼夫と出会ってから手に入れたわけだが、私が君に嘘を吐いている可能性だってあるんだぞ」
「つまり、深夜美様が私を洗脳しているかもしれないと疑う必要が、私にはある、と?」
楼夫は訊き返す。
「そう。私は楼夫を呪術で慕わせて、手駒として使い潰そうとしているかもしれない。
そう思われてもおかしくない野望と能力が私には……」
深夜美の話は、楼夫の笑い声で遮られた。
蘇芳色の瞳がきょとんと見開かれて、小さな口も引き攣る。
「何かおかしなことでも言ったか、私」
「ええ、とても」
楼夫は、眉間に突き立てられた手をとって掻き抱いた。
深夜美は暫く沈黙していたが、やがて観念したように口を開く。
「すまなかった、試すようなことを言ってしまって……。
怖がっているのは私の方だ」
艶やかな漆黒が楼夫の懐に寄りかかってくる。
「私は母の意志を継いで動いているが……
全く違う方を向いた父と母の間で今でも引き裂かれそうになる。
自分が母を愛していることさえ、実は私が母の傀儡に過ぎないからで、客観的に見れば父の方がまともなんじゃないかって……
自分自身や、楼夫の淀みない意志が、たまに恐ろしくなる」
「構いません。
貴方は常に何かを演じておられるのだから、ここでは思うようになさってください」
「楼夫の前でも悪党を演じているだけで、実際の私は大したことない奴かもしれないぞ」
「またそんなことを言って」
猫を落ち着かせるときのように背中から腰を撫でてやると、深夜美はやっと黙った。
小柄だが男らしく広く硬い体躯は、触れる度に愛おしくなる。
「そろそろ安荒寿を盗み出すのですか?」
安荒寿。宇津僚家が握る、門外不出の歌。
関係者以外がこれを知れば、宇津僚家に命を狙われることとなる。
それを深夜美は盗み出すと言うのだ。
「ああ。その後暫くは百倍に実った争いの実を刈り取り、呪いを肥やす時だ。
ここからは、戦端が開かれるまでの間、私一人の仕事になるが……」
「分かっています。私はいつだって深夜美様の御傍に」
楼夫がそう言うとやっと、紅い瞳が喜悦に細められた。
深夜美は艶子の夫でも、善き隣人でも、哀れな身空の青年でもない。
皆が深夜美に見惚れるが、その深夜美は全て偽りに過ぎない。
この腕の中で謀りごとを巡らせながら幼気な夢を見る妄執の化身こそ、楼夫だけが知る、素顔に限りなく近い表情だ。
しかしそれさえもきっと深夜美の多面的な真実の一つに過ぎないのだろう、と楼夫は心の中で独り言ちた。
いくら反社会的行為も辞さない淫祀を守る宇津僚家でも、朝の食卓はごく普通の家庭と同じく、良い香りと忙しない音で充ちている。
ただ少し、あらゆる思惑が渦巻いているだけだ。
「あっ! 有沙様、レンジを使っている間はトーストを使わないようにって、前も申し上げましたよね!」
田村が、マスタードとハムを適当に乗せたパンを手にトーストを使おうとしている有沙を引き止める。
真祈は朝からステーキを平らげ、吾宸子の勤めに向かおうとしている。
その近くに座る鎮神は、のんびりとコーンフレークを突つきながら真祈を見送る。
頭のもう半分で、服のデザインに考えを巡らせていた。
そして艶子の心はここには無い。
頭の中は、楼夫の逞しい腕の感触のことで埋め尽くされていた。
「鎮神さん、悪いけれど、お醤油取ってくれる?」
艶子が頼むと、鎮神は目の前にあった醤油差しを取る。
しかし鎮神の腕だけでは届くはずも無いので、二人の間に居た深夜美が中継ぎしてやろうと手を出した。
「二人とも、ありがとう……」
艶子と深夜美の手が触れた瞬間、深夜美が息を呑む気配がして、醤油差しは二人の手から滑り落ちた。
「あ……ごめんなさい」
深夜美は机の下に潜り、液体の広がる床を拭う。
鎮神は心配そうに彼を覗き込んだ。
「深夜美さん、顔色悪くないですか?
今日はゆっくりした方がいいと思います。
田村さんだけで追いつかないなら、おれも家のことやりますから」
「ううん、私は大丈夫だよ。
ちょっと、ぼーっとしちゃっただけ」
「でも……」
我が事のように沈痛な面持ちをする鎮神に向かって、有沙は溜め息を吐く。
「本人が大丈夫つってんだから放っとけよ」
「そ、そうですか?」
鎮神が有沙に気をとられている間に、深夜美は座り直して、もそもそとローストビーフを口に運んでいた。
しかしその紅い瞳は伏せた睫毛の檻に囚われて、どこか虚ろであった。
深夜美が食堂を出て行くなり、艶子はすぐにその後を追う。
「ねえ、深夜美――」
手首を掴んで引き止めると、彼の黒髪のあわいに瞬く雫が散った。
艶子は慌てて、彼を自室へ連れ込む。
「艶子も、家族なんてくだらないと思いますか?」
艶子が問いただすより早く、深夜美が訊ねてきた。
「そんなわけないでしょう、どうしてそんなことを言うの」
「同じ、なんです……」
涙を受け止める掌の間から、粘度の高い溶岩のような赤い光が、町の一つや二つ呑み込んでしまいそうな炎が覗く。
薄い唇が震えながら悲痛な声を漏らす。
「今の艶子、あの時の父と同じ目をしてる……。
母や私に怒鳴る口で、余所の女を口説いていた、あいつの目と!」
楽園が、崩れていく。
単に楼夫との恋が絶たれただけではない。
自分は淳一や北原嵐師と同じ、伴侶を裏切るという罪を背負ったのだ。
後悔が、初めて快楽を上回る。
「私は一生、誰とも心を通わせることはできないのかな……」
俯いたまま深夜美は言う。
そんなことはない、と絞り出すので艶子は精一杯であった。
それを気にすることもなく、深夜美は続ける。
「私が死んだら、母の隣に葬ってくれって……荒津様に頼んでよ」
深夜美の手中に奇術のような速さでナイフが握られ、彼自身の首を目指して奔った。
昼は艶子が楼夫と睦み合っていた荒津家の寝室。
夜には、そこに深夜美が居た。
「深夜美様にとっても艶子はただの贄。
夫婦の愛情など無いのですよね」
楼夫にとって艶子は、深夜美に命じられたので相手してやっているだけに過ぎないただの贄だ。
訊ねると、深夜美は読んでいた漫画から顔を上げて悪戯っぽく笑った。
「分かってるくせに」
しかし深夜美の表情は、ふと真顔に塗り替わる。
「しかし私は、あの残酷な神とは違う。
羊の初子も作物も等しく喰らい、心に留めておくだろう。
それともこれが、私の詰めの甘さだろうか……」
感情の読めない面持ちで呟く深夜美に対し、楼夫は頭を振る。
「いいえ、だからこそ貴方は悪でいられるのでしょう。
私はそういうところも含めて、貴方をお慕いしているのです」
深夜美は音もなく、楼夫が腰掛けるベッドまで寄って来ると、楼夫の眉間をなぞる。
「楼夫は怖くないのか?
私は他人を洗脳する力を手に入れた……。
時系列的には、楼夫と出会ってから手に入れたわけだが、私が君に嘘を吐いている可能性だってあるんだぞ」
「つまり、深夜美様が私を洗脳しているかもしれないと疑う必要が、私にはある、と?」
楼夫は訊き返す。
「そう。私は楼夫を呪術で慕わせて、手駒として使い潰そうとしているかもしれない。
そう思われてもおかしくない野望と能力が私には……」
深夜美の話は、楼夫の笑い声で遮られた。
蘇芳色の瞳がきょとんと見開かれて、小さな口も引き攣る。
「何かおかしなことでも言ったか、私」
「ええ、とても」
楼夫は、眉間に突き立てられた手をとって掻き抱いた。
深夜美は暫く沈黙していたが、やがて観念したように口を開く。
「すまなかった、試すようなことを言ってしまって……。
怖がっているのは私の方だ」
艶やかな漆黒が楼夫の懐に寄りかかってくる。
「私は母の意志を継いで動いているが……
全く違う方を向いた父と母の間で今でも引き裂かれそうになる。
自分が母を愛していることさえ、実は私が母の傀儡に過ぎないからで、客観的に見れば父の方がまともなんじゃないかって……
自分自身や、楼夫の淀みない意志が、たまに恐ろしくなる」
「構いません。
貴方は常に何かを演じておられるのだから、ここでは思うようになさってください」
「楼夫の前でも悪党を演じているだけで、実際の私は大したことない奴かもしれないぞ」
「またそんなことを言って」
猫を落ち着かせるときのように背中から腰を撫でてやると、深夜美はやっと黙った。
小柄だが男らしく広く硬い体躯は、触れる度に愛おしくなる。
「そろそろ安荒寿を盗み出すのですか?」
安荒寿。宇津僚家が握る、門外不出の歌。
関係者以外がこれを知れば、宇津僚家に命を狙われることとなる。
それを深夜美は盗み出すと言うのだ。
「ああ。その後暫くは百倍に実った争いの実を刈り取り、呪いを肥やす時だ。
ここからは、戦端が開かれるまでの間、私一人の仕事になるが……」
「分かっています。私はいつだって深夜美様の御傍に」
楼夫がそう言うとやっと、紅い瞳が喜悦に細められた。
深夜美は艶子の夫でも、善き隣人でも、哀れな身空の青年でもない。
皆が深夜美に見惚れるが、その深夜美は全て偽りに過ぎない。
この腕の中で謀りごとを巡らせながら幼気な夢を見る妄執の化身こそ、楼夫だけが知る、素顔に限りなく近い表情だ。
しかしそれさえもきっと深夜美の多面的な真実の一つに過ぎないのだろう、と楼夫は心の中で独り言ちた。
いくら反社会的行為も辞さない淫祀を守る宇津僚家でも、朝の食卓はごく普通の家庭と同じく、良い香りと忙しない音で充ちている。
ただ少し、あらゆる思惑が渦巻いているだけだ。
「あっ! 有沙様、レンジを使っている間はトーストを使わないようにって、前も申し上げましたよね!」
田村が、マスタードとハムを適当に乗せたパンを手にトーストを使おうとしている有沙を引き止める。
真祈は朝からステーキを平らげ、吾宸子の勤めに向かおうとしている。
その近くに座る鎮神は、のんびりとコーンフレークを突つきながら真祈を見送る。
頭のもう半分で、服のデザインに考えを巡らせていた。
そして艶子の心はここには無い。
頭の中は、楼夫の逞しい腕の感触のことで埋め尽くされていた。
「鎮神さん、悪いけれど、お醤油取ってくれる?」
艶子が頼むと、鎮神は目の前にあった醤油差しを取る。
しかし鎮神の腕だけでは届くはずも無いので、二人の間に居た深夜美が中継ぎしてやろうと手を出した。
「二人とも、ありがとう……」
艶子と深夜美の手が触れた瞬間、深夜美が息を呑む気配がして、醤油差しは二人の手から滑り落ちた。
「あ……ごめんなさい」
深夜美は机の下に潜り、液体の広がる床を拭う。
鎮神は心配そうに彼を覗き込んだ。
「深夜美さん、顔色悪くないですか?
今日はゆっくりした方がいいと思います。
田村さんだけで追いつかないなら、おれも家のことやりますから」
「ううん、私は大丈夫だよ。
ちょっと、ぼーっとしちゃっただけ」
「でも……」
我が事のように沈痛な面持ちをする鎮神に向かって、有沙は溜め息を吐く。
「本人が大丈夫つってんだから放っとけよ」
「そ、そうですか?」
鎮神が有沙に気をとられている間に、深夜美は座り直して、もそもそとローストビーフを口に運んでいた。
しかしその紅い瞳は伏せた睫毛の檻に囚われて、どこか虚ろであった。
深夜美が食堂を出て行くなり、艶子はすぐにその後を追う。
「ねえ、深夜美――」
手首を掴んで引き止めると、彼の黒髪のあわいに瞬く雫が散った。
艶子は慌てて、彼を自室へ連れ込む。
「艶子も、家族なんてくだらないと思いますか?」
艶子が問いただすより早く、深夜美が訊ねてきた。
「そんなわけないでしょう、どうしてそんなことを言うの」
「同じ、なんです……」
涙を受け止める掌の間から、粘度の高い溶岩のような赤い光が、町の一つや二つ呑み込んでしまいそうな炎が覗く。
薄い唇が震えながら悲痛な声を漏らす。
「今の艶子、あの時の父と同じ目をしてる……。
母や私に怒鳴る口で、余所の女を口説いていた、あいつの目と!」
楽園が、崩れていく。
単に楼夫との恋が絶たれただけではない。
自分は淳一や北原嵐師と同じ、伴侶を裏切るという罪を背負ったのだ。
後悔が、初めて快楽を上回る。
「私は一生、誰とも心を通わせることはできないのかな……」
俯いたまま深夜美は言う。
そんなことはない、と絞り出すので艶子は精一杯であった。
それを気にすることもなく、深夜美は続ける。
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