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Chapter3 嫉妬の目
第38話 廊下の一戦
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革靴の擦れる音が静まり返った廊下に響く。
その音はまるで、死へのカウントダウンであるかのように、一つまた一つと、一人の少年に向かって刻まれていく。
妬美草他。七罪高等学校に勤める二十八歳の国語教師。
彼は今、一人の生徒の生涯に幕を下ろすため、ゆっくりとその歩を進めていた。
強制されるわけではなく、己の意思で。凡人と決めつけて、普通以外に染まることを許さなかった己自身の意志で、彼は――人を殺そうとしていた。
「ごめんね、灰ヶ原君。でもね、君がいけないんだよ。分かるよね? 君が村々先生とあんなにも親しくするから、僕以上に親しくするから――」
床に倒れている黒時に近づき、妬美は両腕で彼の首を絞めはじめた。
普段の黒時ならば妬美の両腕などいとも簡単に振りほどいてみせただろうけれど、残念ながら、今は抵抗しようにもレヴィアタンの一撃によって身体に力を込めることができない。意識を繋いでおくことがやっとの状態だった。
「ぐぅ……、がぁ、あ……」
なす術のない黒時は、人間の手によって死の淵へと追いやられていく。
「んん? なんだい、苦しいのかい? 僕はもっと苦しかったんだ、これぐらい耐えてくれないと。じゃないと、もっと苦しみを与えられないじゃないか」
きしきしと、嫌な音が響く。
このままいけば、黒時は殺されるだろう。
妬美に首を絞められながら、さすがの黒時も焦っていた。まさか、このような事態になるとは思っていなかった。
妬美からの妬ましい視線。それには気付いていたのだが、妬美が人を殺すという大それた行動にでるとは予想外だったのである。
レヴィアタンの存在、悪魔の存在が小心者であるはずの妬美を後押しすることになるとは――。
ぎりぎりで繋ぎ留めている黒時の意識が遠のいていく。このまま死んでしまうのだろうか、と珍しくも黒時の中にそんな不安が生まれた。
そして、それと同時に驚きも生まれていた。死にたくない、という思いと一緒に、面白い、という思いが自分の中にあったのだ。
怜奈と同じように己の本質をさらけ出している妬美がたまらなく面白く、殺されそうだというのに黒時は笑ってしまいたかった。吹き出してしまいたかった。
首を絞められているので物理的に声を出したりすることは不可能なのだが、しかし、それでも首を絞められている彼の顔は満面の笑みだった。目の前で、首を絞めてくる男と同じように――。
「そろそろお休み、灰ヶ原君」
「何をしている!」
「ぐあぁっ――――!」
突然の怒号と衝撃音が黒時の耳に届いた。
同時に苦しさが消え、首を絞められる感触もなくなった。
「大丈夫か、黒時!?」
駆け寄って黒時の顔を覗き込む一人の女。村々怜奈である。
部屋にいた怜奈は先程廊下に出てきて(興奮しきった彼女が今まで部屋で何をしていたのかは想像したくない)黒時の窮地を知り、襲い掛かっている妬美の身体に体当たりをして、彼を吹き飛ばしたのだった。
「げほっげほっ。はあ、はあ、大……、丈夫……」
「礼はいい。それよりも、安静にしていろ」
怜奈にとっては何一つ理解出来ない状況だろう。
宙を舞う小さな黒い物体。突然豹変したかのように生徒を襲っていた教師。怜奈でなくとも当惑する場面である。
だが、状況を説明している暇は黒時にはなかった。それにどのみちまだまともに声もだせないのだ。
怜奈が参入したことで妬美はどうにかなるとしても、まだそれよりも遥かに強大なレヴィアタンが残っている。なんの力も持っていない怜奈一人でレヴィアタンに立ち向かうというのは、無謀どころかただの自殺行為と言えるだろう。
未だ黒時の身体は動きそうになかった。黒時自身かすかに回復しているのは感じるけれど、まだ時間が足りない。それほどまでに、レヴィアタンの放った一撃は凄まじいものだった。
『ケヒヒヒ。よくも邪魔して下さいましたね、美しいお嬢さん』
気付けばレヴィアタンの姿は、既に怜奈の目前にあった。忽然と現れた悪魔に驚きを隠せない怜奈。このままでは二人とも殺されてしまう。
『あちらの少年は草他さんにお任せしてますので、仕方ありません。貴方は我輩が殺して差し上げましょう』
「逃げろ……」
黒時は壁にもたれながら、かろうじて声を搾り出した。けれど、それは怜奈の安否を危惧しての言葉ではない。
そんな優しさ、黒時は持ち得ていない。
この世界にいる人間と悪魔に関連性があるのならば、怜奈もまた悪魔を見つけ殺すのに必要な存在となってくる。ここで死なすわけにはいかないのだ。
とは言え先述の通り、黒時は未だ身体を動かすことができない。ゆえに、怜奈を助けることができない。
だからこそ逃げろ、とそう彼女に言ったのだが、残念ながら黒時の想いは、今の状況と同じく怜奈には理解されなかったようだった。
「安心しろ、黒時。私が必ずお前を守ってみせる」
『ケヒヒヒ。貴方に何が出来るのです? まだ覚醒も出来ていないようなただの器風情が、あまり調子に乗るもんじゃありませんよ』
「覚醒……。それは、黒時たちの言っていた光る腕とかのことか?」
『おや、ご存知でしたか。しかし、どうやらその光る腕をお持ちの方はここにはおられないようですね。いやはや、残念。どうです? 貴方も覚醒してみせますか?』
「く、黒時……」
怜奈は縋るような目で黒時を見つめた。しかし、黒時にも彩香や駄紋がどのようにしてあの力を発現したのか詳しくは分からない。分かっているのは、彼女達が己の本質をさらけ出していた、ということだけである。
もし、それが力の発現、悪魔たちが言うところの覚醒の条件であるならば、怜奈はとうに条件を満たしているはずなのだが……。
黒時は壁にもたれた態勢のまま首をゆっくりと左右に振り、怜奈に応えた。
「そうか、黒時も知らないか」
覚醒の方法を得ることは出来ず、腹を括ったのか、怜奈はレヴィアタンの正面に立ち、悪魔と対峙した。
「私の黒時には、指一本触れさせないぞ!」
『そうですか。我輩はそもそもその少年に触れるつもりはないのですが、まあ、いいでしょう。それにしても、少々耳障りになってきましたねえ。さっさと殺して静かにしてしまいしょうか』
「くっ……」
レヴィアタンの身体がゆっくりと動き始める。
あまりの速さに止まって見える、と言うけれど、そういった類のもではなく、実際にレヴィアタンは恐ろしく遅く動いている。
かすかに動いてるのが視認できるほどの速さで――ゆっくりと、目の前の人間に恐怖を刻みながら、動いている。
「やめてくれ!」
言ったのは怜奈ではなく、当然黒時でもなかった。もう一人の人間。自ら殺人者に墜ちようとしていた人間。妬美草他だった。
「レ、レヴィアタンさん。あ、あの、どど、どうかその女性だけは、その人だけは、殺さないでくれませんか?」
怜奈に突き飛ばされた身体を起こしながら、妬美は言った。
言葉を受けたレヴィアタンは、動きを完全に停止させて妬美の方へと笑顔で振り向いた。不気味で恐ろしい――笑顔で振り向いた。
その音はまるで、死へのカウントダウンであるかのように、一つまた一つと、一人の少年に向かって刻まれていく。
妬美草他。七罪高等学校に勤める二十八歳の国語教師。
彼は今、一人の生徒の生涯に幕を下ろすため、ゆっくりとその歩を進めていた。
強制されるわけではなく、己の意思で。凡人と決めつけて、普通以外に染まることを許さなかった己自身の意志で、彼は――人を殺そうとしていた。
「ごめんね、灰ヶ原君。でもね、君がいけないんだよ。分かるよね? 君が村々先生とあんなにも親しくするから、僕以上に親しくするから――」
床に倒れている黒時に近づき、妬美は両腕で彼の首を絞めはじめた。
普段の黒時ならば妬美の両腕などいとも簡単に振りほどいてみせただろうけれど、残念ながら、今は抵抗しようにもレヴィアタンの一撃によって身体に力を込めることができない。意識を繋いでおくことがやっとの状態だった。
「ぐぅ……、がぁ、あ……」
なす術のない黒時は、人間の手によって死の淵へと追いやられていく。
「んん? なんだい、苦しいのかい? 僕はもっと苦しかったんだ、これぐらい耐えてくれないと。じゃないと、もっと苦しみを与えられないじゃないか」
きしきしと、嫌な音が響く。
このままいけば、黒時は殺されるだろう。
妬美に首を絞められながら、さすがの黒時も焦っていた。まさか、このような事態になるとは思っていなかった。
妬美からの妬ましい視線。それには気付いていたのだが、妬美が人を殺すという大それた行動にでるとは予想外だったのである。
レヴィアタンの存在、悪魔の存在が小心者であるはずの妬美を後押しすることになるとは――。
ぎりぎりで繋ぎ留めている黒時の意識が遠のいていく。このまま死んでしまうのだろうか、と珍しくも黒時の中にそんな不安が生まれた。
そして、それと同時に驚きも生まれていた。死にたくない、という思いと一緒に、面白い、という思いが自分の中にあったのだ。
怜奈と同じように己の本質をさらけ出している妬美がたまらなく面白く、殺されそうだというのに黒時は笑ってしまいたかった。吹き出してしまいたかった。
首を絞められているので物理的に声を出したりすることは不可能なのだが、しかし、それでも首を絞められている彼の顔は満面の笑みだった。目の前で、首を絞めてくる男と同じように――。
「そろそろお休み、灰ヶ原君」
「何をしている!」
「ぐあぁっ――――!」
突然の怒号と衝撃音が黒時の耳に届いた。
同時に苦しさが消え、首を絞められる感触もなくなった。
「大丈夫か、黒時!?」
駆け寄って黒時の顔を覗き込む一人の女。村々怜奈である。
部屋にいた怜奈は先程廊下に出てきて(興奮しきった彼女が今まで部屋で何をしていたのかは想像したくない)黒時の窮地を知り、襲い掛かっている妬美の身体に体当たりをして、彼を吹き飛ばしたのだった。
「げほっげほっ。はあ、はあ、大……、丈夫……」
「礼はいい。それよりも、安静にしていろ」
怜奈にとっては何一つ理解出来ない状況だろう。
宙を舞う小さな黒い物体。突然豹変したかのように生徒を襲っていた教師。怜奈でなくとも当惑する場面である。
だが、状況を説明している暇は黒時にはなかった。それにどのみちまだまともに声もだせないのだ。
怜奈が参入したことで妬美はどうにかなるとしても、まだそれよりも遥かに強大なレヴィアタンが残っている。なんの力も持っていない怜奈一人でレヴィアタンに立ち向かうというのは、無謀どころかただの自殺行為と言えるだろう。
未だ黒時の身体は動きそうになかった。黒時自身かすかに回復しているのは感じるけれど、まだ時間が足りない。それほどまでに、レヴィアタンの放った一撃は凄まじいものだった。
『ケヒヒヒ。よくも邪魔して下さいましたね、美しいお嬢さん』
気付けばレヴィアタンの姿は、既に怜奈の目前にあった。忽然と現れた悪魔に驚きを隠せない怜奈。このままでは二人とも殺されてしまう。
『あちらの少年は草他さんにお任せしてますので、仕方ありません。貴方は我輩が殺して差し上げましょう』
「逃げろ……」
黒時は壁にもたれながら、かろうじて声を搾り出した。けれど、それは怜奈の安否を危惧しての言葉ではない。
そんな優しさ、黒時は持ち得ていない。
この世界にいる人間と悪魔に関連性があるのならば、怜奈もまた悪魔を見つけ殺すのに必要な存在となってくる。ここで死なすわけにはいかないのだ。
とは言え先述の通り、黒時は未だ身体を動かすことができない。ゆえに、怜奈を助けることができない。
だからこそ逃げろ、とそう彼女に言ったのだが、残念ながら黒時の想いは、今の状況と同じく怜奈には理解されなかったようだった。
「安心しろ、黒時。私が必ずお前を守ってみせる」
『ケヒヒヒ。貴方に何が出来るのです? まだ覚醒も出来ていないようなただの器風情が、あまり調子に乗るもんじゃありませんよ』
「覚醒……。それは、黒時たちの言っていた光る腕とかのことか?」
『おや、ご存知でしたか。しかし、どうやらその光る腕をお持ちの方はここにはおられないようですね。いやはや、残念。どうです? 貴方も覚醒してみせますか?』
「く、黒時……」
怜奈は縋るような目で黒時を見つめた。しかし、黒時にも彩香や駄紋がどのようにしてあの力を発現したのか詳しくは分からない。分かっているのは、彼女達が己の本質をさらけ出していた、ということだけである。
もし、それが力の発現、悪魔たちが言うところの覚醒の条件であるならば、怜奈はとうに条件を満たしているはずなのだが……。
黒時は壁にもたれた態勢のまま首をゆっくりと左右に振り、怜奈に応えた。
「そうか、黒時も知らないか」
覚醒の方法を得ることは出来ず、腹を括ったのか、怜奈はレヴィアタンの正面に立ち、悪魔と対峙した。
「私の黒時には、指一本触れさせないぞ!」
『そうですか。我輩はそもそもその少年に触れるつもりはないのですが、まあ、いいでしょう。それにしても、少々耳障りになってきましたねえ。さっさと殺して静かにしてしまいしょうか』
「くっ……」
レヴィアタンの身体がゆっくりと動き始める。
あまりの速さに止まって見える、と言うけれど、そういった類のもではなく、実際にレヴィアタンは恐ろしく遅く動いている。
かすかに動いてるのが視認できるほどの速さで――ゆっくりと、目の前の人間に恐怖を刻みながら、動いている。
「やめてくれ!」
言ったのは怜奈ではなく、当然黒時でもなかった。もう一人の人間。自ら殺人者に墜ちようとしていた人間。妬美草他だった。
「レ、レヴィアタンさん。あ、あの、どど、どうかその女性だけは、その人だけは、殺さないでくれませんか?」
怜奈に突き飛ばされた身体を起こしながら、妬美は言った。
言葉を受けたレヴィアタンは、動きを完全に停止させて妬美の方へと笑顔で振り向いた。不気味で恐ろしい――笑顔で振り向いた。
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