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第四章 (1)

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 思わぬ声に、数弥は、おびえた口調で返事をした。
「だ、誰すか?」
「ぼ、僕だよ。一つ上の階に住んでいる」
「その声は奥本君すか」
「そだよ。か、数弥さん、一人だけでいいことなんてして、ずるいな」
 通話の相手、奥本君から、特徴のある低い声が響いてきた。
「別にいいことなんて、一つもしてませんよ」
「隠してもダメだよ。今から、ぼ、僕が行くから待っていてね」
 そして、電話は一方的に切られたのである。
 通話を終えた数弥は、不安な顔をして天美に声をかけた。
「天ちゃん、どうやら、まずいことになったみたいす」
「まずいって、今の電話?」
「ええ、同じアパートに住んでいる奥本君からなんすが、彼はちょっと」
 数弥が説明している最中、玄関でチャイムが鳴った。
「来たみたいす。ちょっと、待っててくださいね」
 そう答えた数弥は、玄関に向かうと、そのドアを開けた。すると、外に立っていたのは、眼鏡をかけた、やせ気味の青年である。
「か、数弥さん。では、入るよ」
 奥本君は、声をかけて中に入ってきた。そして、天美を見つけた途端、
「かーわいい」
 叫んで、彼女の方に向かっていったのだ。
「何をする気なんすか?」
 数弥は慌てて叫び、強引に中に入った。
「でも、か、数弥さん。一人だけいいな、こんな、かわいい子と」
「勘違いしちゃいけませんよ。これすよ」
 そして、数弥はファッション雑誌と、メイクセットを見せた。
「そだね。着せ替えなんだね。か、数弥さんも好きなんだなあ」
「やっぱり、勘違いをしているじゃないすか」
「別に勘違いなんかしてないよ」
「してると思いますよ。実はこの子、警察に追われてるんすよ」
「け、警察!」
  奥本君も警察が苦手なようである。
「そうすよ。わかってくれましたか?」
「わかったよ。警察から姿を隠すため、変装しようとしているんだね」
「ええ、そういうことすが」
「そ、そんなら、ぼ、僕にも手伝わせてくれない」
 奥本君は、答えながら目を輝かせた。
「手伝いすか」
「そだよ。か、数弥さんがした、こんなの、どう見ても変装に見えないよ。ただ顔にクリームを、めちゃめちゃに塗っただけだよ。ぼ、僕に任せて」
「大丈夫すか?」
「大丈夫だよ。妹たちには、よく化粧をしているから」
 奥本君の言っている妹たちというのはフィギュア人形のことである。
「それでも、ちょっと、さすがに」
 数弥はそう答えながら天美を見た。彼女は、なんとも言えない顔をしていた。〈ここでも、またかあ〉、というような感じである。実際、セラスタでは、潜伏のため、泥を、わざと顔につけるぐらいの苦行をすることが、幾度もあったからだ。
 迷っている数弥に向かって、奥本君は言った。
「本当にいいの。中途半端はよくないと思うよ。かえって目立つから」
「わかりました。そうすね、そうした方がいいすね。では、お願いします」
 結局そう了承したのである。
「では、道具を部屋に行って取ってくるから、待っていてね。閉め出しはダメだよ。そんなことしたら、ぼ、僕、よその人にしゃべっちゃうから」
  奥本君は念を押すと、部屋を一旦は出ていった。

 出ていくやいなや、天美が声を出した。
「今の人に頼むの?」
「そうすけど」
「日本って、あんな感じの美容師さんもいるのね」
 天美はそう答えた。今までも、余程、個性豊かな、美容師に出会っていたのか。
「いや、彼は美容師ではないす。フィギュア造りのプロなんす」
「なぜ、ここでスケートの話を?」
「違います。アニメやゲーム内の登場人物をかた取った人形のことすよ。彼は、美少女人形の制作に対しては第一人者すよ。それに、等身大の人形も、いくつか持っていますし」
「じゃあ、わったしは、ここでも、人形扱いになるの!」
 天美の口調が変化した。大きな過去の、いやな出来事に触れたのだ。
 天美のミドルネーム、ボネッカはポルトガル語で人形という意味だ。そのミドルネームは、天美が預けられたとき、ミレッタが名付けたものである。
 実際、ミレッタは天美を自分の所有物のように扱っていた。そのような経験から、人形という言葉には敏感なのであった。そして、そのあとも彼女は怒った口調で、
「そんな、人形制作の人なんて!」
「もとはといえば、天ちゃんもいけないんすよ。さっき、ごちゃごちゃと、玄関口でもめましたから、きっと、そのやりとりを見られたんすよ。
「そうかもしれないけど」
「ですけど、よく考えたら、彼に手伝ってもらった方がいいかもしれませんね。今からする変装は、簡単にばれてはいけないんすから」
 と、そのとき、玄関から、その奥本君の声がした。
「か、数弥さん。道具を持ってきたよ。開けてよ」
  数弥は部屋の扉を開け、再び、奥本君は部屋に入ってきた。
「ぼ、僕、生身の女の子、初めてだから、うまくできるかなあ」
 彼の言葉は遠慮深かったが、その口調は期待感でふくらんでいた。
「今更、そんなこと言われても困りますよ」
「そだね。なんとか、挑戦してみるよ」
  奥本君は苦笑いをしながら、天美に近づき、その顔をなで始めた。そして、メイクセットを数弥から受け取ると、丁寧に顔をこねるように塗り始めた。
 天美は不快であったが、過去、変装をしなければならなかったとき、自分に起きたことに比べたら、まだ、ましであったので、じっと、我慢をしていた。
 メニアドーラン自体も、画期的な製品なのだが、奥本君も、その筋では名人というのか、丁寧な顔塗りで、天美の顔つやは、アニメの登場人物の肌色に近くなっていた。
  数弥は感心した表情で、その作業を見つめていた。
  やがて、天美の素顔は、完全にメニアドーランで隠された。
「さあ、顔は塗りおえたよ。次はいよいよ、色塗りだなあ。これは、僕、大好きなんだ」
 奥本君はそう興奮した声を出しながら、持ってきたフィギュア化粧用のケースを開けた。そして、染料のビンを見つめながら、楽しげにつぶやいていた。
「やっぱり、初めて、生身の子をあつかうのだから、基本的な色の方がいいな。でも、ここからが悩むなあ。サユリちゃんのような、エメラルドの髪がいいかな。ナオミちゃんのように、ピンク色も捨てがたいなあ」
 奥本君のいう基本的な色は黒ではないようである。真剣な表情をしながら、選び出した二色のビンを見つめていた。その様子を見て数弥が声を出した。
「そんなに迷っているなら、両方使えばいいじゃないすか」
「両方かあ」
「ええ、どっちも、パステル系のいい色じゃないすか。その二色を、きれいに塗り分ければ、いい感じになると思いますよ。ピンク色にエメラルドのアクセントはどうすか」
「なるほどね。それもまた、いいね」
 奥本君は愉快そうな口調で答え、天美のウイッグを彩色する作業が始まった。その彩色中、彼は、少女アニメの主題歌を口ずさんでいた。
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