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第二章 借り物の肉体と、遅すぎた教訓
しおりを挟む 鏡の中の男が、呆けたように口を開けている。
黄ばんだ白目。目の下のたるんだ隈。無精髭が白く混じり、頬の肉は重力に負けて垂れ下がっていた。
私は震える手で、その男の頬に触れた。鏡の中の老人も、同じようにしわ枯れた手で頬に触れる。
指先に伝わるのは、乾燥した老婆の皮膚のような、ざらついた感触だった。
――これが、俺か?
私は三十歳だった。昨日までは。
刑事課のエース候補と目され、連日の激務に追われながらも、その充実感に酔っていた。鏡を見れば、そこには脂の乗り切った野心的な男の顔があったはずだ。
だが今、ここにいるのは「燃えカス」だ。人生の坂を転がり落ち、あとは平坦な道を墓場まで歩くだけの、疲弊しきった老人だった。
「あら、権藤さん。起きたんですか」
病室のドアが開き、看護師が入ってきた。彼女は私の顔を見ても驚きもしない。当然だ。彼女にとって、私はこの「権藤」という老人なのだから。
「……鏡を見ていた」
声を出して、また驚いた。喉の奥で砂利を擦り合わせたような、低くしわがれた声が出たからだ。
「自分の顔なんて見てどうするんです? 惚れ直しました?」
看護師は手際よく点滴のパックを確認しながら、軽口を叩いた。
「今回は運が良かったんですよ。心筋梗塞の発作が起きたのが、たまたま署の近くだったから搬送が早かった。もう少し遅れていたら、三途の川を渡りきってましたよ」
三途の川。その言葉に、背筋が粟立つ。
私はあそこで取引をしたのだ。七日間の命と引き換えに、この薄汚れたコートのような肉体を纏うことを。
ふと、病室の天井近くに設置されたテレビから、ニュースキャスターの沈痛な声が聞こえてきた。
『――昨夜未明、横浜港の倉庫街で遺体となって発見されたのは、神奈川県警捜査一課の相沢(あいざわ)徹(とおる)巡査部長、三十歳です。警察は殺人事件と断定し、捜査本部を設置しました……』
画面に映し出されたのは、私の顔写真だった。
警察手帳に使われている、少しすました表情の証明写真。その下に「殉職」のテロップが踊る。
看護師が手を止めて、画面を見上げた。
「三十歳だって。若いのにねぇ……。奥さんもお子さんもいるんでしょう? 可哀想に」
彼女は何気なく呟き、そして私のほうへ向き直り、溜息交じりに言った。
「権藤さん、あなたも他人事じゃありませんよ。不摂生ばかりして、お酒とタバコに溺れて。人間、いつお迎えが来るか分からないんですから」
「……ああ」
「死んでからじゃ、後悔もできないんですよ。生きているうちにしか、大事なことはできないんです。残された時間がどれだけあるか、誰にも分からないんですから」
彼女の言葉は、説教めいた定型句だったかもしれない。だが、死の淵から戻ったばかりの今の私には、鋭利な刃物のように胸に突き刺さった。
死んでからじゃ、後悔もできない。
いや、俺は後悔するために戻ってきたんだ。
取り返しのつかないことを、どうにかして取り返すために。
「……退院手続きを頼む」
「えっ? まだ安静にしてないと」
「仕事があるんだ。どうしても、行かなきゃならない現場がある」
私が強い口調で言うと、看護師は少し驚いたように目を丸くした。この「権藤」という男は、普段そんなことを言う人間ではなかったのだろう。
病院を出て、タクシーを拾った。
ポケットに入っていた財布には、古びた免許証が入っていた。「権藤(ごんどう)平八(へいはち)、五十八歳」。それが今の私の名前だ。
タクシーのシートに身を沈めると、全身の関節が軋むような感覚があった。腰が重い。視界が少し霞む。慢性的な疲労が、骨の髄まで染みついているようだ。
三十歳の肉体とは、世界の解像度がまるで違う。呼吸をするだけで、肺の奥で何かが詰まったような音がする。
県警本部に到着した。
見慣れたはずの建物が、今日は巨大な墓標のように見えた。
自動ドアを抜けると、ロビーは物々しい雰囲気に包まれていた。制服警官が行き交い、記者がたむろしている。すべては「私」が殺された事件のせいだ。
エレベーターで捜査一課のあるフロアへ向かう。
ドアが開いた瞬間、怒号が飛んできた。
「何が『情報の精査』だ! ホシはまだ近くにいるかもしれねえんだぞ!」
聞き覚えのある声だった。
フロアの中央で、パイプ椅子を蹴飛ばして吠えている若い刑事。
日下部(くさかべ)だ。
私の二つ下の後輩であり、捜査方針を巡ってことあるごとに衝突していた天敵。
「相沢さんが殺されたんだぞ! 俺たちが動かないでどうするんですか!」
日下部は血走った目で上司に食って掛かっていた。
私は息を飲んだ。私と彼は犬猿の仲だったはずだ。私が手柄を立てれば舌打ちし、私が失敗すれば嘲笑う。そんな男が、私の死にこれほど憤っているとは。
私はゆっくりと部屋に入っていった。
「……おい、権藤さんが戻ってきたぞ」
誰かが囁いた。
その声には、敬意の欠片もなかった。あるのは「厄介者」「給料泥棒」を見るような、冷ややかな侮蔑の響きだけ。
日下部が振り返り、私(権藤)を見た。その目には露骨な嫌悪感が浮かんだ。
「チッ……。心臓止まったんじゃなかったのかよ。しぶといジジイだ」
日下部は吐き捨てるように言った。
「こんな時に、役立たずの窓際族に戻って来られても迷惑なんですよ。そこらへんで茶でも啜っててくださいよ」
私は何も言い返せなかった。
今の私は、かつてのエース刑事「相沢」ではない。
署内のお荷物、昼行灯(ひるあんどん)の「権藤」なのだ。
かつての部下や同僚たちが向ける視線は、透明人間を見るかのように冷淡で、あるいは粗大ゴミを見るかのように無遠慮だった。
これが、この男の日常だったのか。そして、今の俺の現実なのか。
「注目!」
その時、部屋の空気が一変した。
奥の扉が開き、捜査一課長、そしてその背後から署長が現れたのだ。
署長――神宮寺(じんぐうじ)。
私が最も尊敬していた上司であり、警察官としての「あるべき姿」を教えてくれた恩人だ。銀髪をオールバックになでつけ、鋭い眼光は六十歳を超えてなお衰えていない。
署長は沈痛な面持ちで、ホワイトボードの前に立った。ボードには「相沢徹巡査部長 殺人死体遺棄事件 捜査本部」の文字と、私の写真が貼られている。
「諸君」
署長の低くよく通る声が響いた。
「我々は優秀な仲間を失った。相沢は正義感の強い、真の警察官だった。その彼が、無残にも殺害された。これは我々県警全体への挑戦である」
署長の声に、刑事たちが背筋を伸ばす。私も思わず直立不動の姿勢を取りそうになったが、慌てて背中を丸めた。権藤なら、こうはしない。
「犯人は必ず挙げる。どんな些細な情報も見逃すな。徹底的に洗え」
署長は力強く宣言し、そして私の方を一瞥した。一瞬、その目に奇妙な色が走ったのを私は見逃さなかった。
哀れみ? いや、もっと冷たい、計算高い光。
「権藤」
署長に名を呼ばれ、私はビクリと肩を震わせた。
「体調はいいのか」
「は、はい……なんとか」
慣れない敬語と嗄れた声で答える。
「無理はするなと言いたいが、人手が足りん。お前も捜査に加われ」
署長はそう言うと、部屋の隅にいた日下部を指名した。
「日下部。お前が権藤と組め」
「はぁ!?」
日下部が素っ頓狂な声を上げた。
「しょ、署長! 勘弁してください! 俺は相沢さんを殺した奴を、一秒でも早く捕まえたいんです! こんな……介護が必要なロートルと組んでる暇はないんですよ!」
「決定だ。権藤の『経験』を活かせ」
署長は有無を言わせぬ口調で告げると、踵を返して部屋を出て行った。
残されたのは、絶望的な顔をした日下部と、呆然と立ち尽くす私だけ。
部屋中の視線が突き刺さる。「最悪の組み合わせだ」「足手まとい確定だな」という囁きが聞こえる。
私は自分のデスク――窓際の日当たりの良すぎる、書類の山に埋もれた席――にどっかりと腰を下ろした。
椅子のスプリングが悲鳴を上げる。
隣の席では、日下部がイライラと貧乏ゆすりをしながら、電話帳のような資料を机に叩きつけていた。
これが、俺の捜査本部(チーム)か。
七日間。
この役立たずの体と、俺を嫌っている相棒。
そして、まだ誰も気づいていない「俺が握っていた証拠」の行方。
私は胸ポケットを探った。権藤のタバコが入っていた。「わかば」だ。
一本取り出し、口に咥える。ライターの火をつけると、紫煙が目に染みた。
咳き込みながら、私はホワイトボードの上の「自分」を見た。
待っていろ。
必ず、俺自身が、俺の無念を晴らしてやる。
たとえ、こんな老いぼれの姿であっても。
私は煙を深く吸い込み、日下部に向かって声をかけた。
「おい、若いの。まずは現場へ行くぞ」
「……指図すんな、ジジイ」
日下部は親の仇を見るような目で私を睨みつけたが、しぶしぶと上着を掴んだ。
最悪で、最高の捜査が始まった。
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