7日間の執行猶予

雨垂 一滴

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第五章 屋台の湯気と、届かない本音

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​ 港近くの裏通りにある、古びたラーメン屋。
 赤提灯が風に揺れ、豚骨の白濁したスープの匂いが漂ってくる。
 丸椅子に腰を下ろすと、腰骨がギシと鳴った。熱いお茶をすすると、冷え切った内臓に熱が染み渡るのがわかる。生きている、という感覚が、皮肉にもこの借り物の肉体を通して鮮明に伝わってきた。
​「ラーメン二つ。あと、ビール」
 日下部が注文する。
「勤務中だぞ」
「知ったことか。どうせ窓際コンビだ。誰も気にしちゃいませんよ」
 日下部は生ビールのジョッキを、一気に煽った。泡が唇につくのも構わず、彼は虚空を睨みつけている。
​「……相沢さんは、下戸だったな」
 私がぽつりと言うと、日下部はグラスをドンと置いた。
「ええ。付き合いの悪い人でしたよ。飲み会に誘っても『娘の塾がある』とか言って断るし、残業中もブラックコーヒーばっかり飲んで。……完璧超人きどりで、隙がなかった」
​ 私はラーメンをすすりながら、苦笑した。

 そうか、俺はそう見えていたのか。
 ただ必死だっただけだ。早く仕事を終わらせて家に帰りたかったし、眠気を覚ますためにコーヒーを流し込んでいただけだ。それが、部下には「気取っている」と映っていたとは。
​「嫌いだったか?」
 私が尋ねると、日下部は箸を止めた。湯気の向こうで、若者の顔が少し歪んだ。
「……大っ嫌いでしたよ」
 はっきりと言われた。胸の奥がチクリと痛む。
「俺がどんなに足掻いても、あの人は涼しい顔で正解を出す。俺が三日かけて取った証言を、あの人はたった一時間の聴取で引き出す。嫉妬する気にもなれないくらい、格が違った」
​ 日下部はビールをもう一口、今度はゆっくりと口に含んだ。
「でもね、権藤さん。俺、一度だけあの人に助けられたことがあるんです」
「……ほう」
 記憶にない。私は彼を助けたことなどあっただろうか。
​「二年前、俺がミスをして重要な参考人を逃がしちまった時です。上層部は俺をクビにする気だった。でも、相沢さんが頭を下げたんです。『責任は指導係の私にある。彼の失敗は、私の指導不足だ』って。あのプライドの高い相沢さんが、署長室で土下座までして」
 
 思い出した。
 そうだ、そんなこともあった。あの時は、単にチームの人員を減らされたくなかったのと、若手のミスをカバーするのは上司の役目だという義務感からやったことだった。
「俺、そのこと礼も言えてないんですよ。いつか手柄を立てて、あの人を越えた時に言ってやろうと思ってたのに……」
 日下部の声が震えた。彼は拳を握りしめ、テーブルを弱く叩いた。
「なんで死んじまうんだよ、クソッ……! これじゃあ、俺はずっとあの人に勝てないままじゃないか」
​ 私は箸を置いた。
 ラーメンの湯気が目に染みるふりをして、目頭を押さえる。
 馬鹿野郎。
 そんなに思ってくれていたなら、生きているうちに言え。
 そうすれば、俺だって、もっとお前を信頼して、いろんなことを任せられたかもしれないのに。
​ 三途の川の渡し守の言葉がリフレインする。
 『人は死んでから本当に大切なものに気づく』
 気づいたのは私だけではない。残された者たちもまた、喪失によって初めて気づくのだ。
​「……越えられるさ」
 私は、権藤のしわがれ声で、できるだけ優しく言った。
「あいつは死んだ。時間は止まったままだ。だが、お前は生きている。生きていれば、いつか必ず越えられる日が来る」
「……気休め言わないでくださいよ、ジジイ」
 日下部は鼻をすすり、残ったラーメンを一気にかき込んだ。
​「ごちそうさん。……行くぞ、権藤さん。なんか、あんたと話してると調子狂うな。妙に説教くさいところが、あの人に似てやがる」
 日下部が席を立った。
 私は苦笑いしながら、勘定を払うために小銭入れを探った。
​ その時だ。
 店のテレビで、ニュース速報が流れた。
『――先ほどの続報です。相沢巡査部長殺害事件に関与した疑いで、県警は重要参考人の行方を追っています。手配されたのは、暴力団準構成員の男……』
​ 画面に男の顔写真が出た。
 私は息を飲んだ。
 それは、私が内偵していた麻薬組織の、単なる「使い走り」の男だった。
 違う。こいつじゃない。こいつはただの運び屋だ。私を殺せるような度胸もなければ、銃を手に入れるルートも持っていない。
 
 トカゲの尻尾切りだ。
 真犯人は、早くも捜査を幕引きにしようとしている。
 
「おい、日下部!」
 私は店を出た日下部の背中に向かって叫んだ。
「急ぐぞ。奴らが『犯人』をでっち上げる前に、本物の証拠を見つけなきゃならん!」
「はあ? 何言ってんだ?」
「俺の……いや、相沢の家に隠されたものがあるかもしれん」
​ そうだ。思い出した。
 あの日、私は押収した証拠データが入ったマイクロSDカードを、とっさに――クマのぬいぐるみの首輪の飾りに隠したんだった。
 誰にも見つからないように。そして、最悪の場合、娘にだけは届くように。
 それが今、最大の危険を娘に招いているとも知らずに。
 あの世から転生したからか、どうやら記憶があいまいになっているようだ。
​ 焦燥感が全身を駆け巡った。
 リミットまで、あと六日と十二時間。
 歯車が、狂った速度で回り始めた。
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