7日間の執行猶予

雨垂 一滴

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第二十三章 最悪の取引材料

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​「……てめぇ、神宮寺ッ!」
 日下部が叫び、スマホを握りしめた。スピーカーから、低く、落ち着き払った声が漏れ聞こえてくる。かつて私が尊敬していた、あの威厳ある声だ。
​『騒ぐな、日下部巡査部長。……いや、今は容疑者だったか』
 神宮寺の声には、微塵の焦りも感じられなかった。むしろ、この状況を楽しんでいるかのような余裕さえある。
『単刀直入に言おう。取引をしたい』
​「取引だと? ふざけるな! あんたの罪はもう暴かれるんだ! 夕刊が出れば、あんたは終わりだ!」
 日下部が吠える。だが、神宮寺は冷笑した。
『夕刊? ああ、東新聞の谷村くんか。彼女なら、先ほど「取材妨害」の容疑で任意同行を求めたよ。記事の差し止めも手配済みだ』
​「なっ……!」
 私たちは絶句した。谷村記者が捕まった? マスコミまで封じ込めたというのか。警察権力の乱用もここまで来れば狂気だ。
 私たちの最後の希望が、あっけなく潰えた。
​『さて、取引の内容だが……。君たちが盗み出したデータを返してほしい。そうすれば、君たちの罪は軽減しよう。権藤警部補の乱心も、病気によるものとして処理してやる』
「断る! 誰があんたなんかの言いなりになるか!」
『そう言うと思ったよ。だから、別の材料を用意した』
​ 電話の向こうで、カサコソという音がした。そして、聞き覚えのある、か細い声が聞こえてきた。
​『……ママ、こわいよぉ……』
『大丈夫よ、早紀。大丈夫だから……』
​ 私の心臓が止まりかけた。
 早紀。由美。
 なぜだ。日下部が安全な場所へ逃がしたはずじゃなかったのか。
​『残念だったな。君たちが手配した逃走ルートは、全て把握していたよ。奥様とお嬢さんは、我々が「保護」させてもらった。凶悪な逃亡犯から家族を守るためにな』
​ 保護。よくもそんな白々しい嘘を。人質だ。奴はなりふり構わず、私の最も大切なものを奪ったのだ。
 怒りで視界が赤く染まる。権藤の老いた血管が、怒りの血流で破裂しそうだった。
​『条件は一つだ。データを持ち、指定する場所へ来い。期限は一時間。……場所は、そうだな。すべての始まりの場所、「横浜港第4倉庫」がいいだろう』
​ 第4倉庫。私が殺された場所だ。
 奴は、あの場所で全てを終わらせるつもりなのだ。私と、日下部と、そして真実のすべてを、あの闇に葬り去るつもりだ。
​『遅れた場合、あるいは妙な真似をした場合……ご家族の安全は保証しかねる。賢明な判断を期待しているよ』
 プツリ、と通話が切れた。
​ コンテナヤードに、重苦しい沈黙が降りた。
 日下部はスマホを握りしめたまま、呆然と立ち尽くしていた。
「……すまねえ。俺のせいで……俺が、甘かったせいで……!」
 彼がハンドルに拳を叩きつけ、嗚咽を漏らす。彼の責任ではない。神宮寺の悪意が、私たちの想定を遥かに超えていただけだ。
​ 私は、激しい咳の発作に襲われた。
 ゴフッ、ゴボッ!
 大量の血が口から溢れ出す。シートが赤く染まる。呼吸ができない。目の前が真っ暗になる。
 ああ、もう限界か。
 権藤の肉体が、終わりを告げている。
​「おい、権藤さん! しっかりしろ! 死ぬな!」
 日下部の悲痛な叫びが遠くに聞こえる。
​ 薄れゆく意識の中で、私は三途の川の光景を思い出していた。
 あの渡し守――権藤平八の魂。彼はニヤリと笑って、こう言ったはずだ。
 『七日目の朝日が昇るまでに、必ず戻ってこい』
​ まだだ。まだ七日目の朝日は昇っていない。
 まだ終われない。
 ここでくたばったら、俺は本当に、家族を見捨てた最低の男になってしまう。
​ 私は、最後の力を振り絞った。
 魂が、肉体の内側から絶叫する。動け。立て。まだやることがあるだろう!
​「……う、ぐぅ……っ!」
 私は奇跡的に、意識の水面へと浮上した。
 荒い息をしながら目を開けると、涙目で私を見つめる日下部の顔があった。
​「……日下部。行くぞ」
 口の中の血を吐き捨て、私は言った。声はガラガラだったが、そこには確固たる意志が宿っていた。
「倉庫へ。……最後の仕上げだ」
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