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⑴-①
しおりを挟む車窓の外を流れる繁華街の光は、遠い世界の残像のようだった。
黒塗りの高級車の後部座席に座るエラの身体は、硬直したまま動かない。手首の鎖は外されたが、冷たい金属の感触はまだ肌に残っている。隣に座るヴィンセントの気配が、彼女の心を締め付けた。
彼の青い瞳は前方を向いているが、その存在感だけで空気が重い。革張りのシートが、微かに軋む音を立てるたび、エラの心臓が跳ねる。
「緊張してんのか?」
ヴィンセントの声が、静かな車内に響く。低く、どこか楽しげな響き。エラは唇をきつく結び、窓の外に視線を固定した。答えたくなかった。いや、答えられない。
地下室での屈辱、男たちの視線、三億という値段――全てが頭の中で渦を巻き、彼女を押し潰そうとしていた。
「黙ってても、身体が正直だな」
彼の言葉に、エラの手がスカートの裾をぎゅっと握る。ヴィンセントの視線が、彼女の震える指先に滑るのが分かった。まるで、彼女の全てを見透かすような目。
エラは深く息を吸い、声を絞り出した。
「……あなたに、関係ありません」
小さな反抗だった。だが、ヴィンセントの口角が上がる。まるで、彼女の抵抗が彼の遊び心を煽るかのように。
「ハッ、関係ねぇわけねぇだろ。てめぇは俺のもんだからな」
オークション会場での言葉が、ふいに頭を過って、エラの胸が締め付けられる。
この男は、彼女を所有物としてしか見ていないかもしれないし、そうではないのかもしれない。ヴィンセントの青い瞳には、単なる欲望を超えた何か――執着とも呼べる光が宿っている。それが、エラをさらに混乱させた。
車が停まり、ドアが開く。
目の前に現れたのは、まるで絵画から抜け出したような豪華な邸宅だった。白亜の外壁が月光を反射し、広大な庭には整えられた薔薇が静かに咲いている。だが、エラにはそれが新たな檻にしか見えなかった。自由のない、美しい牢獄。
ヴィンセントの手が、彼女の背に軽く触れる。ぞくりとした感覚に、身体が一瞬硬直した。
「入れ」
短く命じられ、エラは仕方なく一歩を踏み出す。大理石の床が、ハイヒールの音を冷たく響かせる。
邸宅の内部は、地下室の薄暗さとは対極の輝きに満ちていた。金箔の装飾が施されたシャンデリア、絹のカーテン、壁にかけられた名画。
だが、その豪華さがエラの心を落ち着かせることはなかった。むしろ、彼女の孤立感を深めるだけだった。
ヴィンセントはエラを広い廊下の奥へと導く。使用人たちが頭を下げるが、彼らの目はエラを避けるように伏せられている。まるで、彼女がこの屋敷の主の所有物であることを暗に示すように。
エラの喉が、乾いた音を立てる。
酷い扱いが待っている――地下室の男たちの視線を思い出し、彼女の身体が無意識に震えた。
だが、ヴィンセントが立ち止まったのは、予想外の場所だった。
重厚な木製の扉を開けると、目の前に広がったのは広大なバスルーム。白いタイルが光を反射し、中央には大理石の浴槽が据えられている。湯気が立ち上り、薔薇の花弁が水面に浮かぶ。
エラの足が、思わず止まる。
「何……?」
やっとの思いで発した声が掠れる。ヴィンセントが振り返り、薄い笑みを浮かべる。
「汚ねぇままじゃ、俺の屋敷にいられねぇだろうが」
彼の言葉に、エラの背筋が凍る。地下室の埃と汗、タバコの匂いが染みついたドレス。確かに、彼女の身体は汚れている。
だが、この男の意図が読めない。酷いことをされる――
例えば、どこかを傷つけられるのか。暴力で黙らされるのか。そういうことをされる覚悟は、とっくに決めていた。
それなのに、ヴィンセントの行動は彼女の予想を裏切る。
「脱げ」
短い命令に、エラの心臓が跳ねる。反射的に腕を胸に抱き、唇を噛んだ。
「…自分で、できます」
気取った声で答えたが、震えは隠せなかった。ヴィンセントの口角が、意地悪く上がる。
「なら、さっさとしろ」
彼はそう言うと、彼女の羞恥を観察するつもりでいるかのように、バスルームの壁に背を預けて腕を組んだ。
エラの頬が熱くなる。地下室の男たちの視線とは違う、もっと個人的で、もっと深い屈辱だった。
だが、逆らうことはできない。この男は、彼女の人生を握っている。
震える手でドレスのファスナーを下ろすと、シルクの布が滑り落ち、冷たいタイルの床に広がった。裸の肌にバスルームの湿った空気が触れる。
エラは唇をきつく結び、ヴィンセントの視線を避けた。
羞恥が胸を締め付ける中、彼の足音が近付いてくる。エラの身体が、反射的に硬直した。
「動くな」
低く抑揚のない声。ヴィンセントの手が、彼女の肩に触れた。冷たい指先が、地下室での感触を思い起こさせる。
だが次の瞬間、彼の行動はエラをさらに混乱させた。
ヴィンセントは自分のコートを脱ぎ、シャツのボタンを外し始めた。整った胸元が露わになり、エラの息が詰まる。
「な、何を……?」
掠れた声で問うと、ヴィンセントは小さく鼻で笑った。
「風呂に入れてやるんだから、俺も脱ぐに決まってんだろ」
彼の言葉に、エラの頭が真っ白になる。
裸で、二人で――想像しただけで、羞恥と恐怖が胸を締め付ける。だが、ヴィンセントはすでに服を脱ぎ終え、浴槽の縁に腰掛ける。青い瞳が、彼女をじっと見つめる。まるで、逃げ場のない獲物を追い詰めるように。
「来い」
命じられ、エラの足が震える。だが、動かなければもっと酷いことになる――その予感が、彼女を一歩踏み出させた。
浴槽の縁に近づくと、ヴィンセントの手が彼女の腕を掴む。引き寄せられ、温かい湯が肌に触れる。薔薇の香りが鼻をつき、エラの緊張をほぐそうとするが、ヴィンセントの気配がそれを許さない。
彼の手が、スポンジを持ち、エラの背中に滑らせる。意外にも、丁寧で壊れ物を扱うような動きだったが、その指先には支配的な力が宿っている。
「………」
エラの身体が、反射的に震える。羞恥と、なぜかほのかな安堵が混じる。酷い扱いを予想していたのに、この男は傷つけるどころか、大切なものを磨くように洗ってきている。
「ツラは良いのに、汚ねぇな」
そう笑うヴィンセントの声は低く、どこか挑発的だ。スポンジが首筋を滑り、鎖骨をなぞる。エラの頬が、さらに熱くなった。
「……黙っ、てください」
小さな反抗だった。だが、ヴィンセントの笑みが深まる。
「ハッ。口だけは達者で何よりだわ」
彼の手が、彼女の腕を滑り、指先に触れる。湯の中で、ヴィンセントの肌がエラに触れる瞬間、彼女の心臓が大きく跳ねる。まるで、彼の存在が彼女の全てを飲み込むように。
エラは目を閉じ、唇を噛んだ。
この男はエラを所有物として扱いながら、なぜか彼女の心を揺さぶる。恐怖と微かな好奇心。地下室で感じたあの感情が、ふいに蘇る。
「震えてんぞ」
「……っ」
ヴィンセントの声が、耳元で囁く。名前を呼んでくるその響きに、エラの胸の奥が軋んだ。
彼の手が、彼女の髪を濡らし、指先で梳く。丁寧な仕草なのに、支配的な力がそこには宿っている。エラは息を詰まらせながら、ただその手に耐えた。
「自分のもんは、自分で綺麗しとかなきゃな」
彼の言葉に、エラの目が開く。青い瞳が間近で彼女を捕らえ、彼女の心の奥まで見透かすように光っていた。
エラの喉が、乾いた音を立てる。この男は、自分をどうするつもりなのか。美しい檻の中で、どんな運命が待っているのか。彼女の想像力は、その答えを拒絶した。
湯気が立ち上るバスルームで、ヴィンセントの指先がエラの頬をなぞる。地下室の冷たい触れ方とは違う、熱を帯びた感触。エラは、知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。
――この男に、魂まで奪われるわけにはいかない。
そう心の中で呟きながら、彼女はヴィンセントの視線を跳ね返すように、唇を固く結んだ。
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