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30、王女の夫は時々バグる

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「─────くちづけを、やり直させてはいただけませんでしょうか?」


 イーリアス様の沈黙。
 戸惑い?の色がその目に浮かんだ……ような気がする。


「殿下。そちらもご無理をなさることはないと存じますが」

「イーリアス様が私の心身を気遣ってくださったのはありがたく思います。イーリアス様に何も責任がないことばかりなのに、私にできないことが多くて不甲斐ないです。
 ですので、せめて、くちづけはできるようになりたいのです」


 あの、恐くて卑劣な男の人たちの記憶に、これから先の人生まで支配されたくない。
 イーリアス様との夫婦生活を、人より遅れても、歩みたい。邪魔されたくない。


「殿下。私が近づいて平気ですか」

「大丈夫……かと……」

「いきなりくちづけるのではなく、殿下の方から私に触れることに慣れるのはいかがでしょうか」

「私の方からですか?」

「人に触れられることと自分から触れることではハードルの高さがだいぶ変わるのではないでしょうか。
 自分のタイミングで触れることから、接触自体に慣れていただくのが良いのではないかと」

「なる……ほど?」


 確かにそれは合理的な気がする。私から触るなら、私がキツくなったらすぐやめられるという安心感がある。

 私は、イーリアス様に近づいた。大きい。背中側から見るとさらに大きく感じる。


「では、イーリアス様。背中に触れさせていただきます」


 そっと手を伸ばし、背中に触れる。
 手のひらから感触が伝わる……軍服の分厚い生地、それから服、その下にある皮膚、厚い筋肉。


(……固……くはない?)


 皮膚の下にすぐ、厚い筋肉の層を感じる。
 鍛え上げたイーリアス様の身体は、人体と思えないほどガチガチに固いのかと想像していた。
 だけど実際に触れてみるとそれは、しなやかに熱を持ち、脈打つ、人の身体の肉だ。

 ……なぜか今さらドキドキしてきた。
 2回、深呼吸して、そっと背筋をなぞるように触れてみる。
 筋肉に挟まれた真っ直ぐな背骨が美しい。

 近づくと、汗の匂いか身体の匂いなのか、ほんのりと鼻腔に入る。
 どこか、頭が、ぽーっ……としてきた。
 男の人に触れられるのはあんなに嫌なのに。
 触れる側に回ると、なんだか……。


「イーリアス、様」

「どうしましたか」

「お顔に触れても良いでしょうか?」

「かまいません」


 腰を上げ、さらに近づいて、イーリアス様の、少し恐いけれど整った顔を両手で挟むように触る。
 骨格からして全然違う。
 肌は、じかに触ると少し固いかも知れない。
 身体と違い顔はすっきりと肉が少ない。


(自分から近づく側なら、結構近くまでいけるんだわ)


 唇に、指が触れた。
 予想外の柔らかさにドキッとする。


「どうかされましたか?」
「いえ……その」


 近くで見ると、お顔の酷い傷さえ、愛おしく感じてしまう。
(イーリアス様にとってはたまったものじゃないかも知れないけど)


「こんな素敵なお顔をなさっていたんだなって、改めて……」


 言いかけて、ハッとした。
 イーリアス様の目が泳いでいる。
 あれ?
 私何かまずいこと言った?


(…………あ。もしかして、イーリアス様も私と同じで、あまり容姿をどうこう言われたくないのかも……。
 どうしよう。嫌なこと言っちゃった!?)


「……っ、そういえば王女殿下」

「は、はいっ」

「私は昼食をまだ取っておりませんので、本日はここまでといたしましょう」

「は、はい。すみませんそうですよねっ。では続きは夜にでも」

「────いえ、昼にしましょう」

「え?」

「今後も朝か昼でお願いいたします」

「よく、わからないのですが……こういうことは、どちらかというと夜にするのが正しいのでは……?」

「昼でお願いいたします」

「わ、わかりました……?」


 時々イーリアス様との会話がおかしくなるのは何なんだろう?


「あの、イーリアス様。
 できれば、くちづけは早いうちにできるようになりたいのですが……結婚式の場もありましたし、くちづけを人前でしなければならないようなこともあるのでは」

「ないと思います」

「ないのですか!?
 大丈夫ですか!?」

「……失礼いたします」


 イーリアス様が立ち上がる。いつも体幹に鋼の芯が入っているような立ち居振舞いのイーリアス様にしては、どこかふらふらと。

 寝室を出ていく寸前にぽつりと何かを呟いたけど、そのかすかな声は、私の耳には聞き取れなかった。


   ◇ ◇ ◇


 私は昼食を終えていたのだけど、何となく着替えて、ダイニングに同席して、大きなテーブルの向こうで遅い昼食を食べるイーリアス様をただ眺めていた。

 綺麗に食べているのに異様に速いのよね。


「あの、イーリアス様」

「何でしょうか」

「使用人を雇っていただいているので、彼らへの指示や勤怠管理などの仕事があると思うのです。
 もしよろしければ、ホメロス公爵家の方に、一般的な貴族の邸の管理の仕事を一通り教えていただきたいのですが」

「管理の仕事ですか?
 使用人も多くはありませんし、私の方でやりますが」

「それはダメです」


 即答する。
 というか、ちょっとこの回答予想してた。


「今は休暇をいただいていると言っても、普段は旅行の予定を組むのに1年かかるほどに、イーリアス様はお仕事が詰まってらっしゃるのでしょう? 必要なことは、余暇の時間に応じて分担しませんか?」


 薄々感じていたけれど、多分この人もなかなかな仕事中毒ワーカホリックだ。
 人に指示を出すよりは自分がやった方が早いと無意識に仕事を抱え込み、どんどん1人で判断してしまうタイプ。わかる。そして少し前までの自分にも突き刺さる。


「イーリアス様は私に、この国で好きなことを楽しめるようにとお約束くださいました。
 でも私は、読書ならともかく美術鑑賞や観劇や旅行は、可能な限り1人ではなく夫婦で楽しみたいのです。
 イーリアス様のそのような時間を捻出できるなら、軍のお仕事の中でも私が触れていいものがあればお手伝いしたいぐらいなのです」

「前半は承知いたしました。
 が、さすがに私の業務に関することは殿下といえど開示はできませんが……」

「そう……ですか」


 私の経験が役に立つかもと思ったけど、やっぱりダメか。と、思ったら。


「このあとホメロス公爵家の方に参りましょうか。
 家の仕事については私も見様見真似ですので、祖母と母からなら、それぞれ参考になる話が聞けるかもしれません」

「良いですか! ありがとうございます」

「それと、実家にも鉄道関連の本や紀行本などがあったはずです。
 借りてきても問題ないかと」

「それも嬉しいです! ありがとうございます」

「あとは…………」


 イーリアス様は少し考えた様子を見せて、言った。


「捕まえた暗殺者たちの取り調べの結果、今後の身辺の危険が去ったと判断されましたら、旅行は難しいですが、私の休暇の間に、ともに美術鑑賞か観劇に行きましょうか」

「良いのですか!!」

「あくまで、危険が去ったと判断されましたら、ですが」


 良かった。すごく嬉しい。
 これが夫婦らしいことなのかはわからないけど、身体と心の両方で、少しずつ、距離を詰めていこう。


   ◇ ◇ ◇
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