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◇57◇ 待つのは慣れている……だと?
しおりを挟む「それは……あの……」
『なぜ私に口づけた?』─────それは私も昨日の私を問い詰めたい。
いま、私のなかで2つの感情が占めている。
ひとつはギアン様に自分の気持ちを知られてしまうんじゃないかという危機感。
もうひとつは、カッコつけて口づけた昨日の自分をたまらなく恥ずかしく思う気持ち。
そう、あれが舞台だったら。客席から見ている観客はうっとりとその雰囲気に浸っただろうという自信がある。自分はそれだけの演技をしていると自負している。
でも実際にいたのは、口づけた相手ただ1人。そして、その相手は、私の本当に好きな人。
たった1人のその人がどう感じたのか。痛かったんじゃないかとか、呆れてたんじゃないかとか。
いや。ここは─────
「それは、お会いできるのももう最後だと思いましたので、」
もう、とぼけきろう。
「私はただ、秘密をいわないでくださるとおっしゃるギアン様に、感謝の思いと親愛の情をお伝えしたかっただけなのです。ご存じないかもしれませんがギアン様。口づけが愛を誓う証しというのは貴族の間だけのこと、平民の間では挨拶同然で使われるのです」(よどみなく大嘘)
「平民の友人からそんな話は聞いたことがないのだが?」
「階層が違うからですね。エルドレッド商会のお坊ちゃんは平民と言っても中産階級の最上位です。最下層の庶民と一緒にしないでください」
「つい先ほど貴族の間だけのことと」
「豪商なんて庶民から見れば貴族と同じです! しかし、貴族であるギアン様にとっては、私が同意なく口づけをしたことは、あとから考えれば非常に申し訳ないことではありますが、それはお詫び申し上げたく」
「リリスは、ただ親愛の情のために口づけをしたというのか?」
「………………はい」
「────私が先ほど口づけたのは、リリスのことを好いているからだ」
……うっ。
いきなり最重量級のカウンターを浴びせられて、次に言おうと思っていた言葉が飛んだ。
「5年分の痛みを貴女に癒された。心から貴女を幸せにしたかった。貴女の本当の名前を知れた時、どれだけ嬉しかっただろう。
さらわれたと聞いて、激しい怒りと恐怖に襲われた。貴女がファゴット侯爵家のために好きでもない男の相手をしていたと思っていたから、二度と会えなくなることは覚悟していたのだ。だが、貴女の身に何か起きるかと思うとそれだけでたまらなかった」
「……………………」
「貴女をあのまま1人帰らせたことを死ぬほど後悔した。ずっと自分の腕のなかに閉じ込めておけばよかったのにと。思っていたよりも遥かに私はリリスに焦がれていた。後悔はもうしたくないから言う。私はリリスのことが好きだ。愛している」
─────もしかして私は、どこまでも自分に都合のいい夢を見ているんじゃないだろうか?
ギアン様の琥珀色の瞳に見つめられながら、私はそれが現実のものと思えなかった。
しかし次の言葉が一気に私を現実に引き戻した。
「…………私と結婚してほしい」
「はい?」
間抜けな声を出してしまった。今日という1日はあまりにも情報過多だが、この一言はそのなかでも衝撃的すぎた。
「……あの……………………え?」
「ぜひファゴット侯爵家に戻り、改めて、ファゴット侯爵の長女として私と婚約してほしい」
「え、え? ……マレーナ様と婚約解消したばかりですよね??」
「ん? うむ。貴女と結婚したいと望んでマレーナと婚約を解消したが」
「ちょっと待ってくださいギアン様! これまで私があなたと接していた9割以上はマレーナ様を演じていたものであって、あれは役なんですよ、役! あなたは……何も私のことを知らないじゃないですか」
マレーナ様の大公子妃進講の、膨大な量のノートを思い出した。
あの人は少なくとも5年間、いや貴族令嬢としてはもっと長く、研鑽を積み、努力を積み重ねてきた。どれだけ重責がともなう立場かよくわかる。
それが、学校に行ったこともない平民の中でも最下層の育ちの私じゃ替えがきくはずがない。
実は貴族の娘でした、だから何だ。平民育ちでもう17の私が、今から貴族令嬢になんかなれるはずもない。
それに────。
「確かに私はリリスのことをほとんど何も知らないかもしれない。だが、それでも愛しているのは事実だ。
今この時も、普段のリリスはこのように話すのだなと知って嬉しく思っている」
不覚にもキュンとしてしまった。いや、流されるな私。
貴族にも妃にも私はなれない。
ファゴット侯爵の娘だとわかったとしても、公式には17年間あのマーカスの娘だった、その過去は消せない。私だってギアン様のそばにいられるなら嬉しい。だけど、同時にギアン様やファゴット家の傷になるだろう。
それに私には……。
「────帰る場所があるんです、私」
「帰る場所?」
「13年間私を育ててくれた人たちがいる……そして見に来る場所です。私の役者としての復帰を信じて待ってくれている人がいる」
いや、ペラギアさんが私のために動いてくれているからなんて言い訳だ。
ギアン様のことを想っているのと同じぐらい、私自身、また芝居がしたい。舞台に立ちたい。これは自分を偽れない。
「私、貴族令嬢にはなれません。あなたの婚約者にも。私は、役者に戻りたい」
もう2度とファゴット侯爵家のみんなやギアン様に会えなくても。そう思いながら言いきった。言った瞬間胸のなかが寂寞に襲われたけど、耐えた。顔には出していない、はず。
「────ならば、通おう」
「……はい?」
「リリスが演じる舞台に、何度でも通おう。どんな短い出番でも、どんな端役でも、リリスが生きてきたその世界を私は見たいのだ」
何を言ってるんだ、この人。
「いや、あの? ギアン様ここは空気を読みましょう? 私は役者という夢に生きるので結婚はできませんと言っているのですが」
「そういうリリスを理解したいのだ。相手の心変わりを待つのは慣れている」
「待つって何を!?」
……ああ、そうだった。この人マレーナ様の冷たい仕打ちに5年間耐えた人だった。
「ファゴット侯爵家の皆にも誓った。必ずリリスを幸せにすると」
ちょ、先に外堀埋めるのやめてもらえません!?
「わかるだろう? ────私は絶対に貴女を諦めない」
◇ ◇ ◇
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