幻影奇譚

蘭歌

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「……ん」
 物音に目がさめ、時計を見れば示されているのは丑三つ時。今日もか、と青年は小さく息を吐いてごろりと寝返りを打った。無明の勧めでその隣の部屋へと越してきたが、毎晩のように、丑三つ時になると隣の部屋から物音がする。最後は引き戸の開く音と、閉まる音。そして、カラコロ控えめな下駄の音。
 下駄の音が少し遠ざかるのを確認して、青年はむくりと起き上がる。今日こそは無明がこんな時間に、どこへ出かけているのか突き止めてやろうという算段だ。その為に寝間着には着替えずすぐに出れるように用意をしていた。そっと自分の部屋の戸を開けて表をうかがえば、表通りへと出ていく無明の背中が見える。気づかれないように下駄は手に持ち、素足でその後ろを距離をとってついていく。
 しばらく歩いて、たどり着いたのは猿江の辺り。以前、無明がかかわったのではと事情聴取された一件も、このあたりで起こった殺人事件だったはずだと、物陰に隠れたまま様子をうかがう。きょろりと周囲を見渡した無明の口もとが、ゆるく弧を描く。
「まだ、いるんだろぉ?」
「っ…!」
 無明の声にこたえるように、ぼう、と人影が浮かび上がり、青年は思わず息をのんだ。浮かび上がった人影は、次第に姿をはっきりさせ、青白い顔をした若い男の姿を取る。
 小さく男の口が動くのは見えたが果たして何かを言っているのか、それともただ動いているだけなのかはここからでは判断できない。
「……。あたしは、ちゃァんとあの時に忠告したろォ。それを無視したのはお前さんじゃないか。そこまではあたしだって責任もちゃしねェよ」
 一年ほど前に、自分にも向けられた言葉。今となっては、確かに忠告されたのを無視したのは自分たちで、文句を言う筋合いはないと、わかっている。けれども無明のこと知らない身で、そんなことを言われたって無視するに決まっているじゃないかと、青年は物陰に隠れたまま、一人反論してみる。
 男も反論しているのか、先ほどよりもはっきり口が動く。
 ーそれでも俺は、帰らないと……!
「そうかい。じゃァ、帰ればいいだろォ。ここにいつまでもいなくたっていい」
 ー帰れないと、わかっているだろう!!
「あァ、怖ェ怖ェ。そんな凄むんじゃァねェよ」
「……。聞こえて、る……?」
 聞こえなかったはずの男の声が聞こえて、青年はきょとんとしながらも改めて、耳を澄ます。怒りをぶちまける男に対して、無明はどこまでも飄々と笑いながら受け流している。
「わぁったよ。家の前までは連れてってやらァ」
 暫くして、呆れた風な様子で無明がひらひらと手を振り歩き出すと、男もつられたように歩き出した。さっきまで動けなかったのに、とのつぶやきが風に乗って流れてくる。先ほどまでと同じように、足音を殺し、物陰に隠れながら、青年もついてく。
 大通りを進み、裏道に入り、たどり着いたのは一件の家の前。
 ーあぁ、帰ってこれた……
「満足したなら、大人しく成仏しな。地縛霊になんざなる必要はねェよ」
 嬉しそうに、涙を流しながら男の姿が薄れていく。無明の言葉に頷いた男は、そのままその家の戸をくぐる様にして、すぅ、と姿が消えた。それを確認すると、くるりと無明がふりかえり。
「いるんだろ」
「…………いつから気付いてたんだよ」
「さァてねェ。ほら、下駄履きなさいよ。けェるよ」
「……わかったよ」
 バレていたのかと、暗がりから姿を現した青年に、無明がくつくつと笑いながら、来た道をたどる。それについて青年も歩き出し、からころ、控えめな下駄の音が二つ。
 しばらくどちらもしゃべらずにいたが、ふと、青年の足が止まる。
「……どうした?」
「お前は、一体何なんだ?俺の時と良い、今と良い」
「……そうさねェ。じゃァ、少し昔噺でもするか」
 付き合えよ、と言って口を開いた無明がゆっくりと語り始める。
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