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英国諜報員ジェイ・モートン

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 大戦がはじまってすぐ、ジェイ・モートンはジュネーブのホテルで生活することになった。彼は表向き、作家だ。数冊の著書を出版しており、かねがね好評を得ている。創作活動には静かな落ち着いた環境が必要である。それが彼の中立国であるスイスに来た理由だった。当時、スイスには連合国側と同盟国側の諜報員やスパイや革命家が主要な街のホテルに多く宿泊していて、スイス政府も中立の立場を守るため、自国内で張り巡らされる陰謀に神経質になっていた。スイス秘密警察が辻角で目を光らせ、怪しいものがいれば容赦なく拘置所に入れられ国外退去させられた。
 そんなスイスのジュネーブ、レマン湖のほとりにあるホテルでジェイが生活するのは、彼もまた英国諜報員のひとりだったからだ。
 レマン湖を周航する船に乗ってフランスの波止場であるトノンへ行って週一で報告をし、ロンドンからの指示を受けてジュネーブに帰ってくるのがジェイの仕事だった。彼の元にはドイツに侵入しているスパイからさまざまな情報が寄せられた。
 トノンから帰りのその日は激しい雹が船上に吹き付けていた。
 船内の娯楽室は暖かく明るいが、頻繁に船を利用するジェイが、そこで誰かの記憶に残ったりしてはいけない。
 しかも彼は、はっとするような乳白色の肌に、ロイヤルブルーの目、湿度ですぐ巻き上がる黒いくせ毛をし、神経質気な高い鼻梁をもつ四十二歳の紳士だった。落ち着いてどこか独特なその佇まいと自身の世界観をもっているような雰囲気、引き入れられるような美しい目の色は見た人を惹きつけた。
 コートの襟を寄せて、顔面に吹き付けてくる雹に耐えながら、ジェイは今執筆中の恋愛小説について考えていた。
 それは由緒正しい血筋の公爵夫人が、年下の馬の世話をしていた男との恋に夢中になった結果、馬の世話人はその恋に苦しみ焦がれて自殺をし、夫人はどうしようもない胸のうちを抱えながらも夫の元にもどっていく、という筋書きだった。
 恋というのは、本能なんだ。
 ジェイは船が進んでいく暗く波打つ湖面を見つめながら思った。
 頭で考えて、身分やら立場やら地位やらで、なんとかなるものじゃない。でも私は、文章ではそんなことを得意げに書きながら、それほどまでに狂おしいような感性を一度たりとも味わったことがない。
 そう思って、襟元に深く顎を沈めた。
 彼自身の香水が鼻をかすめる。
 嵐の中、次第に船が減速し、岸に近づいていく。岸辺では作業員たちが雹の降り付ける中、ランタンを振って、誘導する。
 天気が悪いので、客はなかなか娯楽室や客室から出てこない。
 船が岸辺について橋が渡されると、ようやくドアが開き、コートをまといマフラーをして厚着をした客たちは動き出した。ジェイもその後方にまぎれるように並んだ。このとき、ジェイの心臓は微かな緊張に高鳴っている。
 パスポートにはフランスの入国スタンプが押されていない。(彼がフランスに入国していることが隠密だからだ)
 万一、スイス警察がジェイを尾行していたら、なぜフランスの入国スタンプが押されていないのかを詰問され、答えようによっては拘置所に入れられるかもしれない。それは避けたかった。
 波止場ではいつも警官がふたりいて、下りてくる乗客をチェックしている。
 その前をジェイは息詰めるように早足で通り過ぎ、遠ざかり、ほっと息を吐いた。そのまま足早に夜道を歩き、ボーイが開けるホテルのドアをくぐったときには、すでに部屋の風呂が恋しかった。フロントでポーターに手紙がきていないか問い合わせると、このホテルに滞在していて何度か話したこともあるヒギンズ男爵夫人から書き付けがきていた。
 夕食をご一緒した後、ブリッジをしませんか、という誘いだった。
 ヒギンズ男爵夫人はヨークシャーの人で、大戦がはじまって最初の冬にジュネーブに来たという。祖父がイタリア大使で、不幸な結婚の末、もとの姓にもどったということはよく話しているのを聞くが、その他のことがあまり定かではない。実際、ヨークシャーの出かどうかもはっきりしない。簡単に身辺を調べたところ、ジュネーブでぜいたくな暮らしを支えるほどの資金はないということがわかった。同盟国側の諜報員ではないのか、とジェイは疑っている。
 トノンまで行って疲れ切っていたし、早く温かい風呂に浸かってベッドにもぐりこみたかったが、トノンまで行ってきたことをあれこれ嘘をついて誤魔化すのも後々面倒になる気がして、ジェイはその申し出を受けることにした。
 エレベーターで四階まで行き、鍵を開けて部屋に入ると、中を見回した。とりあえず、誰かが侵入した形跡はない。
 寝室へ行き、隣のバスルームでバスタブにたっぷり湯をためて、体を浸して温めた。
 バスタブでゆっくり体を伸ばすと、ため息が出た。
 そのまま寝てしまいたい気分だったが、しばしバスタブの中で体を休めたのち、着替えをしてホテル一階のダイニングルームへ向かった。
 青紺色のカーペットに天井からはシャンデリアがつりさげられ、大きな花瓶と花々が飾られたダイニングルームの窓際の席に、男爵夫人は数人の男女とともにテーブルに座っていた。
 そのなかにはドイツ人の娼婦もいた。この女はレマン湖のあちこちに出向き、フランス人や英国人と寝て、細々とした情報を仕入れているスパイだ。
 流れるような金髪に青緑色の目、ふっくらとした少しはすっぱな雰囲気のある唇は微妙な下品さこそあれ魅惑的だった。男たちが夜伽に情報を漏らしてしまうようなそんな妖しさがある。
 ひととおり、顔を見回したところで、ジェイの目は、男爵夫人の隣に座る、ひとりの青年にくぎ付けになった。
 その青年もまたジェイを見つめていた。
 青年の深い緑色の目とジェイの青い目が視線をつなぐ。
 一瞬、ふたりのあいだを、見えない風が吹き抜けた気がした。
 花薫るような暖かでふんわりとして、それでいて緊張感の高まりがある風だ。
 彼から目が離せない。
 ジェイは喉がカラカラになった。心臓が動悸する。
 青年は長めの金髪を額で分け、陶器のように滑らかな息づく白さを肌にたたえていた。伏し目がちな瞼を縁取るまつげは長く、目は吸い込まれそうな緑色で、その唇は高貴さを感じさせるほど美しい形をしていた。
 まるで引き合う磁力のように互いに目が離せなくなった。
 ゆっくりと青年にむけて自分の体が吸い寄せられていくようで、いくばくかの理性がそれを耐えている状況だった。
 そして、青年も、熱意をこめた真摯な瞳でジェイをまばたきもせず見つめている。
 それに身内が昂った。
 まるで時が止まったかのように、二人は視線を結ばせた。
 この青年以外にこの世にはなにも存在しないような気がジェイはした。
 自分の身内を高鳴る心臓の音がやたら大きく聞こえる。
 未知なる領域に踏み込むように恐れをわずかに抱きながら、互いに不可抗力めいて視線を外すことができずに目を交わしていた。
 嗅覚にも似た感覚で、青年もジェイに大いに興味があるらしいのを強く感じた。
 それに血潮が沸いた。
「こんな天気なのに、レマン湖をお散歩してらしたの」
 男爵夫人の声に、ジェイは正気に戻った。
 彼女が冗談紛れに揶揄を言ってきたのがわかった。
 それともこれは、探り、だろうか。
 ジェイはゆっくりと息をのみ、微笑んで応えた。
「夫人、作家というのは因果な生き物です。日々のルーティンを欠かせません。私は、雨の日も晴れの日も、レマン湖を散歩し、小説を書くんです。今日はこの雨ではありますが、約束だったので、船に乗りヴヴェイに友人を訪ねに行ったんです。いい散歩になりました」
 ヴヴェイは船が停まるスイス側の波止場である。
「こんな荒れた天気に、それはそれは大変でしたこと」
 男爵夫人は、おほほと笑って、シャンパングラスを口につけた。
 給仕がやってきて、ジェイを男爵夫人から少し離れた席に案内する。隣の青年は横顔だけが見えた。鼻筋の整った、気高い、美しい顔をしていた。
 誰もが戦争の話題を避け、他愛もない話をしては声をあげて快活に笑った。
 ジェイは少し冷静になり、テーブルの顔ぶれを落ち着いて見回した。どのくらい、ドイツ側の諜報員がいるのだろう。もしかしたら、全員ということもありうる。あの青年も、そうなのだろうか。
 そう思って、青年の横顔をちらと見ると、青年はこちらに視線を寄越した。
 彼はちょっと困惑したようにあどけなさを滲ませてジェイに微笑んだ。
 そのさりげない可憐さに息をのむ。
 ジェイの胸は熱く灯った。
 給仕される料理もジェイには味がわからなかった。時折、目を細め、口角をきれいに持ち上げて笑うその青年の横顔にうっとりとした。
 食事の後、一旦部屋に戻ってから、男爵夫人の部屋へ行くと、あの青年もいた。彼は長い足を組んで壁際の椅子に座り、くつろいだ様子でコーヒーを飲んでいた。
 ジェイが不躾なほどの視線を向けると、彼もそれを受け入れるように見つめてきた。
「あら、紹介がまだでしたかしら」
 男爵夫人はふたりを見て、言った。
「英国のX銀行頭取の御子息でイアン・フルームよ。戦争にとられないように私が掛け合ってあげたのよ。だってこんな美しい青年が戦争に行くなんて、悲惨だわ。頭取が祖父の友人だったので、その関係でしばらくスイスで私が身元保証人として預かって、フランス語を教えることになっているの」
「大学を卒業して、ふらふらしていたところを兵役にではなく夫人に捕まりました」
 イアンは軽い口調で微笑を含んで言った。
 甘やかな低音の柔らかい声だった。
「それはありがたいことなのよ」
 男爵夫人は、念を押すように言った。
 はい、とイアンは少しいたずらめいた表情で返事をした。
 その様子が清々しかった。
「学校はどこ?」
「ウィンチェスターとオックスフォードのニューカレッジです」
「なるほど。優秀だ」
 ジェイは深く頷いた。
「専攻は何を?」
「社会経済学です」
「なるほど」
「あなたのご本を、何冊か読んでいます」
 ジェイは少し驚いた。
「それはありがとう」
「古典的な筋に則って現代的な思想が混ぜ込まれたなかなか興味深い小説が多いと思います」
 イアンは礼儀正しい言葉で控えめに褒めた。
 大仰に褒められるよりも、むしろ嬉しい。
ジェイは心臓が高鳴るのを感じながら、微笑んだ。
 男爵夫人がリキュールをいれたコーヒーを運んできた。
「それじゃ、イアンもいれて、ブリッジを始めましょう」
 ジェイにとって、イアンとブリッジをする時間は、とても愉快な体験だった。
 彼は頭がよく、理知的な判断ができた。
 正直、ジェイはあまりブリッジが得意ではない。でも、イアンになら負けるのも、嫌な気持ちにならなかった。
 男爵夫人に夜の挨拶をして、部屋にもどるとき、ジェイはどうしてもイアンとふたりっきりで会いたくなった。
 そう告げたくなるのを我慢して、ジェイは部屋に戻った。
 部屋に戻り、着替えてベッドに入っても、なかなか眠りにつくことができなかった。イアンの笑顔や、目や、口元が脳裏をちらつく。
 胸の内が熱くなるのを感じながら、英国のX銀行について調べなければな、と冷静に頭の隅で考えた。

 週に二度、ジェイは朝九時に市場へ行く。そこでスイスとイタリアに接しているフランス領サヴォワからやってきてバターや卵を売っている年取った農婦から情報を受け取っている。時計台の下に置かれたかごの前にジェイは立ち止まり、そこで雨の日も風の日も暑い日も寒い日も露店をならべている農婦からバターを二百グラム買い、十フラン札を出して、おつりと一緒にメモをもらう。そして、なにげなくジェイはその場を去る。ジェイはホテルの部屋に戻ると、すぐさまそのメモを暗号文に書き換え、燃やして捨ててしまう。
 日によっては、突然部下の諜報員が部屋を訪れることもあり、長時間留守にすることはあまりない。ほとんどは窓際の文机で執筆をし、時折、穏やかな日差しにひかるレマン湖をみつめ、紅茶を飲んで葉巻を吸うくらいだ。
 ジェイが窓際で執筆をしていると、部屋のドアがノックされた。
 部下のインド人の諜報員がトランクを持って立っていた。
 昨晩、ベルリンから黒の籐のトランクをもってスイスのベルンにきたベンガル人が警察に逮捕され、その書類の入ったトランクをうまく奪ってきたのだという。
 そのトランクのなかには連合国側が喜ぶ情報が盛りだくさんだった。
 ジェイはその文書を早速面倒な暗号の文書に置き換えて書類にし、とりあえず午後手紙でトノンに出そうと鍵付きの戸棚に隠し、トランクを暖炉で燃やした。
 遅めのランチを部屋でとり、午後、ふと窓の外を見ていたら、見覚えある姿がボートを漕いでいるのを見た。
 イアンだった。
 彼がひとりでボートを漕いでいる。
 ジェイは立ち上がると、ジャケットを羽織り、部屋の外へ出た。
 ちょっとだけ、話がしたいと思った。せめて、顔を見るだけでも。
 ホテルからの道を歩きながらも湖面に目をやって、イアンの姿を探す。しばらくレマン湖をうろうろ歩いたのち、イアンの方から気づいて手を振りながら舟を寄せてきた。
「モートンさん、お散歩ですか」
 彼のふわりとした低音が日差しのように注がれる。
「ジェイでいいよ。そうなんだ、天気がいいからね」
「乗りますか。風が気持ちいいです」
「じゃ、お言葉に甘えよう」
 イアンが舟の上から手を差し出す。爪の整った繊細気なほっそりとした見目好い手だった。その手をつかみ、ジェイは舟に乗る。イアンは腰を下ろすと、オールを取り、岸から離れだした。
「学校は聞いたけれど、どこの出身か聞いてなかったね」
 ジェイが言うと、イアンは全身でオールを漕ぎながらうなずいた。見た目は細いのにジャケットを脱いだ彼の腕にはシャツの上からも引き締まった筋肉がわかった。
「ヨークシャーのヨークです。男爵夫人にはよくしていただいています。でもまぁ……俺は、戦争に行ってもよかった」
 少し影入った表情をするイアンを見つめながら、ジェイは首を横に振った。
「それは君が戦争の悲惨さを知らないからだ」
「友人たちはみんな行っています。僕だけ行かないのはやはり卑怯ではないのでしょうか」
「経験せずに済むのなら、経験しない方がいいことは世の中にはたくさんあるんだよ」
 ジェイが言うと、イアンは黙り込み、オールを使った。
 湖の波の音がたち、どこからか小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
「小説を書くのは楽しいですか」
 身体全体を使ってオールを動かしながら、イアンは聞いてくる。
 汗ばむ様子もなく涼しい顔をしているのは、運動慣れしているのかもしれない。
 細い体をして、鋼のようにスマートな筋肉をまとっているのだろう。
 そう思ったら、身体の奥がむずついた。
「夢中になる仕事ではあるよ。ただ、小説を書いて文壇で成功するには、それなりに人付き合いも必要だ。ヴィクトリア通りやホウバンにあるホテルの地階で、文士や若い法廷弁護士たちと三シリング六ペンスの夕食を食べながら芸術や文学を論じたりね」
「いわゆる晩餐クラブですね」
 イアンは苦笑いして言った。
「そうだ。ブルームズベリやキャムデンヒルやウェストミンスターあたりで開かれる茶会でバター付きパンを配ったり、年配の婦人からの茶碗を受け取ったりね」
「作家って大変なんですね。小説を書けるだけじゃないんだ。僕には無理です」
 イアンはおかしそうに笑って、言った。その笑顔には青年らしい若々しさがあって、ジェイには好ましかった。
「夫人から受けるフランス語の講座はどうかね」
「大学である程度学んだので、簡単な会話はできます。ただやはり覚える単語の変形がたくさんあって、文法が難解です。フランス人を尊敬しますね。あなたもフランス語が話せますか?」
「不自由ないくらいにはね。スイスで暮らすにはフランス語は必要だ」
「そうですね。ただ、スイスのフランス語は訛りがすごいです。スイスは長いんですか」
「戦争が始まってから、だよ。作家生活するにはここはいい」
「たしかに。景色が嘘みたいにいい。それに面倒くさい人付き合いもしないでいいですからね」
 イアンはそう言って、思い出したみたいに目を丸くして噴き出して笑った。
「ご本を書いてらっしゃるのだから、そういう静かな環境が必要なんですね」
彼はフォローするようにそう付け足して、にこりと笑った。日差しの下透けるような金髪と白い肌が淡く光っている。湖面の反射を受けて、ここにいるのか疑うような美しさだった。イアンはオールを持ちなおそうとして、落としそうになり慌てて身を乗り出した。ジェイは中腰に立ち上がり、イアンの腕を掴んだ。
舟がたゆたうように揺れた。
イアンはしっかりオールを掴んでいた。
 そして目を細め、覗き込むようにしてジェイを見つめた。
「僕たちは出会った瞬間から分かり合いましたよね」
 その言葉に胸を突かれた。
あの出会ったときに受けた感覚は自分だけではなかったのだ、ということを知り、電撃めいた感覚に貫かれた。
イアンも同じだったのだ。
あの微熱めいてわずかに緊張感のある高揚。
世界がふたりだけのものになったかのような錯覚。
それを彼も感じたのだ。
そう思ったら、たまらずジェイはイアンの腕を引き寄せて抱きしめようとするのを、寸ででこらえた。
「どうしますか」
 イアンがまっすぐにジェイを見つめてくる。
 恐れのない、揺らぐことすらない、純粋な緑色の目だった。
 挑むような色があって、ジェイは問うように首をかしげる。
「僕とこの湖に沈みますか」
 イアンの言葉に、ジェイははっとして、腕を離した。
 あまりにも強く、腕を掴んでいた。
 彼が問うたのは、腕を強く掴んでいたためではないとわかったが、ジェイは非礼を詫びた。
「すまない」
 ジェイは腰を下ろし、両手を広げて謝罪した。
「大丈夫です」
 イアンは目を伏せるようにして、オールから手を離して腕を一瞬だけさすった。その様子が乱暴された処女めいていて、ジェイは気分がどきどきした。
 そのあとは、イアンの学生時代の話や故郷のヨークの話を聞いて池を周遊し、ジェイはそろそろ時間だからと岸辺に降りた。イアンも部屋に戻ります、と舟を桟橋につけた。
「ディナーをご一緒しませんか」
 ふたりでホテルに向かって歩きながら、イアンに言われた。
 昨日からつづいて男爵夫人と一緒に夕食を食べるのは気が進まなかった。それを察したようにイアンは言った。
「夫人は今日、ローザンヌに出かけています。なんでもご友人に会うのだとか。僕一人でディナーをとるのもつまらないですから、よかったら」
 そこまで言われて断る理由もない。
「それではご一緒しよう」
 ジェイはそう応えた。
 部屋に戻り、フロントに電話してイアンの部屋に赤いバラの花束を届けさせた。そしてバスタブにつかり、念入りに体を洗って香水を振り、着替えた。
 そのときだった。
 部屋のベルが鳴り、ポーターが電報を届けにきた。なんでも、至急だという。
 差出人に心当たりがなかったが、チップを与えて受け取る。ポーターが去ったのを確認してから手紙を開けてみると、そこに書かれているのはX銀行頭取の子息イアン・フルームについてだった。彼自身というよりも、彼の父親が経営するX銀行がオーストリアのドイツ側武器製造工場に資本を提供している、ということが書かれていた。
 つまり、イギリスにとっては反愛国的行為であり、裏切りだった。
 近く、MI6の手配が入るとのことで、子息には下手に近づくなとの内容だった。
 はっとする思いがした。
 こんな電報が自分のもとに届く、ということは、つまり自分を監視している人間がどこかにいる、ということだ。
 心の動揺をおさめるように、葉巻の端をかみ切って暖炉の中に吐き出し、火をつけゆっくりとくゆらせた。
 恋というのは本能なんだ。
 数日前、雹交じりの船の上で、コートの襟をたてながらそんなことを思ったのを思い出す。
 たとえ障害があろうとも。
 人間は本能に忠実であるべきだ。わずかな理性とともに。
 ジェイはそう思うと、吸いさしの葉巻を暖炉へ投げ捨てた。
 ぎりぎりの危険まで身を投げ込んでみる覚悟があった。
 エレベーターで降り、紺青色のカーペットに輝くようなスワロフスキーのシャンデリアがつり下がったダイニングルームへ行くと、赤いバラを胸元に挿したイアンがすでにテーブルに座っていた。
 ジェイがそばに行くと、イアンは少し上気した表情で見つめてきた。
「まさか、あなたからこんなプレゼントをいただけるなんて」
「君と私は共犯者だから」
 ジェイが言うと、イアンは息をのんだ。
 そして、伏目がちに火照る目元を緩ませながら、彼は上品な唇を動かした。
「それは、本能的な意味でですか」
 彼からそんな言葉が出てきたことにジェイは驚く。
 本能的な意味で。
「そうだ」
 ジェイがうなずくと、給仕が来て座席を引き、ジェイを座らせた。
「ヨークには小説の取材で数日滞在したことがある」
 ジェイはそんな話をして、ふたりは旅行した国やその土地の食べ物、イギリスの各地について、戦争の話題を慎重に避けて話しながら食事をした。
 食後には談話室へ移動して、窓際で暗くなったレマン湖を見つめながら、ブランデーと葉巻を楽しみ、さらにいろいろなことを話した。
 イアンと話しながら、自分を監視している人間は誰だろうと考える。
 ボーイやポーターというのはあり得る。
 この状況を見て、その監視人はどう思っているだろう。ジェイの上司Rに報告することは確実だろう。どんな処罰がおりるだろう。
 あの人間を駒としか思っていないユーモアも解さないような冷徹なRが、ジェイのこの行動を見てどう出るか試してみたい気持ちにもなった。
 なにより、自分のイアンへ向かう率直な気持ちは抑えようがなかった。
 イアンとは様々な話をしたが、家族のそれも父親ついては彼はあまりしゃべりたがらなかった。
 イアンは今までジェイが出会ったどんな女性よりも魅力的で、どんな男性よりも親しみがあり、もっと彼を知りたいと思わせた。
 話しながら、イアンの目が微熱めいてじっとりと焦がれるように見つめてくるのを見ていると、自分の胸もざわざわした。
 話をしている間中ずっとイアンは微熱めいてとろけるような表情をしていたし、自分も似たような感覚であることを認識していた。
 すでに夜も遅くなるころ、ふたりは談話室を出た。
「あなたの部屋へ行ってもいいですか」
 イアンは聞いてきた。
 ジェイがためらう。
 部屋には、今朝がた得たドイツ側の情報が暗号文に書き換えられて文書にして置かれている。午後に手紙にして出そうと思っていてできず、鍵をかけた戸棚に隠しているとはいえ、安易にひとを部屋にいれたくはなかった。
「あなたともっと深く共有したい」
 イアンが身体を寄せ、耳元に囁いてきた。
 甘い刺激に身体の芯が震える。
 ジェイはたまらず頷いた。
「おいで」
 ジェイはイアンを部屋に招き入れた。
 ジェイの部屋に入ったイアンは窓際のイスに腰掛け、悠然と微笑んだ。
「素敵な部屋ですね」
「君の部屋とは間取りが違う?」
 ジェイが訊くと、イアンは頷いた。
「あなたの部屋の方が広いですし、角部屋なので多少配置が違いますね」
「紅茶でも?」
「いいえ、もう結構です。コーヒーもブランデーも葉巻ももういりません」
 そう言ってイアンはイスから立ち上がると、ジェイに身体を寄せて腕を首筋に回してきた。背丈はイアンの方がわずかに高い。
「僕はあなたを試してみたい」
 うなじを撫でながら、イアンは言った。
 彼の深い緑色の目が色めいて見つめてくる。
 抗えない欲望を感じた。
 脳裏には、受け取った戒めめいた手紙がよぎる。
 これは罠かもしれない、という予感がする。
 自分は監視されている、という警告が明滅する。
 でも、強力に引きつける磁場のような魅力に本能が逆らえない。
 ジェイは気持ちを抑えきれず、たまらずその優美な唇に接吻を施した。咬みつくように、キスを返された。その激しさに、警戒の糸が切れた。ジェイは探るように舌を絡みつかせ、その口腔を撫でまわした。
「ん、んぅっ……」
 発情を煽る声音だ。
 イアンもまた負けじと舌を絡めてくる。
 互いに貪るようにキスを交わしながら、ベッドになだれこんだ。
 イアンの上に乗り上がり、その首筋、肩口、脇の下とキスしながら服をぬがせていく。
 思った通り、彼の身体は細身で無駄な肉付きもなくすらりとしていて気持ちがいいほど伸びやかできれいな体をしていた。
 ジェイは胸が痛むほど昂ぶりを覚えた。
「男とやったことは」
「ありませんよ」
 イアンはちょっと恐れを滲ませて小さな声で言った。
 それがジェイを興奮させた。
 下肢を握り込むと、イアンはびくりと身体をおののかせた。怯える小動物のようだ。なのに、探りながら、その芯が快感に固くなっているのを感じ取る。そこは熱く息づき、脈打っていた。まさぐるように揉みしだくと、イアンは「あ」とあえかな声をあげて身悶えした。
「怖くない?」
「あなたならいいです」
 濡れたような緑の目がひたと見つめてくる。
 その官能めいた色にくらくらする。
 股を押し開き、その間に身体を入れて、素肌にキスをしながら服を脱がしていく。艶やかで美しく滑らかな肌だった。手を滑らせるように愛撫しながら、首筋に、胸元にキスを刻みつけていく。
 淡い色彩の胸の突端は細やかでそれでいて扇情的で清楚な妖しさがあった。
 嬲ってくれ、と誘うように突き立っている。
 唇の裏粘膜を押し付けるようにしてすすり上げた。
「あぁっ」
 イアンの身体がさざめきたつ。
 もどかしげにかかとをシーツで擦りあげた。
 そのまま舌先でレロレロ左右に舐めて、再びすすりあげる。
「んあぁっ」
 イアンは耐え切れないみたいに身を曲げて腕を交差して手で胸を覆った。
「ジンジンします」
「君は乳首で感じるの」
 ジェイは目を細めて上から彼を見下ろす。
 イアンは泣きそうな目で見上げてきた。
「よくわかりません。多分、あなただから」
 ジェイの下肢が張り詰めた。
「そんなことを言って私を本気にさせる。悪い子だ」
 ジェイはお仕置きめいてイアンの勃起している性器をつかむと、荒々しく扱いた。その手を制止するようにイアンが重ねてくる。
「やめてください、僕……恥ずかしい……恥ずかしいですっ……」
「恥ずかしい君を見せてもらおうか」
 殊更に刺激するように、抑揚をつけて、根元から先端へ、先端から根元へと手を滑らせる。
 前髪長めの金髪を乱して、彼が震える。
「あ、あぁ、僕……イっちゃう、イっちゃいますっ……」
 快感に腰をしゃくるように揺さぶりながら、イアンは勃起したペニスを慰められる。皮が擦れ、先端から我慢汁が滲み出て、にちにちと音が漏れる。
「ほら、私の名前をちゃんと呼んで」
 扱く手を速めていく。
 イアンは我慢できないみたいに曲げた太ももをおののかせる。
 枕の下に腕を入れ、殊更に突き立った乳首をそびやかす。
 おもむろに背中をのけぞらせ、爪先を突っ張らせる。
「ジェイっ……!」
 かすれた情欲に満ちた声が、名を呼んだ。
 同時、イアンはみなぎる欲望の先端から白濁を噴きあげた。
 びくびくっと震えて、イアンは体をベッドに沈める。
 形良い眉をぎゅっと寄せて、端正な顔をしかめて、ぽってりと男にしては官能的な唇を軽く開いている。
 しばらく、荒く息をして額に腕を当てていた。
 その上に覆いかぶさるようにしてジェイはキスを落とす。
「気持ちよかった?」
 イアンは幾分涙目になってうなずく。
「自分で慰めるよりずっと」
「これから自分でやるときは私を思い出したらいい」
 ジェイが言うと、イアンは首筋に腕を絡めて抱きしめてきた。
「僕の欲望はすべてあなたが引き受けてくれるって言ってくれないんですね」
「そんなことができたらどんなにいいだろう」
 イく瞬間のイアンの神々しいまでの恍惚とした表情を思い出しながら、ジェイは言う。
 イアンの表情を見て高ぶった芯をイアンが握りこんできた。
「今度はあなたが僕に欲望をぶつけてください」
 イアンはそういうと、ジェイのスラックスの前立てを寛げると転びでた巨大なものに吐息をした。
「すごい……立派ですね」
「女は喜ぶだろうがね」
「僕も、興奮します」
 そう言って一瞬ためらったのち、イアンは艶やかな唇を開けて咥えこんだ。
 舌先で裏筋をなぞりながら窄めた唇で巨根を舐める。イアンの口には先端しか入らず、半ばまでもいかない。
「無理しなくていいよ」
 彼の髪を撫でながらジェイが言うと、彼は唇を外して、根元から舌先でなぞり上げなぞり下がった。そして陰嚢をもぐもぐ口に含んで舐めしゃぶり、裏筋を舌先でくすぐりあげた。
 イアンが目を細めて甘美な表情をして自分の陰茎に舌を這わせるのを見るのは何とも言えず絶景だった。
「もっと、体の奥であなたを感じたいんです」
 甘苦しそうな表情でイアンが言ってくる。
「男同士で使うところは知ってる?」
「パブリックスクールにいました。知っています」
「君を壊してしまうよ」
 ジェイは痛々し気に言って目を伏せた。
「人間はそう簡単に壊れません」
 そういうと、イアンは大きく口腔を開けてジェイの屹立した欲望を喉元まで飲み込んだ。張り詰めたそれは半ばもいかずにイアンの喉を圧迫した。苦し気にうっとりと涙を浮かべて、イアンはそれを飲み下すように引き絞った。
 ジェイは身体を押し曲げた。
「あぁ……イアン………とろけそうだ……」
 ぬるぬるで狭隘な喉粘膜に扱かれる。たまらない快感だった。耐ええず、腰を遣うと、イアンは「おうっ」と餌付くように声をあげ、あろうことか自慰しだした。
「なんていやらしいんだ……とても素敵だ、イアン」
 ジェイはそう囁いて彼の金髪を撫でるようにして耳にかけると、軽くもう一度腰を振った。イアンはコツを得たのか、今度は餌付かず、喉奥で引き締めてきた。
「すごいね……君は勘がいい。悦ばす手管を知っている」
 イアンの喉奥はまるで女のアソコのように締め付け、絡みついてくる。そして、ジェイの性器を懸命に咥えながらイアンは自身の興奮を昂らせていた。繊細な指がまとわりつくその手つきがひどく卑猥だ。ジェイは、二、三度腰を動かすと、すぐに性感がこみ上げてきた。
「イきそうだ……君の口に出してしまうよ、離して」
 ジェイが陰茎を外そうとすると、イアンは頭を振って手を振りほどきむしゃぶりついてきた。その口内粘膜にあわあわと擦れる様に感じる。
 しかもそのまま呑み込むようにじゅずずっと吸い付かれた。
「あぁっ」
 ジェイはイアンの口の中に熱く濃厚な精液を放った。
 イアンはしばらく頬を膨らませて、口の中に含んでいた。
「出していいよ」
 ジェイが手を合わせて、受けようとする。
 イアンは頭を振ったのち、ごくりと呑み込んだ。けほ、と二、三度咳をして、熱っぽい目を向けてきた。
「あなたの味がします。腹の奥が熱くなります」
 イアンは陶然とした表情で言った。
 それに身体の芯が再びズキズキしてくる。
「あなたがもっと欲しい」
 そう言ったイアンの声には熱がこもっていた。
「いや、今晩はここまでにしよう。君も私も気持ちよくなった。それでとりあえず、終わりだ。君を傷つけるかもしれないことをするのは本望じゃない。もっと深く愛し合うのは、またこれからだ」
「あなたを受け入れたいんです」
 切実さがこもっていた。
「まだ明日も夜はある。焦らなくてもいい」
「でも、今、あなたが欲しい。そのあなたのもので、僕を愛して」
 ふと不安がよぎる。
 この青年はまるで今日が最後みたいに欲しがってくる。
 それは若さゆえなのだろうか。
 それとも他に理由があるのだろうか。
「喉が渇いただろう。水を持ってこよう」
 ジェイはベッドから出ると、コップに水をいれてイアンのところへ持って行った。イアンが一口、二口、飲んでいる間、ジェイは浴室に湯を満たしに行った。
「一緒に入るかい」
 ジェイが冗談紛れに訊くと、イアンは真剣な表情でうなずいた。
「あなたと入ります」
 そこでバスタブに湯が満ちると、二人は一緒に浸かった。イアンがジェイの身体の上にまたがるようにして、キスしてきた。
「石鹸であそこの穴が広がりますよ」
 彼はそう言うと、石鹸で泡立てた指を湯の中の秘所に突き立てた。
「あなたのは大きいから、一本じゃ入らない」
 そう言いながら、二指でぐるぐる拡張させていく。
 さっき唇で舐めすすった乳首の突端がつんとピンク色に突き立っている。
 湯に火照って、さっきよりも色味が増している。
 尻に指を入れながら興奮しているのか陰茎も震えながらそそり立っている。
 可憐でいて卑猥なイアンの白いその肢体に欲情する。
 ジェイは再びペニスが勃起していく。
「イアン、やめてくれ。私を煽らないでくれ。今日はもう終わりだよ」
「なんで。僕はこんなにあなたを愛したいのに」
「どうして君はそんなに焦るんだ?」
 ジェイが訊くと、イアンははっとした表情をした。
 それにジェイは不穏な気持ちがする。
「明日戦争にとられるわけでもないだろう。だったら、今日君は処女を捨てなくてもいいんじゃないのか。明日も明後日もベッドを共にしよう。だとしたら、大事なことはとっておいてもいいだろう」
 ジェイは心臓がざわざわと波打つのを感じながら、言った。
 イアンはまっすぐな目をしてジェイを見つめた。
「今すぐあなたが欲しくて仕方ないんです。なぜなら、相手がだれでもないあなただから」
 その言葉に、ジェイは胸がじんわりとした。
 湯舟の中、イアンの身体を抱きしめ、その額にキスをした。
「ゆっくりゆっくり君の身体を知りたい。徐々に知って、全てを愛するよ」
 ジェイが言うと、イアンは少しむっとした表情で上目遣いに睨みつけてから、わかりました、と言った。
 その様子が少し寂し気だった。
「あなたのすべてを愛するために、僕は生きます」
 囁くようにイアンはそう言った。
 誓うような真摯さがあった。
 ジェイはちょっとした感動を覚えて、もういちどイアンの身体を抱きしめ、二人はキスを交わした。
 風呂をあがり、バスローブのまま寝室に入ったジェイは喉の渇きを覚えて、水を取りに行こうとした。
「飲みますか」
イアンが、ベッドサイドに置いていた自分がさっき口をつけて飲んでいたグラスの水を差しだしてきた。
ジェイはそれを受け取り、喉を鳴らして飲んだ。
タオルを身体に巻き付けて、濡れた金髪を拭きながら、イアンは言った。
「僕たちは逢うべくして逢ったけれど、逢ってはいけなかった」
 ジェイは眉間を寄せる。
 どういう意味だ?
 そう問おうとして、口がうまく動かないのに気づく。急激に目の前がくらくらと回りだす。
 なんだ、これは。
 気持ち悪いほどの睡魔に襲われる。
 がくり、と膝をついて頭をかかえる。
 咄嗟に気付いた。
 今、飲んだ水だ。
 ということは……。
 目の前がかすんでいくなか、イアンを見上げる。
 悪魔的なほどきれいな笑顔でイアンは口角をにやりと持ち上げて笑った。
「英国諜報員ジェイ・モートン、さようなら」
 その言葉を最後に、ジェイは床に頭をぶつけて意識を失った。

 翌朝気が付くと、イアンの心ばかりの親切だったのか、床に倒れたジェイの身体にはブランケットがかけられていた。しかし部屋は戸棚と言う戸棚の引き出しは開けられ、クローゼットもすべて荷物が出され、荒らされ放題だった。
 受け取ったドイツ側の情報を暗号文にした文書も、引き出しの鍵を壊され、なくなっていた。
 ただ、クローゼットの下に隠していた暗号解読本は手付かずだった。
 他の書類は全て暗号文書にしたのち数日中にトノンに送っていたので、被害はそれだけだった。
 やってしまった……という感覚が強い。
 警告の手紙もあったし、男爵夫人の連れということもあり、薄々怪しいなとは感じていた。でも、イアンの鮮烈な魅力にはかなわなかったのだ。なにより、自分にとってイアンは失われた半身のように感じたのだ。その感覚を無視できなかった。
 しかし、盗まれたドイツ側の情報については、暗号に訳す際にすべて自分の頭に記憶している。諳んずることはできた。
 むしろ、懸念すべきはそんなものを盗んだイアンだ。
 文書は暗号文になっているから何の情報か解読できない。どういう経緯で渡った文書かも恐らくわからないだろうし、連合国側の情報は何ひとつ得ていない。色仕掛けにしては首尾が悪過ぎである。
 とりあえず、シャワーを浴びて着替え、フロントに行って訊くと、昨晩の内にイアン・フルームは男爵夫人と共にホテルを解約して出て行ったという。
 術中にハマったとはこのことか、と思ったが、苦々しくもなぜだか笑い出したいほど痛快な気分だった。
 イアンの絶頂に達するときの表情や喘ぎ声、悦がる様は脳裏に刻まれていて、それはなによりもジェイには代えがたいものに感じた。
 ダイニングルームで朝食をとり、部屋に戻ってからトノンへ今回の一件の報告書を書いて送った。そのあと、荒らされた部屋を片付け、執筆をするためペンを取った。小説を書いている合間も、イアンのことが頭から離れない。苦しいような胸の悶えを感じた。
 彼はどこに行ったのだろう……。あんな首尾の悪い盗みを働いて、彼自身は無事だろうか。
 水面を反射するレマン湖を見つめながら、そんなことを考える。
 しばらくすると、彼に会いたくて仕方なくなってきた。
 心から燃え上がるように彼を欲する気持ちが湧き上がってくる。
 会いたい……。イアン……。君の顔が見たい。
 ジェイは時折、部屋を歩き回り、たまらずホテルの外、レマン湖の周囲を歩き回った。ほんの昨日、彼とボートに乗ったことが思い出された。さざ波のように心がざわついた。
 会いたい、とただひたすら、強く思った。
 しばらくして部屋に戻り、ジェイは再び執筆のペンを走らせたが、イアンのことを考えるとたまらなくなり、ぐしゃぐしゃと黒髪を搔き乱した。心が千々に乱れた。こんな感覚、生まれて初めてだった。
 これが、恋なのか。
 作家ながらそんなことを驚きと共に思った。
 イアン、あんなに狂おしいほどの夜を共に過ごして……君は今、どこにいるんだ……。
 イアンを恨むなどという心持は一片もなかった。ただ彼に会いたくて、ただ彼の身を心配して夜もあまり眠れないまま一日過ごした。
 夜、ひとりでディナーを済ました後、エジプト副王の近臣で、英国の介入によって一九一四年に副王が廃位になったとき、国から逃げてきたアリ王子にカードに誘われた。彼は英国を目の敵にしていて、一昨日の晩、ヒギンズ男爵夫人とのディナーにも同席していた。
 もしかしたら、ジェイがイアンとヒギンズ男爵夫人に一杯食わされたのを知って、ほくそ笑みながら様子見に誘ってきたのかもしれない。
 面倒くさいな、と思ったが、ここで断るのもなんだか癪だった。
 むしろ、こんなことに便乗してくるとは、アリ王子もおもしろい、とジェイは思った。受けてたとうではないか。
 ジェイはアリ王子の部屋を訪問した。
 アリ王子の高官のムスタファが恭しく迎えた。
 勝負はピケだった。
 掛け金を決め、通常は六回勝負なのを四回勝負にして、一回目と四回目の点数を二倍にして計算した。
 ぼろ負けだった。
 もうこれは、泣きっ面に蜂状態だ。
 コテンパンにやられた。
 散々にうちひしがれた気持になりながら、部屋を出るとき、超絶に上機嫌のアリ王子に言われた。
「ああ、ヒギンズ男爵夫人と一緒にいたあの男……」
 アリ王子は意味ありげにそこまで言って、言葉を止めた。
「なんて言いましたっけ」
 カマをかけられているのを承知で、ジェイは言った。
 もう負けるだけ負けたのだからこれ以上の屈辱はない。馬鹿にするならすればいい。
「イアン・フルーム」
「そう、フルーム青年。彼は男爵夫人と別れてナポリへ行くって言っていましたよ」
 ジェイは、はっとした。
「そうですか」
 ジェイはさらりと興味なさげに返してから、アリ王子の部屋を退室した。きっと今頃、アリ王子は腹の底から高笑いしているに違いない。
 自室に戻り、コーヒーをいれながら沈思した。
 ナポリか……。 
 しかし今、自分には任務があり、すぐにはここから動くことができない。
 どうすべきか……。
 悩むように額を抑えた。

 翌朝は嵐のような天気だった。イアンのことを一晩中考えていて、よく眠れなかったこともあり、頭痛がした。インド人の諜報員が部屋に来て、ドイツ側の情報を知らせて行った。
 空は真っ暗になり、天候は荒れていたが、部屋にいるとイアンのことを考えて仕方ないので、気分転換にランチを外のカフェに食べに行った。カフェでサラダと子牛肉とハムのパイ、ライン産の白ぶどう酒のホックを飲んで、ひどい雨の中コートの襟を立てて早足で帰ってきた。
 駆けこむようにホテルのロビーに入り、フロントでポーターに手紙は来ていないか尋ねた。届いていない、とのことだった。ポーターはお客様がふたり、お部屋でお待ちです、と言った。
「どんなひとだろう」
 ジェイが言うと、ポーターは少し慮ったような口調で声をひそめて言った。
「警察の方のようです」
「どういう用事か、言っていた?」
 ジェイは不安に胸の内がどきどきしながら訊いた。
「いいえ、承っておりません。宿泊者はどこか、と聞かれたので、お出かけになられています、と応えると、もどるまで待たせてもらうと部屋に行かれました」
「いつ頃来たんだろう」
「一時間前です」
「わかった。ありがとう」
 ジェイはポーターにチップをはずんでやり、エレベーターではなく階段で四階の部屋まであがった。
 スイス警察だろう。諜報員だということがばれたのだろうか。逮捕され、拘置所に連行されるのだろうか。不幸続きだ、とむしゃくしゃした気持ちで思った。嫌な予感で胸がいっぱいになる。心臓が早鐘を打っている。パスポートは持っている。このまま、回れ右をして、駅へ逃げるか。この嵐だ。しばらくは気付かれないだろう。国境まで逃げ切れば、スイス警察の手からは逃れられる。
 でも、この任務から離れたら、もう、イアンと出会う機会はないのではないか。そんな危惧が胸をよぎった。
 諜報員として暗躍する限り、イアンはまた接触してくる確率がある。でも、この仕事を放棄したら、イアンとはもう会えないかもしれない。
 それとも、むしろ、諜報員という任務を捨ててナポリへ行けば、イアンと因縁なく相まみえるだろうか。
 そんなことを悩んでいるうちに、部屋のドア前に来た。
 こんなときにまで、イアンのことを考えている。私はどれだけ彼に夢中なんだ。そんな自分がジェイは滑稽だった。こんな歳になって年若い青年に熱を上げ、現を抜かすなんて惨めだな。そんな風に自分を冷静に見つめたら、とことんここは白を切ってやろうと思い切りがついた。
 ドアノブを回し、ドアを押し開いた。
「どうもお待たせしました」
 ジェイがにこやかに部屋に入ると、中は煙草の煙で充満していた。
 大きめのブーツ、厚手のコートに山高帽、黒い口髭をはやしたガタイのいい警察官が二人、部屋の中に立っていた。
 ざ、と部屋をそれとなく見回して、物が動かされているのを感知し、捜査済みらしいことを察した。ちなみに暗号解読本は、イアンの件があってから、全て頭に叩き込んで焼いて捨てた。
「この天候でどこへ?」
 警察官はさっそく厳しい口調で尋問してきた。
「ランチです。私はロンドンからやってきた作家で小説を書いています。ずっと机にむかっていると、気分が滅入るんです。こんな天気でも、美味しいものを食べに出かけて、気分転換をしたくて」
「パスポートは?」
 もう一人の警察官が大きく一歩近づいてきたので、ジェイはジャケットの胸ポケットから出してパスポートを渡した。
 そのパスポートから読み取れるのは、三か月前にロンドンから来て、それ以来、スイスから出たことはない、ということだった。
 警察官はふたりで交互に、そのパスポートをじっくりと見た。
「問題はないようですな」
 警察官の一人はそう言ってパスポートを返した。
「スイスを出たことは?」
 ジェイは動揺が顔に出ないように気を付けながら、何気なさを装って言った。
「パスポートの通りです。ありません」
「ご職業は作家とのことですが。ジュネーブでは小説を書く以外に何を?」
 ジェイは笑顔で応えた。
「スイスは景観が素晴らしい。辺りを散歩し、街を散策するだけで、発想がわいてきます。私が書くのはメロドラマなんですが……人間の心理のどろどろを書くときには、スイスのような落ち着いた環境が適している。あとは食事もなかなかいい」
 警察官のひとりは興味なさそうな顔をして頷いた。
「そうですか」
「実は署長からあなたを調査しろ、と指示をうけてきたのです、ムッシュ。昨晩、ヴヴエイで捕まったオーストリアの間諜ヒギンズ男爵夫人が、こちらで盗んだという書類をもっていたものですから。どうやら、連合国側の暗号文書のようでした」
 ジェイは内心びくりとしたが、穏やかな笑みを浮かべた。
「何かの間違いでは? 私はただの小説家ですよ。盗まれるものと言ったら原稿くらいで、調査されることなんてありません。まぁ、ちょっと読みようによってはふしだらな小説を書いてることくらいです」
 警察官二人は顔を見合わせた。
「ヒギンズ男爵夫人をご存じないですか?」
「存じてます。こちらに滞在している間、カードをしたり、食事をご一緒したりしました。でも、それだけです。何かの手違いでは? 私は暗号文書なんて知りませんよ。無辜の市民にひどい言いぐさですね。彼女は捕まったんですか?」
 ひどく憤慨した口調で言った。
 もしや、イアンも捕まったのだろうか。それを知りたかった。
「そうです。ヴヴェイで昨晩こちらがマークしているインド人革命家とひとりで接触しているところを警察に連行されました」
 その言葉にちょっとほっとする。多分、イアンは捕まっていない。
「本当にご存じない?」
「知りませんよ。馬鹿にするんですか。私をこけにするようでしたら、私も作家です、イギリスの出版社にスイス警察の記事を書かせますよ」
 ジェイは半ば怒りを含んで返した。
 警察官二人は、じっとジェイを見つめていた。
 ジェイの背筋を冷たい汗が流れ落ちた。
「パスポートをもう一度拝見しましょう」
 警察官の一人が言った。
 ジェイはもう一度差し出した。
 警察官は隅から隅まで何度も目を通した。そして、ため息を吐いた。
 ジェイにはそのため息がどういう意味のものなのか理解しかねた。
 心臓が凍るように冷たくなる。
「問題ないですね」
 警察官ふたりは目で合図しあいながら、頷いた。
 パスポートも確認し、部屋を捜査し、問題がなければ、連行する理由もない。そのあと、二、三、質問をして、警察官は帰っていった。
 ドアの向こう、ふたりの警察官のブーツの引きずるような足音が遠ざかっていくのを聴きながら、ジェイは額を拭い、深い息を吐いた。
 なんとか逃げ切った、と脱力するように思った。

 翌朝、ポーターが至急の手紙を運んできた。

 ―即行来られたし。パリのオテル・ロティに宿泊中。リチャード—

 リチャードとは、上司のRがよく使う偽名だ。この冗談もユーモアもない文書から、彼が相当怒っているらしいのが伝わってくる。ジェイは急いで着替え、フランス領事館へ行き、ビザを取得し、ホテルのボーイに汽車の切符を買ってきてもらえるよう手配した。
 その間、荷造りをし、風呂に入って、ダイニングルームで朝食をとった。
 イアンのことを考えると、未だよく眠れなかった。眠りに落ちたかと思うと、夢に彼が出てきて目が覚めた。夢の中の彼はひどく寂しそうな顔をしていた。彼の心配ばかりをしていた。あまりよく眠れないままジュネーブから寝台車で数日かけてパリに行き、駅に着くなりRに電話をかけた。
「今、パリにつきました」
「ホテルの部屋で待っている」
 すぐさま通話は切れた。
 ジェイはため息つきたいような気持になりながら、自分の宿泊するホテルに行き、ひげを剃って風呂を使い、小ざっぱりと着替えてからRのいるホテルに向かった。ドアマンに開けられて入ったホールには見覚えのある当番兵が待っていて、Rの部屋まで案内され、部屋のドアを開けられた。中に入ると、薪ストーブの燃える中、Rがカウチに腰掛けて足を組んでこちらを向いて座っていた。
「かけなさい」
 Rに言われて、ジェイはそばにあったカウチに腰を下ろした。
「まさか君が、男の色仕掛けにひっかかるとはな」
 ため息まじりにRは言った。
「色仕掛けじゃありません」
 ジェイの不貞腐れたような応えに、Rは神経質そうに細く薄い眉を持ち上げた。
「では?」
「恋愛です」
 ジェイは少しため息まじりに言った。
 この恣意的にどうにもできない心持に、ジェイ自身ほとほと参っていた。
「恋愛ほど任務に邪魔なものはない」
 Rは強いアクセントで言い放った。
「君は恋愛ののちに情報をドイツスパイに与えたのか?」
「連合国側の情報は何一つ与えていません。しかも盗まれた情報はドイツ側の情報で暗号文に移し替えていました。やつらにはなんの文書かすら解読できないでしょう。しかも、その文書を持って逃げたヒギンズ男爵夫人はスイス警察に捕まって、文書を没収されています。ドイツ側の手にはわたっていないのは確実です。それより、私が心配なのはイアン自身です。このままいいように使われて、殺されるのでは」
 自分でそう言って心が痛んだ。
 はっとRは鼻で勢いよく笑った。
「君は文書を盗まれたという損害をうけたうえに、相手のスパイを心配するのか。そんな心配をする前に君自身の心配をしたらどうだ。しかも、暗号文書を盗まれたからには、暗号を組みなおさなければならない。それは明らかに損害だよ」
「文書は盗まれましたが、内容は私の頭に完璧に入っています。諳んじることもできる。たしかに、私が文書を盗まれたのは損害ですが、それはほぼ何の意味もありません」
「何の意味もない、だと! 暗号を組みなおす苦労を知らないから言うんだ」
 Rは叫び、しばらくじっとイアンを見ていた。
「君とは長い付き合いだ。今回の件は、見逃そう。ただ、君はこれ以上イアン・フルームに関わるな」
「ひとの恋心に蓋をすることはできません」
「ジェイ」
 Rが鋭い声を投げかける。
 ジェイは口をつぐんだ。
「君は作家だが。そんな非現実的なことを言う人間だとは思わなかった。イアン・フルームとは金輪際かかわりを持つな。やつは同盟国側のスパイだ。何人もの男が、奴と寝て、情報を取られている」
「え?」
 ジェイが軽く眉を動かした。
 Rは目敏くその様子を捉えた。
「奴は淫売だよ。あの美貌だ。女男かまわず寝て、閨で語られる情報を同盟国に売っている。それでいてそんな卑猥さを一切滲ませない。プロのコールガールだ」
 やられた、という気が一瞬ジェイの身内を貫いた。
 でも同時、それでもいい、という気持ちもあった。
 ジェイは、作家として、自分の感性に重い信頼を置いていた。
 ジェイが彼と出会った瞬間感じたあの感覚は、嘘ではない。あれは、運命だ。
 ただここで、彼にとって私だけは違うのだ、と主張したところで、Rには笑われるだけだ。
「わかりました。あなたの言質に従います」
 Rは満足げに頷いた。
「今日君をここに呼んだのは、他でもない。イタリアへ行ってもらいたいからだ」
 イタリア、と聞いて、ジェイの目の色が変わった。
 ナポリにはイアンがいるはずだった。
 単純に説教に呼ばれたものと思っていたジェイは、姿勢を正す。
「なるほど。どういう要件ですか」
 Rは写真を差し出してきた。
 ジェイはそれを受け取る。
 ダブルのスーツ姿でかしこまる、ギリシア人の男が一人写っていた。男の黒髪は天然パーマで短く、眉は黒々として太くて、少し眼窩がおちくぼみ、鼻筋が太く高い。がっちりとした体格でレスラーじみている。
「このギリシア人だが、トルコのエンヴィル・パシャが抱えている諜報員だ。名前はアトラス・アンドロニコスという。この男がピレウスからイタカ号という船にのって、ブリンディジを経由してローマに行く。この男の持っている書類が欲しい。連合国側のかなり重要な機密が書かれている。この男はローマでドイツ大使館に書類を届ける手はずになっている。イタリアに行き、ブリンディジの港でこの男が降りるのを待て。そして、ローマに行くまでに、書類を奪う。殺しも構わない」
 そう言うと、Rは銀色のリボルバーをおもむろに差し出してきた。ジェイはしばしためらったのち、それを手に取る。じっとりとした重さと冷たさが手に伝わってくる。
「イタリアは現在中立地帯だ。連合国側としては味方に引き入れたい。なので、イタリア当局との面倒は起こすな。しかし、アトラスをローマに行かせてはならない」
「わかりました」
 ジェイは頷く。
「パスポートはこちらで用意した。外交官用のもので、名前はハウスラー。フランスとイタリアのビザもとってある。これを使うといい」
「ありがとうございます」
 ジェイは受け取る。
 受け取りながら、目的地のブリンディジがナポリから近いことに、ほのかな希望を抱いていた。
「出立は今夜ですか」
「そうだ。そのまえに、フルームに奪われたドイツ側の書類の情報は隣室で秘書に口述していってくれ」
 ジェイは隣の部屋のドアをちらと見やる。
「わかりました」
「アトラスは十四日にイタカ号でピレウスを発つ。少し遅れるかもしれないが、早めにブリンディジに着いていてほしい」
「了解です」
 ジェイはリボルバーをジャケットの内ポケットに入れると、カウチから立ち上がった。
「任務は必ず遂行します」
「頼むよ」
 ジェイは一礼して辞去し、隣室のドアをノックして開けた。Rの秘書がタイプライターを前に座っている。肩のあたりにカールした金髪を揺らすやたら口紅の赤い女である。彼女に、ドイツ側の情報について伝えた。彼女はジェイが話し出すと、マニュキアを塗ったピンク色の爪を動かして、タイプを打ち、筆記した。
 部屋を出てくると、Rは本を読んでいた。
「それでは、失礼します」
 ジェイが言うと、Rは本から目を上げた。
「行きがけに、ハイボールでも飲んでいくかね」
「結構です」
 ジェイはそう言うと、再び一礼して、Rの部屋を出た。ホテルに戻り、解いたばかりの荷物を入れなおし、ポーターにバックを持たせて再び駅に向かった。
 駅の待合室で二時間ほど、煙草を吸ったり本を読んだりして過ごしていると、ローマ行きの急行列車がホームに入ってきた。
 ジェイは処分がなかったことの安堵に加え、旅の疲れもあり、ずっとイアンを想い寝不足だったことから寝台に横になると、揺れも構わずすぐ眠りに落ちた。
 ナポリの近くへ行ける、というわずかな希望も深い睡眠に一役かっていたと思われる。
 翌朝、食堂車で朝食を終えると、国境を越えるための審査があった。
 ジェイは外交官のパスポートを持っていたので、ノーチェックである。ジャケットの内側にいれているリボルバーも見つからなかった。
 ちょっとほっとして、ジェイは座席にもたれるように窓の外を見つつ、うたたねした。目覚めてから、同じ車両に商用でローマに行くという英国人がいて、彼とトランプのエカルテをやって、千フランほど負けてやめた。カードはとことん弱いのだ。わかっているのに、なぜか毎回今度こそはと思ってしまう。
 本を読んだり、寝たり、煙草吸ったりして過ごしながら、数日後ブリンディジに着いた。
 書類を奪った後、ナポリに寄ることはできるだろうか、と考えた。
 もしかしたら、可能かもしれない。
 ホテルに荷物を置いて、ジェイは港の方へ向かった。
 港の作業員に訊くと、イタカ号の到着は明日の午後になるだろうとのことだった。
 そのまま、ジェイは港を散策して、市街地へ行き、広場や教会を見て、ホテルに帰ってきた。初めて来たが、アドリア海は色が冴え冴えとした青を湛えて美しく、街もかしこに残るローマ時代からの歴史的遺跡が情緒を添えて、景観の素晴らしい土地柄だった。道は石畳の細い路地が多く、古い建物が建ち並んでいた。
 作家的想像力も働かせて、もしアトラスを殺すのなら、どのへんだろうということを考えながら、街を歩いていたのだが、広場はどこも人でにぎわっており、路地には古い住宅が入り組んでいて、難しいような気がした。
 第一に人を殺したことがない自分が、いざというときリボルバーの引き金を引けるのか自信がなかった。
 翌朝、カフェで朝食をとったあと、港にむかった。
 煙草を吸いながら、日陰で船を待ったが、夕方になっても入港しない。再び作業員に尋ねると、船が遅れているという。もう一度、翌朝出直した。
 カフェで早めの朝食をとり、港に向かう。煙草を吸いながら、日陰で船をしばらく待った。昼頃、遠くアドリア海の水平に白い点が見えて近づいてきた。塗装のはげた古く小さい客船・イタカ号が着岸した。警官立ち合いのもと、橋が渡されて、客が降りてくる。警官の前を、客は通り過ぎていく。
 ジェイはしばらくまばたきもせず、下りてくる客の顔をひとりひとり見ていた。三人の子供をつれた家族連れがにぎやかに下りて行ったあと、ハンチングを目深にかぶった男がひとり、船の奥から出てきた。
 アトラスだった。
 アトラスは右手にトランクを持っていた。
 彼はうつむいて警官の前を通り抜け、市街地の方へ歩いていく。ジェイはその後を尾行した。アトラスが足を止め、あたりを見回すたびに、背後でジェイはジャケットの中に手を入れてリボルバーを探った。
 アトラスは床屋に入ると、頭を洗い、ひげを剃り始めた。
 船の長旅で、すっきりしたかったのかもしれない。
 ジェイは床屋の向いで、ずっと彼を監視していた。トランクは彼の足元に離さず置かれている。
 床屋から出てくると、アトラスは大通りのカフェに入った。そこで、コーヒーを頼んだ。傍にいた客が、煙草の火を貸してほしい、と彼に声をかけてきた。
 その一瞬のスキを突いた。
 ジェイは走り出すと、足元の彼のトランクをかっさらい、そのまま全力疾走した。背後で「泥棒だ!」と叫ぶ声がした。運悪く、警官ふたりがそばにいたらしく、慌てて追って来た。
 人通りの多い広場を走り抜け、石畳の路地に入った。警官はまだ追ってくる。アトラスも来ている。そのまま少し大きな通りに出て、走っていくと、海岸に出た。海岸沿いの城壁を走る。何か叫びながら、警官とアトラスが迫ってくる。
 再び路地にはいり、ひとで賑わう歩行者通路(ガレリア)を走り抜け、やせた馬の引く馬車のわきをすり抜け、露店の横を通り抜けた。
 しつこい。
 警官もアトラスもまだ追ってくる。
 息がきれてきた。
 苦しい。
 汗で顔中がべたべただった。
 私も結構いい歳なんだ。こんな仕事、勘弁してくれ。
 走りながら、内ポケットに入れたリボルバーを思い出す。
 これを撃つか?
 一瞬迷った。
 喉が締め付けられるように苦しい。
 もう、これ以上走り続けるのも無理だ。
 しかし、万一発砲した弾丸が警官に当たれば、イタリア当局と揉め事になるのは必至だし、街中で撃つわけにもいかない。
 しかも、古い住宅が入れ組んで気付かなかったが、この道はさきが袋小路らしかった。
 いけない。
 そう思った時だ。
 路地裏から白いローブを全身にまとった男が待ちかまえていたかのように出てきた。
「こちらです」
 一瞬警戒心が働いたが、一本道でもう逃げられない。一か八か、男の声の方へ、身を翻した。古い工房のような建物の中に男はするすると入っていく。暗闇の中白いローブがほの明かりのように浮き上がって見える。ジェイはその後についていく。
 背後を振り返ると、警官とアトラスは工房前を走り抜けていった。
 ジェイはローブの背中を追う。
 ふと視界が明るくなった。
 目の前に川が流れていて、舟が一艘もやってあった。
「ここは織物工場で、原料を荷下ろしする川です。ここから逃げられます」
 そのとき、ジェイは男が何者であるかを確信した。
 ジェイは手を伸ばし、その男の顔を覆うローブを外した。ほどけるように金髪がこぼれた。
「君も一緒に来なさい。イアン」
 ジェイの声に、緑色の目が大きく見開き、潤んだような気がした。
「でも、僕はあなたを裏切りました」
 イアンの声が悲壮な響きを帯びる。
「今、君は私を助けてくれた。私と共に来なさい。そして、新しい人生を私と共に始めるんだ」
 イアンはすがるような目でジェイを見つめる。そして形のいい眉を片方だけ持ち上げて、挑むように言った。
「僕が、あなたを売らないとでも?」
「君は言った。あの晩。『あなたのすべてを愛するために、僕は生きます』と。あれは心からの言葉だった。君は、盗んだ文書が無意味だとわかっていたんじゃないのか」
「それはあなたの作家的想像力ですか」
「違う。確信だ。なぜなら君はドイツ側に有利になる暗号解読本に手を付けなかった。それは君が私を陥れることができなかったからだ」
 イアンは息を飲み、そしてうつむいた。
 寸暇あったのち、飛びつくようにジェイの首元に腕を絡めてきた。
「会いたかった」
 ジェイは無言でその身体を抱きしめた。
 しかし、ゆっくりしている時間はない。
 しばしの抱擁の後、ふたりはもやってある舟にのって川をくだり、ホテルにもどって荷物をとると、すぐさま駅へ向かってブリンディジの街を後にした。

 ジュネーブに戻ったジェイは、何も詳しく事情を聴かぬままにイアンを部下として仕事を手伝わせるようになった。
 そのことにイアンは少なからず驚いていたようだが、素直に仕事に従事した。
 ドイツからの情報を提供しているドイツ系スイス人のベルナルトという男が、用事があってジュネーブに来るため接触をしたいと申し出たときも、その役割をイアンに頼んだ。
 そのことに関して、イアンは腹立たし気にジェイに語った。
「ベルナルトとは時間を指定してカフェで会うことにしていました。合言葉を決めて。当日、カフェに行き、それらしき人物に合言葉をなげかけました。そしたら決めてあった言葉が返ってきたので、テーブルに座り、僕はデュボネを注文しました。ベルナルトのフランス語には強いドイツ語訛りがありました。彼は報酬を要求し、僕は封筒で渡しました。彼はドイツにいたときのことを報告してから、いくつか僕の質問に応えました。そして、別れ際にもう二千フラン欲しいと報酬を要求してきたんです。なんでも借金があるとか。僕は断りました。彼は、僕もろともホテルにいるジェイも含めて、スイス警察に突き出すと言いました。スイスの刑務所を知っているか、恐ろしいところだぞ、と脅しすらしてきました。僕は言いました。
『多分、刑務所に放り込まれるとしたら二年だな』
 彼は言葉を選ぶようにして言いました。
『それくらいだろう。スイスの刑務所は悲惨なところだ。二年もいたら十分だろう』
 僕は声を低めて脅すように彼に言いました。
『あんたもそれなりの代償を払うことになる。この戦争もそのうち終わる。僕かジェイに何かあったら、君は一生連合国側の国には入れなくなる。それは君にとって不自由じゃないのか』
 って。そしたら、やつは、悔しそうな顔をして何もいわずに帰りましたよ」
 ジェイは笑って、イアンの機転に感心した。
 それからは、朝九時に市場へ行って農婦から情報を得てくる仕事もイアンにまかせるようになったし、ジェイは仕事の多くをイアンに手伝わせた。
 そんな風にしてしばらく過ごした後、ジェイはイアンを連れてトノンに週一の報告へ行った。すると、ホテルで迎えたのは、いつもの諜報員ではなく、Rだった。
「ふたりきりにしてくれ」
 Rは不機嫌に言い、ハエを追い払うように手でイアンに出て行くよう示唆した。イアンは黙ってそれに従った。
 ドアが閉まるのを見てから、Rは言った。
「どういうことだ」
 Rはカウチで足を組み、葉巻を手に取った。
「彼は諜報員ではありません。なぜなら、私をだまして部屋を荒らしたときも、ドイツ側に無意味な文書しか持ち去っていません。彼はもともと私をだます気持ちはなかったんです。私は彼を部下として、彼と共にこれから生きるつもりです」
 Rは黙り込んで葉巻をくゆらせた。
 薄い眉をひそめる。
「恋は盲目とはかのシェイクスピアの言葉だが、君の目すら曇らせるとはな。あの男の色気も大したものだ」
 そう言って、足を組みなおす。
「彼の父親がオーストリアのドイツ側武器製造工場に出資していたのは事実だ。彼の父親はそれなりの刑罰をうけるだろう。彼自身はあのオーストリアの諜報員、ヒギンズ男爵夫人からは恩恵を受けていたはずだ。男爵夫人は捕まったが、その仲間とは関係が切れているのかね」
「本人は切れていると言っています」
 ふぅん、と鼻から紫煙を噴出して、Rは顎を撫でた。
「それにしても、だ。君の勝手な判断で、彼に諜報員の仕事を手伝わせるとはいささかやりすぎの体がある」
「彼は私のパートナーです。ご理解いただきたい」
 Rはしばらく考えるような表情をしていた。
 葉巻の煙を吐き、沈思するように目蓋を揉んだ。
「作家として仕事人として、私は君を信頼している」
 この言葉は嘘だ。
 そうじゃなければ、Rは自分を監視させるようなことはしない。
 だからこそ、彼はこの数日間人知れずイアンを監視させて、既に答えをだしているはずだった。
「ありがとうございます」
 それでも型通り、ジェイは礼を述べた。
「君の責任において、彼をパートナーとして使うがいい。しかし、なにかあったときは、君が責任を取れ」
「わかりました」
 ジェイは力強く頷いた。
 一礼してRの部屋を出ると、廊下の先には手持無沙汰げに長い手足を持て余してイアンが佇んでいた。
「イアン」
 ジェイが声をかけると、彼ははっと顔を上げた。
「晴れて君は私のパートナーだ」
 ジェイが言うと、彼の顔がぱっと輝いた。
 澄みわたったとても綺麗な笑顔だった。
「ありがとうございます」
 ジェイは彼の傍に行き、その肩を抱いて、にこやかにたたいた。
 イアンはほっとしたように柔らかく微笑んだ。

 トノンから船で帰ってきてから、ホテルで食事をして、ふたりは部屋に戻ってきた。
「何か飲む?」
 ジェイが訊くと、イアンは朗らかに微笑んだ。
「ベネディクティン酒があったはずですが、あれを」
「君は甘口の酒が好きだね」
「こどもなんです」
 イアンはふざけたふうに笑って言った。
 イアンはベネディクティン酒を、ジェイはブランデーを、ふたりは窓のそばのカウチに座ってレマン湖を眺めながら飲んだ。
「私の元を去った時、君はどうするつもりだったんだ」
 ジェイはブランデーをグラスで飲みながら言った。
「ヒギンズ男爵夫人とはジュネーブで別れました。僕は中立地帯ののイタリアに行くつもりでした。ナポリに知り合いの情報屋がいたんです。男爵夫人とは袂を分かったけれど、あなたのことは忘れられなかった。日に日に想いが強くなっていって……そんなとき情報屋にたまたまあなたの動向を聞いた。あなたがイタリアのブリンディジに書類を奪いに来ると。情報屋はそれを同盟国側に売るつもりでした。あなたを亡き者にするために。僕はそれを止めた。そして、たまらず、あなたに会いに行きました」
「ヒギンズ男爵夫人はスイス警察に捕まったよ」
 ジェイが言うと、イアンは頷いた。
「知っています。僕が捕まらなかったのは運がよかった」
 ジェイは慰めるようにイアンの肩を軽く叩いた。
「私のことはアチラにはそれなりに漏れているんだね」
 ジェイは苦笑いする。
「ちなみにその情報屋はイタリア人で、今はまだ同盟国側でも連合国側でもありません。うまいことやって売るネタを買う側に与えている。僕が言うのもなんですが、調子のいいやつです。でも、あなたも、諜報員はなんとなく匂いでわかるでしょう。それは同盟国側の諜報員も同じなんです。無駄に攻撃はしないけれど、把握はしている」
「なるほど」
 ジェイはグラスを回す。
「聞いたよ、君のこと。女も男も相手にするやり手のコールガールだって」
 イアンは悲しそうな表情をする。
「嫌いになりましたか」
「いいや。興味がわいた。こんなに清純な顔をしたコールガールがいるだろうか、と」
「僕はもうコールガールじゃない。あなた専用のパートナーです」
 ジェイがグラスをテーブルに置く。
「私の欲望を、受け入れてくれる?」
「喜んで」
 イアンもすべらせるようにグラスをテーブルに置いた。
 立ち上がり、身体を寄せて抱き合い、キスをする。イアンが大きく口を開き、咬みつくようにキスをし、舌を絡めてきた。ジェイは慎み深く、舌を絡めとられるまま、吸い付かれるまま、封するように恭しくキスをした。イアンはそれに興奮したらしかった。
 背中からすべるようにしてベッドに横たわり、靴を脱ぎ捨て、スラックスを脱ぎ下す。シャツをはだけて股を開き、彼は追うようにしてベッドに上がってきたジェイにキスしてきた。
「触ってください。僕、興奮してる」
 ジェイはイアンの屹立したそれに手を添えて上下させる。赤く発色したそれは薄皮を引き伸ばし、引き下ろされ、先端の穴から淫らに我慢汁を滲ませだした。激しく手で扱くと、陰茎は硬さを増し、震えながらとろとろと透明な汁がこぼれて滴ってくる。
「僕、あの晩から、自分でやるときはあなたのことを考えていました」
 息を乱しながらイアンはそんなことを言う。
「あなたの手が、僕のペニスをエッチに扱いて、卑猥なことを言って僕を辱める。そういう想像をして、オナニーしてました」
 そう言いながら、イアンのペニスは昂ぶり、反り返りを強くしながら、しとどに濡れていく。金髪の陰毛は色が濃くなっている。
 ジェイは勃起したそれを咥えこんだ。
「あ、だめっ……ジェイっ……」
 イアンが腰をのけ反らせる。
 喉元まで咥えこみ、呑み込むように唾を嚥下した。
「あぁ……とけちゃうっ、僕、ジェイに呑み込まれちゃいます……」
 ぷるぷるっと背筋を震わせて、イアンはかき乱すように前髪を掻き上げた。
 ジェイはそのまま、じゅぷじゅぷ吸い付くようにしてイアンの陰茎をすぼめた唇で扱きあげる。
「あ……あぁ……、あ、あぁ………」
 はだけたシャツの間から楚々とした乳首を突き立てて、身体を懊悩させながら、イアンは喘ぎ声をあげる。
「イっちゃう、僕、イきますっ……あ、あ、あぁっ……」
 声をあげながら精を噴き上げ、イアンは一際大きく身体をのけぞらせると、ベッドに沈み込んだ。
 その肩に手を添えながら、ジェイは愛し気にその額、こめかみ、目尻、鼻先、唇に短くキスを落とす。
「君の乱れ方が激しいから、私も我慢できないよ」
 ジェイはそう言うと、きつくなったスラックスを脱ぎ捨て、シャツを脱いで裸になった。
「女にするみたいに舐めていいね?」
「え? 舐めるんですか?」
 イアンの動揺構わず、ジェイはその尻肉を掻き分けて秘所に舌を突っ込んだ。
「あ、だ、めぇっ……」
 ふる、とイアンの太腿が痙攣する。
 ジェイは膝を押し開き、鼻先をこすりつけるようにして舌を出し入れする。
 ねっとりとした粘膜を粒だった舌先で擦り、くすぐる。
「あ、あ、あぁぁ………や、あ、あ………」
 ひくひくと爪先を曲げたり伸ばしたりしながら、イアンは感じて仕方ないみたいに息を荒げた。
 ほじくるように舌先で粘膜をずぽずぽやり、左右、前後にれろれろする。
「あーっ……うぅぅ……」
 イアンは気持ちいいのか腰を左右に揺さぶっている。
 じゅぷり、と口全体を押し付けて穴襞をすする。
「んあっ………」
 イアンは身体を突っ張らせ、そして弛緩させた。
「僕、こんなふうに愛されたの、初めてです」
 イアンが涙目で見上げて言ってくる。
 ジェイは嬉しくなって笑う。
「誰よりも私が君を愛してあげるよ」
「僕も誰よりもあなたを愛したい」
 ジェイは手を伸ばし、ベッドサイドチェストから保湿クリームを取り出す。缶からすくって指に塗り込めると、人差し指をイアンの中に挿しいれた。
「ぅ……んっ……」
「痛い?」
 ジェイが訊くと、イアンは首を横に振った。
「小説を書くあなたの手が僕のアナルに入ってると思うと……なんか、イケナイ感じがして……もぞもぞする」
「私の手は小説を書くペンも握るが、君の快楽も貪るんだ」
 そう囁いて、指先を中で動かした。
 指の関節を曲げて、掻きくじるようにくいくいした。
「あ、うぅっ……」
 イアンはちょっと尻を浮かせるようにして悶えた。
「なんか、ヤバいとこ……あたった……」
 イアンが掠れた声をあげる。
「ここかな?」
 ジェイは、ずぽりと深くまで指を挿入すると、手を返して腹側の部分をくりくりくりくりと掻きくじった。
「あ、あ、あ、あ、あぁぁっだめっ」
 イアンは身をよじり、曲げて、逃げるようにして腰を引いたので、ジェイは追いかけるように指を挿入した。
 彼の腰を掴んで引き寄せ、なおも人差し指で執拗に刺激する。
 尻をいじられながら、彼の雄芯が細く血管を浮き立たせて勃起しだす。
「あ、手を、やめてぇ……なんか、イっちゃうっ……イっちゃうっ」
 イアンの感じる部分をジェイは容赦なく掻きほじる。
 指先に当る柔らかいほどの粘膜を捏ねて擦って充血させる。
 手を入れている内側が熱くなり脈打つのがわかる。
「あぁぁ」
 弾かれるように身をのけ反らせて、イアンは射精した。
 精液はジェイの顔にかかった。
 ぺろりとジェイはそれを舐める。
 濃いイアンの味がした。
 たまらない気持ちになる。
「尻をほじられてイくなんて。なんて君はエッチなんだ」
 ジェイが言うと、イアンは泣きそうな顔をした。
「エッチな僕は嫌ですか」
「嫌なわけないだろ。どんな君も私だけのものだ」
 そう囁いて、ジェイはイアンにキスをする。
「指を増やすよ」
 二指で内を掻きまわす。
 ぐちりぐちりと淫靡な音がたつ。
 それを素早く出したり入れたりすると、手マンされる女のようにイアンは身悶えした。
「あ、あぁっ、あ、あっ、あっ」
「お尻で感じるの」
「感じます……!」
 イアンは潤んだ目で身体を震わせた。
「お尻、好きです」
 いやらしい告白に、ジェイの下肢が漲る。
 三本指を入れて、内をばらばらにした指で撹拌する。
 アナルの襞は指を貪り薄く伸びる。
 ジェイは人差し指、中指、薬指に加えて親指まで入れて、内側をほぐす。
 みっちりと食らいついてくる貪欲な肉孔だ。
 粘膜の張りを丁寧に伸ばして慣らしていく。
 内襞は程よく柔軟性を持ってうねっている。
「あ、もう、欲しいです、欲しいっ……」
 誘うようにイアンは腰をゆすりたてる。
 卑猥なその仕草にジェイもたまらなくなる。
 ぐいとイアンを掻き抱くように引き寄せる。
 は、と息をしてイアンが背中に腕を回し、キスしてくる。
 食らい合うようなキスを交わしながら、ジェイはイアンの腰を引き寄せてゆっくりと挿入していく。
「ん、んぁ、ああ……」
 イアンは背後のベッドに倒れ込んだ。
 大きなジェイのものはイアンの内壁を擦りながらゆっくりとその巨体を沈めていく。
 ジェイは乗り上がるようにして身体を進める。
「あ、あぁ……はぁ……」
 イアンはその大きさに震えながら、股を大きく開いて、足の親指と人差し指を交差させたり開いたりこすったりさせた。
「初めてじゃないんだよね」
 ジェイがたしかめるように言うと、イアンはちょっと決まりが悪そうにうなずいた。
「ここもすぐ私の形になる」
 全てをおさめきって、ジェイはそう言った。
「入れてるだけで、イきそう……」
 イアンが喘ぎめいた声をあげる。
「君の内、とても気持ちいいよ。動いてもいい?」
 ジェイがわずか腰をもちあげて聞く。
「優しくしてください」
「うんと甘やかすよ」
 ジェイはそう言ってゆっくりと様子を見るように腰を動かしだした。
びくん、とイアンの腰が跳ねあがる。
「あ、おっきいっ……」
「そう。だから、君のエッチな部分をごりごりする」
 そう言って、ジェイは意識してイアンの腹側上部を擦りあげる。
「あ、あぁっ、だ、だめっ……だめですっ……」
 イアンが金髪を振り乱してジェイの首筋に抱きついてくる。
 ジェイはイアンの背中を撫でた。
「強すぎた?」
 イアンはこくりとうなずく。
「何度イってもいいよ。私は君がイくのを何度でも見たい」
 イアンはジェイにしっかり抱きつきながら、ふるふる震えだす。
「こんなに気持ちよくなったこと、なくて……」
「君の中に私のものはよく馴染んでいるようだ」
 そう言って、腰を擦り合わせるようにしゃくりあげた。
「あっ」
 大きなもので奥を突き上げられて、イアンは息を飲み、そして陶然と表情を緩めた。
「君の内襞が私のものに食らいついてくるよ」
 ジェイはそう言って再び腰を二、三度大きく振った。
「あ、あっ」
 容量の大きなもので掘削されて、なおもイアンの内奥は悦び絡みついてくる。淫猥な肉洞だった。
 わずかな肉の抵抗はあるが貪るように粘膜は食い絞めてくる。
「イアン、すごいね。君の中は、女の比じゃないよ。これは極悦だ」
 ジェイは腰を打ち振りながら、快感に呻いた。
「はぁ、イアン、イイっ……イイよ……最高だ、君の中は……」
「あ、ジェイっ……すごいっ……いきそう、いきそうですっ……」
 言いながら、イアンは突如身体を起こすと、ぐるりと身を反転させた。
 天地が逆になる。
 ジェイはいつのまにか、シーツに押し付けられていた。
「やられっぱなしは性に合いません。僕は結構負けず嫌いなんです」
 にやりと微笑むイアンにのぞき込まれて、ジェイは下腹部がさらに張り詰めた。
 ジェイの上に乗りあがり、イアンは交接部をうねりあわせる。
「あ、ジェイのが固く張りつめてるのがわかります……」
 慎みなく股を開いて、反り返る陰茎を目の前にさらしているイアンに、ジェイは視覚で犯される。
 ブルンブルン陰茎を震わせながら、イアンは腰を前後左右に振り出す。
「あ、あぁ……ジェイ……!好きです、好き、好き……」
 容量の大きなものを自ら飲み込み、身を沈めながら、イアンは感じていた。少し腰を引いて、腹側の部分を自分から押し当てながら、愉悦に打ち震えた。時折、卑猥に腰を回転して押し付けてきた。
「あ、あぅぅ……気持ちいい……ジェイのがあたるっ……」
「ここが好きって、君が自分からあててるんだろう」
 そう言って、ジェイは自分からも腰を揺すりたてる。
「あ、ダメです、そんな動いたら……僕、ヨすぎてっ……」
「ここかね? ここが君のいいとこか?」
 ジェイは腰の位置を動かして、上下に揺らす。
 イアンの体が跳ね上がる。
「うぅ、う、う、うぅ~っ……あ、あぅ……」
「ここだね? 知ってるよ。ここを刺激すると、君は悦んで私のものを食い占めてくる」
「あ~……あ、あん、あ、あっ……ダメです、イっちゃいますっ」
 体を身悶えさせながら、イアンは貪るように激しく動き出す。
 大股を広げて性器を露出しながら快感を自ら煽るイアンは妖艶なほどだった。
「あ、ハゲシイ、ハゲシイよ、イアン、好きだ、私も好きだ、君が」
「僕も、好きです、好き」
 二人はキスしながら腰をうごめかしあう。
「あ、あ、イく、イきますっ」
 イアンが甘苦しそうに喘ぎの合間に声を漏らす。
 びくびくっと体を痙攣させて、伸びあがるようにしながら、イアンは射精した。急激に内粘膜に締め付けられる。たまらず、ジェイも欲望をイアンの腹の奥へ解放した。あまりに深い快感に、ふたりして抱き合うように倒れ、荒い息をして動けずにいた。
 彼の目蓋にかかる金髪を、ジェイは手で掻き分ける。
「大丈夫?」
 イアンは未だ余韻の残る微熱めいた目をして、ジェイを見つめた。
「死にそう」
 彼はただそう言った。
「どこか苦しい?」
「ここが」
 イアンは心臓を抑えた。
「痛いの?」
「あなたが愛しくて、死にそうに苦しいです」
 ジェイは笑った。
「私もだよ」
「多分、僕の方が苦しいです」
 イアンの負けん気の強さに、ジェイは微笑む。
「風呂に入ろう。君のなかを洗わなくては。お腹が痛くなるよ」
「また一緒に入ってくれますか」
「もちろん。一緒に入ろう。でも今度は、あがってから私が飲む水に薬は入れちゃだめだよ」
 冗談めかせてジェイが言うと、イアンは肩をすくめた。
「薬はいれませんよ。あなたが僕を一晩中抱いてくれれば」
「じゃ、そうしよう」
 ジェイは静かに笑って頷いた。
 そしてジェイは起き上がり、寝室の隣の浴室へ行き、水栓コックを開けて浴槽へ湯をためた。湯の中でも、イアンは積極的だった。自ら指を入れて中に出された精液を掻きだし、再びジェイを欲しがった。さすがにジェイは疲れ切ってしまっていて、イアンをなだめて湯舟をあがったが、ベッドでは襲われるようにイアンにフェラされて、ジェイはもう一度逐情してから、彼を抱きしめて落ちるように眠った。
 
 ジェイは窓際の文机で執筆にペンを走らせている。イアンは市場に行き、農婦から情報を受け取って帰ってくるところだった。
「ジェイ、リチャードから手紙がきています」
 部屋に入ってくるなり、イアンはフロントで受け取ってきた手紙の差出人をみつつ、言った。
 ジェイはその手紙を受け取り、暗号で書かれた内容を理解する。
「イアン、ちょっとした旅行だ」
「どこです?」
「リヨンだよ」
「あそこは食べ物がおいしい」
 イアンはにこりと笑う。
「面倒な仕事になりそうだ」
「それはやりがいがいある」
 イアンの言葉に、ジェイは微笑み返す。
「君がいればなんでも完遂できるからな」
 イアンが傍で働くようになってから、リチャード、もといRは以前よりも少し込み入った面倒な仕事を依頼するようになってきた。それは、イアンとジェイのコンビだと遂行率が高いからだ。
「トランクに荷物を詰めて。今夜には発つよ」
「了解です」
 ふと、イアンがさびしげな顔をする。
「今日の夜はなしですか」
「その分、明日の夜、君を抱くよ」
 イアンは密やかに笑う。
「楽しみにしてます」
 ふたりは視線を合わせて微笑み合い、それぞれの荷造りを始める。
 今晩、英国諜報員コンビは新しい任務のためフランスのリヨンへ発つ。
















END

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