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20・歴史が大幅に変わっていた

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 掃討艦や松型駆逐艦を主力とする掃討艦隊の編成も比較的早くに行われ、戦前から海賊退治をやっていた者たちの練度などもあって、1944年に至るも、未だ本土と南方を繋ぐルートは確保できていた。保有船腹量も史実より多いのではないだろうか?

 歴史を調べる中でも船団護衛の評価が非常に高いのが印象的だ。史実の「反省点」という評価とはまるで違う。



 さて、そのフィリピンでの地上戦についてだが、有名なチハたんの活躍はおろか名前すら出て来ない。



 チハたんどこ行ったん?



 と思ったのは仕方がない。



 この世界の陸軍が採用した戦車は、短砲身57ミリ砲を装備する九七式中戦車。要するにチハたん。その後継は、自動速射砲を流用した長砲身57ミリ砲を積むチホ車こと百式中戦車であるらしい。

 

 この世界では47ミリ砲は試作だけに終り、九六式57ミリ自動速射砲を転用して速射砲や戦車砲が開発されている。

 これも史実には無かった話で、どうも日中戦争に中国が脅威となるフランス戦車を投入したことによるらしい。

 そのフランス戦車というのがFCMという会社がFCM36戦車を輸出専用として25ミリ対戦車砲仕様とブトー砲仕様を揃え、エンジンもベースのディーゼルからルノーやホチキスと同じガソリンエンジンへ換装し、足回りも簡素化した代物であったらしいが、車体自体はベースのままなので、T34並の避弾経始を持つ為に九四式37ミリ速射砲どころか、試製47ミリ速射砲ですら弾かれる結果を招いたらしい。そこで慌てて57ミリ自動速射砲をベースに開発されたのが、百式57ミリ速射砲とチホたんであるんだとか。



 チホたんが採用されるとチハたんは短砲身の歩兵戦車として、チホたんを対戦車戦闘用として住み分けが行われ、戦争後半にはチホたんが主力であったという。

 この九六式由来の57ミリ砲であれば、M3軽戦車だけでなく、M4中戦車すら正面から撃破可能で、フィリピンでの戦車戦において、米軍に大打撃を与えている。



 チホたんの制式化以後には、窮屈なチホではなく、より余裕のあるチトが開発されるが、75ミリ砲化の流れの中でチリの開発へと移行し、九○式野砲では物足りず、更に高射砲や海軍の長8センチ高角砲を載せるチヌが模索されるという、史実に近い迷走が発生したらしい。

 閑話休題



 チホがシャーマンを撃破出来るからと言って、全く大局的な変化はなく、米軍の出血こそ多いが1945年になると硫黄島や沖縄へと上陸されている。

 この硫黄島での戦いに、なけなしの空母部隊が投入され、米軍の損害を積み増してはいるが多勢に無勢では話にならなかったらしい。この海戦で虎の子の空母多数を喪失し、海軍の戦力は底をつく。



 その後、沖縄戦にはかの大和特攻が行われ、そこに超巡洋艦や防空巡洋艦、護衛空母が参加し、かなりの米軍機を撃退している。

 航空攻撃で沈めきれなかった日本艦隊を沈めるためにスリガオ海峡で失態を演じた戦艦部隊の汚名挽回の場として坊ノ岬沖海戦が行われ、3隻撃沈2隻大破という被害を出しならが、ようやく大和と随伴した超巡洋艦香具を沈めることが出来たという。

 超巡洋艦の36センチ砲弾も米軍のSHS相当の重量砲弾であったため、旧式戦艦部隊では弾き切れなかった。

 こうして世界最後の戦艦同士の砲撃戦は米軍勝利となったが、僅か2隻による砲撃で3隻を沈められての結果では、割に合わなかったのではなかろうか?

 

 そうこうしていると、6月後半にはソ連が対日宣戦布告を行い南下を開始している。なんでぇ?



 そこで欧州戦線に関してみると、意外な事実が判明した。



 日本のインド洋作戦が不幸四姉妹の高速戦艦化で変化しており、空母が引き上げた後もしばらくインド洋に居座り、インドを侵していたらしい。



 その通商破壊作戦がイランルートでのソ連支援や北アフリカ戦線の補給にも影響しており、ソ連はウラヌス作戦に必要なイランルートでの補給が受けられていなかった。

 それからしばらく英国はより危機的な北アフリカへの航路を優先したため、ソ連の反攻作戦はドイツ軍と一進一退を繰り返すという泥沼にはまり込み、以後、英国からの支援が回復した後も犠牲の後遺症が長らく続き、中東欧の多くが先に米英に抑えられる結果を招いてしまっている。

 こうしてドイツが東部戦線に掛かりっきりであった事が米英の欧州上陸を早め、2月5日の降伏という結果に繋がったらしいが。



 そうしたことが影響したらしく、ソ連は米国との密約など忘れたかのように満州へ濁流となって南下し、朝鮮半島すら8月に入る頃にはほぼ占領下に置く様な情勢となっていた。



 だが、千島や樺太はそういうわけにもいかず、船団が日本海軍に沈められて大損害を出し、南樺太では少数が配備された10センチ砲を積む五式中戦車チカによって北樺太から侵攻したソ連軍に大打撃を与え、8月20日に日本がポツダム宣言を受諾した時点で、もはや千島へ向かえる船は無く、樺太を南下する戦車すら存在していなかった。



 ポツダム停戦後は米国から抗議を受けるも朝鮮半島を手放す気のないソ連に対し、米国は南樺太や千島の引き渡しを拒否している。



 朝鮮半島は史実の朝鮮戦争で押し込まれた釜山防衛線より多少マシと言った程度の土地しか日本側は確保できておらず、米軍もそこへの進駐しか出来ずに終わっている。

 東欧や中欧を得ることが叶わなかったソ連は満州をマンチュリア共和国と称して自国へと編入、朝鮮半島も米国との協議を経て3分の2を得ている。



 このような状況にあって、あてになる友軍が極東に居なかった米国は日本軍の残存部隊をもって極東警戒を行う事を画策し、中国や豪州の批判を強引に無視して1947年には日本国憲法の制定と共に、米国統制下での再軍備を決定した。

 ソ連も当然のように反発するが、それこそ火にガソリンをぶちまける効果しかなく、日本の再軍備は決定的となった。

 まるで、チャーチルがソ連へ攻め込もうとしたアレの極東版である。



 1948年春、ソ連は占領下にあった朝鮮半島を独立国として建国させることとなり、6月25日には朝鮮人民軍が南侵を開始し、僅か1週間で釜山周辺を除いて占領下においてしまう。

 この事態に、極東軍司令官マッカーサーは仁川上陸作戦を立案するが米国政府に却下され、多島海を多大な犠牲で舗装しながら進撃する苦戦を強いられることとなった。

 この戦いには中国や豪州の厳しい批判もあって日本軍は参加せず、自由朝鮮軍という、当時南部での建国を準備していたグループに「賛同する人々」によって構成された部隊が参加していた。中身は日本の朝鮮シンパや済州島からの強制徴兵だったわけだが。

 結局、3年の及ぶ戦争で得られたのは犠牲でしかなく、協議で確定していた領域の半分程度しか奪還できずに停戦となった。



 その後の半島は「ソ連の支援で繫栄する朝鮮人民共和国」という盛大なプロパガンダが盛んに吹聴され、確かに各地で河口部の干潟や浅瀬が干拓され、広大な土地が農地や工場団地として整備されていくさまが報じられるようになったことで、日本や何とか建国された大韓民国から移住を目指す越北者が多数発生していた。日本はそんな朝鮮人民共和国から正式な国交がない中で、干拓地で生産される大量のコメを輸入する関係が構築されていったという。
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