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【前編】津路賢一の場合
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その夜、賢一は肩を震わせ泣いていた。心にぐっと言い聞かせてもなんの効果もなく、決壊したダムのように涙が溢れてしまう。
入店してから三十分。ついに、目の前のカウンターに頬をくっつけて伏せてしまった。ひんやりとした感触が心地良い。だが、カウンター上の涙の水たまりが視界に入り、己の不甲斐なさを駆り立てられ、賢一の悲しみをさらに誘う。
「お客様、大丈夫ですか」
見かねた優しいマスターが、頭上から声を掛けてくれている。ふらっと立ち入っただけの完全なるご新規の自分にも丁寧に接客してくれるだなんて、と、賢一はひどく感動した。
それでも、賢一はマスターが優しく差し出した、温かいおしぼりを閉じた瞼に当てながら、絶望の淵で佇んでいた。
◆
昼間のことである。
胸ポケットにしまっていた携帯端末が細かく震えた。取り出し、画面を数回指で叩いてメッセージアプリを起動する。発言元は賢一の現在の交際相手。付き合い始めてかれこれ二年、同い年の薫とは良い付き合いを続けていた。
だが目に飛び込んできた薫の文章、それを見た瞬間賢一は、身も心も一気に凍り付いてしまった。
『いきなりこんなこと言ってごめん。別れて欲しい』
鋭利なナイフでざっくりと、不意打ちで背中から刺されたかのようだ。えぐるように何度も何度もぐりぐりと、そのナイフは時間が経てば経つほど確実にダメージを与えていく。
動揺で小刻みに震える手で、だが確実に通話のボタンを押した。メッセージが送られてきてから、三分も経っていない。相手は携帯電話を早々に手放さないはずだから、すぐに電話に出てくれるはずだ。何回目かのコールで、予測通り、ぷつっという途切れる音と共に、落ち着き払った薫の「もしもし」という声が耳に飛び込んできた。
「も、もしもし薫?」
「賢一、いま仕事中じゃないの?」
「いまは、休憩時間だから」
賢一は胃がぎゅっと縮んだ。薫のそれは「仕事中だからすぐにメッセージに反応しないと思っていたのに」。そう言っているも同然だったからだ。
「それよりなに、あの、メッセージ」
冗談だよな。口から漏れた声は、か細く相手にすがるよう。薫はわざとらしく大きなため息をつく。
「やりとりが面倒だから、賢一が見てない隙に送ったのに、最悪」
「かおる?」
「冗談で言うと思う? そういうところが嫌」
ガン、と後頭部をハンマーで殴られたような衝撃だ。立っていられなくなった賢一は、ふらふらと座り込んだ。
「嫌になった……と言われても。そうじゃないだろ。俺は、薫がメッセージアプリでそんなことを告げると思わないから、聞いたわけで」
「どうでもいい、そんなこと」
もはや薫は賢一の言葉に聞く耳を持ち合わせていなかった。
「ねえ。昨日は記念日だったよね」
「うん。覚えてたしその話は一週間前にしただろ。残業で祝えないから週末祝おうって。薫の好きなレストランも、ちゃんと予約して……」
「こないだの誕生日もそうだった!」
キンと、鼓膜に突き刺さるような薫の金切り声。思わず賢一はスマートフォンから耳を離した。
「ねえ。仕事に一生懸命な賢一のことが好き。仕事とどっちが大事? なんて古風なこと聞きたくない。でも、賢一って恋人と仕事を天秤にかけることすら放棄してる」
「そんなこと……」
「ある。だって、記念日の当日に会いに来てくれたこと、これまであった?」
けど。とひっくり返った声で賢一は続けようとして……なにも言葉が浮かばなかった。
沈黙の後の薫の二度目のため息は、やっぱりわざとらしく、だが威圧的だった。
「ね、こんな風に恋人が悲しんだとき、歯の浮くようなセリフを投げかけてくれる男がいい。ごめんね」
それじゃあ、もう二度と連絡してこないでね。薫はそう告げると、無残にも通話を切った。ツーツーツーと、電子音が耳元で鳴り響いても、賢一は現実を受け入れずにうなだれた。
まじで、こんなボロボロのメンタルでこの後仕事か、嘘だろ。賢一はがっくりとその場で肩を落とした。
◆
「へえ。そんなことがあったんですか」
こんな日は飲まずにはいられない。賢一は相づちを打ってくれた相手にくどくどと語っていた。
「なんで、なんで俺ばっか……」
しゃくりあげて涙を流すと、「泣かないで」と優しく目尻を指で拭われた。温かなおしぼりで、賢一の代わりに瞼を押さえてくれる。じんわりとした温かさに、胸の奥がぽっと熱くなる。
俺は俺のできる最大限の愛を捧げてたんだよ、と声をあげれば、「そうなんですか、偉いですね」と、賢一は隣の聞き役に優しく肩を抱かれた。そのまま頭を相手の肩にもたれるように促される。賢一は素直にそれに従って、相手の肩に思い切り体重を掛けた。
「へえ……」
相手はなにか考え込んでいるようであった。なにを考え込む必要があるのか、それよりももっと俺の話を聞いてほしい。わがまま癖が頭を出して、さらにねだるように身を寄せようとしたところで――賢一ははたと気づいた。
あれ、今俺誰と話しているんだ?
フラれたショックで身分不相応なバーに飛び込んで、この店で一番強い酒をくれとマスターに注文して、今日の出来事が頭の中を駆け巡り、気がついたら涙で溺れていたはずだった。そしていつの間にやらカウンターの隣に座っている人物にくだを巻いて、いかに今日の自分が不幸であるかを蕩々と語っていたのだ。
ぴこん、と電子音が響いた。薄ぼんやりとしていた視界がクリアになっていく。徐々に意識がはっきりとしていく。賢一は、己の出来事をつらつらと暴露し、寄りかかっている相手の顔をまじまじと眺めた。
びっくりするほどの美形がそこにいた。
くっきりとした二重まぶた。見間違いかと思うほどに長い睫毛が瞳に覆いかぶさっている。すっと通った鼻筋と、薄くも印象的で緩やかに弧を描く唇。すれ違った誰もが二度振り返るであろう、顔立ちの整った男性であった。もしどこぞのモデルや俳優である、と自己紹介されてしまえば、そうですかと素直に信じてしまうだろう。現に賢一は、どこかでこの面影を見かけたことがある気がした。
ゆるく巻かれた髪の毛と、ゆったりとした指先しか見えないトップスと、さらには底知れない飄々とした笑みが、中性的な雰囲気を醸し出している。だが、180近い身長の賢一の体を支えられるくらいには良い体格をしているようである。なにより、今賢一が相手の肩に全体重を掛けているにもかかわらず、相手の体は微塵もよろめいてはいない。
夢のようなイケメンにぼんやりとしつつも、だが賢一は、イケメンが肩を抱いている腕とは反対の手の先に、しっかりと携帯端末を握りしめていることに気が付いた。
その携帯端末は画面と反対側、つまりカメラのレンズ面が、しっかりと賢一に向けられているのだ。
「あれ?」
「あ、気づいちゃいました?」
なんでそんなものがこっちに、と酒で冷静な判断のできていない賢一がぽかんと口を開けると、隣の男性はにこにこと、至極楽しそうに携帯端末の画面をくるりとこちら側に向けてきた。たんたん、と何回か携帯の画面を叩くと、そこに現れたのは。
――泣きながら、「薫、薫」と元恋人の名前を呼び、捨てないでと連呼する、泥酔した賢一。まるで漫画のように涙も鼻水も垂れ流している。それだけではない。俺の顔面の横には、まるでカメラに文字を認識させるように、顔写真付きの社員証が掲げられていた。情けない顔をした俺の写真と、「津路賢一」の名前。
さーっと、一気に酔いが覚めていった。同時に体が瞬時に硬直する。だがそれに気づいてか、肩に回されたイケメンの手にぐっと力が入った。まるで賢一を逃すまいとしているようだ。
「ねえ」
逃げないでくださいよ、と畳みかけるイケメンに賢一はたじろいだ。よくよく見ればイケメンの目の奥は全く笑っていない。だがどこか戸惑う賢一を痛めつけてやろうという嗜虐性も垣間見えた。恐怖の対象でしかなかった。
「な、なんなんですか、貴方。私のその動画、どうするおつもりで」
賢一は品行方正で真面目、規律正しい人柄を職場で演じている。つまり、あの泥酔しきって素が丸出しの姿を動画で残されることは死に近しい。もし流出なんてしたりすれば、せっかく築き上げてきた職場での信頼を失い、世間の笑いものになるだろう。それは賢一にとってゆゆしき事態である。絶対にこんな姿、皆に見られるわけにはいかない。
酔いが冷め切って顔面蒼白になった賢一を見て、男はくすくす笑った。賢一を手玉に取ってからかうのが、面白くて堪らない、そんな笑みを浮かべている。
「やだなあ。そんなの、脅す道具に使うに決まってるじゃないですか」
ぴーんと賢一の背筋が伸びた。必死に身を捩らして男から離れる。男は今度は手に力を入れず、あっさり離してくれた。しかしながらそれは、脅し道具が自分の手にある限り、獲物が逃げないと踏んでのことだろう。
「脅してどうするんですか、俺、ただのサラリーマンで、大した金も持ってないですし」
「ああ、大丈夫です。生活には当分困らないほど稼いでますから」
あっさりと告げるイケメンに、あらん限り目を見開いた。コイツ何者だ、と余計に得体の知れないイケメンに震え上がる。
カウンターに置いた肘から伸びる手のひらに、自分の顎を置いて笑う様はまさに余裕のある遊び慣れた大人だ。あれだけ騒いでいた自分との対比で、賢一は情けなさがせり上がってきた。
カウンター上のマティーニを口に含んで、男は携帯端末をこれ見よがしに振って賢一に見せつける。
「津路さん。俺、あなたに一目ぼれしちゃいました」
「んな……」
「この映像、ばらまかれたくないですよね?」
「おい、こゆき……その辺りに」
こちらの様子を横目でうかがっていたらしいマスターが、口を挟もうとするも。
「マスター?」
にっこり。イケメンの笑顔は強烈であった。優しくて落ち着きのある雰囲気のマスターが、押し黙り、以降の言葉を発することができなくなるくらいには。マスターは眉間の皺を押さえるように指で何回かつまむと、深々とため息をつき、知らねえからな俺は、と言い放ちくるりと背を向けてしまった。
唯一現状を把握し、助けてくれそうだった救世主にあっさりと見放されて、賢一にはもう逃げ道など存在しなかった。男は、カウンターの上に置かれていた、すっかり冷たくなってしまった賢一の左手に己の右手を重ねた。賢一は、そのほどよく骨張った長く美しく、顔に似合わずがっちりとした手のひらをぼんやりと眺めていた。
男は何事もないように、きゅっと覆いかぶせた手のひらに力を入れて、満面の笑みで絶望の谷底へと叩き落とすのだ。
「これって運命だと思うんです。貴方は彼女に振られて傷心の中、こんなイケメンに口説かれて」
「……」
「ちょっと強引かもしれないけれど、男相手にこれほどまで強引な手段を取らないとって気持ち、わかってくれます?」
「いや……それに、したって」
「男相手に俺も必死になってるんです。貴方が恋愛対象として男を含められるように頑張る健気なこの気持ち、理解して欲しくて」
「ちょ、ちょっと……」
「わかってくれます、よね?」
は、はい。反論の余地はない。棒読みで肯定すると賢一の端末は取り上げられた。慣れた手つきの相手は、勝手に連絡先を追加する。スツールから立ち上がると、彼は賢一の恥が録画された自身の端末を満足げに見せつけて、非常に満足げに笑った。
「連絡待ってます。それじゃ」
こちらから連絡しなければ、なにをされるか分からないと言うことか。つまり、あの動画があっさりとネットの波に放出される可能性が高い。
カウンターの奥でマスターが頭を抱えてうなだれているのを横目に見ながら、賢一は去り行くスタイルのよい後ろ姿を、呆然と見送るしかなかった。
だが、起きた事態の重大さに翻弄されつつも、ただひとつ引っかかっていることがある。
事態の収め方が分からない賢一は、マスターにも聞こえないような小さな声でぽつんと事実をつぶやくほかなかったのである。
「俺、そもそも男が好きなんだけど……」
入店してから三十分。ついに、目の前のカウンターに頬をくっつけて伏せてしまった。ひんやりとした感触が心地良い。だが、カウンター上の涙の水たまりが視界に入り、己の不甲斐なさを駆り立てられ、賢一の悲しみをさらに誘う。
「お客様、大丈夫ですか」
見かねた優しいマスターが、頭上から声を掛けてくれている。ふらっと立ち入っただけの完全なるご新規の自分にも丁寧に接客してくれるだなんて、と、賢一はひどく感動した。
それでも、賢一はマスターが優しく差し出した、温かいおしぼりを閉じた瞼に当てながら、絶望の淵で佇んでいた。
◆
昼間のことである。
胸ポケットにしまっていた携帯端末が細かく震えた。取り出し、画面を数回指で叩いてメッセージアプリを起動する。発言元は賢一の現在の交際相手。付き合い始めてかれこれ二年、同い年の薫とは良い付き合いを続けていた。
だが目に飛び込んできた薫の文章、それを見た瞬間賢一は、身も心も一気に凍り付いてしまった。
『いきなりこんなこと言ってごめん。別れて欲しい』
鋭利なナイフでざっくりと、不意打ちで背中から刺されたかのようだ。えぐるように何度も何度もぐりぐりと、そのナイフは時間が経てば経つほど確実にダメージを与えていく。
動揺で小刻みに震える手で、だが確実に通話のボタンを押した。メッセージが送られてきてから、三分も経っていない。相手は携帯電話を早々に手放さないはずだから、すぐに電話に出てくれるはずだ。何回目かのコールで、予測通り、ぷつっという途切れる音と共に、落ち着き払った薫の「もしもし」という声が耳に飛び込んできた。
「も、もしもし薫?」
「賢一、いま仕事中じゃないの?」
「いまは、休憩時間だから」
賢一は胃がぎゅっと縮んだ。薫のそれは「仕事中だからすぐにメッセージに反応しないと思っていたのに」。そう言っているも同然だったからだ。
「それよりなに、あの、メッセージ」
冗談だよな。口から漏れた声は、か細く相手にすがるよう。薫はわざとらしく大きなため息をつく。
「やりとりが面倒だから、賢一が見てない隙に送ったのに、最悪」
「かおる?」
「冗談で言うと思う? そういうところが嫌」
ガン、と後頭部をハンマーで殴られたような衝撃だ。立っていられなくなった賢一は、ふらふらと座り込んだ。
「嫌になった……と言われても。そうじゃないだろ。俺は、薫がメッセージアプリでそんなことを告げると思わないから、聞いたわけで」
「どうでもいい、そんなこと」
もはや薫は賢一の言葉に聞く耳を持ち合わせていなかった。
「ねえ。昨日は記念日だったよね」
「うん。覚えてたしその話は一週間前にしただろ。残業で祝えないから週末祝おうって。薫の好きなレストランも、ちゃんと予約して……」
「こないだの誕生日もそうだった!」
キンと、鼓膜に突き刺さるような薫の金切り声。思わず賢一はスマートフォンから耳を離した。
「ねえ。仕事に一生懸命な賢一のことが好き。仕事とどっちが大事? なんて古風なこと聞きたくない。でも、賢一って恋人と仕事を天秤にかけることすら放棄してる」
「そんなこと……」
「ある。だって、記念日の当日に会いに来てくれたこと、これまであった?」
けど。とひっくり返った声で賢一は続けようとして……なにも言葉が浮かばなかった。
沈黙の後の薫の二度目のため息は、やっぱりわざとらしく、だが威圧的だった。
「ね、こんな風に恋人が悲しんだとき、歯の浮くようなセリフを投げかけてくれる男がいい。ごめんね」
それじゃあ、もう二度と連絡してこないでね。薫はそう告げると、無残にも通話を切った。ツーツーツーと、電子音が耳元で鳴り響いても、賢一は現実を受け入れずにうなだれた。
まじで、こんなボロボロのメンタルでこの後仕事か、嘘だろ。賢一はがっくりとその場で肩を落とした。
◆
「へえ。そんなことがあったんですか」
こんな日は飲まずにはいられない。賢一は相づちを打ってくれた相手にくどくどと語っていた。
「なんで、なんで俺ばっか……」
しゃくりあげて涙を流すと、「泣かないで」と優しく目尻を指で拭われた。温かなおしぼりで、賢一の代わりに瞼を押さえてくれる。じんわりとした温かさに、胸の奥がぽっと熱くなる。
俺は俺のできる最大限の愛を捧げてたんだよ、と声をあげれば、「そうなんですか、偉いですね」と、賢一は隣の聞き役に優しく肩を抱かれた。そのまま頭を相手の肩にもたれるように促される。賢一は素直にそれに従って、相手の肩に思い切り体重を掛けた。
「へえ……」
相手はなにか考え込んでいるようであった。なにを考え込む必要があるのか、それよりももっと俺の話を聞いてほしい。わがまま癖が頭を出して、さらにねだるように身を寄せようとしたところで――賢一ははたと気づいた。
あれ、今俺誰と話しているんだ?
フラれたショックで身分不相応なバーに飛び込んで、この店で一番強い酒をくれとマスターに注文して、今日の出来事が頭の中を駆け巡り、気がついたら涙で溺れていたはずだった。そしていつの間にやらカウンターの隣に座っている人物にくだを巻いて、いかに今日の自分が不幸であるかを蕩々と語っていたのだ。
ぴこん、と電子音が響いた。薄ぼんやりとしていた視界がクリアになっていく。徐々に意識がはっきりとしていく。賢一は、己の出来事をつらつらと暴露し、寄りかかっている相手の顔をまじまじと眺めた。
びっくりするほどの美形がそこにいた。
くっきりとした二重まぶた。見間違いかと思うほどに長い睫毛が瞳に覆いかぶさっている。すっと通った鼻筋と、薄くも印象的で緩やかに弧を描く唇。すれ違った誰もが二度振り返るであろう、顔立ちの整った男性であった。もしどこぞのモデルや俳優である、と自己紹介されてしまえば、そうですかと素直に信じてしまうだろう。現に賢一は、どこかでこの面影を見かけたことがある気がした。
ゆるく巻かれた髪の毛と、ゆったりとした指先しか見えないトップスと、さらには底知れない飄々とした笑みが、中性的な雰囲気を醸し出している。だが、180近い身長の賢一の体を支えられるくらいには良い体格をしているようである。なにより、今賢一が相手の肩に全体重を掛けているにもかかわらず、相手の体は微塵もよろめいてはいない。
夢のようなイケメンにぼんやりとしつつも、だが賢一は、イケメンが肩を抱いている腕とは反対の手の先に、しっかりと携帯端末を握りしめていることに気が付いた。
その携帯端末は画面と反対側、つまりカメラのレンズ面が、しっかりと賢一に向けられているのだ。
「あれ?」
「あ、気づいちゃいました?」
なんでそんなものがこっちに、と酒で冷静な判断のできていない賢一がぽかんと口を開けると、隣の男性はにこにこと、至極楽しそうに携帯端末の画面をくるりとこちら側に向けてきた。たんたん、と何回か携帯の画面を叩くと、そこに現れたのは。
――泣きながら、「薫、薫」と元恋人の名前を呼び、捨てないでと連呼する、泥酔した賢一。まるで漫画のように涙も鼻水も垂れ流している。それだけではない。俺の顔面の横には、まるでカメラに文字を認識させるように、顔写真付きの社員証が掲げられていた。情けない顔をした俺の写真と、「津路賢一」の名前。
さーっと、一気に酔いが覚めていった。同時に体が瞬時に硬直する。だがそれに気づいてか、肩に回されたイケメンの手にぐっと力が入った。まるで賢一を逃すまいとしているようだ。
「ねえ」
逃げないでくださいよ、と畳みかけるイケメンに賢一はたじろいだ。よくよく見ればイケメンの目の奥は全く笑っていない。だがどこか戸惑う賢一を痛めつけてやろうという嗜虐性も垣間見えた。恐怖の対象でしかなかった。
「な、なんなんですか、貴方。私のその動画、どうするおつもりで」
賢一は品行方正で真面目、規律正しい人柄を職場で演じている。つまり、あの泥酔しきって素が丸出しの姿を動画で残されることは死に近しい。もし流出なんてしたりすれば、せっかく築き上げてきた職場での信頼を失い、世間の笑いものになるだろう。それは賢一にとってゆゆしき事態である。絶対にこんな姿、皆に見られるわけにはいかない。
酔いが冷め切って顔面蒼白になった賢一を見て、男はくすくす笑った。賢一を手玉に取ってからかうのが、面白くて堪らない、そんな笑みを浮かべている。
「やだなあ。そんなの、脅す道具に使うに決まってるじゃないですか」
ぴーんと賢一の背筋が伸びた。必死に身を捩らして男から離れる。男は今度は手に力を入れず、あっさり離してくれた。しかしながらそれは、脅し道具が自分の手にある限り、獲物が逃げないと踏んでのことだろう。
「脅してどうするんですか、俺、ただのサラリーマンで、大した金も持ってないですし」
「ああ、大丈夫です。生活には当分困らないほど稼いでますから」
あっさりと告げるイケメンに、あらん限り目を見開いた。コイツ何者だ、と余計に得体の知れないイケメンに震え上がる。
カウンターに置いた肘から伸びる手のひらに、自分の顎を置いて笑う様はまさに余裕のある遊び慣れた大人だ。あれだけ騒いでいた自分との対比で、賢一は情けなさがせり上がってきた。
カウンター上のマティーニを口に含んで、男は携帯端末をこれ見よがしに振って賢一に見せつける。
「津路さん。俺、あなたに一目ぼれしちゃいました」
「んな……」
「この映像、ばらまかれたくないですよね?」
「おい、こゆき……その辺りに」
こちらの様子を横目でうかがっていたらしいマスターが、口を挟もうとするも。
「マスター?」
にっこり。イケメンの笑顔は強烈であった。優しくて落ち着きのある雰囲気のマスターが、押し黙り、以降の言葉を発することができなくなるくらいには。マスターは眉間の皺を押さえるように指で何回かつまむと、深々とため息をつき、知らねえからな俺は、と言い放ちくるりと背を向けてしまった。
唯一現状を把握し、助けてくれそうだった救世主にあっさりと見放されて、賢一にはもう逃げ道など存在しなかった。男は、カウンターの上に置かれていた、すっかり冷たくなってしまった賢一の左手に己の右手を重ねた。賢一は、そのほどよく骨張った長く美しく、顔に似合わずがっちりとした手のひらをぼんやりと眺めていた。
男は何事もないように、きゅっと覆いかぶせた手のひらに力を入れて、満面の笑みで絶望の谷底へと叩き落とすのだ。
「これって運命だと思うんです。貴方は彼女に振られて傷心の中、こんなイケメンに口説かれて」
「……」
「ちょっと強引かもしれないけれど、男相手にこれほどまで強引な手段を取らないとって気持ち、わかってくれます?」
「いや……それに、したって」
「男相手に俺も必死になってるんです。貴方が恋愛対象として男を含められるように頑張る健気なこの気持ち、理解して欲しくて」
「ちょ、ちょっと……」
「わかってくれます、よね?」
は、はい。反論の余地はない。棒読みで肯定すると賢一の端末は取り上げられた。慣れた手つきの相手は、勝手に連絡先を追加する。スツールから立ち上がると、彼は賢一の恥が録画された自身の端末を満足げに見せつけて、非常に満足げに笑った。
「連絡待ってます。それじゃ」
こちらから連絡しなければ、なにをされるか分からないと言うことか。つまり、あの動画があっさりとネットの波に放出される可能性が高い。
カウンターの奥でマスターが頭を抱えてうなだれているのを横目に見ながら、賢一は去り行くスタイルのよい後ろ姿を、呆然と見送るしかなかった。
だが、起きた事態の重大さに翻弄されつつも、ただひとつ引っかかっていることがある。
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