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契約満了につき
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「本日をもって、契約満了となります」
いままでありがとうございました。口では感謝を告げながら、頭を下げることはなかった。
都内の一等地に立つ一流のラグジュアリーホテルのラウンジ。給仕された酸味の強いコーヒーを啜りながら、目の前で俯く男のつむじを見つめた。相変わらずのくせ毛で、それでも頑張ってワックスで撫でつけたのであろうヘアセットには、努力の痕が見える。身に纏っているスーツは銀座のテーラーに彼を引っ張って仕立ててもらったものだ。派手過ぎず、彼の誠実さをより引き立てる清潔感のあるスーツ。されど見る人が見れば吊るしではないと分かる。裏地のバーガンディが色鮮やかだ。けれども今日という最後の日まで、彼がスーツを着こなすことはなかった。結局スーツに着られているだけにすぎない。周囲で談笑を交わす品のいい客層に怖じ気づいて、びくびくと肩を強張らせている。
彼は極めて平凡で、ごく普通の顔立ちをしていた。よく言えば悪目立ちせず、悪く言えば印象に残りにくい。
「鳴海くん。君にはあらかじめ提示した報酬を後日振り込ませていただきます」
鳴海俊は僕の恋人である。ただし、仮初めの。
半年前のことだった。懇意にしている会社の会長から、孫娘を紹介された。業界への知見を広げたいらしいのだが、協力してくれないか。そんな風に遠回しにあれこれ言われたが、表面上の言葉であることはすぐ見抜けた。ようは結婚を考えてみないかと、嫁候補として紹介されたのだ。
二十五となる今、独身ではあるが、そもそも同年代で結婚している人は多くない。家庭を作ることへの抵抗感はないが、早急に配偶者が欲しいわけでもない。角が立たないよう、丁寧にお断りしたつもりだった。
ところがこの孫娘は、物わかりのいい会長とは違い、少し思い込みが激しいようだった。会長はあくまで「考えてみるのもいい」と伝えた程度のはずだ。それなのにすっかりその気になってしまい、僕との結婚生活を思い描き、僕の行く先々に顔を出すようになってしまった。
さて困った。はっきり断ってもいいのだが、自分が世界の中心と考えるタイプは厄介だ。一歩対応を間違えれば何をしでかすか分からない。それでいて、会長の顔に泥を塗るような真似は避けたい。あの会長であれば迷惑している旨を告げればなんとかしてくれるだろうが、会社の立ち上げの際に大変世話になった人だ。
隠れ蓑が必要だと考えた。問題はその蓑をどうやって調達するかだ。
その日はあいにくの悪天候で、例年まれに見る豪雨が都内を包んでいた。運転手にハンドルを握らせ、いつものように帰宅していると、通りがかった公園で、どしゃぶりの中、人影が動いたのが偶然目に入った。運転手に声をかけて車を止めさせ、公園へ向かうと男が一人倒れていた。見捨てるよりも、拾い上げる利点の多さに歓喜した。雨に濡れて震えていた体をそのまま抱きかかえ自宅に連れ帰った。
二十二歳の青年は、見たまんま路頭に迷っていたらしかった。高校卒業後、父親の借金を返済するために馬車馬のように働き続けてきたが、働き先が倒産。さらに新たに母親の借金も自分に降りかかり、どうしようもなく倒れてしまったらしい。三日間飲まず食わずだったのだと、彼は僕が施した最低限の食事をありがたく頂いていた。それが、策略とも知らずに。
「貴方の借金をすべて肩代わりし、衣食住を提供する。その代わり、僕の恋人を演じる。君は与えられた役目を全うしてくれました」
目の前の彼は紅茶を一口、口に含んだ。白磁に青で幾何学模様が描かれた美しいティーカップの中で紅茶が波打っている。彼は猫舌で、温かい紅茶を口に含むのにも一苦労しているようだった。困り眉を寄せ、情けなく背中を丸めている。
僕は彼と契約を結んだ。僕が同性にぞっこんで、ラブラブであると周知させたい。件のご令嬢に、付け入る隙はございませんと言い表したい。そのための生贄、仮初の恋人が必要だった。本気で僕のことを好きにならず、この計画のことを知って弱みを握り脅すような真似をしない、絶対的な上下関係を作り出せる男が。条件に合致した彼はまさに天からの恵みだった。彼は断ることはできない。だってこの条件を聞かされたとき、彼は既に温かい食事をすっかり胃の中に収め、広い湯船でしっかり体を温め、新品の衣服に身を包んでいたのだから。
「僕の溺愛っぷりに、彼女も度肝を抜かれてましたね。予想よりも執着質だったせいで、僕から君を引き剥がそうと躍起になりましたし、君を少しだけ危険な目に合わせたことは謝ります。ですが、それも契約に織り込み済みでしたから、今更文句を言われても困ります」
彼の口は僅かに動いたけれど、声が漏れることはなかった。有無を言わせぬ物言いに、なにを反論するもないのだろう。彼と僕の間にある、背の低いテーブルにばかり視線を送っている。せっかくこれまでの勤めに感謝を示すため、この場をセッティングしたというのに、夜景にひとつも視線を向けやしない。勿体ない、けれどここで苦言を呈するのも場に相応しくないだろう。
「最後には僕たちの間に純粋な愛があると思い込んで、涙ながらに僕たちを応援すると語ってくれました。これでめでたしです」
僕の目的は達成され、鳴海君も金銭の問題から解放された。双方にとってハッピーエンドだ。鳴海君はこれから自分の好きなように生きていける。僕もしばらくは縁談のわずらわしさに囚われることもない。二人が歩む道は別々だが、互いにとって納得のできる結果を手に入れたのだ。
そのとき、紅茶とだけ向き合っていた彼がゆっくりと顔を上げた。栗色の瞳とかち合った。
彼は僕を見つめるとき、単純に視線を合わせるのではなく、その奥に潜む感情まで読み取ろうとする。あまりに真っ直ぐな感情に、ほんの少しだけ逃げ出したくなるのに、視線は逸らせなかった。
鳴海君はただ、出会った頃と同じように僕だけを見ていた。
「鷺島さんって、俺のこと好きですよね」
◆
鷺島さんはコーヒーカップを持ち上げたまま、動かなくなってしまった。
墨汁に一滴藍を垂らしたような烏色の黒髪も、彫の深い顔立ちも、俺のために誂えてくれたスーツよりも段違いに値の張るスーツを身に纏った、モデルと見間違うほどのスタイルの良さも。誰も彼もが振り返り、その華やかさに惹かれてしまう。どこにいたって人の目を集めてしまう、そんな星の下に生まれた人。だからこそ思う。一度会ったら忘れられない、頭の中に刻み込まれてしまう容姿を持ったこの人を、忘れるわけないのに。
高校卒業後、大学の食堂で働きだした。都内でもとりわけ優秀な人たちが集まるその大学は、俺からしてみれば雲より遥か上に住まう人の集まりに思えた。そんな中、もちろん「彼」もいた。煌めかしくて、優秀な頭脳を持つ人たちがあふれかえるキャンパスで、鷺島さんはとりわけ目立っていた。もちろんただの食堂の職員である俺が、鷺島さんと交流する機会なんてあるはずがない。俺たちはたまたま同じ場所に居合わせただけの、学生と労働者だ。
なのに、五月。まだまだ学びが多い職場で、カフェテリアの机をせっせと拭いていた。終業時間五分前、食堂に残っている学生に帰宅を促しながらの清掃。静まり返った食堂の隅の机に、誰かが伏していた。
机に突っ伏していても、咄嗟に誰なのか分かった。彼を起こすつもりで、そっと肩を揺さぶった。手触りに驚く。俺が長らく愛用している着古した毛玉だらけのセーターと、本当に同じセーターか疑うくらい手触りが良い。三年目に突入したセーターはごわごわして、肌がかゆくなるのを我慢し続けているというのに。
「すみません。時間なんですけど」
「……」
むくり。と起き上がる。いつもキャンパス内で見かける際には、誰にでもきらきらした笑みを振りまいているのに、目が座ってどこか遠くを見ている。眠そうというより疲れ切っている。完璧超人に見えて、この人も人間なのか。
別に何を思ったわけじゃない。同情も、憐憫もない。ただ、学生ながら起業して、誰からも「羨ましい」と羨望を向けられるこの人に、純粋にお疲れ様の気持ちが浮かんだ。こっそり食堂脇の自販機でコーヒーを買って、いまだにぼんやりとしている彼の傍に置いてみたのは気まぐれだ。
「……すごく、頑張ってるんですね。お疲れ様です」
本当は学生に荷物を持たせて席から立たせるまでが仕事だが、今日くらいは頑張る学生さんのことを思ってすこし放っておいてやろうと思った。
それきりだ。鷺島さんと声を交わしたのはそれっきり。
その後も彼とは何回も顔を合わせている。でもそれは食堂の受け渡しカウンター越し、客と職員という立場でだ。俺は食堂の職員らしく、衛生対策ばっちりの格好を常にしていた。髪の毛を帽子ですっぽりと覆い隠し、口にはマスク。相手からはわずかな隙間から目元しか見えない。鷺島さんにトレイを何回か渡す機会はあったけれど、そもそもあの寝ぼけていた夜を鷺島さんは覚えていないだろうと思っていたし、覚えていたとて俺が俺だとはわからないだろう。
そうして、何事もなく季節は巡った。次の春、優秀な成績を収めて鷺島さんは卒業していった。
あの時の考えが、盛大な勘違いだったことに気づかされたのはそれから二年後のことだった。
勤め先が倒産。借金は膨らむ一方。住む場所もなくし、途方に暮れていた。泣きたくても泣けない。これからどう生きていけばいいのか分からない。公園で気絶してしまい、目が覚めた時には鷺島さんの部屋のキングサイズのベッドの上に居た。
二年ぶりに再会した鷺島さんに驚いたが、鷺島さんは俺のことなど覚えていないようだった。ただ単に偶然自分の駒となる人を拾っただけにすぎないらしい。俺は契約書にすぐサインした。どれだけ無理難題を突き付けられても、この苦しみから救ってくれるならそれでいいと思っていた。
――けれど、すぐに違和感に気づくことになる。
「いいですか。僕が溺愛するにふさわしい生活を送る義務があります。僕の隣の部屋に住んでください」
「身なりを整えてください。美容室に行きます。終わったらセレクトショップに行きましょう。すべて僕の言うままに身に着けてください」
「働き先も見つけておきましたから。福利厚生、給与、待遇はいわゆるホワイトというレベルですね。高水準の環境で、僕が愛するに値するよき働き人となるように」
あれこれ指図するそれは、施しではなく愛情であるようだった。恋人のステータスを上げるために工作しているのだと言い訳を連ねるにつれ、俺の生活の質はめきめき上がっていった。鷺島さんを困らせる令嬢の前ではラブラブな振りをしなくちゃいけなかったが、その場以外で鷺島さんが俺に指一本触れることはなかった。
ただ、鷺島さんは毎日食事を一緒に取ることだけを、強く望んだ。
ささやかな願いを、彼は心から祈った。そしてそれが叶うたび、思いがけない宝物が手に入ったようにひっそりとはにかんでいた。
悲劇のヒーローぶるわけじゃないけど、俺はそこそこ波乱万丈な人生を歩んできたし、察しの付くほうだ。だから分かるよ。あの夜俺が倒れていた公園の前の道路は、鷺島さんがいつも帰宅時に通るルートじゃない。たまたまじゃない。つまり、彼は俺を助けたくてわざわざあの公園に向かったのだ。
というより、金に物を言わせて仮初めの恋人を作りたいのなら、わざわざ倒れていた見知らぬ男なんか選ばなくてもいいはずだ。鷺島さんレベルなら選び放題だ。後腐れのない人選だって、吟味すれば可能だろう。鷺島さんの運転手兼秘書を問い詰めたら、男もいろいろ思うところがあったのだろう。すんなりと口を割ってくれた。
鷺島さんは大学卒業してからも、密かに俺のことを見守っていたらしい。探偵を雇って情報を定期的に手に入れてたんだって。それってストーカー? って最初はぎょっとしたけれど、でもそうじゃないなって思い直した。
執着が過ぎて、見守って囲いたかった狂人ではない。本当にただ心配で、そして言ってしまうと、たぶん俺のことが本当に好きでいるだけ。
今まさに、鷺島さんは俺を満足いくまできれいに磨き上げたのに、縛っていた鎖を自ら粉砕して、俺を笑顔で手放そうとしているんだから。
鷺島さんは不意の事態にも冷静沈着に対応し、常に周りの目を気にして行動する人だ。それを嫌とも思わず、当然だと思っている。玉座に座り続けるのは、周囲に求められ続けているから。
だけど、鷺島さんは綺麗なお顔とは似つかないほど顔を真っ白にして、小刻みに指を震えさせている。波打つ黒い水面がカップから零れ落ちるのを危ぶんで、ゆっくりとカップをソーサーに下ろした。
「僕が君のことが好き? それは君の妄想に過ぎないでしょう」
「……うん、はい。そうですね」
「だから、僕が肯定しなければこの話はここでおしまいです。君との縁もここで切れ、君が語った妄想も、もうなかったこととして葬られる。それでいいのではないでしょうか」
そうかも。気まぐれな金持ちの道楽に付き合って、恵まれた職場を手に入れた。まんまと逃げ出すこともできる。最高にハッピーエンドを描くために駆け出すこともできるのだ。
「いいの?」
「なにがですか」
「このまま席を立ったら、もう俺は二度と鷺島さんと会うことはないと思う。生きる世界が違うから」
「いいですよ。まったくせいせいします。君ときたら僕が雇い主だって自覚がありゃしない。いつまでたっても意気地なし。弱弱しい生き物のくせ、僕の思い通りにならない。見守り続けてハラハラするのはもうこりごりです。せいせいしますよ」
思わず吹き出した。目の前の彼は怪訝そうに眉をひそめた。
ねえ、俺なんてどうしようもない身の上の、学もないただただ平凡な男だよ。しばらく一緒に過ごして、それは分かったでしょ? 学生の頃から俺のこと好きだったのかな。けど、遠くから愛情を募らせて、庇護したいと眺めていた俺と、実際接してみてどうだった? 幻想は剥がれた?
聞かなくても分かるか。
(どうして貴方は俺のこと、こんなに愛してくれるのかなあ)
俺は俺のことよくわからない。自分と向き合う時間なんてほとんどなかったから。けど、貴方は俺のことを、俺以上に知っているみたいだ。
だから「それ」を知りたいから。そんな動機で傍にいることを選んでも、いいよな?
ゆっくりと手を伸ばす。はじめて触れた彼の指先はひどく冷たかった。
「――俺。鷺島さんのそういう強がるとこ、すごく好きだよ」
彼は俺の手を選んでくれるだろうか。
いままでありがとうございました。口では感謝を告げながら、頭を下げることはなかった。
都内の一等地に立つ一流のラグジュアリーホテルのラウンジ。給仕された酸味の強いコーヒーを啜りながら、目の前で俯く男のつむじを見つめた。相変わらずのくせ毛で、それでも頑張ってワックスで撫でつけたのであろうヘアセットには、努力の痕が見える。身に纏っているスーツは銀座のテーラーに彼を引っ張って仕立ててもらったものだ。派手過ぎず、彼の誠実さをより引き立てる清潔感のあるスーツ。されど見る人が見れば吊るしではないと分かる。裏地のバーガンディが色鮮やかだ。けれども今日という最後の日まで、彼がスーツを着こなすことはなかった。結局スーツに着られているだけにすぎない。周囲で談笑を交わす品のいい客層に怖じ気づいて、びくびくと肩を強張らせている。
彼は極めて平凡で、ごく普通の顔立ちをしていた。よく言えば悪目立ちせず、悪く言えば印象に残りにくい。
「鳴海くん。君にはあらかじめ提示した報酬を後日振り込ませていただきます」
鳴海俊は僕の恋人である。ただし、仮初めの。
半年前のことだった。懇意にしている会社の会長から、孫娘を紹介された。業界への知見を広げたいらしいのだが、協力してくれないか。そんな風に遠回しにあれこれ言われたが、表面上の言葉であることはすぐ見抜けた。ようは結婚を考えてみないかと、嫁候補として紹介されたのだ。
二十五となる今、独身ではあるが、そもそも同年代で結婚している人は多くない。家庭を作ることへの抵抗感はないが、早急に配偶者が欲しいわけでもない。角が立たないよう、丁寧にお断りしたつもりだった。
ところがこの孫娘は、物わかりのいい会長とは違い、少し思い込みが激しいようだった。会長はあくまで「考えてみるのもいい」と伝えた程度のはずだ。それなのにすっかりその気になってしまい、僕との結婚生活を思い描き、僕の行く先々に顔を出すようになってしまった。
さて困った。はっきり断ってもいいのだが、自分が世界の中心と考えるタイプは厄介だ。一歩対応を間違えれば何をしでかすか分からない。それでいて、会長の顔に泥を塗るような真似は避けたい。あの会長であれば迷惑している旨を告げればなんとかしてくれるだろうが、会社の立ち上げの際に大変世話になった人だ。
隠れ蓑が必要だと考えた。問題はその蓑をどうやって調達するかだ。
その日はあいにくの悪天候で、例年まれに見る豪雨が都内を包んでいた。運転手にハンドルを握らせ、いつものように帰宅していると、通りがかった公園で、どしゃぶりの中、人影が動いたのが偶然目に入った。運転手に声をかけて車を止めさせ、公園へ向かうと男が一人倒れていた。見捨てるよりも、拾い上げる利点の多さに歓喜した。雨に濡れて震えていた体をそのまま抱きかかえ自宅に連れ帰った。
二十二歳の青年は、見たまんま路頭に迷っていたらしかった。高校卒業後、父親の借金を返済するために馬車馬のように働き続けてきたが、働き先が倒産。さらに新たに母親の借金も自分に降りかかり、どうしようもなく倒れてしまったらしい。三日間飲まず食わずだったのだと、彼は僕が施した最低限の食事をありがたく頂いていた。それが、策略とも知らずに。
「貴方の借金をすべて肩代わりし、衣食住を提供する。その代わり、僕の恋人を演じる。君は与えられた役目を全うしてくれました」
目の前の彼は紅茶を一口、口に含んだ。白磁に青で幾何学模様が描かれた美しいティーカップの中で紅茶が波打っている。彼は猫舌で、温かい紅茶を口に含むのにも一苦労しているようだった。困り眉を寄せ、情けなく背中を丸めている。
僕は彼と契約を結んだ。僕が同性にぞっこんで、ラブラブであると周知させたい。件のご令嬢に、付け入る隙はございませんと言い表したい。そのための生贄、仮初の恋人が必要だった。本気で僕のことを好きにならず、この計画のことを知って弱みを握り脅すような真似をしない、絶対的な上下関係を作り出せる男が。条件に合致した彼はまさに天からの恵みだった。彼は断ることはできない。だってこの条件を聞かされたとき、彼は既に温かい食事をすっかり胃の中に収め、広い湯船でしっかり体を温め、新品の衣服に身を包んでいたのだから。
「僕の溺愛っぷりに、彼女も度肝を抜かれてましたね。予想よりも執着質だったせいで、僕から君を引き剥がそうと躍起になりましたし、君を少しだけ危険な目に合わせたことは謝ります。ですが、それも契約に織り込み済みでしたから、今更文句を言われても困ります」
彼の口は僅かに動いたけれど、声が漏れることはなかった。有無を言わせぬ物言いに、なにを反論するもないのだろう。彼と僕の間にある、背の低いテーブルにばかり視線を送っている。せっかくこれまでの勤めに感謝を示すため、この場をセッティングしたというのに、夜景にひとつも視線を向けやしない。勿体ない、けれどここで苦言を呈するのも場に相応しくないだろう。
「最後には僕たちの間に純粋な愛があると思い込んで、涙ながらに僕たちを応援すると語ってくれました。これでめでたしです」
僕の目的は達成され、鳴海君も金銭の問題から解放された。双方にとってハッピーエンドだ。鳴海君はこれから自分の好きなように生きていける。僕もしばらくは縁談のわずらわしさに囚われることもない。二人が歩む道は別々だが、互いにとって納得のできる結果を手に入れたのだ。
そのとき、紅茶とだけ向き合っていた彼がゆっくりと顔を上げた。栗色の瞳とかち合った。
彼は僕を見つめるとき、単純に視線を合わせるのではなく、その奥に潜む感情まで読み取ろうとする。あまりに真っ直ぐな感情に、ほんの少しだけ逃げ出したくなるのに、視線は逸らせなかった。
鳴海君はただ、出会った頃と同じように僕だけを見ていた。
「鷺島さんって、俺のこと好きですよね」
◆
鷺島さんはコーヒーカップを持ち上げたまま、動かなくなってしまった。
墨汁に一滴藍を垂らしたような烏色の黒髪も、彫の深い顔立ちも、俺のために誂えてくれたスーツよりも段違いに値の張るスーツを身に纏った、モデルと見間違うほどのスタイルの良さも。誰も彼もが振り返り、その華やかさに惹かれてしまう。どこにいたって人の目を集めてしまう、そんな星の下に生まれた人。だからこそ思う。一度会ったら忘れられない、頭の中に刻み込まれてしまう容姿を持ったこの人を、忘れるわけないのに。
高校卒業後、大学の食堂で働きだした。都内でもとりわけ優秀な人たちが集まるその大学は、俺からしてみれば雲より遥か上に住まう人の集まりに思えた。そんな中、もちろん「彼」もいた。煌めかしくて、優秀な頭脳を持つ人たちがあふれかえるキャンパスで、鷺島さんはとりわけ目立っていた。もちろんただの食堂の職員である俺が、鷺島さんと交流する機会なんてあるはずがない。俺たちはたまたま同じ場所に居合わせただけの、学生と労働者だ。
なのに、五月。まだまだ学びが多い職場で、カフェテリアの机をせっせと拭いていた。終業時間五分前、食堂に残っている学生に帰宅を促しながらの清掃。静まり返った食堂の隅の机に、誰かが伏していた。
机に突っ伏していても、咄嗟に誰なのか分かった。彼を起こすつもりで、そっと肩を揺さぶった。手触りに驚く。俺が長らく愛用している着古した毛玉だらけのセーターと、本当に同じセーターか疑うくらい手触りが良い。三年目に突入したセーターはごわごわして、肌がかゆくなるのを我慢し続けているというのに。
「すみません。時間なんですけど」
「……」
むくり。と起き上がる。いつもキャンパス内で見かける際には、誰にでもきらきらした笑みを振りまいているのに、目が座ってどこか遠くを見ている。眠そうというより疲れ切っている。完璧超人に見えて、この人も人間なのか。
別に何を思ったわけじゃない。同情も、憐憫もない。ただ、学生ながら起業して、誰からも「羨ましい」と羨望を向けられるこの人に、純粋にお疲れ様の気持ちが浮かんだ。こっそり食堂脇の自販機でコーヒーを買って、いまだにぼんやりとしている彼の傍に置いてみたのは気まぐれだ。
「……すごく、頑張ってるんですね。お疲れ様です」
本当は学生に荷物を持たせて席から立たせるまでが仕事だが、今日くらいは頑張る学生さんのことを思ってすこし放っておいてやろうと思った。
それきりだ。鷺島さんと声を交わしたのはそれっきり。
その後も彼とは何回も顔を合わせている。でもそれは食堂の受け渡しカウンター越し、客と職員という立場でだ。俺は食堂の職員らしく、衛生対策ばっちりの格好を常にしていた。髪の毛を帽子ですっぽりと覆い隠し、口にはマスク。相手からはわずかな隙間から目元しか見えない。鷺島さんにトレイを何回か渡す機会はあったけれど、そもそもあの寝ぼけていた夜を鷺島さんは覚えていないだろうと思っていたし、覚えていたとて俺が俺だとはわからないだろう。
そうして、何事もなく季節は巡った。次の春、優秀な成績を収めて鷺島さんは卒業していった。
あの時の考えが、盛大な勘違いだったことに気づかされたのはそれから二年後のことだった。
勤め先が倒産。借金は膨らむ一方。住む場所もなくし、途方に暮れていた。泣きたくても泣けない。これからどう生きていけばいいのか分からない。公園で気絶してしまい、目が覚めた時には鷺島さんの部屋のキングサイズのベッドの上に居た。
二年ぶりに再会した鷺島さんに驚いたが、鷺島さんは俺のことなど覚えていないようだった。ただ単に偶然自分の駒となる人を拾っただけにすぎないらしい。俺は契約書にすぐサインした。どれだけ無理難題を突き付けられても、この苦しみから救ってくれるならそれでいいと思っていた。
――けれど、すぐに違和感に気づくことになる。
「いいですか。僕が溺愛するにふさわしい生活を送る義務があります。僕の隣の部屋に住んでください」
「身なりを整えてください。美容室に行きます。終わったらセレクトショップに行きましょう。すべて僕の言うままに身に着けてください」
「働き先も見つけておきましたから。福利厚生、給与、待遇はいわゆるホワイトというレベルですね。高水準の環境で、僕が愛するに値するよき働き人となるように」
あれこれ指図するそれは、施しではなく愛情であるようだった。恋人のステータスを上げるために工作しているのだと言い訳を連ねるにつれ、俺の生活の質はめきめき上がっていった。鷺島さんを困らせる令嬢の前ではラブラブな振りをしなくちゃいけなかったが、その場以外で鷺島さんが俺に指一本触れることはなかった。
ただ、鷺島さんは毎日食事を一緒に取ることだけを、強く望んだ。
ささやかな願いを、彼は心から祈った。そしてそれが叶うたび、思いがけない宝物が手に入ったようにひっそりとはにかんでいた。
悲劇のヒーローぶるわけじゃないけど、俺はそこそこ波乱万丈な人生を歩んできたし、察しの付くほうだ。だから分かるよ。あの夜俺が倒れていた公園の前の道路は、鷺島さんがいつも帰宅時に通るルートじゃない。たまたまじゃない。つまり、彼は俺を助けたくてわざわざあの公園に向かったのだ。
というより、金に物を言わせて仮初めの恋人を作りたいのなら、わざわざ倒れていた見知らぬ男なんか選ばなくてもいいはずだ。鷺島さんレベルなら選び放題だ。後腐れのない人選だって、吟味すれば可能だろう。鷺島さんの運転手兼秘書を問い詰めたら、男もいろいろ思うところがあったのだろう。すんなりと口を割ってくれた。
鷺島さんは大学卒業してからも、密かに俺のことを見守っていたらしい。探偵を雇って情報を定期的に手に入れてたんだって。それってストーカー? って最初はぎょっとしたけれど、でもそうじゃないなって思い直した。
執着が過ぎて、見守って囲いたかった狂人ではない。本当にただ心配で、そして言ってしまうと、たぶん俺のことが本当に好きでいるだけ。
今まさに、鷺島さんは俺を満足いくまできれいに磨き上げたのに、縛っていた鎖を自ら粉砕して、俺を笑顔で手放そうとしているんだから。
鷺島さんは不意の事態にも冷静沈着に対応し、常に周りの目を気にして行動する人だ。それを嫌とも思わず、当然だと思っている。玉座に座り続けるのは、周囲に求められ続けているから。
だけど、鷺島さんは綺麗なお顔とは似つかないほど顔を真っ白にして、小刻みに指を震えさせている。波打つ黒い水面がカップから零れ落ちるのを危ぶんで、ゆっくりとカップをソーサーに下ろした。
「僕が君のことが好き? それは君の妄想に過ぎないでしょう」
「……うん、はい。そうですね」
「だから、僕が肯定しなければこの話はここでおしまいです。君との縁もここで切れ、君が語った妄想も、もうなかったこととして葬られる。それでいいのではないでしょうか」
そうかも。気まぐれな金持ちの道楽に付き合って、恵まれた職場を手に入れた。まんまと逃げ出すこともできる。最高にハッピーエンドを描くために駆け出すこともできるのだ。
「いいの?」
「なにがですか」
「このまま席を立ったら、もう俺は二度と鷺島さんと会うことはないと思う。生きる世界が違うから」
「いいですよ。まったくせいせいします。君ときたら僕が雇い主だって自覚がありゃしない。いつまでたっても意気地なし。弱弱しい生き物のくせ、僕の思い通りにならない。見守り続けてハラハラするのはもうこりごりです。せいせいしますよ」
思わず吹き出した。目の前の彼は怪訝そうに眉をひそめた。
ねえ、俺なんてどうしようもない身の上の、学もないただただ平凡な男だよ。しばらく一緒に過ごして、それは分かったでしょ? 学生の頃から俺のこと好きだったのかな。けど、遠くから愛情を募らせて、庇護したいと眺めていた俺と、実際接してみてどうだった? 幻想は剥がれた?
聞かなくても分かるか。
(どうして貴方は俺のこと、こんなに愛してくれるのかなあ)
俺は俺のことよくわからない。自分と向き合う時間なんてほとんどなかったから。けど、貴方は俺のことを、俺以上に知っているみたいだ。
だから「それ」を知りたいから。そんな動機で傍にいることを選んでも、いいよな?
ゆっくりと手を伸ばす。はじめて触れた彼の指先はひどく冷たかった。
「――俺。鷺島さんのそういう強がるとこ、すごく好きだよ」
彼は俺の手を選んでくれるだろうか。
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