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おしまいのそのあとは
「無様だな、神楽坂龍一郎」
後ろ手で腕を縛られている。膝をついた俺は、ガラの悪い男たちに囲まれていた。道中、腹いせのように殴られたからか、体が痛い。恐らく痣になっているだろう。
人気のない、たとえ大声で叫んでも誰も助けに来ないボロ小屋は、隙間風が吹きすさんでいる。ろうそくの明かりに照らされた男たちの顔は皆凶悪。俺が屈服する様子に、優越感を隠せず、下卑た笑いを浮かべていた。
はっきり言ってしまえば、今の状況はピンチそのものだが、頭の中は冷静だった。
なぜなら進んでこの状況になるように、ことを動かしたからだ。
――とはいえ、甚振られたいがために、こんなことをしたわけではない。
◇
高校入学前のある日、廊下ですっころんで頭を打った拍子に、俺は「前世」の記憶を思い出してしまった。
前世では「日本」という国に生まれ、家族や友人に恵まれながらも、病弱な体で入院しがち。闘病生活もむなしく、成人手前で命を落としてしまった。
そして今世の世界。この世界は妹が好んでいた「BLゲーム」そっくり、いやそのものだった。
前世の日本に近しい、けれど少しだけ異なる世界。学園を舞台にしたそのゲームは、財閥の子息やら大物政治家の跡継ぎやら、血筋と財力の最頂点に立つ生徒たちが集う高校生活を扱った作品。より取り見取りの子息たちが揃う学園に、ある日、特待生として平民出身の主人公が入学するところから物語は始まる。
主人公は特待生としての地位をよく思わない、一部の子息たちからひどい扱いを受ける。だが持ち前の明るさを以て嫌がらせや困難を跳ねのけ、次第に周囲を愛嬌と実力で認めさせていくのだ。王道且つ幾度となく使用されてきた題材ながら、世界観と登場するキャラクターの深堀りやフルボイス、スチルの充実度と派生ストーリーの多さが話題となり、「こういうのでいいんだよ」とBLゲーム好きから絶大な支持を受けたらしい。
このゲームについて詳細に把握しているのは、俺がそのBLゲーム愛好家だったからではなく、病床にお見舞いに来てくれていた妹がそのストーリーから考察まで熱弁してくれていたおかげだ。今度待ちに待った外伝が続編として発売されるのだと、嬉しそうに教えてくれたのも懐かしい。
さて前世を思い出した俺は、絶望した。
だって、俺の名前は「神楽坂龍一郎」。いわゆる、主人公とライバル関係にあるキャラクターだったのだ。
神楽坂はこれでもかとテンプレに悪役要素を注ぎ込まれた男だった。恵まれた体格と美貌。黙っていればどこぞの王子と見紛うのに、主人公が気に入らず、とにかく入学当初から邪魔をして、取り巻きをけしかける嫌な奴。主人公が入学式に遅刻しかけたのもこいつが原因だ。由緒正しき名家の次男坊である龍一郎は、さぞ甘やかされて育ったらしい。いくら学園で横暴な態度を取ろうとも、金に物を言わせて家に悪事をもみ消してもらう太々しさ。それでもめげない主人公に痺れを切らし、最後には一線を越えた悪事を働こうとする。けれど主人公とその恋人候補に学園中の面前で断罪される。哀れ同情の余地もなく、学園からも、家からも、社交界からも追放されて抹殺されるのだ。
「そんなのは嫌だ……」
そもそも誰かに危害を加えるなんてまっぴらだ。前世ではまともに学校生活を送れなかったんだから、高校生を満喫したい。
何振りかまってはいられなかった。これまでの行いを反省し、人付き合いを改善した。それでいて、主人公やその攻略対象者の邪魔にならないようにふるまう。加えて実家では、仕えてくれている執事、メイドたちにも丁寧に接した。日頃の感謝を忘れないって大切だ。
そうして高校生活を謳歌しているうちに、結局主人公とも仲良くなった。よからぬことを企てていない「神楽坂」は、主人公にとって心置きなく接することのできる相手だったらしい。前世では一般家庭の出自だったわけだし、心の底から醸し出される平凡なオーラがにじみ出ていたのかもしれない。
「神楽坂」の性格が改変されたことで、シナリオも改変を起こしたり、世界が狂ってしまう危惧もあったのだが、幸いにそのような事象は起こらなかった。もし強制的に俺の性格が書き換えられたり、やってもいない悪事の主犯に仕立て上げられたらどうしようと不安だったが、一安心だ。
極めて無害な友人として主人公と共に過ごしながら、彼の歩む道を窺っていた。どうやら主人公は学園の謎が明らかになる、いわゆるトゥルーエンドを歩んでいるようだ。俺は友人として密かに彼と、メイン候補である生徒会長の恋の行く末を見守ろうと思っていたのだ。
高校三年生の夏、思い出したくもないことが蘇ってしまうまでは。
「あ……」
「龍一郎さま?」
「……凪?」
「はい。どうなさいましたか」
幼い頃から従者として付き添ってくれている、九重凪。九重家は、神楽坂家に仕える家として絶対的な主従関係を築いている。そんな幼馴染兼従者の凪の、美しい顔を見つめた瞬間、雷に打たれたようによみがえったのだ。未だ思い出していなかったこのゲームの要素に。
このBLゲームは、すべてのルートで俺こと「神楽坂」が断罪されるわけではなく、神楽坂が救われる道もある。だがそうすると必ず、神楽坂が受けるはずの報いを、なぜかこの九重凪が被ることになるのだ。そこに、例外は無い。
ゲームの公式からは発表されていないが、神楽坂が主人公に抱く好感度が隠しパラメーターとして存在するのだ。その値が高ければ、主人公は被害にあいにくく、神楽坂も破滅しない。けれど、比例して従者の凪の被害度が増していく謎の設定があり、神楽坂が比較的いいやつのままルートを進めると、最終的に凪は不幸な事故に巻き込まれて死んでしまう。この理不尽要素こそ、本作品において唯一ともいえる欠点であり不評な部分でもあった。
凪はなにもしていないのに、どうして苦しむことになるのか。凪は主人公の攻略対象でもなんでもない、脇役も脇役だ。我儘極まりない神楽坂というご主人様の命令を、家のしきたり故に反故にすることもできず、従順に聞き続ける美しいイケメン。そんな彼を理不尽な世界から守るため、プレイヤーは神楽坂を嫌な奴に仕立て上げて、凪を守るプレイ方法を選択する人が多かったらしい。
俺の主人公への好感度は当然高い。つまり、凪が今後不幸な目に遭う可能性、または既に不幸な目に合っている可能性は極めて高い状況だ。
(もしかして、既に大きな怪我を負って、隠してるかもしれない)
焦りで、周囲の目など消えていた。凪に無意識に手を伸ばし、制服の上から肩、腕、胸板と順番に触る。もしも痛そうなそぶりを見せればすぐに問い詰めてやるつもりだ。だが、凪の顔はぴくりとも動かない。十本の指先に神経を集中して、些細な怪我も見逃さないようにしなければ。
隅々まで確認してやろうと、背中に手を回した。俺より体格のいい凪の背中をくまなくさぐろうと、ぴったりと体を密着させて、大きくたくましい背中を指先で探る。
ここまでして、ようやく凪の顔色はだんだん悪くなってきた。というよりも、眉間に皺が寄り、頬が引きつりだした。いつでも冷静沈着な凪が、だ。
「なあ、凪。なにか隠し事……」
これはやはり、傷を負っているのではないか。問い詰めようとしたその矢先「こらー!」と怒声が飛んできた。振り返ると、主人公が走ってこちらに向かっている。愛らしい大型犬のような彼は、怒りというより焦った様子で、俺と凪を引き離した。その後ろでは、生徒会長が青ざめた顔で今にも卒倒しそうになっていた。
「なにしてんだよ、神楽坂!」
「なにって……確認を」
「確認!? なんの確認だよ!」
BLゲームのシナリオを知ってるとは言えない。口をつぐむと「神楽坂が突拍子もない行動することはいつものことだけど……今回ばかりは冗談じゃすまないところだった」「危ない。爆発するかと……」とごにょごにょ言っている。
改めて、今自らが行っていた行動を思い返した。焦りに駆られていたとはいえ、公共の場である学校で、過度に密着して体をまさぐっていた。確かに、冗談では済まないかもしれない。
(主人から従者に、有無を言わせず体を密着させるなんて、セクハラで訴えられても仕方ないか……)
「ごめんな、凪。以後気を付ける」
凪は「とんでもございません」やら「問題ございません」なんて、いつもの通り返してくれると思っていた。だが、「……はい」と躊躇うように返しただけだった。
◇
それからというもの、「運命」を変えるために奔走することにした。
今の俺は主人公を嫌うことなんてできない。それよりも、本当に「神楽坂が主人公を嫌うこと」で「凪が救われる」のか?
少なくとも、神楽坂が絶望し、断罪されるルートへ進めば、凪は救われていたはずだ。つまり、主人公による俺への好感度パラメーター、というより、俺の不幸度と比例しているのでは。神楽坂の不幸度が積み上がれば、もしかして凪の幸福度が上昇する?
(だとすれば、俺が不幸の犠牲になれば、凪は救われるのでは)
そこで俺は最終盤のシナリオを思い出した。主人公を退けようとした有力財閥の権力者が、警護の目を掻い潜って暴漢を潜り込ませるのだ。これだ、と思った。ここでひとつ、暴漢から主人公を庇い、一手に引き受ければいいのでは。
本当に、この仮説が正しいとは限らない。けれど、凪が不幸になるルートを知っていながら、見て見ぬふりをするなんて、できなかった。後悔するくらいなら、凪の身代わりになることに、何のためらいもない。
そして現在に戻る。まんまと暴漢は俺によっておびき出され、主人公たちは襲われる可能性はなくなった。逆上した暴漢は、俺を縛り上げ、制服はぼろぼろに引き裂いた。一式いくらすると思っているんだ、と心の中の庶民感覚が暴走しそうだ。
「神楽坂の坊ちゃんよお。俺たちをコケにするのもいい加減にしろよな」
「コケにした? お前らが勝手に罠にはまっただけだろう」
「てめえ……」
ぽきぽきと指を鳴らし、低い声を上げた男たちは、笑ってしまうほど簡単に挑発に乗ってくれる。これだから動かしやすい男たちは簡単で困る。その内一人が、余裕をなくした顔をかき消し、笑い出した。
「お前、自分の置かれた状況わかってんのか? お前はいまから、俺たちのうっぷん晴らしに付き合ってもらうんだぜ? その余裕のあるお顔、歪ませずにいられるかなあ」
「ごめんなさいって、何回言うのか、いまから楽しみだな」
「お父さん助けてって、叫んでみるか?」
訳ないだろう。望んだ結末だ。
前世の記憶と、今世の記憶が入り混じっている、神楽坂龍一郎。前世を思い出すまで、我儘の限りを尽くしていたのも、まぎれもなく俺だ。そんな俺に、家の命令ゆえに絶対服従だった凪。凪の本心は読めないが、命令に従いたくないときも、逃げ出したくなる時もあったに違いない。それでも、不服を漏らさず幼い頃から仕事として付き添い続けた、唯一の人。
凪に許されたい、凪を神楽坂家から解放してあげたい。いつしか、そんな思いが肥大していくのを無視できなくなった。そこには、友情も、家族愛も、それ以上の情も混ざり合っていた。
凪が解放されて、せいせいしたと去っていくなら、それでいい。それでもいい。だからこそ、今自分が犠牲になる道を躊躇なく選べたのだから。凪には、幸せになって欲しい。
自分の思いがあふれ、ふっと笑みがこぼれたのを、馬鹿にしていると捉えたらしい。ごろつきたちは、思い切り俺の体を蹴飛ばした。体は床に打ち付けられる。そのまま、髪の毛を掴み上げられた。
「おい……どこまで俺たちを馬鹿にするんだ」
「本気で思い知らせねえと分からねえみてえだな」
目を瞑った。覚悟は決めてきた。世界に体を捧げるくらい、どうってことない。
だが、前髪を毟られるほどに酷く掴まれ、あと一歩で体が宙に浮くその寸前で、凄まじい音が耳を襲った。
「……は?」
小屋の入口が吹っ飛んでいる。
扉は真っ二つに折られ、ひしゃげていた。俺の頭を掴んでいた男は壁を突き抜けて吹っ飛び、周りに居た取り巻きたちも次々に沈んでいく。ぐは、なにかを吐き出す音さえ聞こえた。気を失った男たちは、遠慮なく小屋の外に放り出されていく。
見慣れた立ち姿、しなる肉体と、隙の無い動作。適格に敵を倒すその力強さ。
(凪、だ)
凪だ。凪が助けに来てくれた。
次々と暴漢を吹っ飛ばした凪は、拳を握り締めたまま佇んでいる。その表情に影が差し、どのような感情を抱いているか覗き見ることができない。
凪に助けられた嬉しさと、自己犠牲で救いたかったという思いがせめぎ合い、複雑だった。心身が傷つけられなかった安堵と、この先凪が苦しむことを止められないのでは、という不安に駆られる。
「な、凪……」
あれだけ暴れておきながら、肩で息すらしていない凪に、声を掛けた。
ゆっくりと振り返った凪は俺を見下ろしている。綺麗な制服を一切乱さず、まっすぐに俺を見つめている。いつものように仕方ないですねと慰めるでもなく、すぐに拘束具を解くでもない。ただ、黙っている。能面のように、感情を浮かべていない凪は、不気味そのものだ。
「凪?」
凪は一歩、また一歩と俺に近づいてくる。そして、躊躇なく俺の首に手を掛けた。自然な動作で、制止する間もなく両手で首を掴まれ、軽く力を入れられて、ぐっ、と喉が詰まる。
「ちょ、ちょっと、凪。くるしい」
「……」
「なにか言えって、凪」
「――お友達を守るために、体を張るのが、貴方の選択ですか?」
ぞくり、と背筋に悪寒が走った。凪は笑った。だがそれは、俺の知る凪の笑みではなかった。あの朗らかで優しい凪の顔ではない。狂気と闇の中にある。凪の瞳に俺が映っているのは確かなのに、まるで俺しか映していないかのような、俺のすべてを縫い付けるような力強い視線。
「美しい友情ですね。けれど、そんなものを抱かせてしまうのなら、やはり旦那様に頼んで、学園になど通わず、屋敷で家庭教師に学ばせるよう提言すればよかったでしょうか」
「は……?」
「そうすれば、私だけの、神楽坂龍一郎さまでいてくれたのに。ねえ、そうでしょう」
凪のこんな声、聞いたことが無い。慌てて凪を振り払おうとした。だが、両手を縛られていては身をよじるしか叶わない。それをどう思ったか、凪はゆるりとほどけかけていた俺のネクタイの、結び目の近くを引っ張った。まるで、リードで首を繋がれたかと錯覚する。ネクタイの皺がなくなるほど、ぴんと引っ張られた。
「龍一郎」
凪は、俺のことを「さま」で呼んでくれて、いつも優しくて、なんでも願いをかなえてくれた。
『龍一郎さま、まったく仕方がありませんね』
『貴方様のお望みのままに』
『私はあなたの従者ですから。貴方についていきますよ』
『龍一郎さま。何なりとご命令を』
この、目の前の男は、誰だ?
「龍一郎。逃げるな」
はくはくと、口を開け閉めすることしかできない。あまりの衝撃に、どうしてこんなことになっているのかと頭をフル回転させた。こんなシナリオ、妹の話にも登場しなかった。なぜだ。どこで間違えた? 混乱している間に、凪は指先でネクタイを引っ張り上げて恍惚の表情を浮かべている。床に膝をついた俺を引っ張り上げた凪は、ゆっくりと舌なめずりをした。
「高校生になってから、俺以外に目移りしだした。幼い頃からずっと、ずっと、龍一郎には俺だけ、俺だけが龍一郎の唯一だったのに」
「ちょ、ちょっと待って、凪」
「だから今、決めた。俺がこの先、何不自由ない生活をさせてあげよう。龍一郎の食べるパンの一欠けら、飲み込む水の一滴も、俺が手ずから与えて、管理する。もし、今みたいに無理をするなら、強固な檻の中に入ろうな」
「お、檻」
「立ち上がることのできない低い背丈のケージの中で、綺麗な首輪を嵌めるんだ。凪のために、特注で誂えたものだ。息がしづらいくらいが丁度いいかな」
あまりにも恐ろしい光景なのに、凪はまるで憧れた理想郷であるかのように、妄想した世界を口にして。蕩けた目をしている。
「龍一郎のすべての自由が俺のもの。龍一郎の自由は、俺の管理の下。幸せに浸らせてあげるからな。もう二度と目を離さない。永遠に俺のもの」
やばい。
化け物のように笑う凪の両腕に抱え込まれた。けれど硬直した体はぴくりとも動かない。
「俺の言うこと聞けるよね、龍一郎」
遠くから、主人公とその仲間たちの声が聞こえる。俺のピンチをどこからか聞きつけ、助けに来てくれたのだろう。果たして彼らが察知したピンチとは異なるこの状況から、無事に抜け出せるのだろうか。無理かもしれない。
(なんで、謎のヤンデルートを引いてしまったんだ俺は……)
途方に暮れた俺の頭の中に、突如として靄が晴れるように、久々に前世の妹の声が蘇って来た。
『お兄ちゃん。今度私の好きなBLゲームに、外伝が出るの。嫌味な神楽坂と従者の凪がカップリングなんだって。あのね、私たちはずっと、神楽坂の主人公への好感度が上がれば、凪が不幸になるって思ってたけど、ほんとは神楽坂がみんなと孤立しなくなると、凪の病みゲージが向上して、情緒不安定になってトラブルに巻き込まれやすくなってただけなんだって。それをね、いっそのこと神楽坂をみんなと友達にさせたらどうなるかってゲームらしいの。凪の神楽坂への執着心をマックスまで振り切らせて、二人の病み恋愛を描くシナリオらしいよ。すごく楽しみだよね……』
――嗚呼、妹よ。どうして最後までこの話を思い出させてくれなかったんだ。
その後、すべてを察知していた主人公やその仲間たちに、ひとまず凪を引きはがしてもらったものの、俺を囲う策略を妨害された凪の暴走が待ち受けていたり、どうにかヤンデレ監禁ルートを回避した先には、溺愛と執着の嵐だったり、そもそも俺の凪への秘めたる思いがバレて大変な目に合う未来が待っているわけだが。
今は俺を閉じ込める仄暗い夢を見て、歓喜に震える凪の肩にもたれ掛かるしかなかった。
後ろ手で腕を縛られている。膝をついた俺は、ガラの悪い男たちに囲まれていた。道中、腹いせのように殴られたからか、体が痛い。恐らく痣になっているだろう。
人気のない、たとえ大声で叫んでも誰も助けに来ないボロ小屋は、隙間風が吹きすさんでいる。ろうそくの明かりに照らされた男たちの顔は皆凶悪。俺が屈服する様子に、優越感を隠せず、下卑た笑いを浮かべていた。
はっきり言ってしまえば、今の状況はピンチそのものだが、頭の中は冷静だった。
なぜなら進んでこの状況になるように、ことを動かしたからだ。
――とはいえ、甚振られたいがために、こんなことをしたわけではない。
◇
高校入学前のある日、廊下ですっころんで頭を打った拍子に、俺は「前世」の記憶を思い出してしまった。
前世では「日本」という国に生まれ、家族や友人に恵まれながらも、病弱な体で入院しがち。闘病生活もむなしく、成人手前で命を落としてしまった。
そして今世の世界。この世界は妹が好んでいた「BLゲーム」そっくり、いやそのものだった。
前世の日本に近しい、けれど少しだけ異なる世界。学園を舞台にしたそのゲームは、財閥の子息やら大物政治家の跡継ぎやら、血筋と財力の最頂点に立つ生徒たちが集う高校生活を扱った作品。より取り見取りの子息たちが揃う学園に、ある日、特待生として平民出身の主人公が入学するところから物語は始まる。
主人公は特待生としての地位をよく思わない、一部の子息たちからひどい扱いを受ける。だが持ち前の明るさを以て嫌がらせや困難を跳ねのけ、次第に周囲を愛嬌と実力で認めさせていくのだ。王道且つ幾度となく使用されてきた題材ながら、世界観と登場するキャラクターの深堀りやフルボイス、スチルの充実度と派生ストーリーの多さが話題となり、「こういうのでいいんだよ」とBLゲーム好きから絶大な支持を受けたらしい。
このゲームについて詳細に把握しているのは、俺がそのBLゲーム愛好家だったからではなく、病床にお見舞いに来てくれていた妹がそのストーリーから考察まで熱弁してくれていたおかげだ。今度待ちに待った外伝が続編として発売されるのだと、嬉しそうに教えてくれたのも懐かしい。
さて前世を思い出した俺は、絶望した。
だって、俺の名前は「神楽坂龍一郎」。いわゆる、主人公とライバル関係にあるキャラクターだったのだ。
神楽坂はこれでもかとテンプレに悪役要素を注ぎ込まれた男だった。恵まれた体格と美貌。黙っていればどこぞの王子と見紛うのに、主人公が気に入らず、とにかく入学当初から邪魔をして、取り巻きをけしかける嫌な奴。主人公が入学式に遅刻しかけたのもこいつが原因だ。由緒正しき名家の次男坊である龍一郎は、さぞ甘やかされて育ったらしい。いくら学園で横暴な態度を取ろうとも、金に物を言わせて家に悪事をもみ消してもらう太々しさ。それでもめげない主人公に痺れを切らし、最後には一線を越えた悪事を働こうとする。けれど主人公とその恋人候補に学園中の面前で断罪される。哀れ同情の余地もなく、学園からも、家からも、社交界からも追放されて抹殺されるのだ。
「そんなのは嫌だ……」
そもそも誰かに危害を加えるなんてまっぴらだ。前世ではまともに学校生活を送れなかったんだから、高校生を満喫したい。
何振りかまってはいられなかった。これまでの行いを反省し、人付き合いを改善した。それでいて、主人公やその攻略対象者の邪魔にならないようにふるまう。加えて実家では、仕えてくれている執事、メイドたちにも丁寧に接した。日頃の感謝を忘れないって大切だ。
そうして高校生活を謳歌しているうちに、結局主人公とも仲良くなった。よからぬことを企てていない「神楽坂」は、主人公にとって心置きなく接することのできる相手だったらしい。前世では一般家庭の出自だったわけだし、心の底から醸し出される平凡なオーラがにじみ出ていたのかもしれない。
「神楽坂」の性格が改変されたことで、シナリオも改変を起こしたり、世界が狂ってしまう危惧もあったのだが、幸いにそのような事象は起こらなかった。もし強制的に俺の性格が書き換えられたり、やってもいない悪事の主犯に仕立て上げられたらどうしようと不安だったが、一安心だ。
極めて無害な友人として主人公と共に過ごしながら、彼の歩む道を窺っていた。どうやら主人公は学園の謎が明らかになる、いわゆるトゥルーエンドを歩んでいるようだ。俺は友人として密かに彼と、メイン候補である生徒会長の恋の行く末を見守ろうと思っていたのだ。
高校三年生の夏、思い出したくもないことが蘇ってしまうまでは。
「あ……」
「龍一郎さま?」
「……凪?」
「はい。どうなさいましたか」
幼い頃から従者として付き添ってくれている、九重凪。九重家は、神楽坂家に仕える家として絶対的な主従関係を築いている。そんな幼馴染兼従者の凪の、美しい顔を見つめた瞬間、雷に打たれたようによみがえったのだ。未だ思い出していなかったこのゲームの要素に。
このBLゲームは、すべてのルートで俺こと「神楽坂」が断罪されるわけではなく、神楽坂が救われる道もある。だがそうすると必ず、神楽坂が受けるはずの報いを、なぜかこの九重凪が被ることになるのだ。そこに、例外は無い。
ゲームの公式からは発表されていないが、神楽坂が主人公に抱く好感度が隠しパラメーターとして存在するのだ。その値が高ければ、主人公は被害にあいにくく、神楽坂も破滅しない。けれど、比例して従者の凪の被害度が増していく謎の設定があり、神楽坂が比較的いいやつのままルートを進めると、最終的に凪は不幸な事故に巻き込まれて死んでしまう。この理不尽要素こそ、本作品において唯一ともいえる欠点であり不評な部分でもあった。
凪はなにもしていないのに、どうして苦しむことになるのか。凪は主人公の攻略対象でもなんでもない、脇役も脇役だ。我儘極まりない神楽坂というご主人様の命令を、家のしきたり故に反故にすることもできず、従順に聞き続ける美しいイケメン。そんな彼を理不尽な世界から守るため、プレイヤーは神楽坂を嫌な奴に仕立て上げて、凪を守るプレイ方法を選択する人が多かったらしい。
俺の主人公への好感度は当然高い。つまり、凪が今後不幸な目に遭う可能性、または既に不幸な目に合っている可能性は極めて高い状況だ。
(もしかして、既に大きな怪我を負って、隠してるかもしれない)
焦りで、周囲の目など消えていた。凪に無意識に手を伸ばし、制服の上から肩、腕、胸板と順番に触る。もしも痛そうなそぶりを見せればすぐに問い詰めてやるつもりだ。だが、凪の顔はぴくりとも動かない。十本の指先に神経を集中して、些細な怪我も見逃さないようにしなければ。
隅々まで確認してやろうと、背中に手を回した。俺より体格のいい凪の背中をくまなくさぐろうと、ぴったりと体を密着させて、大きくたくましい背中を指先で探る。
ここまでして、ようやく凪の顔色はだんだん悪くなってきた。というよりも、眉間に皺が寄り、頬が引きつりだした。いつでも冷静沈着な凪が、だ。
「なあ、凪。なにか隠し事……」
これはやはり、傷を負っているのではないか。問い詰めようとしたその矢先「こらー!」と怒声が飛んできた。振り返ると、主人公が走ってこちらに向かっている。愛らしい大型犬のような彼は、怒りというより焦った様子で、俺と凪を引き離した。その後ろでは、生徒会長が青ざめた顔で今にも卒倒しそうになっていた。
「なにしてんだよ、神楽坂!」
「なにって……確認を」
「確認!? なんの確認だよ!」
BLゲームのシナリオを知ってるとは言えない。口をつぐむと「神楽坂が突拍子もない行動することはいつものことだけど……今回ばかりは冗談じゃすまないところだった」「危ない。爆発するかと……」とごにょごにょ言っている。
改めて、今自らが行っていた行動を思い返した。焦りに駆られていたとはいえ、公共の場である学校で、過度に密着して体をまさぐっていた。確かに、冗談では済まないかもしれない。
(主人から従者に、有無を言わせず体を密着させるなんて、セクハラで訴えられても仕方ないか……)
「ごめんな、凪。以後気を付ける」
凪は「とんでもございません」やら「問題ございません」なんて、いつもの通り返してくれると思っていた。だが、「……はい」と躊躇うように返しただけだった。
◇
それからというもの、「運命」を変えるために奔走することにした。
今の俺は主人公を嫌うことなんてできない。それよりも、本当に「神楽坂が主人公を嫌うこと」で「凪が救われる」のか?
少なくとも、神楽坂が絶望し、断罪されるルートへ進めば、凪は救われていたはずだ。つまり、主人公による俺への好感度パラメーター、というより、俺の不幸度と比例しているのでは。神楽坂の不幸度が積み上がれば、もしかして凪の幸福度が上昇する?
(だとすれば、俺が不幸の犠牲になれば、凪は救われるのでは)
そこで俺は最終盤のシナリオを思い出した。主人公を退けようとした有力財閥の権力者が、警護の目を掻い潜って暴漢を潜り込ませるのだ。これだ、と思った。ここでひとつ、暴漢から主人公を庇い、一手に引き受ければいいのでは。
本当に、この仮説が正しいとは限らない。けれど、凪が不幸になるルートを知っていながら、見て見ぬふりをするなんて、できなかった。後悔するくらいなら、凪の身代わりになることに、何のためらいもない。
そして現在に戻る。まんまと暴漢は俺によっておびき出され、主人公たちは襲われる可能性はなくなった。逆上した暴漢は、俺を縛り上げ、制服はぼろぼろに引き裂いた。一式いくらすると思っているんだ、と心の中の庶民感覚が暴走しそうだ。
「神楽坂の坊ちゃんよお。俺たちをコケにするのもいい加減にしろよな」
「コケにした? お前らが勝手に罠にはまっただけだろう」
「てめえ……」
ぽきぽきと指を鳴らし、低い声を上げた男たちは、笑ってしまうほど簡単に挑発に乗ってくれる。これだから動かしやすい男たちは簡単で困る。その内一人が、余裕をなくした顔をかき消し、笑い出した。
「お前、自分の置かれた状況わかってんのか? お前はいまから、俺たちのうっぷん晴らしに付き合ってもらうんだぜ? その余裕のあるお顔、歪ませずにいられるかなあ」
「ごめんなさいって、何回言うのか、いまから楽しみだな」
「お父さん助けてって、叫んでみるか?」
訳ないだろう。望んだ結末だ。
前世の記憶と、今世の記憶が入り混じっている、神楽坂龍一郎。前世を思い出すまで、我儘の限りを尽くしていたのも、まぎれもなく俺だ。そんな俺に、家の命令ゆえに絶対服従だった凪。凪の本心は読めないが、命令に従いたくないときも、逃げ出したくなる時もあったに違いない。それでも、不服を漏らさず幼い頃から仕事として付き添い続けた、唯一の人。
凪に許されたい、凪を神楽坂家から解放してあげたい。いつしか、そんな思いが肥大していくのを無視できなくなった。そこには、友情も、家族愛も、それ以上の情も混ざり合っていた。
凪が解放されて、せいせいしたと去っていくなら、それでいい。それでもいい。だからこそ、今自分が犠牲になる道を躊躇なく選べたのだから。凪には、幸せになって欲しい。
自分の思いがあふれ、ふっと笑みがこぼれたのを、馬鹿にしていると捉えたらしい。ごろつきたちは、思い切り俺の体を蹴飛ばした。体は床に打ち付けられる。そのまま、髪の毛を掴み上げられた。
「おい……どこまで俺たちを馬鹿にするんだ」
「本気で思い知らせねえと分からねえみてえだな」
目を瞑った。覚悟は決めてきた。世界に体を捧げるくらい、どうってことない。
だが、前髪を毟られるほどに酷く掴まれ、あと一歩で体が宙に浮くその寸前で、凄まじい音が耳を襲った。
「……は?」
小屋の入口が吹っ飛んでいる。
扉は真っ二つに折られ、ひしゃげていた。俺の頭を掴んでいた男は壁を突き抜けて吹っ飛び、周りに居た取り巻きたちも次々に沈んでいく。ぐは、なにかを吐き出す音さえ聞こえた。気を失った男たちは、遠慮なく小屋の外に放り出されていく。
見慣れた立ち姿、しなる肉体と、隙の無い動作。適格に敵を倒すその力強さ。
(凪、だ)
凪だ。凪が助けに来てくれた。
次々と暴漢を吹っ飛ばした凪は、拳を握り締めたまま佇んでいる。その表情に影が差し、どのような感情を抱いているか覗き見ることができない。
凪に助けられた嬉しさと、自己犠牲で救いたかったという思いがせめぎ合い、複雑だった。心身が傷つけられなかった安堵と、この先凪が苦しむことを止められないのでは、という不安に駆られる。
「な、凪……」
あれだけ暴れておきながら、肩で息すらしていない凪に、声を掛けた。
ゆっくりと振り返った凪は俺を見下ろしている。綺麗な制服を一切乱さず、まっすぐに俺を見つめている。いつものように仕方ないですねと慰めるでもなく、すぐに拘束具を解くでもない。ただ、黙っている。能面のように、感情を浮かべていない凪は、不気味そのものだ。
「凪?」
凪は一歩、また一歩と俺に近づいてくる。そして、躊躇なく俺の首に手を掛けた。自然な動作で、制止する間もなく両手で首を掴まれ、軽く力を入れられて、ぐっ、と喉が詰まる。
「ちょ、ちょっと、凪。くるしい」
「……」
「なにか言えって、凪」
「――お友達を守るために、体を張るのが、貴方の選択ですか?」
ぞくり、と背筋に悪寒が走った。凪は笑った。だがそれは、俺の知る凪の笑みではなかった。あの朗らかで優しい凪の顔ではない。狂気と闇の中にある。凪の瞳に俺が映っているのは確かなのに、まるで俺しか映していないかのような、俺のすべてを縫い付けるような力強い視線。
「美しい友情ですね。けれど、そんなものを抱かせてしまうのなら、やはり旦那様に頼んで、学園になど通わず、屋敷で家庭教師に学ばせるよう提言すればよかったでしょうか」
「は……?」
「そうすれば、私だけの、神楽坂龍一郎さまでいてくれたのに。ねえ、そうでしょう」
凪のこんな声、聞いたことが無い。慌てて凪を振り払おうとした。だが、両手を縛られていては身をよじるしか叶わない。それをどう思ったか、凪はゆるりとほどけかけていた俺のネクタイの、結び目の近くを引っ張った。まるで、リードで首を繋がれたかと錯覚する。ネクタイの皺がなくなるほど、ぴんと引っ張られた。
「龍一郎」
凪は、俺のことを「さま」で呼んでくれて、いつも優しくて、なんでも願いをかなえてくれた。
『龍一郎さま、まったく仕方がありませんね』
『貴方様のお望みのままに』
『私はあなたの従者ですから。貴方についていきますよ』
『龍一郎さま。何なりとご命令を』
この、目の前の男は、誰だ?
「龍一郎。逃げるな」
はくはくと、口を開け閉めすることしかできない。あまりの衝撃に、どうしてこんなことになっているのかと頭をフル回転させた。こんなシナリオ、妹の話にも登場しなかった。なぜだ。どこで間違えた? 混乱している間に、凪は指先でネクタイを引っ張り上げて恍惚の表情を浮かべている。床に膝をついた俺を引っ張り上げた凪は、ゆっくりと舌なめずりをした。
「高校生になってから、俺以外に目移りしだした。幼い頃からずっと、ずっと、龍一郎には俺だけ、俺だけが龍一郎の唯一だったのに」
「ちょ、ちょっと待って、凪」
「だから今、決めた。俺がこの先、何不自由ない生活をさせてあげよう。龍一郎の食べるパンの一欠けら、飲み込む水の一滴も、俺が手ずから与えて、管理する。もし、今みたいに無理をするなら、強固な檻の中に入ろうな」
「お、檻」
「立ち上がることのできない低い背丈のケージの中で、綺麗な首輪を嵌めるんだ。凪のために、特注で誂えたものだ。息がしづらいくらいが丁度いいかな」
あまりにも恐ろしい光景なのに、凪はまるで憧れた理想郷であるかのように、妄想した世界を口にして。蕩けた目をしている。
「龍一郎のすべての自由が俺のもの。龍一郎の自由は、俺の管理の下。幸せに浸らせてあげるからな。もう二度と目を離さない。永遠に俺のもの」
やばい。
化け物のように笑う凪の両腕に抱え込まれた。けれど硬直した体はぴくりとも動かない。
「俺の言うこと聞けるよね、龍一郎」
遠くから、主人公とその仲間たちの声が聞こえる。俺のピンチをどこからか聞きつけ、助けに来てくれたのだろう。果たして彼らが察知したピンチとは異なるこの状況から、無事に抜け出せるのだろうか。無理かもしれない。
(なんで、謎のヤンデルートを引いてしまったんだ俺は……)
途方に暮れた俺の頭の中に、突如として靄が晴れるように、久々に前世の妹の声が蘇って来た。
『お兄ちゃん。今度私の好きなBLゲームに、外伝が出るの。嫌味な神楽坂と従者の凪がカップリングなんだって。あのね、私たちはずっと、神楽坂の主人公への好感度が上がれば、凪が不幸になるって思ってたけど、ほんとは神楽坂がみんなと孤立しなくなると、凪の病みゲージが向上して、情緒不安定になってトラブルに巻き込まれやすくなってただけなんだって。それをね、いっそのこと神楽坂をみんなと友達にさせたらどうなるかってゲームらしいの。凪の神楽坂への執着心をマックスまで振り切らせて、二人の病み恋愛を描くシナリオらしいよ。すごく楽しみだよね……』
――嗚呼、妹よ。どうして最後までこの話を思い出させてくれなかったんだ。
その後、すべてを察知していた主人公やその仲間たちに、ひとまず凪を引きはがしてもらったものの、俺を囲う策略を妨害された凪の暴走が待ち受けていたり、どうにかヤンデレ監禁ルートを回避した先には、溺愛と執着の嵐だったり、そもそも俺の凪への秘めたる思いがバレて大変な目に合う未来が待っているわけだが。
今は俺を閉じ込める仄暗い夢を見て、歓喜に震える凪の肩にもたれ掛かるしかなかった。
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