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第3話

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 最期の記憶では、まだモクレンは七歳だった。
 庶民には珍しい銀髪や整った顔立ちからすぐに彼だと分かったけれど、それはあくまで認識しただけに過ぎなかったのだと思い知る。
 医者のわりにたくましい腕、広い胸。
 あの頃のモクレンよりずっと大きいはずのシルフィアを、すっぽりと包み込む引き締まった体。白いシャツの清潔な匂い。何もかもが記憶の中の彼とはかけ離れている。
 振りほどこうにも、きっとびくともしないだろう。
 本来ならそれは脅威のはずなのに、腕の中にいると不思議と守られているようだった。
 クシェルの記憶を持っているにもかかわらず、身を委ねてしまいたくなるような。
「モ、モクレン……」
 シルフィアは、年頃の少女らしく高鳴りそうな胸をぎゅっと押さえ付けた。
「駄目だ、離せよ……」
 腕の中でモゾモゾと顔を動かし、上目遣いでモクレンを見る。なぜか彼の時間が止まった。
「おい、モクレン?」
 訝しげに問いかけると、彼はようやく正気に戻った。その際素早く距離をとられたのが、何だか無性に悲しい。
「……ボス。いきなり可愛いらしい顔をするのは、やめてもらえませんか?」
「か、可愛い!?」
 モクレンの苦情に驚いたのはシルフィアの方だ。思わず頬が熱くなる。
「それ、その反応ですよ!」
「し、仕方ねぇだろ! シルフィアはなぁ、ものすげぇ面食いなんだよ!」
 クシェルとしての前世を思い出した今だからこそ、恥ずかしげもなく言える。
 好奇心が強いシルフィアの趣味は、屋敷にやって来る美形を観賞することだったのだ。
「月に一度の定期報告でモクレンが屋敷に来た時なんて、ずっと遠目で観察してたんだぞ。いくら前世が男だったとしても、シルフィアとして歩んできた十六年がなくなっちまうわけじゃないんだ。俺にとってお前のその顔面は、もはや凶器に等しい!」 
「いや、俺としてはあなたの方が余程、凶器のように思うんですけど……」
「あぁん!? シルフィアが素朴可愛い系だからって馬鹿にしてるだろお前!」
「してませんよ」
 モクレンは詰めていた息を吐き出すと、ソファの背もたれに体重を預けた。気怠げに銀髪を掻き上げる姿が堪らないほど艶やかで、悔しいがつい釘付けになってしまう。
 銀縁眼鏡の向こうの冷悧な瞳が、チラリとシルフィアを流し見た。
「……あなたがボスだと、ようやく実感が湧いてきましたよ。無自覚で人をたらすところ、全然変わりませんね。今世でも俺を振り回すつもりですか?」
 すい、と彼の指先が頬を撫でる。
 戯れのように、はたまた仕返しとばかりに。
 人を癒やすための、繊細な指先。こんな密接な触れ合いは、父以外に初めてだった。
「や、やめろよ、そんな綺麗な顔近付けんなって。いくら俺でも、一応今は乙女なんだぞ。ドキドキするくらいの神経は持ってるからな……」
 文句さえ、弱々しく掠れていく。
 ずっと遠くから眺めるだけだった憧れの存在が、目の前にいるのだ。クシェル時代のような力業での抵抗なんて、思い浮かびもしなかった。
 先ほどよりずっと、頬が熱くなっている気がする。
 心臓がひっきりなしにシルフィアを追い立て、苦しさに目眩がしそうだ。
 せめてもと唇を噛み締めて睨み付けると、モクレンは再び機能を停止させてしまった。
 潤んだ琥珀の瞳と、瑞々しい果実のような唇。
 彼は敗北せざるを得なかった。両手でゆっくり顔を覆うと、苦悶の声を漏らしながら離れていく。
「……これは、エニシダとシオンには、当分会わない方がよさそうですね……」
「何でだよ?」
「あいつらが、一番ボスに執着していたからです。もしこの場にあの二人がいたら、一体どうなっていたか……。王都が遠くて本当によかった」
 遠い目でぼやく姿に、シルフィアは首を傾げた。
「シオンとエニシダは王都にいるのか?」
 ロントーレ子爵領は、王都から少し離れた場所にある牧草地だらけの小さな領地だ。
 王都の方が実入りのいい仕事は多いだろうが、昔から何でも器用にこなしていた彼らならば、わざわざ都会に出る必要はなかったように思う。
「シオンは騎士になったんですよ。それと、ツバキとユウガオも。エニシダは商人になって色んな地方を飛び回っているので、現在王都にいることくらいしか分かりません」
 肩をすくめながらモクレンに返され、シルフィアは目を丸くした。
 効力が自領のみに限定されるフィソーロと異なり、騎士団は王国の防衛の要だ。それゆえ生え抜きの実力者のみしか入団が許されない狭き門。
 自衛手段として養い子全員に剣術を叩き込んだりもしたが、まさかそこまで強くなっているとは。
「七人中三人も騎士になったのか、すごいな。エニシダが商人ってのも驚きだけど、まぁあいつは昔から世渡り上手だったもんなぁ」
 エニシダは、フィソーロの代表であるクシェルを訪ね、自分を養子にしてくれと売り込んできた強者だ。度胸も愛嬌もあったから、商売に向いているかもしれない。
「クチナシはどうしてる? ユキノシタも」
「二人とも元気ですよ。クチナシが開いた食事処はそこそこ繁盛してますし、ユキノシタはロントーレにある孤児院の院長になりました。会おうと思えばすぐに会えますよ」
「クチナシは昔から料理上手かったもんな。ユキノシタは孤児院長か。あいつ昔から面倒見よかったから、らしいっちゃらしいな」
 懐かしんで目を細めると、モクレンがぼそりと呟いた。
「どいつもこいつも、生前のあなたの助言に従ったようなものですけどね」
「俺? 何か言ったっけ?」
 血は繋がらなくとも、可愛がってきた子ども達だ。
 彼らの選択肢を狭めるような口出しをした覚えはない。
 ーーもしかして、記憶に曖昧な部分があるのか?
 しきりに首をひねるシルフィアに、モクレンは心底呆れたように嘆息した。
「……本当に、報われませんね。どうせ、俺に言ったことも忘れてるんでしょう」
 彼の端整な顔が、皮肉げに歪んだ。
 劣悪な環境の孤児院から引き取ったばかりの頃、よく見かけた表情だ。自分以外の全てを疑い、距離を置く瞳。
 モクレンには今、信用して何でも話せる、心を許せる相手がいるだろうか。
 親代わりだった頃の気がかりが、不意に込み上げる。
 けれど彼は、詮索を拒むように話を切り変えた。
「ちなみに、シルフィア様として剣を持ったことはあるんですか? 腕前は?」
 モクレンは、他人に弱みを見せたがらない。
 つまりクシェルだと打ち明けてはみたものの、まだ完全には信じてもらえていないということ。
 色々言いたかったものの、とりあえずシルフィアも気持ちを切り替えた。
「剣なんて扱うわけないだろ、今は貴族の令嬢だぞ? まぁ、護身用のナイフくらいなら触ったことあるけどよ」
 華奢な肩に小さな手足、腕の長さも体力も変わってしまった。戦闘経験皆無な少女の体は、クシェルの時と感覚が違いすぎる。
 シルフィアは確かめるように腕の曲げ伸ばしをしてから、一つ頷いた。
「ずいぶん鈍ってるだろうから、これから少しずつ鍛えていかなきゃな」
「あなたは貴族のご令嬢なんですよね?」
 舌の根も乾かぬ内にというモクレンからの嫌みに、シルフィアは優雅な笑みを返した。そして背筋を伸ばし、ほんの僅か首を傾ける。
 先ほどまでの粗野な振る舞いは幻だったのだと勘違いしてしまいそうな、高貴さが自然とにじみ出す所作。
「領内に危険人物がいるのだから、ある程度の自衛手段は必要でしょう?」
 頬に手を当て、弱々しい風情で微笑む。
 だがモクレンは騙されてくれなかった。
「あなた……事件に首を突っ込むつもりですね?」
 シルフィアは鼻を鳴らした。
 令嬢らしい気品溢れる表情から一転、刃のごとく鋭い笑みを浮かべる。
「当然だろ。街を荒らされて黙ってられるか」
 ロントーレで好き放題されて許せるはずがない。
 それはシルフィアにしろクシェルにしろ、どちらにも共通する怒りだった。
 爛々と光る琥珀の瞳に、モクレンは黙り込む。
 瞳の色も何もかも違うのに、肉食獣のような眼光の鋭さは少しも変わっていない。
「わざわざボスであったことを打ち明けてきた時から、嫌な予感はしてたんですよ……」
 ぐったりと頭を抱える元養い子に、シルフィアは気軽に笑い返した。
「安心しろって。俺がついてりゃ百人力だろ?」
「波乱の予感しかしない……」
「まずは被害状況を教えろよ。優秀なお前なら、当然被害者から聴取済みなんだろ?」
「あなたのやり方を見て育ちましたからね」
 打てば響くような答えに、シルフィアは満足げに頷く。
 モクレンは、眉間にシワを寄せて目を逸らした。一度疲れたように息を吐き出すと、言いづらそうに口を開く。
「実は……ユキノシタの孤児院で暮らす子どもも、今回の連続通り魔事件の被害者なんです」

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