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本編
さよなら
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この世界に転移した時も、体が光ることはなかったけれど、星の綺麗な夜だった。
胃のひっくり返るような浮遊感を思い出し、ナナセの全身が本能的に強ばる。
スカートから伸びた足も淡く光っている。
もしかしたら、どこもかしこも同じような状態なのだろうか。
頬を押さえながらリオルディスに視線を向けると、彼は真剣な顔で月を見上げていた。
「レムンド様は、異世界に帰る方法について何か言っていた?」
「何も……何の手がかりもないと……」
問われた意図が分からず、ナナセは機械のようにありのままを答えた。
彼は何を聞きたいのだろう。
いいや。本当はどこかで分かっている。
分かっているのに、知るのが怖い――。
「……君をこの世界に運んだのは、もしかすると女神の力なのかもしれない。月は女神の象徴でもある。二重の月が離れる今夜が、何か特別な力の高まる日だとすれば――」
彼の声音はやけに静かだった。
異世界転移してから四年以上。
レムンドほどの人物にも掴めなかった手がかりを、こんなかたちで得るなんて。
緊張に冷たくなったナナセの指先を、リオルディスがしっかりと握った。
「祭壇の近くに行ってみよう。敷地に入っただけでこれなんだ、何かあるかもしれない」
教会には詳しいのか、彼は迷いのない足取りで誘導をはじめる。
黙って従いながらも、リオルディスの手も冷たくなっていることに気付いた。
――私、私は……。
あの時、何を口走ろうとしていた?
優しさに甘え、流されようとした。
どうせ帰れないのだし、このまま彼の側で生きればいい。きっと互いを尊重し合って幸せになれる。
けれど、もし帰る手段が見つかったなら。
……帰りたい。帰らなくては。
ナナセは繋いだ手を、強く握り返した。
リオルディスの体温を、剣だこの固い感触を、一生忘れないように。
一歩進むごとに、体を包む光が目映くなっていた。ひと気のない教会は真っ暗なのに、灯りが必要ないほどだ。
やがて前方に石段が現れ、それを踏みしめながら上っていく。
正面扉は閂で施錠されており、外側からでも簡単に開けることができた。
鼓動がどんどん早くなっていく。
それは帰還の可能性があるからか、夜中の教会に侵入するという罰当たりな行動のためか。そんなことを考えていられる冷静さは残っていなかった。
カツン。
綺麗に磨かれた石の床に、靴のかかとが高く鳴る。ナナセは、正面の祭壇から目が離せなかった。
黄金でできた荘厳な祭壇。その奥のステンドグラスには、慈愛に満ちた笑みを浮かべる女神がいた。
天に向かって差し伸べる手の平には月が乗っている。祭壇も、いたるところに月が彫り込まれていた。
その光景にひどく惹き付けられる。
予感は確信に変わった。
帰れる。
月が完全に離れたその時に、帰れる。
日本育ちのナナセであるのに、確かに女神の存在を信じられた。
リオルディスを振り返りかけ、躊躇う。
彼の顔を見れば、迷いが生じてしまうかもしれない。好きという気持ちを、隠せなくなるかもしれない。
――今さら、伝えるなんて……。
帰る。帰らねばならないのだから。
「リオルディス様。私は、行きますね」
迷いを振り切るために、俯かない。
「今までたいへんお世話になりました。本当に急なことで、他の方々にきちんとご挨拶できないことが、心残りですが……」
一歩踏み出そうとした、その時。
「――君は、どこまでも頑固だな。こんな時にまで本音を押し殺して」
ナナセの手をリオルディスが掴んだ。
「リオルディス様……」
「俺に気なんか遣わなくていい。俺も、もう遠慮なんてしないから」
もどかしげな声と共に、そのまま後ろに引かれる。バランスを崩したナナセが飛び込んだのは、リオルディスの腕の中だった。
「――好きだ。レムンド様に頼まれなくても、俺はきっと君の側にいた」
抱き締める力が一層強くなる。まるで、どこにも行かせまいとするかのように。
けれど彼は、繋ぎ止める言葉だけは口にしなかった。
ナナセはその強さと優しさに感謝する。
「私……私も、あなたのことが、好きでした。ずっと」
堪えきれず白状すると、彼は小さく笑った。吐息が耳をくすぐる。
「実をいうと、俺もずいぶん前から好きだった。甘えを封じ込めて頑張る君を、心から尊敬している。この先も、ずっと」
「私も、ずっと好きでいます。リオルディス様の格好いいところや、笑顔も」
「見た目のことばかりだと多少不満だな」
拗ねたように呟く声に、ナナセもようやく笑うことができた。
本当は、彼の好きなところならばいくらでも出てくる。
誰にでも優しくできるところ。上品な仕草。それに反して意外と豪快に笑うところ。ナナセにはない朗らかさ。
仕事中の厳しい表情。寂しい気分の時、図ったようなタイミングで食事に誘ってくれるところ。
多くを語らなくても、心に寄り添ってくれる人。誰より頼り、支えにしていた人。
けれど、全てを口にすればきっと未練になってしまう。互いに。
だから残りは全て抱えていく。
「……さようなら、リオルディス様」
残る大切な人達へのさようならは、心の中で呟くことにする。
レムンドには、やはりきちんと感謝を告げたかった。エレミアは、突然いなくなればきっと怒るだろう。後輩侍女達のことを任せきりにしてしまうのは申し訳なかった。
エクトーレとの約束をまだ果たしていない。ソーリスディアや料理長と、もっと話がしたかった。一応ゼファルも。
リリスターシェは寂しがるだろうか。侍女長がついているからあまり心配はしていないけれど、彼女は笑っていた方が可愛いから。
ヴァンルートスやベルトラート、国王夫妻にも、暇の挨拶くらいはしておきたかった。
涙がこぼれそうになり、慌てて笑顔を作る。ナナセはリオルディスの腕を叩いた。
このままでは、どんどん離れがたくなってしまう。
腕と言わず、彼の全身が強ばった。葛藤しているのが手に取るように分かる。
いつもの大人の余裕なんて微塵もなくて、そんなところもまた好きだと思った。ずっとこうして募っていくのだ、きっと。
「さようなら」
「……………………さよなら」
もう一度別れの言葉を繰り返すと、ものすごく間を置いて応えがあった。不本意なのに必死で絞り出した声。
リオルディスの体温が離れていく。
ナナセを尊重しているから、彼は全てを呑み込んでくれる。
温もりの最後の一欠片まで、記憶に焼き付けるように瞑目した、その時。
「――そりゃあ困るな」
突如割って入った声に、ナナセは震えた。
忘れたくても忘れることのできない、ねっとりと全身に絡み付く声。
ナナセの全身から発せられる光の及ばない、聖堂の隅。
その闇を切り取り現れたのは、唯一逃げ延びていたあの蛇の目の男だった。
「よく分かんねぇが、面白いことになってるじゃねぇか。お前、何でそんな光ってるんだ? 人間じゃなかったのかよ?」
男はせせら笑いを浮かべながら近付いてくる。リオルディスが、すぐさまナナセを背中で庇った。
「まぁ、どうでもいいさ」
そう言った男が鞘から抜き放ったのは、長剣だった。さらわれた時はナイフを持っていたが、こちらも扱い慣れているようだ。
リオルディスが背中越しに、素早く囁く。
「行って」
「……え?」
「俺が食い止めている内に、君の世界に帰るんだ。もう、行けるんだろう?」
彼の言う通りだった。
月は今、完全に離れているだろう。おそらく再び重なり合うまでがタイムリミット。
そして――それは思いの外、近い。
けれど、このような状況にリオルディスを置いていけるだろうか?
男はナナセだけを見据えているのに。
「お前が人かどうかなんてどうでもいい。だが、手の届かないところに行かれちゃあ困る。――お前だけは俺が殺してやろうと、はじめから目を付けてたってのによぉ!」
瞳をギラリと光らせ、いきなり男が斬りかかってくる。迫る刃をリオルディスが防ぎ、聖堂に激しい金属音が響く。
力は拮抗していた。どちらの刀身も譲るまいとしており、不用意に息もできない。
もし、僅かでも押し負けたら。
嫌な予感が急速に膨れ上がっていく。
リオルディスは男を睨みながら、吠えるように叫んだ。
「ナナセ! ここはいいから早く!」
「ですが……!」
「今夜限りかもしれないだろう!? 次に月が離れるのは、また何十年も先になる! 帰るなら今しかない!」
ナナセは目を見開いたまま、よろめきながら後ずさる。背中が何かにぶつかった。
説教をするための講壇だろう。机上には聖典のようなものが置かれている。
……女神は、選択を迫っているのかもしれない。
胃のひっくり返るような浮遊感を思い出し、ナナセの全身が本能的に強ばる。
スカートから伸びた足も淡く光っている。
もしかしたら、どこもかしこも同じような状態なのだろうか。
頬を押さえながらリオルディスに視線を向けると、彼は真剣な顔で月を見上げていた。
「レムンド様は、異世界に帰る方法について何か言っていた?」
「何も……何の手がかりもないと……」
問われた意図が分からず、ナナセは機械のようにありのままを答えた。
彼は何を聞きたいのだろう。
いいや。本当はどこかで分かっている。
分かっているのに、知るのが怖い――。
「……君をこの世界に運んだのは、もしかすると女神の力なのかもしれない。月は女神の象徴でもある。二重の月が離れる今夜が、何か特別な力の高まる日だとすれば――」
彼の声音はやけに静かだった。
異世界転移してから四年以上。
レムンドほどの人物にも掴めなかった手がかりを、こんなかたちで得るなんて。
緊張に冷たくなったナナセの指先を、リオルディスがしっかりと握った。
「祭壇の近くに行ってみよう。敷地に入っただけでこれなんだ、何かあるかもしれない」
教会には詳しいのか、彼は迷いのない足取りで誘導をはじめる。
黙って従いながらも、リオルディスの手も冷たくなっていることに気付いた。
――私、私は……。
あの時、何を口走ろうとしていた?
優しさに甘え、流されようとした。
どうせ帰れないのだし、このまま彼の側で生きればいい。きっと互いを尊重し合って幸せになれる。
けれど、もし帰る手段が見つかったなら。
……帰りたい。帰らなくては。
ナナセは繋いだ手を、強く握り返した。
リオルディスの体温を、剣だこの固い感触を、一生忘れないように。
一歩進むごとに、体を包む光が目映くなっていた。ひと気のない教会は真っ暗なのに、灯りが必要ないほどだ。
やがて前方に石段が現れ、それを踏みしめながら上っていく。
正面扉は閂で施錠されており、外側からでも簡単に開けることができた。
鼓動がどんどん早くなっていく。
それは帰還の可能性があるからか、夜中の教会に侵入するという罰当たりな行動のためか。そんなことを考えていられる冷静さは残っていなかった。
カツン。
綺麗に磨かれた石の床に、靴のかかとが高く鳴る。ナナセは、正面の祭壇から目が離せなかった。
黄金でできた荘厳な祭壇。その奥のステンドグラスには、慈愛に満ちた笑みを浮かべる女神がいた。
天に向かって差し伸べる手の平には月が乗っている。祭壇も、いたるところに月が彫り込まれていた。
その光景にひどく惹き付けられる。
予感は確信に変わった。
帰れる。
月が完全に離れたその時に、帰れる。
日本育ちのナナセであるのに、確かに女神の存在を信じられた。
リオルディスを振り返りかけ、躊躇う。
彼の顔を見れば、迷いが生じてしまうかもしれない。好きという気持ちを、隠せなくなるかもしれない。
――今さら、伝えるなんて……。
帰る。帰らねばならないのだから。
「リオルディス様。私は、行きますね」
迷いを振り切るために、俯かない。
「今までたいへんお世話になりました。本当に急なことで、他の方々にきちんとご挨拶できないことが、心残りですが……」
一歩踏み出そうとした、その時。
「――君は、どこまでも頑固だな。こんな時にまで本音を押し殺して」
ナナセの手をリオルディスが掴んだ。
「リオルディス様……」
「俺に気なんか遣わなくていい。俺も、もう遠慮なんてしないから」
もどかしげな声と共に、そのまま後ろに引かれる。バランスを崩したナナセが飛び込んだのは、リオルディスの腕の中だった。
「――好きだ。レムンド様に頼まれなくても、俺はきっと君の側にいた」
抱き締める力が一層強くなる。まるで、どこにも行かせまいとするかのように。
けれど彼は、繋ぎ止める言葉だけは口にしなかった。
ナナセはその強さと優しさに感謝する。
「私……私も、あなたのことが、好きでした。ずっと」
堪えきれず白状すると、彼は小さく笑った。吐息が耳をくすぐる。
「実をいうと、俺もずいぶん前から好きだった。甘えを封じ込めて頑張る君を、心から尊敬している。この先も、ずっと」
「私も、ずっと好きでいます。リオルディス様の格好いいところや、笑顔も」
「見た目のことばかりだと多少不満だな」
拗ねたように呟く声に、ナナセもようやく笑うことができた。
本当は、彼の好きなところならばいくらでも出てくる。
誰にでも優しくできるところ。上品な仕草。それに反して意外と豪快に笑うところ。ナナセにはない朗らかさ。
仕事中の厳しい表情。寂しい気分の時、図ったようなタイミングで食事に誘ってくれるところ。
多くを語らなくても、心に寄り添ってくれる人。誰より頼り、支えにしていた人。
けれど、全てを口にすればきっと未練になってしまう。互いに。
だから残りは全て抱えていく。
「……さようなら、リオルディス様」
残る大切な人達へのさようならは、心の中で呟くことにする。
レムンドには、やはりきちんと感謝を告げたかった。エレミアは、突然いなくなればきっと怒るだろう。後輩侍女達のことを任せきりにしてしまうのは申し訳なかった。
エクトーレとの約束をまだ果たしていない。ソーリスディアや料理長と、もっと話がしたかった。一応ゼファルも。
リリスターシェは寂しがるだろうか。侍女長がついているからあまり心配はしていないけれど、彼女は笑っていた方が可愛いから。
ヴァンルートスやベルトラート、国王夫妻にも、暇の挨拶くらいはしておきたかった。
涙がこぼれそうになり、慌てて笑顔を作る。ナナセはリオルディスの腕を叩いた。
このままでは、どんどん離れがたくなってしまう。
腕と言わず、彼の全身が強ばった。葛藤しているのが手に取るように分かる。
いつもの大人の余裕なんて微塵もなくて、そんなところもまた好きだと思った。ずっとこうして募っていくのだ、きっと。
「さようなら」
「……………………さよなら」
もう一度別れの言葉を繰り返すと、ものすごく間を置いて応えがあった。不本意なのに必死で絞り出した声。
リオルディスの体温が離れていく。
ナナセを尊重しているから、彼は全てを呑み込んでくれる。
温もりの最後の一欠片まで、記憶に焼き付けるように瞑目した、その時。
「――そりゃあ困るな」
突如割って入った声に、ナナセは震えた。
忘れたくても忘れることのできない、ねっとりと全身に絡み付く声。
ナナセの全身から発せられる光の及ばない、聖堂の隅。
その闇を切り取り現れたのは、唯一逃げ延びていたあの蛇の目の男だった。
「よく分かんねぇが、面白いことになってるじゃねぇか。お前、何でそんな光ってるんだ? 人間じゃなかったのかよ?」
男はせせら笑いを浮かべながら近付いてくる。リオルディスが、すぐさまナナセを背中で庇った。
「まぁ、どうでもいいさ」
そう言った男が鞘から抜き放ったのは、長剣だった。さらわれた時はナイフを持っていたが、こちらも扱い慣れているようだ。
リオルディスが背中越しに、素早く囁く。
「行って」
「……え?」
「俺が食い止めている内に、君の世界に帰るんだ。もう、行けるんだろう?」
彼の言う通りだった。
月は今、完全に離れているだろう。おそらく再び重なり合うまでがタイムリミット。
そして――それは思いの外、近い。
けれど、このような状況にリオルディスを置いていけるだろうか?
男はナナセだけを見据えているのに。
「お前が人かどうかなんてどうでもいい。だが、手の届かないところに行かれちゃあ困る。――お前だけは俺が殺してやろうと、はじめから目を付けてたってのによぉ!」
瞳をギラリと光らせ、いきなり男が斬りかかってくる。迫る刃をリオルディスが防ぎ、聖堂に激しい金属音が響く。
力は拮抗していた。どちらの刀身も譲るまいとしており、不用意に息もできない。
もし、僅かでも押し負けたら。
嫌な予感が急速に膨れ上がっていく。
リオルディスは男を睨みながら、吠えるように叫んだ。
「ナナセ! ここはいいから早く!」
「ですが……!」
「今夜限りかもしれないだろう!? 次に月が離れるのは、また何十年も先になる! 帰るなら今しかない!」
ナナセは目を見開いたまま、よろめきながら後ずさる。背中が何かにぶつかった。
説教をするための講壇だろう。机上には聖典のようなものが置かれている。
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