小さな朝の幸せを

koma

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息を切らしつつ、朝焼けの街を駆け抜ける。

「……っおはようございます」
パン屋を後にしたニアがたどり着いたのは、富裕層の住まう区画でも一際立派なお屋敷──名門カータレット家の裏門だった。そこで下働きとして、ニアは半年ほど前から雇ってもらっていた。
主な仕事は料理と清掃で、忙しい日は洗濯場にも回される。正規ではなく臨時雇用のため、正式な持ち場はないのだった。
「……早くしろ」
裏門から入ったニアを一瞥して、年若い執事──アルミロはさっさと踵を返してしまう。今日も綺麗に撫でつけられた赤髪が、早足で遠ざかっていく。
(……明日は、もう少し早起きをしよう)
遅刻はしていないはずだけれど、彼はいつも【そう】だった。雇い入れてもらったばかりの頃、ニアが床掃除のバケツをひっくり返してしまってから、ずっと嫌われていた。
以来ニアは、極力ミスを犯さないよう気を張っている。特にアルミロの前では──。
アルミロの言葉に急かされるように、キッチンへ足を進めつつ、ニアは今朝のメニューを頭の中で組み立てた。鶏肉と豆のスープは昨晩仕込んでおいたし、付け合わせのパンは住み込みのコックが焼き上げている頃あいだ。
(うん、大丈夫……)
カータレット家は名門とあるだけあって規律に厳しく、指示も細やかで、決して働きやすい職場とは言えなかった。けれど給金はよく、不衛生というわけでもない。それだけでも、ありがたいことだった。特に、学もなく文字すら満足に読めないニアにとっては。
「おはようございます」
エプロンを身につけ、キッチンへと滑り込む。
「それ、飾り付け任せるよ」
「はい」
気難しい年配のコックに出された指示に従い、戸棚から皿を取り出した。
ニアは、あくまで人手が足りない今だけの臨時雇用に過ぎず、いつ解雇を言い渡されてもおかしくはない。だから稼げるうちに稼いでおかねばならなかった。家のためにも。自分自身のためにも。



ニアこと、【ニアリアータ・チェザーリ】には、凡その人が持っているだろう幸せな記憶というものがなかった。
幼い頃に父母を亡くし、叔父夫婦の養子になってからずっと、召使も同然の扱いを受けてきたからだ。
学校にも碌に通わせてもらえず、朝から晩まで家事をするように言われ、首を横に振れば手酷い仕置きをされた。おかげでニアは、十六になった今でも、外に友人のひとりもいない。
叔父たちの愛情や関心は全て、彼らの実の娘──ニアの戸籍上の姉にあたるロマーナ・チェザーリ嬢に向けられていた。

二つ年上のロマーナは、美しく賢い娘だった。子供の頃、学校で一番の成績を取ったときなど叔母のシビッラは両手を上げて悦び、ロマーナの頬に額に口付けの雨を降らせ褒めそやした。
【ロマーナはいい娘! ロマーナは国一番の子! 私のロマーナは絶対に幸せになるわ!】
シビッラはロマーナの教育に熱を上げ、ピアノにダンス、歌まで一流の教師を探し習わせた。服も流行のデザイナーの作品しか袖を通させず、上流階級の人々との繋がりを得ようと、叔母は夜会にも毎夜のよう通い続けた。それも全て、チェザーリ家が崩壊するまでの話だったけれど。

「……お金がない? お金がないってどういうこと、あなた!」
「煩い! お前たちが湯水のように使ったからだろう! なんだこの請求書の山は!!」
それは、ニアが七つの時だった。
夜、階下から聞こえた大声に目を覚ましたニアは、恐る恐るベッドを抜け出し、声のするサロンへ向かった。わずかに開いた扉からは蝋燭の灯りが漏れ、叔父夫婦の怒鳴り合う声が響いていた。
「これは必要なお金よ! ロマーナにおかしな服を着せるわけにはいかないでしょう! ……っあなたこそきちんと管理できていなかったんでしょう……! だからこんな」
「黙れ! これは全て俺の金だ、どこに投資しようと俺の勝手だ!」
──チェザーリ家といえば、昔はそれなりの家だったそうなのだが。ニアの実父が他界後、叔父がその後を継いでからは、転落の一途を辿るばかりだった。
無謀な投資に叔母の豪遊。
冷静に考えれば、当たり前の話だった。子供だってわかる、簡単な計算。
けれど昔を──【真実裕福だった頃】を忘れられない叔父夫婦には、そんな簡単なことも理解することができないのだった。




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