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雪の降る前に
5 あかりの灯る家
しおりを挟む戻った部屋に誰もいないのを見て、セディオスは固まった。
「……先生?」
呼びかけは、無駄に終わった。
セディオスは家中を見て周り、テーブルの上にあったメモを見つけて、深いため息を吐く。
(あのひとは……ほんっとに)
家に入る前、灯りがついていない時点で、嫌な予感はしていたのだ。こんな時間に彼女が眠るなんて、あまりにも不自然だったから。
(こんな時間に、いったい何処へ)
セディオスはメモを握りつぶすと、再び外へ飛び出した。
◇ ◇ ◇
シェリーは、荒い息を繰り返した。
街道脇の薄暗い森の中から、数十の瞳がこちらを覗いていた。低い唸り声がしていた。魔狼が、シェリー達に襲いかかる隙を狙っているのだ。
「だい、じょうぶ……ですか……」
シェリーは息も絶え絶えに、背後の人々に声をかける。
返事はない。けれど、生きてはいる。恐怖と疲弊で、彼らはもう、声を出すことすら出来ないのだ。五人いた討伐者の中で立ち上がっているのは、今やシェリーただひとりになっていた。だから。
(私が守らないと)
思って、シェリーはぐっと地面を踏みしめる。
甘く見ていた訳ではない。けれど実際に現れた魔狼の数は、教会の予測頭数をはるかに上回っていた。
その夜、魔狼討伐に繰り出していたのは、シェリーだけではなかった。
辿り着いた街道には、他にも数名の剣士や騎士、魔術師もいて、どうせなら一緒に倒しましょうという話になったのだった。そしてシェリーはこれ幸いとその誘いに乗ったのだが。
「き……っ聞いてないぞ、俺は!! こんなに数が多いだなんて!!」
腕を食いちぎられそうになった旅の剣士が、腰を抜かしたまま震える声を上げた。そんな風になる前は、意気揚々と故郷の話をしていたのだが。
「私だって」とシェリーよりいくらか年上の女性魔術師が、木の影に隠れたまま叫ぶ。彼女も随分と自信満々だったのに、いざ戦いが始まるとこの有様だった。半分泣いたように悲鳴をあげる。
「こんなの殺戮じゃない!! 最低……っ!!」
シェリーは今にも逃げ出しそうになる足を抑えて、彼女たちに声をかけ続けた。
「落ち着いてください。お願い、大きな声をあげないで」
防御魔法はいとも簡単に突破されていた。攻撃魔法はスピードが追いつかなくて役に立たない。討伐は、もはや不可能だった。あとはなんとか逃げるしかない。でもどうやって──。
と、思った瞬間だった。
茂みの奥で、魔狼が動く気配がした。シェリーたちを取り囲もうとしているのだ。
魔狼は個々の能力は低い。けれど群れになった時の力は、数十倍にも膨れ上がる。だから群れになる前にと、教会は急ぎ討伐の募集をかけていたわけだが──遅かったようだ。
シェリーは胸に抱いた魔術書をぎゅっと握りしめる。
「……と、とにかく、落ち着いて行動しましょう」
しかし激昂した剣士が、反乱狂で剣を振り回す。
「落ち着くって、こんな状況でどうするんだよ!!」
多分、それがきっかけになってしまった。剣士の剣に反射した光で、数十匹の魔狼が示し合わせたみたいに跳躍した。騎士と剣士、それから魔術師も絶句する。暗闇から躍り出る無数の魔物。それはあまりにも絶望的な光景だった。
ああ。
シェリーも呆然と、その影を見上げる。
食べられる……悲鳴をあげる暇もなかった。
ただ、あの牙は痛いだろうな、とか。やっぱり無謀だったのかしらとか。それから、自分がいなくなったらあの可愛い弟子はどうなるのだろう、とか。そんなことを思った。お願いだから泣かないでくれるといい、とも。
だって、彼は、意外ととても泣き虫だから。
「──先生!!」
その時。力強い声と共に、氷の刃が魔狼たちを串刺しにした。背後から巨大な氷柱がいくつも飛んできて、あんなにもたくさんいた魔狼をいっせいに片付けてしまう。
そしてシェリーは気付けば、温かい腕の中にいた。よく知っている匂いがした。
「……セディオス、くん?」
「先生、先生……っ!! 怪我は? 無事でしたか……!?」
後ろから強く抱きしめられていたシェリーは、くるりと向きを変えられて、顔と体をよくよく見られた。そうして、無事を確認した今にも泣き出しそうな顔をした愛弟子に、また再び強く抱きしめられる。なんて広い胸だろうと呆然と思った。
「よかった、怪我、してないんですよね」
「うん……かすり傷くらい、だけど」
シェリーは未だ身体が動かず、これが現実のことなのかも判別できず、ゆっくりと言った。
「セディオスくん、どうして、ここに」
「それは俺のセリフです……! どうしてこんな無茶を」
セディオスが怒鳴ってシェリーの顔を覗き込む。
「死ぬところだったんですよ」
そう睨んだセディオスの両目からは、涙が溢れ出していた。
「セディオスくん……」
掴まれた左右の二の腕がひどく痛くて、けれどそれ以上に心臓が──胸が痛くて。ああ、私はとても悪いことをしたのだという気分になって、気づけば、シェリーも泣いていた。
「……ごめんなさい」
もっと。もっと自分が強ければ、立派な魔術師だったら、彼にこんな心配をかけることも、こんな顔をさせることもなかったのに。私はどうしてこんなに落ちこぼれなのだろう。ごめんね、とシェリーは謝り続ける。
「私ね、どうしてもセディオスくんにお腹いっぱいご飯、食べて欲しかったの……だから……お金が欲しかったの。できると思ったのよ……」
セディオスが鼻を啜りながら、シェリーを再び胸に抱きしめる。
「そんなの、頼んでねえよ」
ぎゅうっと抱きしめられながら、シェリーはセディオスの泣き声を聞いた。
「二度とこんなことするなよ、したら、本当に怒るからな」
もうすでに怒っているのに。
シェリーはセディオスの背に両腕を回して、縋りついた。
「……ごめんなさい」
「約束は? 約束するまで、離さない」
きつくきつく回された腕が、さらにきつく締まる。しっかりとした心強い腕に、魔法だけじゃない、腕力だってもう敵わないのだと思い知った。けれど、それでも彼と離れたくないと思う、どうしても。この気持ちは──。
「するわ。もう二度と、セディオスくんに黙って危ないことはしない」
「……ほんとに?」
「ほんとうに」
セディオスがやっと、少しだけ腕の力を緩める。
周囲では、腰を抜かしたままの剣士たちがまだ言葉を失ったままだった。構わず、セディオスはシェリーの頬を撫でる。鼻先がくっついてしまいそうなほどの距離で。シェリーはセディオスの水面のように揺らめく瞳を見つめていた。セディオスの唇が近づいた。
「先生に、魔法をかけたい」
「……どんな?」
「二度と俺から離れない魔法」
そんな魔法、聞いたことも見たこともない。けれどあったら良いのにと思った。そうしたら彼とずっと一緒にいられるのに。
「先生」
祈るように重ねられた唇が温かくて柔らかくてシェリーはただ、受け入れる。好きです、大好きです、愛してます、と繰り返され、シェリーは懸命に、私も、と口付けに応えた。
少ししてそっと顔を離したセディオスは、今度はやさしい手つきでシェリーを抱きしめた。彼の胸に片耳を預けるようにしながら、シェリーはその鼓動を聴いた。
「……先生。先生がいたから、俺は生きてこられたんだ。だから、お願いですから、危ないことはしないでください。これからは俺を頼って」
「……でも」
「魔物討伐だって、俺の方が得意でしょう」
言い聞かすように髪を撫でられながら、シェリーは暗闇のそこかしこに倒れているはずの魔狼を思い出した。ぎゅっと彼の服を掴む。
「……私、あなたの師匠なのに。こんなに弱くて恥ずかしい、悔しいわ」
「師を守るのも弟子の務めですよ」
「そんなわけないでしょう……」
普通は反対だ。師匠が弟子を守り導くべきなのに。
「先生はちゃんと俺に魔法を教えてくれたじゃないですか。それで、十分です」
セディオスは言って、少し待っててください、と言うと魔狼から牙を拾い集めた。そうして戻ってくるなりシェリーの膝裏と肩に手を回すとなんてことないように抱き上げる。突然高くなった視界と浮遊感に、シェリーは思わず彼の肩に抱きついた。
「! ……セディオスくん」
「帰りましょうか。魔狼の牙がこれだけあれば、売り払った魔術書も取り返せますよ」
「知ってたの……?」
「先生、そわそわし過ぎでしたから」
至近距離で微笑まれて、シェリーは顔を真っ赤にした。
「そうだ。これからは俺も魔物討伐を引き受けます。良いですよね?」
「……あ、あんまり危ないことは」
「俺の実力見てくれたでしょう? それに、俺が頑張れば、お腹いっぱい食べられますよ」
シェリーはぐっと眉を寄せた。
「……考えさせて」
「良いですよ」
でも、今夜はとりあえず帰りましょうと、セディオスが歩き出した。自分で歩けるといくら言っても聞き入れてはもらえなかった。心配をかけた罰です、とセディオスは少し意地悪に言った。
仕方なく心地良い揺れに身をまかせながら、シェリーは私たちはこれからどうなるのだろうと考えた。セディオスは愛していると言ってくれて、自分も愛していると応えてしまった。それがどんな意味を持つのか、十分に理解した上で。
夜空には満月が輝いている。
翌年の冬──シェリーはこの夜を後悔し、セディオスを傷つけてしまうのだけれど。
その時はただ、セディオスのぬくもりに身を寄せていた。
◇ ◇ ◇
あの魔術師、やっぱり大したことはなかったな。
帰宅したセディオスは灯した暖炉の炎を見つめながら、街の魔術師のことを思い出していた。
最近街に出来たという、噂の魔術師の店。
あまりに評判が良かったため、セディオスは偵察のつもりで一度だけその店に足を運んでいた。
そこで、よく当たると言われている占いを受けてみたわけだが──これがさっぱり当たらなかった。当たるわけがなかった。
──俺と先生が上手くいかないなんて、そんなことあるもんか。
セディオスは自分とシェリーの相性が最悪だと言いだした魔術師を鼻で笑い、店を後にした。
対面してわかった。魔術師は顔が整っていたから、あんなにも女の子たちに人気だったのだろう。適当なことを言って女の子たちを喜ばせたり不安がらせたりして、呪具を売りつける商法だ。たちが悪いのは、魔術師がほどほどに魔力を有しているから、全くの嘘というわけでもないことだった。まあ、あの分では勝手に自滅していくだろうけれど。
「先生、こんなところで寝たら風邪ひきますよ」
セディオスはソファに座ったまま寝息を立て始めていたシェリーにささやく。
魔狼討伐で傷ついていた足や頬を消毒し終わり、ふたりで暖をとっている最中だった。
「……全く」
守りがいのある人だな、と笑ってセディオスは師の身体を抱きあげる。無茶ばかりするこの人を、これからは自分がそばで支え守るのだと思うと、誇らしさが胸中に広がった。
魔法で暖炉の火を消して、寝室に向かう。
窓の外では、今年初めての雪が降り始めようとしていた。
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