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虹乃ノラン

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第一章

サトザクラ(川瀬昇流)

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「あ、川瀬さん、ちょっとちょっと。ちょうどいいときに見つけた」
 俺を呼び止めたのは、文京区役所の産業振興課の職員である釜田だった。
「振り込み申請書のフォーマットが変わりましてね、役所仕事で申し訳ないけど、もっかい事業者登録証書き直してほしいんですわ。いやこれからセミナーですよね、開始前で慌ただしいときに申し訳ない」
「いいですよ、今日銀行印もってないけど大丈夫ですか」
「印鑑? あー、いいんじゃないかな。ただの更新なんで」
 釜田は机の上にある紙の資料を入れた太いバインダーを開くと、ガチャリと一枚取り外しこちらに渡した。
「えっと、ここにフリガナもお願いします、そう。カワセノボル――、はい、ありがとうございます。それでは振り込みは今月分は二か月後になりますので。それじゃ、よろしくお願いします。ご苦労様ですー」
 ここでの肩書は経営コンサルタントだった。今日は起業家のための簡単な経営セミナーで、起業や店舗運営に必要な資格、アイデア構築、ECサイトの事例紹介などのカリキュラムで時間は九〇分。十分すぎるほど長い。それでも報酬は片手ほどはあるから、日雇いのバイトに汗を流すよりはずっと効率が良かった。
 エレべーターに乗り、五階の区民会議室を目指す。今日は友人の伝手で得た数少ない割の良い仕事のひとつだった。

 元々は山梨県北杜市武川町で暮らしていたが、幼い頃に両親は離婚した。父親に引き取られたがすぐに父は再婚。すると邪魔になったのだろう、俺はあっさり母の元へと送り返された。しかし母親もすぐに病にかかり死し、母方の祖父に育てられるようになった。現在名乗っている川瀬はそちらの姓だ。
 飯田橋にほど近い雑居ビルの中に事務所を構え、友人にはそれなりに忙しく見せてはいたが、現実は荒んだものだ。若かったころは芸術分野が好きで、シルバーアクセサリーのデザインや彫金をやっていた。その頃知り合った友人の誘いで、当時流行っていたマルチ商法に乗っかると、最初の頃は面白いほど金が転がり込んで見事にハマッた。しかし数年も過ぎるとブームは去り収入は激減する。
 労せず大金を得た罰なのか、再びまともな職に就いて働くこともできずに、こうして実績もないのにアドバイザー的な詐欺まがいの仕事で食いつないでいる。もはや舞い込んでくる仕事など殆どない。たまに市や町から依頼されるお遊戯教室的な無料セミナーの講師の類が関の山だった。
 今日もある公共施設の会議室で、脱サラを目指すおよそ起業家には不向きだと思える連中の前に立っていた。小遣い稼ぎにしかならない。
 連中は一言も聞き漏らさぬように、食い入る目でこちらを見ている。必死にノートを取る者や、ボイスレコーダーなどを持ち込む者もいる。憐れなほどの必死さだ。
 休憩時間を取るたびに、やたらメモしたノートを大切そうに抱えて質問にくる暇な輩は多い。こっちはいちいち相手の顔や名前など覚えたりしない。ただ淡々と時間を消費していくだけ。
 こんなセミナーをやったところで顧客に結びつくことなどまずない。しかし若い女性は別だ。仕事を抜きにして彼女たちの話を聞き、悩みを引き出しアドバイスするのは自分にとって価値があった。
 コンサルタントなんて仕事をしている男に女は弱い。しかも起業を目指している身ならなおさらだ。まあ、実際に上手くいくのは初めだけで、ちょっとばかり高級なランチに飽きた子育ての終わった主婦や、自分磨きに見切りをつけて新しい羽ばたきをまだ見ぬ希望と縋るスーツ姿の女性たちは、こちらに実力も中身もないことを悟ると、そそくさと俺から離れていった。
 そうして俺は闇雲に残りの人生の莫大な時間をやり過ごす。人生が変わるためのきっかけを探しながら。

 余った資料を仕事帰りに立ち寄った居酒屋のごみ箱に押し込んで店を出ると、路地裏から男の罵り叫ぶ声が聞こえてきた。ビルとビルの間にある路地をさらに曲がった先、この辺りは数軒の隠れ家的な居酒屋が並ぶ。
 どうせ酔っ払い同士の喧嘩だろうと、野次馬根性から奥へと入っていくと、一人の男が血だらけになって倒れていた。騒ぎを聞きつけたのか、居酒屋からも客やら店員やらが出てきて様子を伺っている。俺は駆け寄ると、男の意識を確認した。
「大丈夫ですか!?」
 視線は定まらないものの、男の意識はあるように見えた。弱々しく呻き声をあげている。顔面だけを執拗に殴られたのか、切れた瞼や口元から流れる血が生々しい。男は時折ごぼっと喉から血を吐いていた。
 鼻からは、陥没しているのかどうかさえ判断しかねるほど、大量の血液が溢れ出している。俺は窒息しないよう男の顔を横に向けた。頭を支えると、白いワイシャツの袖口が赤く汚れる。居酒屋の店員が駆け寄ってきて救急を呼んだからじきに来るだろうと知らせてくれた。
 騒然とする現場に救急車が到着したのは十分ほど経ってからだった。待っている間はやけに長く感じたが、着くとすぐにキャスター付きの担架が手早く降ろされて、救急隊員が男の意識レベルを確認し始めた。
「大丈夫ですか? 名前は言えますか? ここがどこかわかりますか?」
 男は答えようとしているようだが、口が開かないのか朦朧として上手くやり取りができていない。
 とにかくこの呻くだけの男に対して、何度も同じ質問が繰り返される。救急隊員の一人が傍にいた俺に話を訊きにきたが、実際俺が答えられることなどあまりない。
 だが、無線で病院の受け入れ先が決まると「同乗されますか?」と勧められた。
 どうやら友人か何かだと勘違いしている。
 男の見当識障害が判断できないので俺を当てにしているのかもしれない。
 知り合いじゃない、とはっきり断るのもよかったが、乗りかかった船だ。突如降って湧いたこの血だらけの難破船を、好奇の目で見ずにやり過ごせるほど俺は忙しい毎日を送っていなかった。
 友人を装い救急車に乗り込む。俺は心配した風を装い隊員の質問を適当にやり過ごしていたが、すぐに友人でないことはばれてしまった。
「しかし彼の安否も気になりますし」
 という同乗者を途中で降ろすわけにもいかず、俺は病院まで同行を許された。
 隊員は俺の携帯番号をしっかりと書き留めると、
「後で警察から連絡が入ると思いますから」
 と興味なさ気にそれきり黙って、男の血圧と脈拍値を確認した。救急車の車内なんてものは妙に静かだ。
 彼が処置室に入っている間、俺は後からやって来た二人組の警察官にあれこれ訊かれた。やはり自分が知ることなど大してない。
 手帳を開いてメモを取ろうとしていた若い方の警官は、特にこれといった話が引き出せないと知ると、手帳を閉じて処置室の中へと入っていった。

 待合室の背の硬い椅子でうとうとしていると若い看護師に起こされた。時計を見るととっくに深夜を回っている。タクシーを呼ぼうとして、とりあえず腰かけただけのつもりだったがすっかり眠り込んでしまった。
「お連れの方はこのまま入院になりますので、お疲れでしょう? 今日は一旦帰宅して身のまわりのものを揃えて、明日またお見舞いに来てください」
 さも、心配でしょう、という表情で俺の肩に触れる。ほっそりとしていたが、この仕事をしているにしては手が若く、まだふっくらと白かった。
 専門学校を出たばかりの新米ナースだろうか。後ろで一つに縛った茶髪の裾にメッシュが入っている。明日は非番か? この時間帯に勤務しているなら、おそらく明日の日中はいないだろうが。
 俺はさりげなく胸元の名前を確認すると、
「ありがとう。また来ます」
 と言って病院を出た。

 翌日、昼近くに目を覚ました俺は、彼の入院する病院に見舞いに行くことにした。
 ナースステーションで、昨日運ばれた男の病室を訊ね、廊下の案内を見ながら外科病棟を目指す。
 たどり着いた病室前のネームプレートには波柴明周と書いてある。
 奇妙な話だがこのときまで俺は男の名前を知らなかった。その事実に新鮮な驚きを抱く。我ながら、男の名前にはまるで興味がなかったわけだ。血まみれで倒れていた不幸な被害者より、白い手で肩に触れたナースの名前と勤務時間に俺は気をとられていた。
 自嘲的な笑いがふいにこみ上げる。それを呑み込んでからドアをノックすると、病室の中へ入った。
「やあどうも、こんにちは。お加減は如何ですか」
 ベッドに横たわった男が頭だけを起こすと、不安そうにこちらを伺った。色白で顎髭を生やし、大きく開いた目と長い睫毛が優男を印象づける。
 頭にはネットが被せられ、でかいガーゼが鼻を完全に覆っている。顔は内出血による痣だらけで紫色に腫れ上がっていた。実際この男が俗に言う「男前」なのかどうかは、今の段階ではわからない。なんともご愁傷様だ。
「あの……あなたは?」
「これは失礼しました。こうしてまともにお話しするのは初めてですね」
 血を流し、意識混濁していた状態で、救急車に同乗した俺のことを覚えていなくても当然だった。昨夜の出来事を簡単に説明する。
「僕は川瀬昇流と言います。倒れているあなたを見つけたときは、いやあ、本当に驚きましたよ。人が集まっていましたが誰も助けようとしなくて……。大変な目に遭われましたが、とにかくご無事で、本当によかったです」
 相手にほっとさせるには、まず自分がほっとして見せるのが一番だ。このミラーリングは本当によく効く。大袈裟なくらいでも構わない。
 看護師にいくらかは説明を受けていたのかもしれない。男は自分を介抱した俺を思い出したようで、
「ああっ、あなたでしたか。これは失礼しました」
 安堵した表情を浮かべると、上身を起こして丸椅子に手を伸ばそうとする。
「いや、そのままで。体に障ります」
「どうぞ座ってください。僕は、海の波に柴又の柴と書いて、波柴といいます。こちらからお探しして然るべきなのに、助けていただいた上に、わざわざ来ていただけるなんてこれは感激だ。……本当にご迷惑をおかけしました」
 波柴は何度も礼を言った。こいつは被害者だというのに申し訳なさそうに話す。いくら俺が恩人だといっても妙に腰が低い。
「いえいえ、昔から困っている人を見ると放って置けない性格で……」
 俺が照れくさそうに頭を掻くふりをすると、波柴はさらに緊張が解れたのか、口元のテープを気にしながらも、ぎこちなく笑って見せた。
 普通ならもっと落ち込んでいてもよさそうなものだが、意気消沈しているという感じは受けなかった。
 騒動から一夜経って、血だらけの難破船といった体裁は既になく、落ち着いたものだ。俺は興味本位から話を続けた。
「一体何があったんです」
「同じ質問を午前中に来た警察の方にも繰り返し訊ねられたんですが、何も答えられなかったんですよ。まったく身に覚えがないんです。いきなり後ろから殴られて……相手の顔も覚えていませんし、財布も無事でした」
「そうなんですか」
 善良な一般市民といったところか。大して治安も悪くないあの路地裏で、ただの憂さ晴らしにこの男が選ばれたのだとしたら甚だ憐れに思えてくる。
 見当がつかず、途方にくれながらも自嘲的な微笑みを浮かべ、
「いやあ、なんだか物騒な世の中ですよね」
 と話す口調が、さらに優男に憐れみを醸し出していた。
「波柴さんのご出身はどちらですか」
 俺は話題を切り替えた。特に興味もなかったし、男の素性を訊く必要などなかったが、職業柄その場の空気をコントロールする癖がついてしまっている。緊張した空気では流れはよくならない。
「山梨です。いや、田舎でお恥ずかしいですが」
「え、それは奇遇だ! 僕もなんですよ。ちょっと引越しが多かったから、北杜市内を転々としたんですが。長くいたのは身延山の方で」
 話してみると、この男とは驚くほど共通点が多かった。歳は違えど、田舎や出身校、さらには上京後の職業までもが同じで、シルバーアクセサリーのデザイナーをやっていた経験があるという。嘘のような本当の話だ。
「いやあ、まさかこんなところで同郷の方にお会いできるなんて」
「私は実相寺の方です。有名な桜がありましてね」
「ああ、神代桜でしょう! 見に行ったことありますよ。あれはすごい」
 ひどい怪我をして、というよりは、暴行を受けて興奮状態にあるのか、波柴はべらべらとよく喋った。時折、顔のガーゼや点滴を邪魔そうにしながらも滑らかに話を続ける。目の奥に、俺に対する興味と親しみがありありと浮かんでいた。
「お仕事は、今もデザインの仕事を?」
 訊ねると、波柴は首を横に振った。夢を諦めたという訳ではなさそうだ。
「今は雑貨兼、カフェをやっているんです」
「ほお……ということは、お店をお持ちで? それはすごいな」
「とんでもないです。店というより、小さなアトリエみたいなものですから」
「いやいや、たいしたものですよ」
 この目には見覚えがある。俺の講座を受けにくる輩にはあまりいないが、起業に成功する人間が決まって持っている確信と矜持に満ちた目だ。反して自分を大きく見せようと虚勢を張る人間のプライドは伸びきった風船のように薄く一突きもすれパツンと割れてしまうほど脆い。
「しかしすごいものですよ。好きなものを趣味で終わらせず、きちんと仕事に結びつけることはなかなかどうして、誰にもできることじゃありません」
「たしかにデザイン関連は好きでしてね。自分で珈琲を淹れても、すっかり冷めるまで飲むのを忘れてしまうくらい没頭してしまうから。彫金は時間ばかりかかるけれど、まったく苦にはならないから、そういう意味では向いているのかもしれません」
「きっとそうだと思いますよ、いやすごいです」
「そうだといいな。褒めていただいてありがとうございます」
 きちんと背筋を伸ばし、まっすぐ見つめて礼を伝える。暴行を受けて入院しているとは思えない安定した口調だった。妙に丁寧で低い物腰は、客商売をしているからだったかと納得する。
 しかし同じ田舎で育ち、同じ学校を出て、同じ職業を目指し上京したのに、どうしてこんなにも違ってしまうのかと考えると、俺はかすかに胸が苦しくなる。嫉視反目しようとする封印されたはずの俺のペルソナが、ここぞとばかりに首をもたげた。
「ところで川瀬さんは? 何かきっと立派なお仕事をされているんでしょう」
 偶然の一致で盛り上がった波柴は質問を投げ掛けた。無邪気に一歩踏み込んでくる優男の前では、俺の凝り固まった羨望の愁いなど、短ランを着た田舎のヤンキー程度にちっぽけな虚勢でしかない。
「経営コンサルタントをしているんです。リバースという個人事務所をやっています」
 正直あまり気乗りはしなかったが、自ら病室を訪ねておいて、質問に答えたくないから帰るという訳にもいかない。俺は胸ポケットから名刺ケースを取り出すと、3Rとデザインされた名刺を波柴に渡した。
「へえ、すごい……素敵なデザインだ」
 包帯だらけの波柴の手元に渡った俺の名刺が、犬っころのような円らな瞳に見つめられている。
 紙は和紙の混ざった厚手のクラフト紙で、それなりに上質感を保っている。いかにもビジネスライクな淡いブルーで縁取ってあるが、顔写真を入れることはせずにRの文字を重ねた大きめのロゴを配置してあった。
 3Rは、Reverse,Rebirth,Riversの3つのRをとったものだ。流れを変える、生まれ変わる、複数の河川や伏流などが合わさって大きな流れとなる、この三つの意味を含めてある。
 この仕事を始めた頃は俺も腐りきってはいなかったのかもしれない。個人事業主や単独店舗ではこうした印刷物は自前で用意することが多いし、テンプレートから簡単にデザインを起こせるフリーのツールも沢山ある。だが当時の俺はすっかり気負っていて、CIができるデザイナーにわざわざ小さくはない金を払って発注したのだ。
「ありがとうございます、その道のプロに褒められるとはうれしいですね」
 だが今ではこの凝ったロゴのおかげで、相手の第一印象を操作するのに困ることはない。予想外の産物だった。
「経営コンサルタント――」
 そういう波柴の瞳の奥に、別の光が宿るのに気づいた。
「それって、経費のコスト削減に関わるアドバイスや、業務の効率化、経営方針の見直しなどのテコ入れ指導をされているってことですよね」
 波柴は、控えめにコンサル業務の内容について質問をしながら、期待を籠めた眼差しで見つめた。
 こいつは俺に何か頼もうとしている――経験からすぐにそう察した。
「そうですね。依頼される中で最も多いのは、能力開発セミナーの類でしょうか。講師といっても色々で、全従業員や新入社員を集める大がかりなものもあれば、区役所などにある無料の相談窓口で、個人店舗の会計査定をお願いされたりと幅広いんですよ」
 多少の誇張はあるが、ある程度正直に業務内容を話す。波柴の気持ちが前のめりになってくるのが面白いようにわかる。もう一歩だ。
「それなりに踏み込んだことをお願いされることもありますよ。人事や賃金の見直しとか、設備投資計画の作成……クライアントさんから提出される資料では診断材料が足りないと判断した場合は、直接僕が実地調査をしたりもします」
 そこまで話すと、まだ少し躊躇いを残していた波柴は顔つきを一変させた。
「あの、小売り店舗の実践指導をお願いすることってできるのでしょうか」
 言いたいことはそれだけでわかった。網にかかったなというのが感想だ。売上改善を目指した実践指導という体裁で、入院中、こいつの代わりに俺が店を開け、ちゃっかり営業を続けようという魂胆だ。
 性急な期待が、ベッドの上でこの男の上半身を前のめりにさせている。
「たしかに個人経営店舗の業務改善はいくつかやっています。しかし、今あなたは入院しているし、見ず知らずの私に店を任せるというのはどうかな。波柴さん、あなたが退院してからじゃ駄目でしょうか」
 俺はあえて気乗りしない風を装った。
「波柴でいいですよ。お客さんは多くはないですが、少なからず常連さんもいます。それに何の告知もなくお店を閉めてますので」
 俺は苦笑いで応えたが、この男は断られることなど微塵も予想していないのか、すでに頼り切った視線を投げかけてくる。
「そんなに期待の眼差しを向けられては……いやはや困りましたね。スケジュール空いていたかな」
 日程などどうにでもなる。俺はカバンからノートを取り出し、予定を調整して考えこむフリをしながら、既に引き受けるつもりで必要日数を計算する。
 今は手が離せない仕事もないし、何よりまとまった報酬が手に入るだろう。こちらも好都合というものだ。
「僕、我儘を言って困らせてしまっているかな。なぜだろう、なんだかあなたとは初めてあった気がしなくって」
「ははっ。そこまでいわれてはね。では、同郷のよしみということで、君のお店を手伝わせてもらおうかな」
 参った、というように笑顔を見せると、波柴は、
「本当ですか? 忙しいでしょうに、すみません!」
 とガーゼで覆われた口元をほころばせた。

 翌日、店の鍵を預かった俺は教えてもらった場所へ赴いた。
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 それが店の名前だった。営業は午前十一時半からだと聞いていたので、朝十時には到着し、シャッターを開け中へ入る。
 こじんまりとした店内には、喫茶用のカウンター席とショーケース、その他陳列棚に雑貨が広げられたシンプルな店だった。内装は自分で仕上げたのだろう、いかにも素人がペンキを塗ったような雑味のある仕上がりで、ディスプレイの仕草も手作り感満載だった。おしゃれ雑貨を気取った、にわかDIYの女の部屋といったくらいにしか見えないが、まあこんなものなのだろう。『となりの部屋』とかいう素人雑誌の表紙くらいなら飾れそうだ。
 彼が退院するまでは、仕入れと喫茶はやらない、ということで話はつけてあったので、それまではただの店番だ。業務改善の『実践』などは、お決まりのPDCAを個人店舗向けの経営ノウハウに置き換えてやれば満足するだろう。簡単な仕事だ。スパイラルアップの具体的な提案を、店名のループにでもちょっと絡めてやれば文句などいうはずもない。

 その日、店もそろそろ閉めようかという頃、ひとりの女性が店内へ入ってきた。艶のあるストレートの黒髪が胸の辺りまで真っすぐ伸びている。
 透き通るような肌と大きな瞳に、筋ばった高い鼻に薄い唇の若い女性だった。手の甲を見る。やはり透き通っていて美しい。二十二、三といったところか。
 店に入るなりチラチラとこちらを伺っている。一瞬万引きを疑ったが、どうも違うようで、俺に話しかけるか迷っている感じだった。声をかけようかとタイミングを計っていると、女性が近づいてきた。
「あの……波柴さんは、お休みですか?」
「今日は不在ですが、何か?」
 そう答えると彼女は困った様子を見せた。

 詳しく訊いてやると、どうやら彼女は最近この店を知り、波柴と出会ったようだった。
「実は昨夜暴行を受けて入院しているんです」
「ええ!?」
 昨夜の状況を詳しく話すと、「どこに入院しているんですか?」と心配そうな表情を浮かべた。
 不安げな気持ちが白い頬に赤みをさして、透き通った肌によく似合う。
 俺はそんな不誠実な考えをよぎらせながら、『少なからず常連客がいる』と言った波柴の困った顔を思い出した。なるほど、彼女を狙っている訳だ。
 気が向くとまでは言えないが、ひとつ恩を売っておくか。
「店を閉めたら売上と店の報告に彼の入院している病院へ行くんですが、良ければ一緒に行きますか」
「え、いいんですか?」
 彼女は是非という態度で返事をした。
「構いません。店が終わるまで座っていてください」
 俺は冷蔵庫に残っていたフルーツを、その辺りにあった紙袋に入れた。
 仕入れのストップは波柴が病院から済ませていたが、残っている食材在庫に関してはどうしようもない。フルーツ以外のものは捨ててしまってくださいと頼まれていたのでそのようにする。
 店を閉めると俺たちはその足で彼の入院先に行き、その日の売上と報告を済ませた。
 病室で彼女の顔を見るなり表情を明るくする波柴に、正直羨ましいといった感情が湧いてくる。
「じゃ、私はこれで」
 と早々に立ち去ろうとすると、波柴が思い出したように俺を引き止めた。
「川瀬さん、リングのサイズ直しできますか?」
「ああ、店に道具が揃っていたから、その程度ならできるよ」
「実はサイズ直しをお願いしたいリングが一つあるんですが良いですか?」
 波柴にリングの場所と変更サイズを訊く。
「印字はしてあるのか?」と訊ねると、波柴は笑いながら彼女の顔を見て「いえ、印字はしてないんです」と答えた。
 なるほど波柴が彼女に贈る物なのだと察知した俺は「明日には仕上げるよ」と言い残し病室を出た。

 翌日、俺は開店準備を始めると、昨日のリングの件をすっかりと忘れてしまい、過去一年分の売上推移レポートや問題点などをまとめていた。
 サイズ直しのことに気がついたのは、閉店間際に彼女が来店してからだ。彼女の顔を見るなり俺は慌てて、リングを取り出しサイズを直し始めた。
「すみません、すっかり忘れていました」
「いいんです。明日また立ち寄ります」
 優しく笑いかけてくれた彼女はとても魅力的だった。
 彼女は喫茶用のカウンターに座って、
「波柴さんが帰ってくるまでカフェはできないんですね」
 と寂しそうだ。
「ああ、すみません。飲み物も出せなくて」
 俺がそう言うと、カウンターに座っていた彼女がおもむろに立ち上がった。
「いいんです、あの私、自分でやってもいいですか?」
 手慣れた感じでエスプレッソメーカーの電源を入れると、俺にまで珈琲を淹れてくれる。
 彼女は珈琲を飲み終わって機器を掃除すると帰っていった。
 俺がひとり残り、リングを仕上げていると、突然男が店内へと入ってきた。
 店内の明かりは殆ど落としてある。シャッターも半分閉じてある状態にも関わらず、なんて図々しい奴だと思いながらも俺は要件を訊くために男へ近づいた。
 黒いパーカーのフードを被り、破れたジーンズに黒いエンジニアブーツを履いた男が、黙ったまま俺の顔を見ている。
 誰か訪ねてきたら自分のことを伝えてほしいと波柴は言っていた。『少なからずいる常連』の一人なのかと思ったが、どうみても客じゃない。
 波柴と歳も近そうだし、ひょっとしたら知り合いか? そう思った俺は訊ねたが、男は黙ったまま俺が仕上げで磨いていたリングに目をやって指差すと口を開いた。「それは?」
「ああ、これは彼が恋人に贈るリングだよ」
「そうか、ところであいつは今どこに?」
 表情を緩めた男に俺は少し緊張が解れ、やはり波柴の知り合いだったかと、彼の入院先と病室の番号を教えた。
 男はニッコリと微笑んだようにも見えたが、俺はなぜか背筋が凍りついた。男は突然刃物を懐から出し、リングを指差して言う。
「それは、俺があいつの誕生日プレゼントに贈ったリングだ」
 突然豹変した男に、俺は何がなんだかわからなかった。
 鋭く振り下ろされた刃物が俺の手に食い込んだかと思うと、指を綺麗に落としていった。
 吹き出した血の海の中、リングを拾い上げた男は、膝から崩れた俺を見下ろし、まるで違う誰かを見つめているかのような虚ろな目で最後に一言だけ呟いた。
「絶対に許さねえ……」
 振り下ろされた刃物が、このとき俺のすべてを奪っていった。
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