上 下
26 / 27

夢 2

しおりを挟む
 優しいって、なんだろう。どういうのが優しいって事だと思う?
 …………。
 わからない。見返りを求めるのは悪いのか?

 瞼がちゃんと上がっているのかもよく分からない真っ暗な世界。最初は地面がなくふわふわと宙に浮いていたが、気付けば上からずっしりとした重圧をかけられて、今はゆっくりと体が暗闇に沈んでいっている。
 嫌だけど、嫌じゃない。もがけばまた浮上できるような気もしたが、腕を動かす気は起きなかった。
 この場所で目が覚めた瞬間から、稀はずっと考えている。

 彼女、絵里はそうはっきり言って馬鹿な人間だ。だが私にとって少しは信頼出来る人間でもある。
 どうしてか? 理由は簡単。絵里は自分にもメリットがあると分かって私の要求に応えたのだ。断ったら後悔するとまで言って。つまり逆に言ってしまえば、稀がどんなに頼んでもメリットがなければ要求は呑まなかったということ。それは優しさというあやふやで形のないものではなく、稀がよく基準にするものだ。……互いに全てを信頼し合える間柄というわけではないが、あの時の絵里は稀と同じものを基準に判断していた。絵里が自分を傷付けているように見えても、その実彼女は何かを得ていたのだ。
 そういう意味でなら、絵里は信頼出来る人間だった。優しさで動いているわけではないのだから。

 なら、あの時の子は? 稀が体調を崩していると勘違いして、最後まで心配をしてくれた子。……ほら、陰徳を積んだ子。
 そうだ、あの子。

 自問自答を続ければ答えは見えてくるのだろうか。今の自分は誰に話しているのだろうか。稀はよく分からないまま思考を巡らし続ける。

 でも、あの子が積んだのは本当は陰徳じゃない。私が礼を言ってしまった。彼女は見返りを貰ってしまったから、陰徳じゃなくて陽徳を積むことになった。
 どっちも悪くない。見返りが今世であるか、来世であるかの違いしかない。何ならあるかも分からない来世より、今世であった方が良いじゃないか。確実に見返りを貰える。
 そう、違いなんてそれくらいの筈。でも陰徳の方が徳が高いとされている。見返りを求めない方がより素晴らしいってことだよ。でも彼女は見返りを求めていなかったにも拘らず私にお礼を言われてしまったから。だから陰徳を積むことができなかった。本人にその気がなかったにも拘らず。

 暗闇と同化するように温度のなかった体が、急激に熱を帯びてくる。頬が熱を持って、この空間がけして暖かかったわけじゃないことを知った。

 おかしいと思わない……? あの子は見返りを求めていなかったんだから、より徳の高い陰徳を積むべきだった。親切にしているところを野次馬に見られていたわけでもない。私はあれを陰徳だったと解釈する。
 そうだな、その通り。私もそう思うよ。彼女にその気がなかったのなら、より徳の高い陰徳を積んでいい筈だ。
 でしょ……? じゃあどうして彼女は陽徳を積むことになっているの? 説明して。
 …………。

 沈黙。結局は分からない。稀は苛立ちを感じ始めていた。

 なんだ、分からないんだ?
 そうだな、分からない。
 使えないな。
 でも分かったこともある。
 ――へえ、本当? 意外。

 頭の中でされていた会話。想定していなかった返事に稀は驚きながらも嬉しくなった。

 で、何が分かったの?
 ……言っていいのか?
 ――はあ? 言わないでどうする。分かったことがあるなら教えてくれないと。
 そう、なら教えよう。

 不思議だった。こいつが理解していることは、教えてもらわなくとも自分にだって理解できる筈なのだ。教えてくれないと見当もつかないなんて。
 返答が――予測できない?

 …………。

 嬉しいと思った気持ちは何処へやら。稀は何と言われるか分からない状況に戸惑い、焦りを感じていた。感情の起伏が激しくなって、それが稀から余裕を奪う。

 ねえ、待って……。 酷いことは言わないよね?
 ……ふっ、何を勘違いしているのか知らないけど、酷いことじゃない。本当のことしか言うつもりはない。

 それを聞いてほっとしたと同時に、突き放すような笑いが気になって仕方がない。怯えている稀に呆れているような感じを受けたのだ。
 奴の言葉をそのまま受け取ってしまっても良いのか。しかし一旦話し始めたを止めるすべを知らない。



 いいか、陰徳か陽徳か、決めるのは私達じゃない。お前は善行を積む側に立って考えるから駄目なんだ。そもそもが間違っている。
 ――――ま、待って……

 やっぱりだ、もう一人の自分を使って自問自答なんてするんじゃなかった。
 あっという間に頭の中がぐるぐると回って、上も下も分からなくなる。気分が悪いなんてもんじゃない、吐き気がした。
 それでも奴は容赦しない。こちらの制止なんてあってないようなものだ。

 優しいって何だだと? ふざけているのか。私は初めから優しさなんて持ち合わせていない。考えても無駄だし、必要がないだろう。

 苦しい、息が続かない。今更逃げようともがいても沈み過ぎた体は一向に浮上しない。それどころか底なし沼のようにもがけばもがくほど沈んでいく。心が空っぽになっていくような心地に稀は恐怖した。

 分かった、もう……分かった、から……! もういいからっ……!
 ……おかしいな、どうしてそんなに苦しそうなんだ。

 窒息しそうになりながら訴える稀にいま気付いたようだ。しかし不思議そうにするだけで、どうして嫌がっているのか理解出来ないらしい。

 何を焦っている、今更だろう。
 もう、聞きたくない! 黙って、お願いだから……!
 ――――ああ、なんだ。分かった。

 突如、稀は体が放り出される感覚を覚えた。あっという間の出来事だった。

 はあ、はあ――

 放り出された先には何もない。視覚が機能しないし、すぐに自分の息遣いさえ聞こえなくなる。手を伸ばしても空を切るだけ。空気を掴む感覚さえない。
 ……ああ、違う。そういうことか。認識出来ないということは、自分の感覚が死んでいるのだ。放り出された先に何もないのではなく、稀自身の五感が機能しなくなっている。

 ――――どうしてだ? ここは、私は……



「つまらないことを考えるな」



 しっかりと聞こえた声。これはきっと、向き合ってはいけないものなのだ。
しおりを挟む

処理中です...