3 / 13
いきたいと思う場所
第三話 リリを追いかけて
しおりを挟む
次の日。
「心の準備はいい?」
山西先生はヒナミの目を見ていった。いやいや。自分の足を見るくらい、そんな心の準備も何もいらないでしょ。
「はい。いいです。」
ヒナミが返事をすると、山西先生はヒナミのパジャマの裾をめくっていく。
「……うそっ!」
ヒナミの口から、声が漏れる。
足は、皮と骨しかないんじゃないかってくらい、やせ細っていた。両足ともだ。
まっすぐ、線状に肌の色が薄くなっている。傷あとだ。ヒナミが何度も作ったことがある、ちっちゃな傷あととはわけが違う。くるぶしの上から、膝の下まで、ザックリと。右と左、合わせて三本ある。
「リハビリすれば、歩けるようになるかもしれない。でも、走るのは無理だろうね。」
山西先生はいった。その声だけが、何度も何度も頭の中でぐるぐる回る。
走れないってことは、走れないってことだよね? それって、どういうこと?
チサトちゃんはヒナミにむかい合うように立って、ヒナミの両手を握る。その手は、軟らかくって、すべすべで、よく手入れしていることがわかる。
「ごめんね。こんなことにつき合わせちゃって。」
病院の中を散歩する。それだけのことも、誰かに手伝ってもらわないとできない。情けない。
「そんな顔しないでください。私も、好きでやっていることなんです。」
「でも……。」
チサトちゃんは、毎日お見舞いに来ては、ヒナミの話し相手になったり、リハビリに付き合ったりしてくれている。嬉しい気持ちはある。でも、それより大きな申し訳なさがある。
「私もですね、小さいころは今よりずっと体が弱くて、よく入院していたんです。そのとき、友達がお見 舞いに来てくれると、とっても嬉しかったんです。」
チサトちゃんは、ニヤリと笑うと、ヒナミに廊下の手すりを握らせる。
「ヒナミさん、こうするんですよ。」
チサトちゃんの左右の人差し指がヒナミの口の両端に触れる。
「笑顔、です。」
チサトちゃんの指が、ヒナミの口の端を釣り上げた。
「口の端っこをあげて、目元を下げる。たったそれだけで、楽しくなるんですよ。ヒナミさん、笑ってください。私は、ヒナミさんの笑顔が大好きです。」
チサトちゃんは「ねっ」と付け足し、笑った。
「うん。」
ヒナミはうなずいた。
チサトちゃんが家に帰ると、急に寂しく感じる。
ヒナミは病室のベットの上に仰向けになり、天井を見つめる。
ドアが開いた。
ヒナミは視線を動かす。お母さんだった。
「いらっしゃいませ。」
ヒナミはおどけていった。
「ねえ、ヒナミ。大事な相談があるんだけど。」
お母さんは、ベットの横に座った。
「なに?」
お母さんは何もいわない。こういう時のお母さんは慎重に言葉を選んでいるんだと知っている。だから、気長に待つ。
「退院してからのことなんだけどね、転校しない?」
転校。もしや、お引越しでもするんでしょうか、お母さん。
「その足じゃ、前みたいに電車で通学するの、無理じゃないかって思うの。さっき先生がいっていたけど、後二ヶ月くらいで退院できそうなんだって。そしたら、ちょうど、四月になるでしょ。新しい学校、馴染みやすいんじゃないかって思うの。」
ああ、なるほど。そういうことね。
「学年、どうなるの?」
ヒナミは十一歳だから、六年生だ。でも、四年生の一学期に事故に遭ったから、それ以降の勉強なんて全然、わかんない。
「四年生、もう一回。」
お母さんはいった。まあ、そうなるよね。
「前の学校で、頑張るっていうのは、だめかな。」
ヒナミはお母さんの顔色をうかがう。
「だめ。ごめんね。もう、手続きも終わってるの。」
じゃあ、仕方ないな。うん。
山西先生は大事なことを知らなかったらしい。
それは、ヒナミのスーパー超生命力だ。
ヒナミは一か月で退院できた。
夕日が差す教室。
ヒナミは松葉杖を机に立てかけると、床にショルダーバックを置いて、自分のものだった席に座る。今、この教室を使っている人たちは、もうみんな帰ったあとだ。
「じゃあ、お母さんは職員室にいるから。」
お母さんはヒナミの担任だった先生と、教室を出ていった。
ユイがいた。ヒナミの正面に座っている。
薄茶色のレンズが入った眼鏡をかけた女の子。髪も、身長も伸びていて、中学生だっていっても通用しそうだ。
「ごめんね。放課後、残ってもらって。」
ヒナミはいった。
「別にいいよ。でも、ビックリした。急に先生が呼びに来るんだもん。ヒナミちゃんが来てるよって。ごめんね、お見舞いいけなくて。」
ユイは、窓の外を見ながらいった。入院中、ユイが病院に来てくれたことは一度もなかった。ホントのことをいえば、ちょっとさみしかった。
「いいよ。いろいろ忙しかったんでしょ?」
ユイは黙ってうなずく。
「なにか、気になることあるの?」
ヒナミは尋ねた。さっきから、ユイは目を合わせてくれない。
「――ごめんね。」
ユイは、小さな小さな声でいった。
「へっ?」
「ごめんね。私が、リリを探してほしいなんていったから、ヒナミちゃんが。ヒナミちゃんの足が……。」
絞り出すような、ユイの声。
「いいよ、そんなの気にしないでよ。ユイは悪くない。」
ヒナミはいった。ウソじゃないよ。ヒナミの中に、ユイを責める気持ちなんてひとかけらもない。自信を持っていえる。だって、親友だもん。
「ごめん、私もう、前みたいにヒナミちゃんと話せない。」
ユイは立ち上がる。
「まって。もうちょっと、話そうよ。」
ヒナミの声を無視して、ユイは足早に教室を出ていった。
ユイを追いかけようと、ヒナミは立ち上がりかけた。でも、足に力が入らない。ヒナミは椅子の上にドスンとしりもちをついた。
一年生のときから仲良しで、クラスもずっと一緒で、遠足の班もいつも一緒だった。
ヒナミはうつむく。
床を、亀が歩いている。甲羅の大きさが十センチくらいの小さな亀だ。どこかの教室で飼っていたのが、逃げだしてきたのかな。
ヒナミは、首から下げた勾玉を掴んだ。
ねえ、ユイ。ユイにはいってなかったけど、今日はお別れをいいに来たんだよ。
嫌だよ。こんなサヨナラ、絶対に嫌だよ。
ヒナミの目に、涙がたまる。
そのとき、ヒナミの頭を、誰かが触った。優しい手つきだった。
ゆっくりと顔を上げる。
ヒナミの横に、女の子が立っていた。五、六歳くらいだろうか。銀色の髪をおかっぱにしていて、瞳は青色。なんだか不思議な感じの子だ。服は、この学校と同じ敷地にある幼稚園の制服を着ている。
女の子は、まっすぐな視線で、ヒナミを見つめる。
「ずっと、ずっと、友達だったんだよ。」
ヒナミがいうと、女の子はヒナミの服の袖を引っ張る。
「追いつけないよ。こんな足になっちゃったんだもん。」
女の子はさらに強く、ヒナミの服の袖を引っ張る。
「まだ、間に合うの?」
女の子は、大きくうなずく。
ヒナミは、手で涙をぬぐった。
「いこっか。」
そうだ。ユイを追いかけるんだ。ちゃんと、お話するんだ。
ヒナミは、ショルダーバックを肩から斜めにかけると、松葉杖を持って立ち上がる。
校内を歩くのは緊張した。先生や、他の知ってる人に見つかったら、なんて言い訳しようか。そればかり考えていた。自分の進むはやさにいらだつ。
外へ出た。
びっくりするくらい順調だった。知っている人には、全く会わなかった。職員室の前を通るのは避けたとはいえ、幸運だ。
「上手くいったね。」
ヒナミがいうと、女の子はうなずいた。
オレンジ色の太陽が見える時間のはずだけど、空は今にも雨を降らせそうな雲で覆われていた。
冷たい風が吹いた。春には、まだ少し間がある。
学校から少し歩いたところに、路面電車の電停がある。たぶん、これでユイは家に帰ったはずだ。
路面電車は、車両が二種類走っている。床が高くて、入口に段差がある車両と、床が低い車両だ。
やって来たのは床が高い車両だった。
この前まで、全く何も感じなかったのに、改めて見てみるとこんなに高い段差だったんだ。乗れるだろうか。
杖を握る腕に力を入れた。
「大丈夫ですか。」
後ろから、男の人の声がした。ふり返ると、電車の運転士さんだった。降りてきてくれたんだ。
「ごめんなさい。」
ヒナミはいった。運転士さんは後ろからヒナミの体の体をそっと支えてくれている。だから、段差を上ることができた。
『お待たせいたしました。発車します。』
運転士さんが運転席に戻ると、アナウンスが入った。
電車に乗っている人たちがみんな、ヒナミを見ているような気がする。そっと目を伏せた。
ヒナミは入り口近くの空席に座る。女の子はその横で、椅子の上に膝立ちになり、窓の外を見ている。
「アナタ、名前は。」
ヒナミは女の子に尋ねる。でも、女の子は困ったような顔を見せるだけだった。
「もしかして、名前がないの。」
女の子はうなずく。
「じゃあ、私がつけてあげよっか。」
女の子は深い青色の瞳でまっすぐにヒナミを見つめる。軽い冗談のつもりだったのに、すごく期待されている気がする。
「えっと……ええっと……ウミでどうかな。目が青いから。」
我ながら、適当だ。
でも、女の子は嬉しそう。だから、ウミでいいんだよね。
終点の道後温泉駅に着いた。
深緑の柱と、クリーム色の壁。レトロな西洋風の駅舎を出ると、赤いタイルが敷かれた駅前から、商店街が伸びている。
服の裾を誰かを引っ張ったのは、ウミだ。
「どうしたの。」
ウミは、前を指差す。
ヒナミが、ウミの指の先をたどっていくと、商店街、その入り口にあるコンビニ、その前にいる猫。
黒猫だ。鋭い目つきにボサボサの毛。野良猫だろうか。
ヒナミは、猫を見つめる。
猫も、ヒナミを見つめる。
一瞬だった。でも、確かに猫の首に赤い首輪が見えた。
「リリっ。」
思わずヒナミは叫ぶ。
ヒナミはゆっくりと、リリに近付く。
リリは、姿勢を低くする。今にも走り出しそうだ。
足下のタイルの色が、濃くなる。ポツリ、ポツリと、雨が降ってきた。
「リリ、帰ろ。」
ヒナミがいった途端、リリは走り出した。
「待って。」
ヒナミは必死に杖を持つ手を動かし、街を進む。リリを追いかける。坂を上り、リリが走っていった方へ。
息が切れてきた。
もう駄目だ。ヒナミは立ち止まった。そこは、神社へ続く石段の前だ。リリを完全に見失った。
学校で、ヒナミはいった。リリを捕まえると。約束すると。なのに、なのに。
ヒナミは短く息を吐いた。雨が冷たい。
学校に戻ろう。きっと、いろいろな人に心配をかけてしまっている。戻ったら、ものすごく怒られるんだろうな。
振り返ると、正面にウミがいた。ヒナミとまっすぐにむかいあっている。
ウミは笑った。ニコリと、笑った。
「心の準備はいい?」
山西先生はヒナミの目を見ていった。いやいや。自分の足を見るくらい、そんな心の準備も何もいらないでしょ。
「はい。いいです。」
ヒナミが返事をすると、山西先生はヒナミのパジャマの裾をめくっていく。
「……うそっ!」
ヒナミの口から、声が漏れる。
足は、皮と骨しかないんじゃないかってくらい、やせ細っていた。両足ともだ。
まっすぐ、線状に肌の色が薄くなっている。傷あとだ。ヒナミが何度も作ったことがある、ちっちゃな傷あととはわけが違う。くるぶしの上から、膝の下まで、ザックリと。右と左、合わせて三本ある。
「リハビリすれば、歩けるようになるかもしれない。でも、走るのは無理だろうね。」
山西先生はいった。その声だけが、何度も何度も頭の中でぐるぐる回る。
走れないってことは、走れないってことだよね? それって、どういうこと?
チサトちゃんはヒナミにむかい合うように立って、ヒナミの両手を握る。その手は、軟らかくって、すべすべで、よく手入れしていることがわかる。
「ごめんね。こんなことにつき合わせちゃって。」
病院の中を散歩する。それだけのことも、誰かに手伝ってもらわないとできない。情けない。
「そんな顔しないでください。私も、好きでやっていることなんです。」
「でも……。」
チサトちゃんは、毎日お見舞いに来ては、ヒナミの話し相手になったり、リハビリに付き合ったりしてくれている。嬉しい気持ちはある。でも、それより大きな申し訳なさがある。
「私もですね、小さいころは今よりずっと体が弱くて、よく入院していたんです。そのとき、友達がお見 舞いに来てくれると、とっても嬉しかったんです。」
チサトちゃんは、ニヤリと笑うと、ヒナミに廊下の手すりを握らせる。
「ヒナミさん、こうするんですよ。」
チサトちゃんの左右の人差し指がヒナミの口の両端に触れる。
「笑顔、です。」
チサトちゃんの指が、ヒナミの口の端を釣り上げた。
「口の端っこをあげて、目元を下げる。たったそれだけで、楽しくなるんですよ。ヒナミさん、笑ってください。私は、ヒナミさんの笑顔が大好きです。」
チサトちゃんは「ねっ」と付け足し、笑った。
「うん。」
ヒナミはうなずいた。
チサトちゃんが家に帰ると、急に寂しく感じる。
ヒナミは病室のベットの上に仰向けになり、天井を見つめる。
ドアが開いた。
ヒナミは視線を動かす。お母さんだった。
「いらっしゃいませ。」
ヒナミはおどけていった。
「ねえ、ヒナミ。大事な相談があるんだけど。」
お母さんは、ベットの横に座った。
「なに?」
お母さんは何もいわない。こういう時のお母さんは慎重に言葉を選んでいるんだと知っている。だから、気長に待つ。
「退院してからのことなんだけどね、転校しない?」
転校。もしや、お引越しでもするんでしょうか、お母さん。
「その足じゃ、前みたいに電車で通学するの、無理じゃないかって思うの。さっき先生がいっていたけど、後二ヶ月くらいで退院できそうなんだって。そしたら、ちょうど、四月になるでしょ。新しい学校、馴染みやすいんじゃないかって思うの。」
ああ、なるほど。そういうことね。
「学年、どうなるの?」
ヒナミは十一歳だから、六年生だ。でも、四年生の一学期に事故に遭ったから、それ以降の勉強なんて全然、わかんない。
「四年生、もう一回。」
お母さんはいった。まあ、そうなるよね。
「前の学校で、頑張るっていうのは、だめかな。」
ヒナミはお母さんの顔色をうかがう。
「だめ。ごめんね。もう、手続きも終わってるの。」
じゃあ、仕方ないな。うん。
山西先生は大事なことを知らなかったらしい。
それは、ヒナミのスーパー超生命力だ。
ヒナミは一か月で退院できた。
夕日が差す教室。
ヒナミは松葉杖を机に立てかけると、床にショルダーバックを置いて、自分のものだった席に座る。今、この教室を使っている人たちは、もうみんな帰ったあとだ。
「じゃあ、お母さんは職員室にいるから。」
お母さんはヒナミの担任だった先生と、教室を出ていった。
ユイがいた。ヒナミの正面に座っている。
薄茶色のレンズが入った眼鏡をかけた女の子。髪も、身長も伸びていて、中学生だっていっても通用しそうだ。
「ごめんね。放課後、残ってもらって。」
ヒナミはいった。
「別にいいよ。でも、ビックリした。急に先生が呼びに来るんだもん。ヒナミちゃんが来てるよって。ごめんね、お見舞いいけなくて。」
ユイは、窓の外を見ながらいった。入院中、ユイが病院に来てくれたことは一度もなかった。ホントのことをいえば、ちょっとさみしかった。
「いいよ。いろいろ忙しかったんでしょ?」
ユイは黙ってうなずく。
「なにか、気になることあるの?」
ヒナミは尋ねた。さっきから、ユイは目を合わせてくれない。
「――ごめんね。」
ユイは、小さな小さな声でいった。
「へっ?」
「ごめんね。私が、リリを探してほしいなんていったから、ヒナミちゃんが。ヒナミちゃんの足が……。」
絞り出すような、ユイの声。
「いいよ、そんなの気にしないでよ。ユイは悪くない。」
ヒナミはいった。ウソじゃないよ。ヒナミの中に、ユイを責める気持ちなんてひとかけらもない。自信を持っていえる。だって、親友だもん。
「ごめん、私もう、前みたいにヒナミちゃんと話せない。」
ユイは立ち上がる。
「まって。もうちょっと、話そうよ。」
ヒナミの声を無視して、ユイは足早に教室を出ていった。
ユイを追いかけようと、ヒナミは立ち上がりかけた。でも、足に力が入らない。ヒナミは椅子の上にドスンとしりもちをついた。
一年生のときから仲良しで、クラスもずっと一緒で、遠足の班もいつも一緒だった。
ヒナミはうつむく。
床を、亀が歩いている。甲羅の大きさが十センチくらいの小さな亀だ。どこかの教室で飼っていたのが、逃げだしてきたのかな。
ヒナミは、首から下げた勾玉を掴んだ。
ねえ、ユイ。ユイにはいってなかったけど、今日はお別れをいいに来たんだよ。
嫌だよ。こんなサヨナラ、絶対に嫌だよ。
ヒナミの目に、涙がたまる。
そのとき、ヒナミの頭を、誰かが触った。優しい手つきだった。
ゆっくりと顔を上げる。
ヒナミの横に、女の子が立っていた。五、六歳くらいだろうか。銀色の髪をおかっぱにしていて、瞳は青色。なんだか不思議な感じの子だ。服は、この学校と同じ敷地にある幼稚園の制服を着ている。
女の子は、まっすぐな視線で、ヒナミを見つめる。
「ずっと、ずっと、友達だったんだよ。」
ヒナミがいうと、女の子はヒナミの服の袖を引っ張る。
「追いつけないよ。こんな足になっちゃったんだもん。」
女の子はさらに強く、ヒナミの服の袖を引っ張る。
「まだ、間に合うの?」
女の子は、大きくうなずく。
ヒナミは、手で涙をぬぐった。
「いこっか。」
そうだ。ユイを追いかけるんだ。ちゃんと、お話するんだ。
ヒナミは、ショルダーバックを肩から斜めにかけると、松葉杖を持って立ち上がる。
校内を歩くのは緊張した。先生や、他の知ってる人に見つかったら、なんて言い訳しようか。そればかり考えていた。自分の進むはやさにいらだつ。
外へ出た。
びっくりするくらい順調だった。知っている人には、全く会わなかった。職員室の前を通るのは避けたとはいえ、幸運だ。
「上手くいったね。」
ヒナミがいうと、女の子はうなずいた。
オレンジ色の太陽が見える時間のはずだけど、空は今にも雨を降らせそうな雲で覆われていた。
冷たい風が吹いた。春には、まだ少し間がある。
学校から少し歩いたところに、路面電車の電停がある。たぶん、これでユイは家に帰ったはずだ。
路面電車は、車両が二種類走っている。床が高くて、入口に段差がある車両と、床が低い車両だ。
やって来たのは床が高い車両だった。
この前まで、全く何も感じなかったのに、改めて見てみるとこんなに高い段差だったんだ。乗れるだろうか。
杖を握る腕に力を入れた。
「大丈夫ですか。」
後ろから、男の人の声がした。ふり返ると、電車の運転士さんだった。降りてきてくれたんだ。
「ごめんなさい。」
ヒナミはいった。運転士さんは後ろからヒナミの体の体をそっと支えてくれている。だから、段差を上ることができた。
『お待たせいたしました。発車します。』
運転士さんが運転席に戻ると、アナウンスが入った。
電車に乗っている人たちがみんな、ヒナミを見ているような気がする。そっと目を伏せた。
ヒナミは入り口近くの空席に座る。女の子はその横で、椅子の上に膝立ちになり、窓の外を見ている。
「アナタ、名前は。」
ヒナミは女の子に尋ねる。でも、女の子は困ったような顔を見せるだけだった。
「もしかして、名前がないの。」
女の子はうなずく。
「じゃあ、私がつけてあげよっか。」
女の子は深い青色の瞳でまっすぐにヒナミを見つめる。軽い冗談のつもりだったのに、すごく期待されている気がする。
「えっと……ええっと……ウミでどうかな。目が青いから。」
我ながら、適当だ。
でも、女の子は嬉しそう。だから、ウミでいいんだよね。
終点の道後温泉駅に着いた。
深緑の柱と、クリーム色の壁。レトロな西洋風の駅舎を出ると、赤いタイルが敷かれた駅前から、商店街が伸びている。
服の裾を誰かを引っ張ったのは、ウミだ。
「どうしたの。」
ウミは、前を指差す。
ヒナミが、ウミの指の先をたどっていくと、商店街、その入り口にあるコンビニ、その前にいる猫。
黒猫だ。鋭い目つきにボサボサの毛。野良猫だろうか。
ヒナミは、猫を見つめる。
猫も、ヒナミを見つめる。
一瞬だった。でも、確かに猫の首に赤い首輪が見えた。
「リリっ。」
思わずヒナミは叫ぶ。
ヒナミはゆっくりと、リリに近付く。
リリは、姿勢を低くする。今にも走り出しそうだ。
足下のタイルの色が、濃くなる。ポツリ、ポツリと、雨が降ってきた。
「リリ、帰ろ。」
ヒナミがいった途端、リリは走り出した。
「待って。」
ヒナミは必死に杖を持つ手を動かし、街を進む。リリを追いかける。坂を上り、リリが走っていった方へ。
息が切れてきた。
もう駄目だ。ヒナミは立ち止まった。そこは、神社へ続く石段の前だ。リリを完全に見失った。
学校で、ヒナミはいった。リリを捕まえると。約束すると。なのに、なのに。
ヒナミは短く息を吐いた。雨が冷たい。
学校に戻ろう。きっと、いろいろな人に心配をかけてしまっている。戻ったら、ものすごく怒られるんだろうな。
振り返ると、正面にウミがいた。ヒナミとまっすぐにむかいあっている。
ウミは笑った。ニコリと、笑った。
0
あなたにおすすめの小説
【3章】GREATEST BOONS ~幼なじみのほのぼのバディがクリエイトスキルで異世界に偉大なる恩恵をもたらします!~
丹斗大巴
児童書・童話
幼なじみの2人がグレイテストブーンズ(偉大なる恩恵)を生み出しつつ、異世界の7つの秘密を解き明かしながらほのぼの旅をする物語。
異世界に飛ばされて、小学生の年齢まで退行してしまった幼なじみの銀河と美怜。とつじょ不思議な力に目覚め、Greatest Boons(グレイテストブーンズ:偉大なる恩恵)をもたらす新しい生き物たちBoons(ブーンズ)とアイテムを生みだした! 彼らのおかげでサバイバルもトラブルもなんのその! クリエイト系の2人が旅するほのぼの異世界珍道中。
便利な「しおり」機能を使って読み進めることをお勧めします。さらに「お気に入り登録」して頂くと、最新更新のお知らせが届いて便利です! レーティング指定の描写はありませんが、万が一気になる方は、目次※マークをさけてご覧ください。
生贄姫の末路 【完結】
松林ナオ
児童書・童話
水の豊かな国の王様と魔物は、はるか昔にある契約を交わしました。
それは、姫を生贄に捧げる代わりに国へ繁栄をもたらすというものです。
水の豊かな国には双子のお姫様がいます。
ひとりは金色の髪をもつ、活発で愛らしい金のお姫様。
もうひとりは銀色の髪をもつ、表情が乏しく物静かな銀のお姫様。
王様が生贄に選んだのは、銀のお姫様でした。
運よく生まれ変われたので、今度は思いっきり身体を動かします!
克全
児童書・童話
「第1回きずな児童書大賞」重度の心臓病のため、生まれてからずっと病院のベッドから動けなかった少年が12歳で亡くなりました。両親と両祖父母は毎日のように妾(氏神)に奇跡を願いましたが、叶えてあげられませんでした。神々の定めで、現世では奇跡を起こせなかったのです。ですが、記憶を残したまま転生させる事はできました。ほんの少しだけですが、運動が苦にならない健康な身体と神与スキルをおまけに付けてあげました。(氏神談)
14歳で定年ってマジ!? 世界を変えた少年漫画家、再起のノート
谷川 雅
児童書・童話
この世界、子どもがエリート。
“スーパーチャイルド制度”によって、能力のピークは12歳。
そして14歳で、まさかの《定年》。
6歳の星野幸弘は、将来の夢「世界を笑顔にする漫画家」を目指して全力疾走する。
だけど、定年まで残された時間はわずか8年……!
――そして14歳。夢は叶わぬまま、制度に押し流されるように“退場”を迎える。
だが、そんな幸弘の前に現れたのは、
「まちがえた人間」のノートが集まる、不思議な図書室だった。
これは、間違えたままじゃ終われなかった少年たちの“再スタート”の物語。
描けなかった物語の“つづき”は、きっと君の手の中にある。
ぽんちゃん、しっぽ!
こいちろう
児童書・童話
タケルは一人、じいちゃんとばあちゃんの島に引っ越してきた。島の小学校は三年生のタケルと六年生の女子が二人だけ。昼休みなんか広い校庭にひとりぼっちだ。ひとりぼっちはやっぱりつまらない。サッカーをしたって、いつだってゴールだもん。こんなにゴールした小学生ってタケルだけだ。と思っていたら、みかん畑から飛び出してきた。たぬきだ!タケルのけったボールに向かっていちもくさん、あっという間にゴールだ!やった、相手ができたんだ。よし、これで面白くなるぞ・・・
極甘独占欲持ち王子様は、優しくて甘すぎて。
猫菜こん
児童書・童話
私は人より目立たずに、ひっそりと生きていたい。
だから大きな伊達眼鏡で、毎日を静かに過ごしていたのに――……。
「それじゃあこの子は、俺がもらうよ。」
優しく引き寄せられ、“王子様”の腕の中に閉じ込められ。
……これは一体どういう状況なんですか!?
静かな場所が好きで大人しめな地味子ちゃん
できるだけ目立たないように過ごしたい
湖宮結衣(こみやゆい)
×
文武両道な学園の王子様
実は、好きな子を誰よりも独り占めしたがり……?
氷堂秦斗(ひょうどうかなと)
最初は【仮】のはずだった。
「結衣さん……って呼んでもいい?
だから、俺のことも名前で呼んでほしいな。」
「さっきので嫉妬したから、ちょっとだけ抱きしめられてて。」
「俺は前から結衣さんのことが好きだったし、
今もどうしようもないくらい好きなんだ。」
……でもいつの間にか、どうしようもないくらい溺れていた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる