灯りは誰のために点いている

刈部三郎

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灯りは誰のために点いている

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 午後七時十二分。
 東京・代々木の地下鉄出口を出たところで、藤崎創は時計を見た。いつもより三分早い。だが、特に予定があるわけでもない。彼を待っている人間はいなかったし、帰宅しても話しかけてくる者はいない。誰に知らせることもない小さな「早さ」は、ただの誤差でしかなかった。

 信号待ちをしながら、目の前の雑居ビルを見上げる。歯医者、ネイルサロン、輸入雑貨店。どれもよくある店名だったが、三階の一室だけ、夜になると決まって窓に灯りがついた。レースのカーテン越しに、温かみのある間接照明のような光が漏れている。

 創はそれを、ここ数ヶ月ずっと見ている。
 灯りが点いていることに安心し、消えていると少しだけ不安になる。
 その部屋に誰が住んでいるのかも、どんな生活をしているのかも知らない。けれど、なぜか彼にとってその灯りは、自分がこの街に「まだ在る」と確認できる唯一の証のように思えていた。

 その灯りを見つめているときだけ、創は「まだ大丈夫だ」と思えた。
 だからといって、何がどうなるわけでもない。
 人生が突然良い方向へ転がることはなく、誰かに好かれることもなければ、記憶の中の誰かが戻ってくることもない。ただ、その光を眺めることで、自分が“ここにいてもいい”ような錯覚を得られたのだった。

 エレベーターのない築四十年のマンション。三階の部屋まで上がる途中、どの階にも生活音はなく、静かだった。だが、それが心地よくもある。自分ひとりだけが、ひっそりとこの建物の空気を吸っている気がした。

 部屋に入ると、あらかじめタイマー設定されていた照明が点いていた。まるで誰かが「おかえり」とでも言ってくれているようだった。けれど、それは“演出”でしかない。機械が点けた光に、感情などあるはずがなかった。

 玄関で靴を脱ぎ、スーツの上着を脱ぎ捨て、肩を回す。冷蔵庫には昨日買ったままのサラダと、缶チューハイが一本だけ残っていた。
 今夜もそれで済ませるのだろう。コンビニ弁当を買ってくるほどの元気もない。

 スマホを確認すると、未読のLINEがひとつだけあった。
 名前は、「西川理子」。

 元妻の名前だ。
 離婚してから、もう三年が経つ。にもかかわらず、彼女はたまに唐突にメッセージを送ってくる。内容はいつも他愛もない。共通の知人の話だったり、テレビ番組の感想だったり。「これ、好きだったよね」と過去の食べ物の写真を送ってきたりもする。

 創は開かずにそのままにした。
 読んでしまうと、返信しなければならなくなる。
 そうしてまた、過去に縛られるのが怖かった。

 風呂もシャワーも面倒だった。
 湯を張らず、洗面所で顔を洗ってタオルで拭いた。
 鏡に映る自分の顔は、歳より老けて見えた。
 顎のラインが少し崩れてきた。目の下には薄くクマができていた。

 自分が「まだ若い」と思い込めていた頃が、もはや懐かしかった。

 夜十一時。
 静まり返った部屋で、創はベッドにもソファにも座らず、キッチンの椅子に腰をかけていた。
 照明は落とし、冷蔵庫のわずかな唸りと、窓の外の車の音だけが空間を支配していた。何もしていないという感覚だけが、過剰に大きく膨らんでくる。まるで、自分が「取り残されている」ことそのものが、現実のすべてであるかのように。

 ふと、LINEの通知が光った。

 ――既読をつけないままの理子のメッセージが、スタンプひとつだけを送り直してきた。

 それは、目をつぶって笑う顔だった。
 以前、創がよく使っていたものと同じだった。

 罪悪感ではない。
 だが、かつて共有していた“言葉の癖”を思い出すたびに、
 「やり直す気はなかったか?」と自分に問いかけている誰かの声を、創は感じてしまう。

 離婚は、どちらが悪いというものではなかった。
 ただ、二人とも言葉にするのが遅すぎた。
 小さなすれ違いが堆積し、それが相手の「沈黙」として響いたとき、ふたりの間にはもう、どうにもならないほどの距離が生まれていた。

 最後の夜、理子は荷物をまとめながら言った。

 >「別れることに、納得してる自分がいるのが一番つらいの。
 > あなたと話すより、黙ってる時間のほうが楽になっちゃってた」

 その言葉に、創は何も返せなかった。
 愛があったか?と聞かれれば、たぶんあった。
 だが、それより先に言葉にすべきものが、たくさんあったのだと、いまでは思う。

 日付が変わった。
 創はベッドに潜り込むこともせず、明かりを点けたまま、そのままうたた寝のような姿勢で眠ってしまった。

 夢を見た。
 夢の中で彼は、どこか知らない家の前に立っていた。
 中から誰かが笑い声をあげていて、窓の奥に、灯りが見えた。
 それはどこかで見たような光景だったが、どうしても思い出せなかった。

 目が覚めたとき、身体の中に“ぽっかりと空いた穴”のようなものが残っていた。
 それは決して「悲しみ」とも「喪失」とも違う。
 もっと曖昧で、形容しがたい感情だった。
 だが確かに、自分が何かを「見失い続けている」ことだけは、分かっていた。

 翌朝、出勤途中。
 例の雑居ビルの前を通った。

 ……灯りは、点いていなかった。

 創は足を止めた。
 この数ヶ月、毎晩当たり前のように点いていた光。
 それが、今朝はただ、無人の部屋のようにひっそりと暗く沈んでいた。

 不思議なほど、胸がざわついた。

 「誰かの生活が、消えたかもしれない」
 そう思ったとき、自分の生活が急に無価値に感じられた。

 もちろん、単なる不在かもしれない。
 風邪でもひいたのか、外泊でもしたのか、それともただ照明が壊れたのか――

 けれど、灯りが消えたというただそれだけのことで、
 “世界の一部が欠けたような気持ち”になるとは思わなかった。

 職場では特に話すこともなかった。
 出版社といっても、今の創の部署は「編集部」というよりほとんど社内調整係のようなものだった。自社出版と外部提携、広告との兼ね合い、著者とのやり取り、数字の調整。
 創の机の上には、未開封のゲラと、返信を迷って保留していた作家からのメールがいくつか溜まっていた。

 会話がないわけではなかった。
 周囲には若い社員も何人かいて、昼にはコンビニ弁当を囲んで、テレビドラマの話やSNSのバズりネタで笑っていた。
 だがその輪に入ることは、創にはできなかった。
 笑い声のテンポに合わせて言葉を挟む、そのリズムに、もう自分の反射神経は追いつかなくなっていた。

 それを年齢のせいにするには、彼はまだ若すぎた。
 かといって、今さら「どうやって人と接すればいいのか」が分からなかった。

 昼休み。
 ビルの裏手にある、少し汚れた喫煙所のベンチに腰を下ろす。
 煙草を吸わない創にとっても、ここは貴重な“誰にも話しかけられない空間”だった。

 隣に座った営業部の伊藤が、珍しく話しかけてきた。

 「藤崎さん、週末ヒマですか?」

 創は少し驚いて、煙を遠ざけながら首をかしげた。

 「特に予定はないけど……なにか?」

 伊藤はにやりと笑った。

 「合コンっすよ。女の子、ちょっと年上だけど、綺麗系。バツイチとかもいますけど、気楽な感じで」

 創はその言葉に、ひと呼吸おいてから笑った。

 「……ありがとう。でも、俺、そういうの苦手なんだ」

 「えー、もったいないなあ。たまには新しい空気、吸わないと」

 そう言いながら、伊藤は煙を口から吐き出し、何も言わずに立ち去っていった。

 たしかに、新しい空気は必要だった。
 だが、その空気が、自分を“どこか違う場所”へ連れていくような気がして、創は怖かった。

 人間関係を築くには、相応の“投資”がいる。
 時間と、感情と、沈黙を共有する覚悟。
 それを今の自分ができるとは、とても思えなかった。

 その晩、創は少し遠回りをして帰った。

 いつもの雑居ビルの前を、無意識に通る。
 見上げる。三階の、その部屋――

 灯りは、まだ点いていなかった。

 たったそれだけのことで、歩く速度が少しだけ鈍くなった。
 足取りは重く、息が苦しくなるほどではない。
 けれど、胸のどこかに鉛のような感覚が残る。

 あの部屋に住んでいた人が、もういない。
 それだけは、どうしても否定できない気がした。

 家に帰ると、部屋は無人のままだった。
 当たり前のことが、今夜はことさらに無機質に感じられた。

 理子のLINEもそのままにしていた。
 きっと彼女は、また何気ない写真を送ってくるだろう。
 自分の今の生活を報告するように。
 もしかすると――「私、再婚したの」とでも書く日が来るのかもしれない。

 それでも、創は既読をつけることすらできなかった。

 テレビを点けた。音量を絞って、何も聞こえない程度にした。

 「誰かがそこにいる」と思えるだけで、少しは安心できた。
 画面の中の会話が、自分とは無関係だと分かっていても、その“明るさ”だけで、闇に押しつぶされずに済んだ。

 彼はそうやって、誰にも知られないまま、“生活の灯り”だけを頼りに、生きていた。

 風が強い夜だった。
 カーテンがわずかに揺れ、窓の隙間から風が入り込む。
 窓を閉めようと立ち上がったとき、ふと見えた――

 灯りが、点いていた。

 雑居ビルの三階。
 毎晩、創が見上げていた部屋。
 一週間ほど姿を消していたその灯りが、何の前触れもなく、戻っていた。

 その瞬間、創は言葉にならない感情に包まれた。
 それが安堵だったのか、単なる反射的な反応だったのか、自分でも分からなかった。
 ただ、胸の奥に染みるような“温度”だけが、確かにそこにあった。

 「ただいま」と声に出してみた。
 もちろん返事はない。
 だが、その言葉が自分の耳に届くだけで、
 まるでこの部屋に、自分以外の何かが“存在”しているような気がして、少しだけ救われた。

 食事をしながら、ふと理子との過去が脳裏をよぎった。

 彼女は決して口数が多い方ではなかったが、食卓ではよく笑った。
 作りすぎた煮物をタッパーに詰めて、翌日の弁当にしていた姿。
 テレビを見ながら「これ、あなた好きそうだね」と言ってくれた声。

 それらの一つ一つが、今はもう二度と戻らないものだと分かっているのに、
 不意に湧き上がる記憶は、決まって“何でもない瞬間”ばかりだった。

 別れ際の言葉も、涙も、怒りも――
 なぜか時間と共に薄れていくのに、そういう細部だけが、いつまでも色濃く残る。

 テレビの音を消し、照明を落とした。
 部屋の隅に立ち尽くしながら、創はそっとカーテンの隙間から外を見た。

 その部屋の灯りは、まだついていた。
 レース越しに見える光は、淡く、揺れているように見えた。

 「誰か、帰ってきたんだな」
 それだけのことなのに、創はなぜか、ほっとしたのではなく、少しだけ寂しくなった。

 自分が“勝手に拠り所にしていたもの”が、
 ちゃんと“誰かのもの”であったという事実に、突き放されたような気がした。

 翌朝、目覚めてすぐ、創はまたその窓を見た。
 当然のことながら、灯りは消えていた。

 誰かが眠り、朝を迎えたのだ。
 創もまた、自分の朝を迎えていた。
 けれど、そのふたつの「朝」は、まったく交わらないまま、別々のリズムで進んでいく。

 隣人というには遠すぎて、
 赤の他人というには、どこか気になってしまう。
 そんな誰かの生活が、いつの間にか自分の感情の一部になっていたことに、創は今さら気づいた。

 通勤の電車の中で、スマホを開いた。

 理子のメッセージ欄は、そのままだった。
 スタンプの顔が、ずっと笑っていた。
 無視しているつもりはなかった。
 だが、返事をする意味もまた、創には見いだせなかった。

 「元気だよ」と言うには、嘘になる。
 「まだしんどい」と言えば、彼女を煩わせてしまう。
 だから彼は、何も言わないことを選び続けている。

 職場に着き、パソコンを開く。
 メールは山ほど届いていたが、ほとんどは“処理すれば終わるもの”だった。

 人間関係は、そうはいかない。
 いったん心に入ってしまったものは、削除ボタンでは消せない。

 創はふと、自分のデスクの上にあるカレンダーに目をやった。
 来週末、父の七回忌があったことを思い出す。

 行くべきか、行かないべきか。
 家族にすら、もう迷うのが自分の常だ。

 その週末、東京は珍しく穏やかな陽気だった。
 四月の終わりにしては風が涼しく、日差しがやわらかい。
 洗濯物がよく乾く日だと思いながら、創はベランダの外をぼんやりと眺めていた。

 ここに越してきて三年になる。
 けれど、この街に“愛着”というものを抱いたことは一度もなかった。
 あまりに生活が静かすぎて、記憶にすら残らないような毎日だった。
 駅前の弁当屋の看板が変わっていたことに気づいたとき、自分がどれだけ「この街を生きていなかったか」を思い知らされた。

 昼過ぎ。
 ふと、あの灯りの部屋のことが気になった。
 平日の夜はいつも点いていた。
 では、週末の昼間は?
 住人は家にいるのか、外出しているのか。
 そもそも――どんな人が、そこに住んでいるのか。

 「見に行くだけだ」
 自分にそう言い訳をしながら、創は靴を履いた。

 マンションから歩いて7分。
 例の雑居ビルは、昼間に見るとよりいっそう生活感がなかった。
 外壁はくすみ、ひび割れた階段の手すりには埃が溜まっていた。
 だがその古さが、逆に“人が住んでいる気配”をかすかにまとっていた。

 エントランスに入りかけたとき、掲示板に貼られた一枚の紙が目に留まった。

「302号室へご用の方は、インターホンを押してください。
 出られないときはメモをポストへどうぞ」

 302号室――まさに、いつも灯りがついている部屋だった。

 創は、なぜだか心臓が少しだけ早く打つのを感じた。
 手のひらがわずかに湿っている。
 理由はわからなかった。
 誰に会うわけでも、用があるわけでもないのに。

 階段を登ろうとしたそのときだった。
 二階の踊り場から、小さな音が聞こえた。
 ドアが、ゆっくりと閉まる音。
 その一瞬の気配を、創はなぜか「見られていた」ような気がして、足を止めた。

 だが、その場に人の姿はなかった。

 何をしているんだろう――
 そう思いながら、創はポケットに入れていたボールペンと小さな手帳を取り出した。

 そして、何も書かれていないページに、短くこう記した。

「灯り、いつも見ています。ありがとうございます。」

 どこの誰が読むのかもわからない。
 返事がくるとも思っていない。
 ただ、「自分はここにいた」という痕跡を、誰かの世界に残したかったのかもしれなかった。

 帰り道、少しだけ呼吸が軽くなっている気がした。
 変わったことなど何も起きていないのに、
 世界がほんのわずか、輪郭を持ちはじめたような気がした。

 家に帰ると、スマートフォンに新しい通知が届いていた。

 差出人は、理子だった。

「いま、東京にいます。
 少しだけ、会いませんか?」

 心臓が、またひとつ、大きく脈を打った。

 スマートフォンの画面を見つめながら、創はしばらくの間、何も考えられなかった。
 文字は静かにそこにあって、音も色も持たないはずなのに、なぜだかそれが“声”のように聞こえた。

「いま、東京にいます。
 少しだけ、会いませんか?」

 時間は午前11時過ぎ。
 日曜の街がゆっくりと活動を始めるころ。
 その一通のメッセージは、彼の中に積もっていた埃のようなものを、静かに撫でていった。

 しばらく迷ったあと、創は画面を閉じた。
 返信はしなかった。
 “しなかった”というより、“できなかった”の方が正しい。
 彼女がどんな気持ちでこのメッセージを送ってきたのか、その真意がわからなかったし、それを問う自信もなかった。

 理子と別れて三年。
 互いのことを深く知っていた時期もあったが、それでも今の彼女のことはわからない。
 何が変わり、何がそのままなのかも、今の創には判断できなかった。

 午後、創はなんとなく外に出た。
 目的があったわけではない。
 ただ、部屋の中にいることが妙に息苦しく思えたのだ。

 それまでの人生で、「誰かに会いに行く」ためではなく「誰かに会ってしまいそうな気がして」外出を避けたことは何度もあった。
 でもこの日は、**むしろ“誰かに出くわしたい”**と思っていた。
 その誰かが、理子でも、灯りの部屋の住人でも、自分自身でもよかった。

 歩き慣れた商店街を抜けて、例の雑居ビルの前まで来た。
 空はうっすらと曇っていたが、風はなく、季節の境目の匂いがした。

 エントランスには、まだ貼り紙があった。
 昨日自分が入れたメモは、ポストの口に差し込んだまま、そこにあった。
 取り出されていない。
 あるいは、読んだうえで、わざとそのままにされているのかもしれなかった。

 ポストの中には他にも何通かのチラシや封筒が見えた。
 生活の痕跡。
 創はそのことに、不思議なほど安心していた。

 帰り道、ふと前を歩いていた女性が足を止めた。
 黒いパーカーにジーンズ。髪は短く、後ろ姿から年齢はわからなかった。

 彼女は、雑居ビルの中に入っていった。
 創は何気なく、そのまま足を止めて見上げた。

 三階。
 窓に、灯りが点いた。

 偶然かもしれない。
 でも、創の中では何かが確かに“繋がった”気がした。

 顔も知らない。
 名前も知らない。
 けれど、その光が「ただの光」ではなく、“誰かの意思”としての光であったとき、
 彼の孤独は、ほんのわずかだけ、崩れ始めたのだった。

 部屋に戻ると、スマートフォンがわずかに震えた。

 画面を開くと、理子からのメッセージに返信が届いていた。

「ごめん、急に。
 会いたいってほどのことじゃないの。
 ただ、最近あなたを思い出すことが多くて。
 あのころ、私たち、どこで間違えたんだろうね」

 彼女らしい言葉だった。
 まっすぐでもなく、冷たくもなく、ただ少しだけ湿り気を帯びたような文章。
 それはまるで、古びた服のポケットからふと出てきた、小さな写真のようだった。

 創はすぐには返事をしなかった。

 “あのころ、どこで間違えたのか”。

 それはたぶん、ふたりとも、どこかで「もういいや」と思った瞬間だろう。
 感情をすり減らして、声を出さずに日々をやり過ごしたその時間が、決定的な“間違い”だったのだと思う。

 そして今、彼は思っている。

 たとえやり直すことがなかったとしても、
 あの時間に何かを置き去りにしたまま、自分は今もここに立っているのだと。

 夜。
 再び、雑居ビルの前を通った。

 三階の窓には、やわらかい光が灯っていた。
 それは日ごとに“生活のリズム”を帯びてきているように思えた。

 創は足を止め、数秒だけ、その灯りを見つめた。

 あの光が何かを語りかけてくるわけではない。
 けれど、それは彼にとって、確かに“誰かがそこにいる”という証だった。
 世界のどこかで、自分以外の誰かが、同じように静かな夜を過ごしているということ。

 翌朝、彼はメモ帳を手に取り、そこに一文だけ書いた。

「また、灯りが点いていて、うれしかったです」

 それをポストに入れることはなかった。
 けれど、それを「書いた」という事実だけが、彼の中で何かを変えた。

 自分の思いを、誰かに届けようとする。
 それは、ほんのわずかな希望の発露だった。

 理子には、こう返信をした。

「会っても、きっと何も解決しない。
 でも、あなたが僕を思い出してくれたことに、ありがとうを言いたい。
 たぶん僕はまだ、誰かともう一度、向き合いたいと思ってる。」

 送信ボタンを押したあと、深く息を吐いた。

 もう、何も起きなくてもいい。
 それでも、今日を昨日の繰り返しにしないことだけは、できた気がした。

 部屋に戻ると、午後の光がカーテンを通して差し込んでいた。
 テレビは消えたまま、時計の針が静かに動いていた。

 そのとき創は、ふと呟いた。

 「灯りって、誰のために点いてるんだろうな……」

 少し笑って、顔を上げた。

 そして彼は思った。
 それは、たぶん――自分以外の誰かが、まだ“ここにいる”と信じたくなるときのためなのかもしれない。
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