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灯りは誰のために点いている
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午後七時十二分。
東京・代々木の地下鉄出口を出たところで、藤崎創は時計を見た。いつもより三分早い。だが、特に予定があるわけでもない。彼を待っている人間はいなかったし、帰宅しても話しかけてくる者はいない。誰に知らせることもない小さな「早さ」は、ただの誤差でしかなかった。
信号待ちをしながら、目の前の雑居ビルを見上げる。歯医者、ネイルサロン、輸入雑貨店。どれもよくある店名だったが、三階の一室だけ、夜になると決まって窓に灯りがついた。レースのカーテン越しに、温かみのある間接照明のような光が漏れている。
創はそれを、ここ数ヶ月ずっと見ている。
灯りが点いていることに安心し、消えていると少しだけ不安になる。
その部屋に誰が住んでいるのかも、どんな生活をしているのかも知らない。けれど、なぜか彼にとってその灯りは、自分がこの街に「まだ在る」と確認できる唯一の証のように思えていた。
その灯りを見つめているときだけ、創は「まだ大丈夫だ」と思えた。
だからといって、何がどうなるわけでもない。
人生が突然良い方向へ転がることはなく、誰かに好かれることもなければ、記憶の中の誰かが戻ってくることもない。ただ、その光を眺めることで、自分が“ここにいてもいい”ような錯覚を得られたのだった。
エレベーターのない築四十年のマンション。三階の部屋まで上がる途中、どの階にも生活音はなく、静かだった。だが、それが心地よくもある。自分ひとりだけが、ひっそりとこの建物の空気を吸っている気がした。
部屋に入ると、あらかじめタイマー設定されていた照明が点いていた。まるで誰かが「おかえり」とでも言ってくれているようだった。けれど、それは“演出”でしかない。機械が点けた光に、感情などあるはずがなかった。
玄関で靴を脱ぎ、スーツの上着を脱ぎ捨て、肩を回す。冷蔵庫には昨日買ったままのサラダと、缶チューハイが一本だけ残っていた。
今夜もそれで済ませるのだろう。コンビニ弁当を買ってくるほどの元気もない。
スマホを確認すると、未読のLINEがひとつだけあった。
名前は、「西川理子」。
元妻の名前だ。
離婚してから、もう三年が経つ。にもかかわらず、彼女はたまに唐突にメッセージを送ってくる。内容はいつも他愛もない。共通の知人の話だったり、テレビ番組の感想だったり。「これ、好きだったよね」と過去の食べ物の写真を送ってきたりもする。
創は開かずにそのままにした。
読んでしまうと、返信しなければならなくなる。
そうしてまた、過去に縛られるのが怖かった。
風呂もシャワーも面倒だった。
湯を張らず、洗面所で顔を洗ってタオルで拭いた。
鏡に映る自分の顔は、歳より老けて見えた。
顎のラインが少し崩れてきた。目の下には薄くクマができていた。
自分が「まだ若い」と思い込めていた頃が、もはや懐かしかった。
夜十一時。
静まり返った部屋で、創はベッドにもソファにも座らず、キッチンの椅子に腰をかけていた。
照明は落とし、冷蔵庫のわずかな唸りと、窓の外の車の音だけが空間を支配していた。何もしていないという感覚だけが、過剰に大きく膨らんでくる。まるで、自分が「取り残されている」ことそのものが、現実のすべてであるかのように。
ふと、LINEの通知が光った。
――既読をつけないままの理子のメッセージが、スタンプひとつだけを送り直してきた。
それは、目をつぶって笑う顔だった。
以前、創がよく使っていたものと同じだった。
罪悪感ではない。
だが、かつて共有していた“言葉の癖”を思い出すたびに、
「やり直す気はなかったか?」と自分に問いかけている誰かの声を、創は感じてしまう。
離婚は、どちらが悪いというものではなかった。
ただ、二人とも言葉にするのが遅すぎた。
小さなすれ違いが堆積し、それが相手の「沈黙」として響いたとき、ふたりの間にはもう、どうにもならないほどの距離が生まれていた。
最後の夜、理子は荷物をまとめながら言った。
>「別れることに、納得してる自分がいるのが一番つらいの。
> あなたと話すより、黙ってる時間のほうが楽になっちゃってた」
その言葉に、創は何も返せなかった。
愛があったか?と聞かれれば、たぶんあった。
だが、それより先に言葉にすべきものが、たくさんあったのだと、いまでは思う。
日付が変わった。
創はベッドに潜り込むこともせず、明かりを点けたまま、そのままうたた寝のような姿勢で眠ってしまった。
夢を見た。
夢の中で彼は、どこか知らない家の前に立っていた。
中から誰かが笑い声をあげていて、窓の奥に、灯りが見えた。
それはどこかで見たような光景だったが、どうしても思い出せなかった。
目が覚めたとき、身体の中に“ぽっかりと空いた穴”のようなものが残っていた。
それは決して「悲しみ」とも「喪失」とも違う。
もっと曖昧で、形容しがたい感情だった。
だが確かに、自分が何かを「見失い続けている」ことだけは、分かっていた。
翌朝、出勤途中。
例の雑居ビルの前を通った。
……灯りは、点いていなかった。
創は足を止めた。
この数ヶ月、毎晩当たり前のように点いていた光。
それが、今朝はただ、無人の部屋のようにひっそりと暗く沈んでいた。
不思議なほど、胸がざわついた。
「誰かの生活が、消えたかもしれない」
そう思ったとき、自分の生活が急に無価値に感じられた。
もちろん、単なる不在かもしれない。
風邪でもひいたのか、外泊でもしたのか、それともただ照明が壊れたのか――
けれど、灯りが消えたというただそれだけのことで、
“世界の一部が欠けたような気持ち”になるとは思わなかった。
職場では特に話すこともなかった。
出版社といっても、今の創の部署は「編集部」というよりほとんど社内調整係のようなものだった。自社出版と外部提携、広告との兼ね合い、著者とのやり取り、数字の調整。
創の机の上には、未開封のゲラと、返信を迷って保留していた作家からのメールがいくつか溜まっていた。
会話がないわけではなかった。
周囲には若い社員も何人かいて、昼にはコンビニ弁当を囲んで、テレビドラマの話やSNSのバズりネタで笑っていた。
だがその輪に入ることは、創にはできなかった。
笑い声のテンポに合わせて言葉を挟む、そのリズムに、もう自分の反射神経は追いつかなくなっていた。
それを年齢のせいにするには、彼はまだ若すぎた。
かといって、今さら「どうやって人と接すればいいのか」が分からなかった。
昼休み。
ビルの裏手にある、少し汚れた喫煙所のベンチに腰を下ろす。
煙草を吸わない創にとっても、ここは貴重な“誰にも話しかけられない空間”だった。
隣に座った営業部の伊藤が、珍しく話しかけてきた。
「藤崎さん、週末ヒマですか?」
創は少し驚いて、煙を遠ざけながら首をかしげた。
「特に予定はないけど……なにか?」
伊藤はにやりと笑った。
「合コンっすよ。女の子、ちょっと年上だけど、綺麗系。バツイチとかもいますけど、気楽な感じで」
創はその言葉に、ひと呼吸おいてから笑った。
「……ありがとう。でも、俺、そういうの苦手なんだ」
「えー、もったいないなあ。たまには新しい空気、吸わないと」
そう言いながら、伊藤は煙を口から吐き出し、何も言わずに立ち去っていった。
たしかに、新しい空気は必要だった。
だが、その空気が、自分を“どこか違う場所”へ連れていくような気がして、創は怖かった。
人間関係を築くには、相応の“投資”がいる。
時間と、感情と、沈黙を共有する覚悟。
それを今の自分ができるとは、とても思えなかった。
その晩、創は少し遠回りをして帰った。
いつもの雑居ビルの前を、無意識に通る。
見上げる。三階の、その部屋――
灯りは、まだ点いていなかった。
たったそれだけのことで、歩く速度が少しだけ鈍くなった。
足取りは重く、息が苦しくなるほどではない。
けれど、胸のどこかに鉛のような感覚が残る。
あの部屋に住んでいた人が、もういない。
それだけは、どうしても否定できない気がした。
家に帰ると、部屋は無人のままだった。
当たり前のことが、今夜はことさらに無機質に感じられた。
理子のLINEもそのままにしていた。
きっと彼女は、また何気ない写真を送ってくるだろう。
自分の今の生活を報告するように。
もしかすると――「私、再婚したの」とでも書く日が来るのかもしれない。
それでも、創は既読をつけることすらできなかった。
テレビを点けた。音量を絞って、何も聞こえない程度にした。
「誰かがそこにいる」と思えるだけで、少しは安心できた。
画面の中の会話が、自分とは無関係だと分かっていても、その“明るさ”だけで、闇に押しつぶされずに済んだ。
彼はそうやって、誰にも知られないまま、“生活の灯り”だけを頼りに、生きていた。
風が強い夜だった。
カーテンがわずかに揺れ、窓の隙間から風が入り込む。
窓を閉めようと立ち上がったとき、ふと見えた――
灯りが、点いていた。
雑居ビルの三階。
毎晩、創が見上げていた部屋。
一週間ほど姿を消していたその灯りが、何の前触れもなく、戻っていた。
その瞬間、創は言葉にならない感情に包まれた。
それが安堵だったのか、単なる反射的な反応だったのか、自分でも分からなかった。
ただ、胸の奥に染みるような“温度”だけが、確かにそこにあった。
「ただいま」と声に出してみた。
もちろん返事はない。
だが、その言葉が自分の耳に届くだけで、
まるでこの部屋に、自分以外の何かが“存在”しているような気がして、少しだけ救われた。
食事をしながら、ふと理子との過去が脳裏をよぎった。
彼女は決して口数が多い方ではなかったが、食卓ではよく笑った。
作りすぎた煮物をタッパーに詰めて、翌日の弁当にしていた姿。
テレビを見ながら「これ、あなた好きそうだね」と言ってくれた声。
それらの一つ一つが、今はもう二度と戻らないものだと分かっているのに、
不意に湧き上がる記憶は、決まって“何でもない瞬間”ばかりだった。
別れ際の言葉も、涙も、怒りも――
なぜか時間と共に薄れていくのに、そういう細部だけが、いつまでも色濃く残る。
テレビの音を消し、照明を落とした。
部屋の隅に立ち尽くしながら、創はそっとカーテンの隙間から外を見た。
その部屋の灯りは、まだついていた。
レース越しに見える光は、淡く、揺れているように見えた。
「誰か、帰ってきたんだな」
それだけのことなのに、創はなぜか、ほっとしたのではなく、少しだけ寂しくなった。
自分が“勝手に拠り所にしていたもの”が、
ちゃんと“誰かのもの”であったという事実に、突き放されたような気がした。
翌朝、目覚めてすぐ、創はまたその窓を見た。
当然のことながら、灯りは消えていた。
誰かが眠り、朝を迎えたのだ。
創もまた、自分の朝を迎えていた。
けれど、そのふたつの「朝」は、まったく交わらないまま、別々のリズムで進んでいく。
隣人というには遠すぎて、
赤の他人というには、どこか気になってしまう。
そんな誰かの生活が、いつの間にか自分の感情の一部になっていたことに、創は今さら気づいた。
通勤の電車の中で、スマホを開いた。
理子のメッセージ欄は、そのままだった。
スタンプの顔が、ずっと笑っていた。
無視しているつもりはなかった。
だが、返事をする意味もまた、創には見いだせなかった。
「元気だよ」と言うには、嘘になる。
「まだしんどい」と言えば、彼女を煩わせてしまう。
だから彼は、何も言わないことを選び続けている。
職場に着き、パソコンを開く。
メールは山ほど届いていたが、ほとんどは“処理すれば終わるもの”だった。
人間関係は、そうはいかない。
いったん心に入ってしまったものは、削除ボタンでは消せない。
創はふと、自分のデスクの上にあるカレンダーに目をやった。
来週末、父の七回忌があったことを思い出す。
行くべきか、行かないべきか。
家族にすら、もう迷うのが自分の常だ。
その週末、東京は珍しく穏やかな陽気だった。
四月の終わりにしては風が涼しく、日差しがやわらかい。
洗濯物がよく乾く日だと思いながら、創はベランダの外をぼんやりと眺めていた。
ここに越してきて三年になる。
けれど、この街に“愛着”というものを抱いたことは一度もなかった。
あまりに生活が静かすぎて、記憶にすら残らないような毎日だった。
駅前の弁当屋の看板が変わっていたことに気づいたとき、自分がどれだけ「この街を生きていなかったか」を思い知らされた。
昼過ぎ。
ふと、あの灯りの部屋のことが気になった。
平日の夜はいつも点いていた。
では、週末の昼間は?
住人は家にいるのか、外出しているのか。
そもそも――どんな人が、そこに住んでいるのか。
「見に行くだけだ」
自分にそう言い訳をしながら、創は靴を履いた。
マンションから歩いて7分。
例の雑居ビルは、昼間に見るとよりいっそう生活感がなかった。
外壁はくすみ、ひび割れた階段の手すりには埃が溜まっていた。
だがその古さが、逆に“人が住んでいる気配”をかすかにまとっていた。
エントランスに入りかけたとき、掲示板に貼られた一枚の紙が目に留まった。
「302号室へご用の方は、インターホンを押してください。
出られないときはメモをポストへどうぞ」
302号室――まさに、いつも灯りがついている部屋だった。
創は、なぜだか心臓が少しだけ早く打つのを感じた。
手のひらがわずかに湿っている。
理由はわからなかった。
誰に会うわけでも、用があるわけでもないのに。
階段を登ろうとしたそのときだった。
二階の踊り場から、小さな音が聞こえた。
ドアが、ゆっくりと閉まる音。
その一瞬の気配を、創はなぜか「見られていた」ような気がして、足を止めた。
だが、その場に人の姿はなかった。
何をしているんだろう――
そう思いながら、創はポケットに入れていたボールペンと小さな手帳を取り出した。
そして、何も書かれていないページに、短くこう記した。
「灯り、いつも見ています。ありがとうございます。」
どこの誰が読むのかもわからない。
返事がくるとも思っていない。
ただ、「自分はここにいた」という痕跡を、誰かの世界に残したかったのかもしれなかった。
帰り道、少しだけ呼吸が軽くなっている気がした。
変わったことなど何も起きていないのに、
世界がほんのわずか、輪郭を持ちはじめたような気がした。
家に帰ると、スマートフォンに新しい通知が届いていた。
差出人は、理子だった。
「いま、東京にいます。
少しだけ、会いませんか?」
心臓が、またひとつ、大きく脈を打った。
スマートフォンの画面を見つめながら、創はしばらくの間、何も考えられなかった。
文字は静かにそこにあって、音も色も持たないはずなのに、なぜだかそれが“声”のように聞こえた。
「いま、東京にいます。
少しだけ、会いませんか?」
時間は午前11時過ぎ。
日曜の街がゆっくりと活動を始めるころ。
その一通のメッセージは、彼の中に積もっていた埃のようなものを、静かに撫でていった。
しばらく迷ったあと、創は画面を閉じた。
返信はしなかった。
“しなかった”というより、“できなかった”の方が正しい。
彼女がどんな気持ちでこのメッセージを送ってきたのか、その真意がわからなかったし、それを問う自信もなかった。
理子と別れて三年。
互いのことを深く知っていた時期もあったが、それでも今の彼女のことはわからない。
何が変わり、何がそのままなのかも、今の創には判断できなかった。
午後、創はなんとなく外に出た。
目的があったわけではない。
ただ、部屋の中にいることが妙に息苦しく思えたのだ。
それまでの人生で、「誰かに会いに行く」ためではなく「誰かに会ってしまいそうな気がして」外出を避けたことは何度もあった。
でもこの日は、**むしろ“誰かに出くわしたい”**と思っていた。
その誰かが、理子でも、灯りの部屋の住人でも、自分自身でもよかった。
歩き慣れた商店街を抜けて、例の雑居ビルの前まで来た。
空はうっすらと曇っていたが、風はなく、季節の境目の匂いがした。
エントランスには、まだ貼り紙があった。
昨日自分が入れたメモは、ポストの口に差し込んだまま、そこにあった。
取り出されていない。
あるいは、読んだうえで、わざとそのままにされているのかもしれなかった。
ポストの中には他にも何通かのチラシや封筒が見えた。
生活の痕跡。
創はそのことに、不思議なほど安心していた。
帰り道、ふと前を歩いていた女性が足を止めた。
黒いパーカーにジーンズ。髪は短く、後ろ姿から年齢はわからなかった。
彼女は、雑居ビルの中に入っていった。
創は何気なく、そのまま足を止めて見上げた。
三階。
窓に、灯りが点いた。
偶然かもしれない。
でも、創の中では何かが確かに“繋がった”気がした。
顔も知らない。
名前も知らない。
けれど、その光が「ただの光」ではなく、“誰かの意思”としての光であったとき、
彼の孤独は、ほんのわずかだけ、崩れ始めたのだった。
部屋に戻ると、スマートフォンがわずかに震えた。
画面を開くと、理子からのメッセージに返信が届いていた。
「ごめん、急に。
会いたいってほどのことじゃないの。
ただ、最近あなたを思い出すことが多くて。
あのころ、私たち、どこで間違えたんだろうね」
彼女らしい言葉だった。
まっすぐでもなく、冷たくもなく、ただ少しだけ湿り気を帯びたような文章。
それはまるで、古びた服のポケットからふと出てきた、小さな写真のようだった。
創はすぐには返事をしなかった。
“あのころ、どこで間違えたのか”。
それはたぶん、ふたりとも、どこかで「もういいや」と思った瞬間だろう。
感情をすり減らして、声を出さずに日々をやり過ごしたその時間が、決定的な“間違い”だったのだと思う。
そして今、彼は思っている。
たとえやり直すことがなかったとしても、
あの時間に何かを置き去りにしたまま、自分は今もここに立っているのだと。
夜。
再び、雑居ビルの前を通った。
三階の窓には、やわらかい光が灯っていた。
それは日ごとに“生活のリズム”を帯びてきているように思えた。
創は足を止め、数秒だけ、その灯りを見つめた。
あの光が何かを語りかけてくるわけではない。
けれど、それは彼にとって、確かに“誰かがそこにいる”という証だった。
世界のどこかで、自分以外の誰かが、同じように静かな夜を過ごしているということ。
翌朝、彼はメモ帳を手に取り、そこに一文だけ書いた。
「また、灯りが点いていて、うれしかったです」
それをポストに入れることはなかった。
けれど、それを「書いた」という事実だけが、彼の中で何かを変えた。
自分の思いを、誰かに届けようとする。
それは、ほんのわずかな希望の発露だった。
理子には、こう返信をした。
「会っても、きっと何も解決しない。
でも、あなたが僕を思い出してくれたことに、ありがとうを言いたい。
たぶん僕はまだ、誰かともう一度、向き合いたいと思ってる。」
送信ボタンを押したあと、深く息を吐いた。
もう、何も起きなくてもいい。
それでも、今日を昨日の繰り返しにしないことだけは、できた気がした。
部屋に戻ると、午後の光がカーテンを通して差し込んでいた。
テレビは消えたまま、時計の針が静かに動いていた。
そのとき創は、ふと呟いた。
「灯りって、誰のために点いてるんだろうな……」
少し笑って、顔を上げた。
そして彼は思った。
それは、たぶん――自分以外の誰かが、まだ“ここにいる”と信じたくなるときのためなのかもしれない。
東京・代々木の地下鉄出口を出たところで、藤崎創は時計を見た。いつもより三分早い。だが、特に予定があるわけでもない。彼を待っている人間はいなかったし、帰宅しても話しかけてくる者はいない。誰に知らせることもない小さな「早さ」は、ただの誤差でしかなかった。
信号待ちをしながら、目の前の雑居ビルを見上げる。歯医者、ネイルサロン、輸入雑貨店。どれもよくある店名だったが、三階の一室だけ、夜になると決まって窓に灯りがついた。レースのカーテン越しに、温かみのある間接照明のような光が漏れている。
創はそれを、ここ数ヶ月ずっと見ている。
灯りが点いていることに安心し、消えていると少しだけ不安になる。
その部屋に誰が住んでいるのかも、どんな生活をしているのかも知らない。けれど、なぜか彼にとってその灯りは、自分がこの街に「まだ在る」と確認できる唯一の証のように思えていた。
その灯りを見つめているときだけ、創は「まだ大丈夫だ」と思えた。
だからといって、何がどうなるわけでもない。
人生が突然良い方向へ転がることはなく、誰かに好かれることもなければ、記憶の中の誰かが戻ってくることもない。ただ、その光を眺めることで、自分が“ここにいてもいい”ような錯覚を得られたのだった。
エレベーターのない築四十年のマンション。三階の部屋まで上がる途中、どの階にも生活音はなく、静かだった。だが、それが心地よくもある。自分ひとりだけが、ひっそりとこの建物の空気を吸っている気がした。
部屋に入ると、あらかじめタイマー設定されていた照明が点いていた。まるで誰かが「おかえり」とでも言ってくれているようだった。けれど、それは“演出”でしかない。機械が点けた光に、感情などあるはずがなかった。
玄関で靴を脱ぎ、スーツの上着を脱ぎ捨て、肩を回す。冷蔵庫には昨日買ったままのサラダと、缶チューハイが一本だけ残っていた。
今夜もそれで済ませるのだろう。コンビニ弁当を買ってくるほどの元気もない。
スマホを確認すると、未読のLINEがひとつだけあった。
名前は、「西川理子」。
元妻の名前だ。
離婚してから、もう三年が経つ。にもかかわらず、彼女はたまに唐突にメッセージを送ってくる。内容はいつも他愛もない。共通の知人の話だったり、テレビ番組の感想だったり。「これ、好きだったよね」と過去の食べ物の写真を送ってきたりもする。
創は開かずにそのままにした。
読んでしまうと、返信しなければならなくなる。
そうしてまた、過去に縛られるのが怖かった。
風呂もシャワーも面倒だった。
湯を張らず、洗面所で顔を洗ってタオルで拭いた。
鏡に映る自分の顔は、歳より老けて見えた。
顎のラインが少し崩れてきた。目の下には薄くクマができていた。
自分が「まだ若い」と思い込めていた頃が、もはや懐かしかった。
夜十一時。
静まり返った部屋で、創はベッドにもソファにも座らず、キッチンの椅子に腰をかけていた。
照明は落とし、冷蔵庫のわずかな唸りと、窓の外の車の音だけが空間を支配していた。何もしていないという感覚だけが、過剰に大きく膨らんでくる。まるで、自分が「取り残されている」ことそのものが、現実のすべてであるかのように。
ふと、LINEの通知が光った。
――既読をつけないままの理子のメッセージが、スタンプひとつだけを送り直してきた。
それは、目をつぶって笑う顔だった。
以前、創がよく使っていたものと同じだった。
罪悪感ではない。
だが、かつて共有していた“言葉の癖”を思い出すたびに、
「やり直す気はなかったか?」と自分に問いかけている誰かの声を、創は感じてしまう。
離婚は、どちらが悪いというものではなかった。
ただ、二人とも言葉にするのが遅すぎた。
小さなすれ違いが堆積し、それが相手の「沈黙」として響いたとき、ふたりの間にはもう、どうにもならないほどの距離が生まれていた。
最後の夜、理子は荷物をまとめながら言った。
>「別れることに、納得してる自分がいるのが一番つらいの。
> あなたと話すより、黙ってる時間のほうが楽になっちゃってた」
その言葉に、創は何も返せなかった。
愛があったか?と聞かれれば、たぶんあった。
だが、それより先に言葉にすべきものが、たくさんあったのだと、いまでは思う。
日付が変わった。
創はベッドに潜り込むこともせず、明かりを点けたまま、そのままうたた寝のような姿勢で眠ってしまった。
夢を見た。
夢の中で彼は、どこか知らない家の前に立っていた。
中から誰かが笑い声をあげていて、窓の奥に、灯りが見えた。
それはどこかで見たような光景だったが、どうしても思い出せなかった。
目が覚めたとき、身体の中に“ぽっかりと空いた穴”のようなものが残っていた。
それは決して「悲しみ」とも「喪失」とも違う。
もっと曖昧で、形容しがたい感情だった。
だが確かに、自分が何かを「見失い続けている」ことだけは、分かっていた。
翌朝、出勤途中。
例の雑居ビルの前を通った。
……灯りは、点いていなかった。
創は足を止めた。
この数ヶ月、毎晩当たり前のように点いていた光。
それが、今朝はただ、無人の部屋のようにひっそりと暗く沈んでいた。
不思議なほど、胸がざわついた。
「誰かの生活が、消えたかもしれない」
そう思ったとき、自分の生活が急に無価値に感じられた。
もちろん、単なる不在かもしれない。
風邪でもひいたのか、外泊でもしたのか、それともただ照明が壊れたのか――
けれど、灯りが消えたというただそれだけのことで、
“世界の一部が欠けたような気持ち”になるとは思わなかった。
職場では特に話すこともなかった。
出版社といっても、今の創の部署は「編集部」というよりほとんど社内調整係のようなものだった。自社出版と外部提携、広告との兼ね合い、著者とのやり取り、数字の調整。
創の机の上には、未開封のゲラと、返信を迷って保留していた作家からのメールがいくつか溜まっていた。
会話がないわけではなかった。
周囲には若い社員も何人かいて、昼にはコンビニ弁当を囲んで、テレビドラマの話やSNSのバズりネタで笑っていた。
だがその輪に入ることは、創にはできなかった。
笑い声のテンポに合わせて言葉を挟む、そのリズムに、もう自分の反射神経は追いつかなくなっていた。
それを年齢のせいにするには、彼はまだ若すぎた。
かといって、今さら「どうやって人と接すればいいのか」が分からなかった。
昼休み。
ビルの裏手にある、少し汚れた喫煙所のベンチに腰を下ろす。
煙草を吸わない創にとっても、ここは貴重な“誰にも話しかけられない空間”だった。
隣に座った営業部の伊藤が、珍しく話しかけてきた。
「藤崎さん、週末ヒマですか?」
創は少し驚いて、煙を遠ざけながら首をかしげた。
「特に予定はないけど……なにか?」
伊藤はにやりと笑った。
「合コンっすよ。女の子、ちょっと年上だけど、綺麗系。バツイチとかもいますけど、気楽な感じで」
創はその言葉に、ひと呼吸おいてから笑った。
「……ありがとう。でも、俺、そういうの苦手なんだ」
「えー、もったいないなあ。たまには新しい空気、吸わないと」
そう言いながら、伊藤は煙を口から吐き出し、何も言わずに立ち去っていった。
たしかに、新しい空気は必要だった。
だが、その空気が、自分を“どこか違う場所”へ連れていくような気がして、創は怖かった。
人間関係を築くには、相応の“投資”がいる。
時間と、感情と、沈黙を共有する覚悟。
それを今の自分ができるとは、とても思えなかった。
その晩、創は少し遠回りをして帰った。
いつもの雑居ビルの前を、無意識に通る。
見上げる。三階の、その部屋――
灯りは、まだ点いていなかった。
たったそれだけのことで、歩く速度が少しだけ鈍くなった。
足取りは重く、息が苦しくなるほどではない。
けれど、胸のどこかに鉛のような感覚が残る。
あの部屋に住んでいた人が、もういない。
それだけは、どうしても否定できない気がした。
家に帰ると、部屋は無人のままだった。
当たり前のことが、今夜はことさらに無機質に感じられた。
理子のLINEもそのままにしていた。
きっと彼女は、また何気ない写真を送ってくるだろう。
自分の今の生活を報告するように。
もしかすると――「私、再婚したの」とでも書く日が来るのかもしれない。
それでも、創は既読をつけることすらできなかった。
テレビを点けた。音量を絞って、何も聞こえない程度にした。
「誰かがそこにいる」と思えるだけで、少しは安心できた。
画面の中の会話が、自分とは無関係だと分かっていても、その“明るさ”だけで、闇に押しつぶされずに済んだ。
彼はそうやって、誰にも知られないまま、“生活の灯り”だけを頼りに、生きていた。
風が強い夜だった。
カーテンがわずかに揺れ、窓の隙間から風が入り込む。
窓を閉めようと立ち上がったとき、ふと見えた――
灯りが、点いていた。
雑居ビルの三階。
毎晩、創が見上げていた部屋。
一週間ほど姿を消していたその灯りが、何の前触れもなく、戻っていた。
その瞬間、創は言葉にならない感情に包まれた。
それが安堵だったのか、単なる反射的な反応だったのか、自分でも分からなかった。
ただ、胸の奥に染みるような“温度”だけが、確かにそこにあった。
「ただいま」と声に出してみた。
もちろん返事はない。
だが、その言葉が自分の耳に届くだけで、
まるでこの部屋に、自分以外の何かが“存在”しているような気がして、少しだけ救われた。
食事をしながら、ふと理子との過去が脳裏をよぎった。
彼女は決して口数が多い方ではなかったが、食卓ではよく笑った。
作りすぎた煮物をタッパーに詰めて、翌日の弁当にしていた姿。
テレビを見ながら「これ、あなた好きそうだね」と言ってくれた声。
それらの一つ一つが、今はもう二度と戻らないものだと分かっているのに、
不意に湧き上がる記憶は、決まって“何でもない瞬間”ばかりだった。
別れ際の言葉も、涙も、怒りも――
なぜか時間と共に薄れていくのに、そういう細部だけが、いつまでも色濃く残る。
テレビの音を消し、照明を落とした。
部屋の隅に立ち尽くしながら、創はそっとカーテンの隙間から外を見た。
その部屋の灯りは、まだついていた。
レース越しに見える光は、淡く、揺れているように見えた。
「誰か、帰ってきたんだな」
それだけのことなのに、創はなぜか、ほっとしたのではなく、少しだけ寂しくなった。
自分が“勝手に拠り所にしていたもの”が、
ちゃんと“誰かのもの”であったという事実に、突き放されたような気がした。
翌朝、目覚めてすぐ、創はまたその窓を見た。
当然のことながら、灯りは消えていた。
誰かが眠り、朝を迎えたのだ。
創もまた、自分の朝を迎えていた。
けれど、そのふたつの「朝」は、まったく交わらないまま、別々のリズムで進んでいく。
隣人というには遠すぎて、
赤の他人というには、どこか気になってしまう。
そんな誰かの生活が、いつの間にか自分の感情の一部になっていたことに、創は今さら気づいた。
通勤の電車の中で、スマホを開いた。
理子のメッセージ欄は、そのままだった。
スタンプの顔が、ずっと笑っていた。
無視しているつもりはなかった。
だが、返事をする意味もまた、創には見いだせなかった。
「元気だよ」と言うには、嘘になる。
「まだしんどい」と言えば、彼女を煩わせてしまう。
だから彼は、何も言わないことを選び続けている。
職場に着き、パソコンを開く。
メールは山ほど届いていたが、ほとんどは“処理すれば終わるもの”だった。
人間関係は、そうはいかない。
いったん心に入ってしまったものは、削除ボタンでは消せない。
創はふと、自分のデスクの上にあるカレンダーに目をやった。
来週末、父の七回忌があったことを思い出す。
行くべきか、行かないべきか。
家族にすら、もう迷うのが自分の常だ。
その週末、東京は珍しく穏やかな陽気だった。
四月の終わりにしては風が涼しく、日差しがやわらかい。
洗濯物がよく乾く日だと思いながら、創はベランダの外をぼんやりと眺めていた。
ここに越してきて三年になる。
けれど、この街に“愛着”というものを抱いたことは一度もなかった。
あまりに生活が静かすぎて、記憶にすら残らないような毎日だった。
駅前の弁当屋の看板が変わっていたことに気づいたとき、自分がどれだけ「この街を生きていなかったか」を思い知らされた。
昼過ぎ。
ふと、あの灯りの部屋のことが気になった。
平日の夜はいつも点いていた。
では、週末の昼間は?
住人は家にいるのか、外出しているのか。
そもそも――どんな人が、そこに住んでいるのか。
「見に行くだけだ」
自分にそう言い訳をしながら、創は靴を履いた。
マンションから歩いて7分。
例の雑居ビルは、昼間に見るとよりいっそう生活感がなかった。
外壁はくすみ、ひび割れた階段の手すりには埃が溜まっていた。
だがその古さが、逆に“人が住んでいる気配”をかすかにまとっていた。
エントランスに入りかけたとき、掲示板に貼られた一枚の紙が目に留まった。
「302号室へご用の方は、インターホンを押してください。
出られないときはメモをポストへどうぞ」
302号室――まさに、いつも灯りがついている部屋だった。
創は、なぜだか心臓が少しだけ早く打つのを感じた。
手のひらがわずかに湿っている。
理由はわからなかった。
誰に会うわけでも、用があるわけでもないのに。
階段を登ろうとしたそのときだった。
二階の踊り場から、小さな音が聞こえた。
ドアが、ゆっくりと閉まる音。
その一瞬の気配を、創はなぜか「見られていた」ような気がして、足を止めた。
だが、その場に人の姿はなかった。
何をしているんだろう――
そう思いながら、創はポケットに入れていたボールペンと小さな手帳を取り出した。
そして、何も書かれていないページに、短くこう記した。
「灯り、いつも見ています。ありがとうございます。」
どこの誰が読むのかもわからない。
返事がくるとも思っていない。
ただ、「自分はここにいた」という痕跡を、誰かの世界に残したかったのかもしれなかった。
帰り道、少しだけ呼吸が軽くなっている気がした。
変わったことなど何も起きていないのに、
世界がほんのわずか、輪郭を持ちはじめたような気がした。
家に帰ると、スマートフォンに新しい通知が届いていた。
差出人は、理子だった。
「いま、東京にいます。
少しだけ、会いませんか?」
心臓が、またひとつ、大きく脈を打った。
スマートフォンの画面を見つめながら、創はしばらくの間、何も考えられなかった。
文字は静かにそこにあって、音も色も持たないはずなのに、なぜだかそれが“声”のように聞こえた。
「いま、東京にいます。
少しだけ、会いませんか?」
時間は午前11時過ぎ。
日曜の街がゆっくりと活動を始めるころ。
その一通のメッセージは、彼の中に積もっていた埃のようなものを、静かに撫でていった。
しばらく迷ったあと、創は画面を閉じた。
返信はしなかった。
“しなかった”というより、“できなかった”の方が正しい。
彼女がどんな気持ちでこのメッセージを送ってきたのか、その真意がわからなかったし、それを問う自信もなかった。
理子と別れて三年。
互いのことを深く知っていた時期もあったが、それでも今の彼女のことはわからない。
何が変わり、何がそのままなのかも、今の創には判断できなかった。
午後、創はなんとなく外に出た。
目的があったわけではない。
ただ、部屋の中にいることが妙に息苦しく思えたのだ。
それまでの人生で、「誰かに会いに行く」ためではなく「誰かに会ってしまいそうな気がして」外出を避けたことは何度もあった。
でもこの日は、**むしろ“誰かに出くわしたい”**と思っていた。
その誰かが、理子でも、灯りの部屋の住人でも、自分自身でもよかった。
歩き慣れた商店街を抜けて、例の雑居ビルの前まで来た。
空はうっすらと曇っていたが、風はなく、季節の境目の匂いがした。
エントランスには、まだ貼り紙があった。
昨日自分が入れたメモは、ポストの口に差し込んだまま、そこにあった。
取り出されていない。
あるいは、読んだうえで、わざとそのままにされているのかもしれなかった。
ポストの中には他にも何通かのチラシや封筒が見えた。
生活の痕跡。
創はそのことに、不思議なほど安心していた。
帰り道、ふと前を歩いていた女性が足を止めた。
黒いパーカーにジーンズ。髪は短く、後ろ姿から年齢はわからなかった。
彼女は、雑居ビルの中に入っていった。
創は何気なく、そのまま足を止めて見上げた。
三階。
窓に、灯りが点いた。
偶然かもしれない。
でも、創の中では何かが確かに“繋がった”気がした。
顔も知らない。
名前も知らない。
けれど、その光が「ただの光」ではなく、“誰かの意思”としての光であったとき、
彼の孤独は、ほんのわずかだけ、崩れ始めたのだった。
部屋に戻ると、スマートフォンがわずかに震えた。
画面を開くと、理子からのメッセージに返信が届いていた。
「ごめん、急に。
会いたいってほどのことじゃないの。
ただ、最近あなたを思い出すことが多くて。
あのころ、私たち、どこで間違えたんだろうね」
彼女らしい言葉だった。
まっすぐでもなく、冷たくもなく、ただ少しだけ湿り気を帯びたような文章。
それはまるで、古びた服のポケットからふと出てきた、小さな写真のようだった。
創はすぐには返事をしなかった。
“あのころ、どこで間違えたのか”。
それはたぶん、ふたりとも、どこかで「もういいや」と思った瞬間だろう。
感情をすり減らして、声を出さずに日々をやり過ごしたその時間が、決定的な“間違い”だったのだと思う。
そして今、彼は思っている。
たとえやり直すことがなかったとしても、
あの時間に何かを置き去りにしたまま、自分は今もここに立っているのだと。
夜。
再び、雑居ビルの前を通った。
三階の窓には、やわらかい光が灯っていた。
それは日ごとに“生活のリズム”を帯びてきているように思えた。
創は足を止め、数秒だけ、その灯りを見つめた。
あの光が何かを語りかけてくるわけではない。
けれど、それは彼にとって、確かに“誰かがそこにいる”という証だった。
世界のどこかで、自分以外の誰かが、同じように静かな夜を過ごしているということ。
翌朝、彼はメモ帳を手に取り、そこに一文だけ書いた。
「また、灯りが点いていて、うれしかったです」
それをポストに入れることはなかった。
けれど、それを「書いた」という事実だけが、彼の中で何かを変えた。
自分の思いを、誰かに届けようとする。
それは、ほんのわずかな希望の発露だった。
理子には、こう返信をした。
「会っても、きっと何も解決しない。
でも、あなたが僕を思い出してくれたことに、ありがとうを言いたい。
たぶん僕はまだ、誰かともう一度、向き合いたいと思ってる。」
送信ボタンを押したあと、深く息を吐いた。
もう、何も起きなくてもいい。
それでも、今日を昨日の繰り返しにしないことだけは、できた気がした。
部屋に戻ると、午後の光がカーテンを通して差し込んでいた。
テレビは消えたまま、時計の針が静かに動いていた。
そのとき創は、ふと呟いた。
「灯りって、誰のために点いてるんだろうな……」
少し笑って、顔を上げた。
そして彼は思った。
それは、たぶん――自分以外の誰かが、まだ“ここにいる”と信じたくなるときのためなのかもしれない。
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