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名前のない手紙たち
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人に会うということが、こんなにも重いことだっただろうか。
その日、創は数年ぶりに髭を剃った。
スーツではないが、少しだけよそ行きのシャツを選び、駅前の古びたミラーで髪型を整えた。
待ち合わせ場所は、代々木の小さな喫茶店。
理子が指定してきたその店は、かつてふたりが何度か行った記憶のある場所だった。
時間より五分早く着いて、彼は中に入るのを迷った。
予約名を伝えることもなく、扉の前で少しだけ立ち尽くした。
中から見えるのは、白いカーテンと木製のテーブル。
昼時の喧騒は少しだけ静まり、午後の落ち着いた空気に包まれていた。
「俺は、何を話すつもりなんだろうな……」
そう呟いたあと、ようやく手を伸ばしてドアを開けた。
理子は、すでに来ていた。
あのころと、変わったような気もするし、変わっていない気もした。
髪は肩まで伸びていて、濃すぎないベージュのセーターが似合っていた。
顔を上げた彼女の目に、少しだけ驚きと、すぐにそれがほどけたような安心が混ざっていた。
「……久しぶり」
その声を聞いたとき、創の中で何かが“戻った”ような感覚がした。
だがそれは、懐かしさとは少し違っていた。
“戻る”というより、“埋もれていたものが浮かび上がってきた”に近かった。
席についてすぐ、理子は温かい紅茶を注文した。
創はアイスコーヒーにした。氷の音が、少しだけ場の緊張を和らげた。
「この店、まだあるんだな」
最初に口を開いたのは理子だった。
彼女の声は、昔と変わらず低めで、はっきりとした語尾を持っていた。
「うん。……驚いたよ、指定されて」
「ここ、嫌いじゃなかったでしょ?」
創は軽くうなずいた。
「どちらかといえば、好きだった。静かだし、本が読めるし。君が黙ってても平気そうだったから」
理子はその言葉に、ふっと小さく笑った。
「ほんと、それがあたしたちの距離感だったのかもね。沈黙しても、お互いに傷つけない。でも……それって、もう話すことがないって意味だったのかも」
創は、なにも言わなかった。
ただ、彼女の言葉がどこか懐かしい湿度を帯びていたことに気づいていた。
ふたりの会話は、ぎこちなくも、途切れることはなかった。
共通の知人の話、仕事の近況、最近よく聴いている音楽の話題――
そして、ふとした瞬間に、理子がこう言った。
「……あなた、誰かと話してる?」
「え?」
「この前のLINE、少し柔らかくなってた。昔のあなたなら、既読にすらしなかったと思う」
創は、一瞬だけ返答に詰まった。
「話してる」というほどの誰かが、今の彼にいるわけではない。
けれど、心のどこかで“誰かと繋がっていたい”という感覚が、かすかに芽生えていたのは確かだった。
「……話してはいないけど、見てる人はいるかもしれない」
「ん?」
「家の近くに、夜になると毎日灯りが点く部屋があるんだ。雑居ビルの三階。そこに住んでる人のこと、何も知らない。でも、その灯りが見えると、なんだか安心する。ああ、今日も誰かが生きてるなって思えるというか……」
理子はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「……分かる。私も昔、そういうのあった」
「そう?」
「離婚したばかりのころ、駅のホームから見えるマンションの明かり、毎日見てた。誰かがちゃんと夕飯作って、テレビ観て、疲れて、眠るっていう、普通の生活の光。それを見て、“いいな”って思ってた」
灯りは、やはり何かを象徴していた。
生活。孤独。つながり。名も知らぬ他者。
会話のなかに“説明のいらない感情”が流れたとき、創はあらためて思った。
この再会には、たぶん意味がある。
やり直すためではなく、“もう一度、自分を確かめるための時間”なのだと。
ふたりは一時間ほど話したあと、駅の改札で軽く会釈を交わした。
別れ際、理子がふと立ち止まり、振り返った。
「……あの灯りの話、また聞かせてね」
創は一拍置いて、うなずいた。
週明け、創はいつものように出勤前にあのビルの前を通った。
早朝の光のなかで、三階の窓には当然ながら灯りはなく、カーテンがわずかに風で揺れていた。
エントランスの掲示板は変わらず無人。ポストの口にはいつか見たチラシがまた新たに挟まっていた。
目に留まったのは、そのすぐ隣――302号室のポストだった。
何かが、入っていた。
創は近づいてみて、思わず立ち止まった。
ポストの投入口に、白い封筒が挟まれていた。
差出人の名前はない。宛名もない。ただ、筆跡だけが静かにそこにあった。
「こんばんは。
“見ています”と書いてくれた方へ」
封を切るような行為すらためらわれた。
まるで“これは誰かの心臓”に触れるような感触だった。
だが創は、そっとその封筒を抜き取り、自分のカバンにしまった。
その日の帰宅後、部屋で一人きりになった時間、
創は深く息を吸い、ゆっくりと便箋を取り出した。
「こんばんは。
“見ています”と書いてくれた方へ。
こんなやりとりを始めるのは少し勇気がいりました。
でも、あなたの言葉を読んだとき、誰かが“こちら”に向けて目を向けてくれたことが、ただうれしかったのです。
私は、長いあいだひとりで暮らしています。
特に目立った事件もなく、誰にも必要とされることなく、
ただ日々を過ごす生活です。
でも、あなたが“灯りを見ている”と言ってくれたことで、
私のこの部屋が、誰かにとっての“何か”になっているのかもしれないと思いました。
ありがとう。
名前は、まだ書けません。
でも、また灯りが点いていたら、それが返事だと思ってください。」
読み終えたとき、創はしばらく言葉を失っていた。
“ありがとう”――そのひとことが、妙に重く感じられた。
自分がしてきたことは、ただ窓を見ていたというだけの、他愛もない行為だ。
それが、誰かの存在を認める行為になっていた。
そしてそれは、きっと自分自身にとっても同じことだった。
窓の外を見た。
三階の部屋の灯りは、まだ点いていた。
風が吹いていた。
カーテンが揺れ、レースの隙間から、光がほんの少しこぼれた。
創は心のどこかで思った。
この物語は、もしかすると恋ではなく、ただ“理解されること”についての物語なのかもしれない。
封筒を閉じたあと、創はしばらく机の上にそれを置いたまま動けなかった。
便箋に書かれていた「ありがとう」の文字は、ただの挨拶ではなかった。
そこには、見えない声が込められていた。
それは、名を名乗らず、顔を明かさず、それでも“ここにいる”と伝えようとする声だった。
創はもう一度その手紙を読み返し、今度はそっとペンを取った。
名前は書かなかった。
けれど、自分の言葉だけは、嘘のないものにしようと決めた。
「こんばんは。
あなたの灯りが、僕にとって救いになっていると知ってくれて、うれしかったです。
僕も、あなたと同じです。
誰かと話すこともほとんどなくて、
ただ、何事もなく過ぎる毎日に、少しずつ削られていくような時間を過ごしています。
でも、毎晩あなたの部屋に灯りが点いているのを見ると、
世界のどこかに、まだ“温かさ”が残っている気がするんです。
この手紙をどこに届ければいいのか、本当はまだ迷っています。
でも、あなたがそれを望まない限り、僕は名前を聞こうとしません。
ただ――
また返事をもらえたら、たぶん、すごくうれしいです。」
創はそれを丁寧に封筒に入れ、翌朝、出勤前にポストに差し込んだ。
あえて302号室の表札には触れず、匿名のまま、静かに滑り込ませた。
誰かに見られるのではという気配に少しだけ緊張したが、それも悪くなかった。
“誰かに手紙を書く”という行為そのものが、
創にとって久しぶりに“自分がこの世界に存在している”という実感をもたらしてくれた。
その夜、302号室の灯りは、いつもより早く点いた。
風に揺れるレースの向こうから、薄くピアノの音が聞こえたような気がした。
あるいは、それは創の耳がつくりだした幻だったのかもしれない。
けれど、それでも構わなかった。
この静かな交信が、現実でも幻でも、
自分にとっての“生活の一部”になっていたことに変わりはなかった。
ベッドに入る前、彼はふと考えた。
“言葉”があることで、こんなにも誰かと繋がっていられること。
“名も顔も知らない”という関係のなかで、信頼ややさしさが生まれていくこと。
そういえば、かつて理子とも、こうやって毎晩メッセージをやり取りしていた頃があった。
まだ付き合う前。
深夜にだけお互いの言葉が届くような、静かな時間。
そこには確かに、恋ではない何かが存在していた。
たぶん、それは“理解されること”を求める本能のようなものだった。
週末、風が強かった。
乾いた空気が肌を切るように吹きつけ、木々の枝が揺れ、遠くの高架を走る電車の音がいつもより鋭く聞こえた。
創は午後、早めに帰宅した。
部屋に入ると、窓際に腰を下ろし、何も考えずに外を見た。
通りを歩く人々の流れはとぎれることなく、それぞれの生活がそこにあった。
ただそれを、ぼんやりと眺めていた。
夕方。
302号室の灯りが点いた。
やはり今日も、あの窓は確かに存在していた。
言葉を交わしたわけではない。
声を聞いたわけでも、顔を見たわけでもない。
だが、そこに“いる”ということが、すでに大きな意味を持っていた。
ポストを確認すると、また一通、白い封筒が届いていた。
筆跡は変わらない。
宛名もなく、差出人も記されていない。
ただ、そこにだけ、確かに生きた人間の痕跡があった。
「こんばんは。
あなたの手紙を読んで、少し泣いてしまいました。
誰かに“ありがとう”を伝えることなんて、
もう二度とできないと思っていたから。
この部屋で暮らし始めてから、あまり人に会っていません。
仕事も、ほとんどが在宅で、声を出す日がほとんどない週もあります。
でも、あなたの言葉がここに届いて、
まるで“人の体温”が、ポストのなかから立ちのぼってくるようでした。
名乗るのは、もう少し先にします。
でも、私も――
また返事を、書いてもいいですか?」
創は手紙を読み終えたあと、そっとソファに身を沈めた。
天井を見上げる。
何も語らない部屋のなかで、ただ風の音と、自分の呼吸だけが聞こえていた。
けれどその沈黙は、もはや孤独ではなかった。
“知らない誰かと、確かにつながっている”という感触が、そこにあった。
その夜、彼は机に向かい、ふたたびペンを取った。
名前を書く必要はなかった。
ただ、その人がまた便箋を開いてくれることを願って、素直な言葉だけを書いた。
便箋の最後に、一文だけ添えた。
「灯りを点けてくれて、ありがとう。
それが、僕の救いになっています。」
創は封筒に入れ、ポストにそっと差し込んだ。
その瞬間、心のなかで微かな光が灯った気がした。
夜、眠る前、彼は思った。
名前を知らないままでも、人は誰かとわかりあえるのかもしれない。
もしかすると、それは名前や立場や過去よりも、もっと強く人をつなげるものなのかもしれない。
そう思いながら、目を閉じた。
その日、創は数年ぶりに髭を剃った。
スーツではないが、少しだけよそ行きのシャツを選び、駅前の古びたミラーで髪型を整えた。
待ち合わせ場所は、代々木の小さな喫茶店。
理子が指定してきたその店は、かつてふたりが何度か行った記憶のある場所だった。
時間より五分早く着いて、彼は中に入るのを迷った。
予約名を伝えることもなく、扉の前で少しだけ立ち尽くした。
中から見えるのは、白いカーテンと木製のテーブル。
昼時の喧騒は少しだけ静まり、午後の落ち着いた空気に包まれていた。
「俺は、何を話すつもりなんだろうな……」
そう呟いたあと、ようやく手を伸ばしてドアを開けた。
理子は、すでに来ていた。
あのころと、変わったような気もするし、変わっていない気もした。
髪は肩まで伸びていて、濃すぎないベージュのセーターが似合っていた。
顔を上げた彼女の目に、少しだけ驚きと、すぐにそれがほどけたような安心が混ざっていた。
「……久しぶり」
その声を聞いたとき、創の中で何かが“戻った”ような感覚がした。
だがそれは、懐かしさとは少し違っていた。
“戻る”というより、“埋もれていたものが浮かび上がってきた”に近かった。
席についてすぐ、理子は温かい紅茶を注文した。
創はアイスコーヒーにした。氷の音が、少しだけ場の緊張を和らげた。
「この店、まだあるんだな」
最初に口を開いたのは理子だった。
彼女の声は、昔と変わらず低めで、はっきりとした語尾を持っていた。
「うん。……驚いたよ、指定されて」
「ここ、嫌いじゃなかったでしょ?」
創は軽くうなずいた。
「どちらかといえば、好きだった。静かだし、本が読めるし。君が黙ってても平気そうだったから」
理子はその言葉に、ふっと小さく笑った。
「ほんと、それがあたしたちの距離感だったのかもね。沈黙しても、お互いに傷つけない。でも……それって、もう話すことがないって意味だったのかも」
創は、なにも言わなかった。
ただ、彼女の言葉がどこか懐かしい湿度を帯びていたことに気づいていた。
ふたりの会話は、ぎこちなくも、途切れることはなかった。
共通の知人の話、仕事の近況、最近よく聴いている音楽の話題――
そして、ふとした瞬間に、理子がこう言った。
「……あなた、誰かと話してる?」
「え?」
「この前のLINE、少し柔らかくなってた。昔のあなたなら、既読にすらしなかったと思う」
創は、一瞬だけ返答に詰まった。
「話してる」というほどの誰かが、今の彼にいるわけではない。
けれど、心のどこかで“誰かと繋がっていたい”という感覚が、かすかに芽生えていたのは確かだった。
「……話してはいないけど、見てる人はいるかもしれない」
「ん?」
「家の近くに、夜になると毎日灯りが点く部屋があるんだ。雑居ビルの三階。そこに住んでる人のこと、何も知らない。でも、その灯りが見えると、なんだか安心する。ああ、今日も誰かが生きてるなって思えるというか……」
理子はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「……分かる。私も昔、そういうのあった」
「そう?」
「離婚したばかりのころ、駅のホームから見えるマンションの明かり、毎日見てた。誰かがちゃんと夕飯作って、テレビ観て、疲れて、眠るっていう、普通の生活の光。それを見て、“いいな”って思ってた」
灯りは、やはり何かを象徴していた。
生活。孤独。つながり。名も知らぬ他者。
会話のなかに“説明のいらない感情”が流れたとき、創はあらためて思った。
この再会には、たぶん意味がある。
やり直すためではなく、“もう一度、自分を確かめるための時間”なのだと。
ふたりは一時間ほど話したあと、駅の改札で軽く会釈を交わした。
別れ際、理子がふと立ち止まり、振り返った。
「……あの灯りの話、また聞かせてね」
創は一拍置いて、うなずいた。
週明け、創はいつものように出勤前にあのビルの前を通った。
早朝の光のなかで、三階の窓には当然ながら灯りはなく、カーテンがわずかに風で揺れていた。
エントランスの掲示板は変わらず無人。ポストの口にはいつか見たチラシがまた新たに挟まっていた。
目に留まったのは、そのすぐ隣――302号室のポストだった。
何かが、入っていた。
創は近づいてみて、思わず立ち止まった。
ポストの投入口に、白い封筒が挟まれていた。
差出人の名前はない。宛名もない。ただ、筆跡だけが静かにそこにあった。
「こんばんは。
“見ています”と書いてくれた方へ」
封を切るような行為すらためらわれた。
まるで“これは誰かの心臓”に触れるような感触だった。
だが創は、そっとその封筒を抜き取り、自分のカバンにしまった。
その日の帰宅後、部屋で一人きりになった時間、
創は深く息を吸い、ゆっくりと便箋を取り出した。
「こんばんは。
“見ています”と書いてくれた方へ。
こんなやりとりを始めるのは少し勇気がいりました。
でも、あなたの言葉を読んだとき、誰かが“こちら”に向けて目を向けてくれたことが、ただうれしかったのです。
私は、長いあいだひとりで暮らしています。
特に目立った事件もなく、誰にも必要とされることなく、
ただ日々を過ごす生活です。
でも、あなたが“灯りを見ている”と言ってくれたことで、
私のこの部屋が、誰かにとっての“何か”になっているのかもしれないと思いました。
ありがとう。
名前は、まだ書けません。
でも、また灯りが点いていたら、それが返事だと思ってください。」
読み終えたとき、創はしばらく言葉を失っていた。
“ありがとう”――そのひとことが、妙に重く感じられた。
自分がしてきたことは、ただ窓を見ていたというだけの、他愛もない行為だ。
それが、誰かの存在を認める行為になっていた。
そしてそれは、きっと自分自身にとっても同じことだった。
窓の外を見た。
三階の部屋の灯りは、まだ点いていた。
風が吹いていた。
カーテンが揺れ、レースの隙間から、光がほんの少しこぼれた。
創は心のどこかで思った。
この物語は、もしかすると恋ではなく、ただ“理解されること”についての物語なのかもしれない。
封筒を閉じたあと、創はしばらく机の上にそれを置いたまま動けなかった。
便箋に書かれていた「ありがとう」の文字は、ただの挨拶ではなかった。
そこには、見えない声が込められていた。
それは、名を名乗らず、顔を明かさず、それでも“ここにいる”と伝えようとする声だった。
創はもう一度その手紙を読み返し、今度はそっとペンを取った。
名前は書かなかった。
けれど、自分の言葉だけは、嘘のないものにしようと決めた。
「こんばんは。
あなたの灯りが、僕にとって救いになっていると知ってくれて、うれしかったです。
僕も、あなたと同じです。
誰かと話すこともほとんどなくて、
ただ、何事もなく過ぎる毎日に、少しずつ削られていくような時間を過ごしています。
でも、毎晩あなたの部屋に灯りが点いているのを見ると、
世界のどこかに、まだ“温かさ”が残っている気がするんです。
この手紙をどこに届ければいいのか、本当はまだ迷っています。
でも、あなたがそれを望まない限り、僕は名前を聞こうとしません。
ただ――
また返事をもらえたら、たぶん、すごくうれしいです。」
創はそれを丁寧に封筒に入れ、翌朝、出勤前にポストに差し込んだ。
あえて302号室の表札には触れず、匿名のまま、静かに滑り込ませた。
誰かに見られるのではという気配に少しだけ緊張したが、それも悪くなかった。
“誰かに手紙を書く”という行為そのものが、
創にとって久しぶりに“自分がこの世界に存在している”という実感をもたらしてくれた。
その夜、302号室の灯りは、いつもより早く点いた。
風に揺れるレースの向こうから、薄くピアノの音が聞こえたような気がした。
あるいは、それは創の耳がつくりだした幻だったのかもしれない。
けれど、それでも構わなかった。
この静かな交信が、現実でも幻でも、
自分にとっての“生活の一部”になっていたことに変わりはなかった。
ベッドに入る前、彼はふと考えた。
“言葉”があることで、こんなにも誰かと繋がっていられること。
“名も顔も知らない”という関係のなかで、信頼ややさしさが生まれていくこと。
そういえば、かつて理子とも、こうやって毎晩メッセージをやり取りしていた頃があった。
まだ付き合う前。
深夜にだけお互いの言葉が届くような、静かな時間。
そこには確かに、恋ではない何かが存在していた。
たぶん、それは“理解されること”を求める本能のようなものだった。
週末、風が強かった。
乾いた空気が肌を切るように吹きつけ、木々の枝が揺れ、遠くの高架を走る電車の音がいつもより鋭く聞こえた。
創は午後、早めに帰宅した。
部屋に入ると、窓際に腰を下ろし、何も考えずに外を見た。
通りを歩く人々の流れはとぎれることなく、それぞれの生活がそこにあった。
ただそれを、ぼんやりと眺めていた。
夕方。
302号室の灯りが点いた。
やはり今日も、あの窓は確かに存在していた。
言葉を交わしたわけではない。
声を聞いたわけでも、顔を見たわけでもない。
だが、そこに“いる”ということが、すでに大きな意味を持っていた。
ポストを確認すると、また一通、白い封筒が届いていた。
筆跡は変わらない。
宛名もなく、差出人も記されていない。
ただ、そこにだけ、確かに生きた人間の痕跡があった。
「こんばんは。
あなたの手紙を読んで、少し泣いてしまいました。
誰かに“ありがとう”を伝えることなんて、
もう二度とできないと思っていたから。
この部屋で暮らし始めてから、あまり人に会っていません。
仕事も、ほとんどが在宅で、声を出す日がほとんどない週もあります。
でも、あなたの言葉がここに届いて、
まるで“人の体温”が、ポストのなかから立ちのぼってくるようでした。
名乗るのは、もう少し先にします。
でも、私も――
また返事を、書いてもいいですか?」
創は手紙を読み終えたあと、そっとソファに身を沈めた。
天井を見上げる。
何も語らない部屋のなかで、ただ風の音と、自分の呼吸だけが聞こえていた。
けれどその沈黙は、もはや孤独ではなかった。
“知らない誰かと、確かにつながっている”という感触が、そこにあった。
その夜、彼は机に向かい、ふたたびペンを取った。
名前を書く必要はなかった。
ただ、その人がまた便箋を開いてくれることを願って、素直な言葉だけを書いた。
便箋の最後に、一文だけ添えた。
「灯りを点けてくれて、ありがとう。
それが、僕の救いになっています。」
創は封筒に入れ、ポストにそっと差し込んだ。
その瞬間、心のなかで微かな光が灯った気がした。
夜、眠る前、彼は思った。
名前を知らないままでも、人は誰かとわかりあえるのかもしれない。
もしかすると、それは名前や立場や過去よりも、もっと強く人をつなげるものなのかもしれない。
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