好きだから手放したら捕まった

鳴海

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 王都の平民街でも裕福層が住む地域がある。
 そこに建ち並ぶ家々の中に、比較的小さ目の屋敷ではあるものの、全体的な装飾に品を感じさせる落ち着いた作りの住宅があった。

 その屋敷の住人の名はエミリオン。二年前までフェルザー伯爵の子息だった彼は、今は伯爵家からは籍を抜かれ、ただの平民としてその屋敷にたった一人で暮らしていた。



 今となっては懐かしい話ではあるが、貴族街の伯爵邸を出てここに移り住んだ当初、エミリオンは平民としての生き方が全く分からず、かなり苦労した。
 とにかく右も左も分からない。金を持っていても、食べ物を手に入れる方法ひとつ知らないのだ。

 途方に暮れたエミリオンだったが、ノラという名の明るく面倒見の良い中年女性のハウスキーパーを雇ったことで生活は一変した。

 ノラとの契約は半年とし、その間、エミリオンは彼女から様々なことを教わった。掃除洗濯に料理の仕方。物の価値とそれを見極める方法。下着や服、食料を買う店や、そこでの買い物の仕方など。生活に必要となる知識の全てを、エミリオンはノラから学んだのだった。

 おかげで契約期間である半年が過ぎる頃には、一通りのことは自分でできるようになっていた。少しずつ料理のレパートリーも増えていった。平民らしい口調や態度も自然にできるようになり、今では町に溶け込んで普通に歩くこともできるようになっている。
 エミリオンは心からの感謝の気持ちをノラに伝え、少し多めの退職金を渡した。

「ありがとう。あなたのおかげで本当に助かったよ」
「とんでもありませんよぉ。困ったことがあったら、またいつでも気軽に声をかけて下さいな」

 それからはずっと一人。この家には誰も入れることなく、エミリオンは静かな日々を過ごしている。




 二年前のあの日。
 ルドヴィークとの見せかけの婚約を解消するよう父親から促されたあの時。エミリオンは両親と様々なことを話し合った。婚約解消をルドヴィークにどう話し、どう納得させるか。その後はどういった立場でルドヴィークに接するのかなど、他にも色々なことを打ち合わせた。

 あの時にエミリオンが懇願し、やっとの思いで両親に聞き入れてもらった願いが、今ここで平民として暮らす日々に繋がっている。

 エミリオンが両親に願ったことは簡単なことだ。
 それは、ルドヴィークと別れた後、フェルザー伯爵家の籍から自分の名を抜いてもらうということだった。

 婚約を解消した後、エミリオンはアカデミーや社交界でルドヴィークと顔を合わせたくなかった。それはあまりにも辛すぎた。しかし、貴族である以上、二度と会わないなど無理な話である。それに、隣に住んでいれば、いつ顔を合わせてもおかしくはない。

 すぐのことではないにしても、いずれルドヴィークは誰かと正式な婚約を結び、結婚するだろう。
 嫌いで別れるワケではない。誰よりも大切に想う人なのだ。そんなルドヴィークが自分以外の人と寄り添い、幸せになる姿をエミリオンは見たくなかった。会わないでいられるなら、平民になった方がマシだと思ったのだ。

 それにルドヴィークにとっても、エミリオンの姿が見えない方がいいとも思った。自分を傷つけた相手になど、二度と会いたくはないだろうから。

 そういった理由から、エミリオンは貴族としての地位を捨て、平民になることにしたのだった。

 平民になる決意をした上で、エミリオンも色々と考えた。これまで貴族として生まれ育った自分が、すぐに自立して生活していけると思うほど、楽天家でも自信家でもない。
 そこで両親に資金援助を頼むことにした。いつかエミリオンが他家へと嫁ぐ際に持たされる筈だった持参金。その一部だけでも譲って欲しいと頼んだのだった。フェルザー伯爵家は裕福ではない。図々しい願いだとは分かっていたが、恥を忍んで頭を下げた。

 両親はその願いをすぐさま承諾してくれた。持参金として貯蓄してきていた金銭を、全てエミリオンに持たせてくれたのである。



 そうやって、両親から譲られた金銭を元に、市井での新しい暮らしが始まった。今ではもう色々なことに慣れた。二年ほど前まで、貴族として生きていたことを夢のように感じるほどだ。
 
 しかし、ふとした時に度々思い出すことがある。幼い頃にルドヴィークと共に過ごした楽しい思い出の数々だ。


 ルドヴィークは万人が認める見目麗しい子供だった。
 サラサラのミルクティー色の髪に濃い碧色の瞳。あの瞳に見つめられると、誰もがその美しさに目を奪われ、言葉を失うほどだった。
 エミリオンはいつもいつも、その端麗な容姿に見惚れていたものだ。

 それに比べてエミリオンは、自他ともに認める平凡な容姿をしている。
 クセのある黒い髪はどんなに整えてもモサッと膨らんでまとまらず、緑色の瞳は確かに美しいが、その瞳自体が小さいために色が全く目立たない。あまり活動的ではないためか、体つきも華奢でほっそりしていて頼りない。

 そんなエミリオンを、いつもルドヴィークは可愛いとか綺麗だとか素敵だとか、勿体ないほどの賞賛の言葉を使って褒め称えた。あまりにも大袈裟なため、揶揄われているのかとか、むしろ容姿の悪さを馬鹿にされているのかもとか、被害妄想気味に考えて落ち込んでいた時期もある。

 しかし、ルドヴィークが本心からそう思い、ただ素直にそれを口に出しているだけだと理解してからは、言われるたびに小さく苦笑するだけになった。
 否定すると何倍もの反論が返ってくる。それは経験済だったから、否定は心の中だけですることにして、黙ってルドヴィークからの誉め言葉を受け取ることにしていたのだった。

 いつだってルドヴィークは輝くような笑顔でエミリオンを見つめてくれた。好きだと、大好きだと、なによりも大切に想っているのだと、自分の気持ちを惜し気もなく言葉と態度で伝えてくれていた。


 両家の家格の違いについては、成長と共に自然と理解が進んでいった。

 エミリオンのフェルザー伯爵家とルドヴィークのクレンゲル子爵家では、家格だけで見れば、確かに伯爵位を持つフェルザー家の方が上と言える。しかし、それはあくまでも見せかけだけのものに過ぎない。

 フェルザー伯爵家は名門ではない。むしろ、財力に乏しい貧乏貴族だった。正直なところ、今の爵位を手放さずに守り切るだけで必死というのが実情だ。

 対してクレンゲル子爵家は、下位貴族の中でも可もなく不可もなくという、普通の格式の家である。
 しかし、この家には他家にはない強い後ろ盾があった。それはルドヴィークの母親である子爵夫人の実家のことで、夫人は国内でも名門中の名門、筆頭公爵家の出身だった。現当主の最もお気に入りの末娘、それがクレンゲル子爵夫人なのである。

 愛娘が子爵などという下位貴族との婚姻を望んだ時、公爵は猛反対した。しかし夫人は諦めず、どうにか父親の説得に成功して、愛するクレンゲル子爵との婚姻を果たした。そんなことがあった末に生まれたのがルドヴィークである。

 子爵との結婚を反対していた公爵ではあったが、自分の母と同じミルクティー色の髪を持つ愛娘に瓜二つの孫息子、ルドヴィークのことは目に入れても痛くないほど可愛がった。その溺愛振りは社交界でも有名で、ルドヴィークが成人する時には、自らが持つ爵位の一つ、侯爵位を譲ることを早々に公言していたほどだった。

 当然、エミリオンの両親はそのことを知っていた。
 だからこそ、エミリオンとルドヴィークとが正式に婚約することを拒否したのである。貧乏貴族である自分たちの息子が、いずれ侯爵位を継ぐルドヴィークにとって分不相応だと判断したからだ。

 実際、ルドヴィークが受けた貴族教育は高位貴族が受ける内容のものであり、対してエミリオンは金銭的な問題により、下位貴族が受ける程度の教育しか受けていない。

 教育の違いは常識の違いを意味する。
 恐らく、公式な場での挨拶の仕方や食事の作法からして、二人の所作は異なるだろう。

 自分はルドヴィークには相応しくないのではないか。自分という存在は、ルドヴィークの前に開かれた素晴らしい未来への足枷にしかなれないのかもしれない。

 成長していく中で、エミリオンはそういった疑問を持ち、気にするようになっていった。その気持ちは年を経て世間というものを、貴族社会というものを知るにつけ膨らんでいくばかりだったのである。

 婚約が正式なものではないと聞かされた時、驚きはしたもののすぐに納得できたのは、元々自分たちの婚約にエミリオンが疑問を持っていたからだ。二人の間にある身分差について、誰に言われるまでもなくエミリオンが最も理解し、苦しんでいた。大好きなルドヴィークとの決別は、そうすることが彼のためになると分かっていたからこそ承諾することができたのだった。


 物心ついた頃から、エミリオンはずっとルドヴィークだけが好きだった。平民になって二年近く過ぎた今でも、ルドヴィークを想う気持ちはなくならない。

 好きな人に二度と会えない。それは辛いし寂しい。

 しかし、どんなに悲しくても、この辛い気持ちと引き換えに彼が幸せになれるのだと思えば、エミリオンはどんな寂しさや悲しみにも耐えることができた。ルドヴィークは彼に相応しい身分を持った素晴らしい人と結ばれるべきだ。世界中の誰よりもルドヴィークには幸せになってもらいたい。


 屋敷を出る時に渡された持参金は、貴族にとってはした金程度のものだろう。しかし、平民にとってはそれなりの額で、無駄使いを控えれば、一生働かずに暮らせるほどのものだった。

 その金を使い、エミリオンは今の家を購入した。家具やその他の調度品、寝具や衣類など、必要最低限の物だけを買い揃えた。ノラを雇い、平民として生きていくための常識を手に入れた。
 その後は屋敷にこもってただ一人、まるで世捨て人のように、生きることが目的なだけの面白味のない静かで平穏な寂しい生活を送っている。

 そんな暮らしの中でも、ルドヴィークのことは度々思い出していた。

 庭に咲く花を見るたびに、ルドヴィークと一緒ならもっと美しく感じるだろうと、そう思った。
 雨降る夜に雨音に耳を傾けながら、幼い頃、二人で庭で遊んでいた時に急な雨に降られ、下着までびしょ濡れになって笑い合ったことを思い出した。
 風邪をひいて早めにベッドに入った夜には、子供の頃に熱を出して寝込んだ時のことを思い出した。エミリオンを心配するあまりルドヴィークの顔色は真っ青になってしまい、どちらが病人なのか分からないほどだった。

 自分で料理した食事をとりながらいつも思う。これをルドヴィークが食べたら、一体どういう顔をするだろう。想像すると、いつも笑ってしまう。
 エミリオンの料理の腕前はまだまだ未熟だ。大失敗はしなくなったものの、美味しいとはお世辞にも言い難い料理しか作れない。美食に慣れたルドヴィークの舌には、きっと、耐え難い味に違いない。
 それでもエミリオンが作ったものだと知れば、ルドヴィークならばきっと『世界一美味しい!』と満面の笑みで言うにに違いない。
 その様子が簡単に想像できてしまい、エミリオンはついクスクスと笑ってしまうのだ。しかし、すぐにその表情は泣きそうなものに変わってしまう。

 すべて昔の話だ。

 そう昔、婚約者同士だと思って疑いもしなかった頃、どんな時でもルドヴィークはエミリオンに優しかった。会うたびに好きだと言い、輝くような笑顔を向けてくれた。ルドヴィークと一緒に居られれば、それだけでエミリオンは幸せだった。

 婚約者になれた時、幼いながらも泣きたくなるほど嬉しかったあの気持ちを、エミリオンは生涯忘れないだろう。心から大切で、大好きで……だから、ルドヴィークの幸せを願うがゆえに傍を離れ、姿を消す決意をしたのだ。



 ルドヴィークに別れの言葉を突きつけたあの日。あの時のことを思い出すと、今でも呼吸が止まりそうなほど胸が苦しくなってしまう。

 意を決し、約束もなく突然クレンゲル子爵家に出向いたエミリオンを、ルドヴィークは笑顔で迎えてくれた。子爵家の美しく手入れされた庭を、ルドヴィークと二人で隣り合って歩いた。

「リオンが会いに来てくれるなんて、とても嬉しいよ」
「約束もなく、急に来てしまって悪かった」
「君に会えるのはわたしにとって喜びでしかない。悪かっただなんて、そんな水臭いこと言わないで」

 天使のような美しさを誇る子共だったルドヴィークは、ここ数年ですっかり身長も伸び、顔付も男らしく変わっていた。鍛えられた肉体は大人と遜色ないほど逞しい。今では幼い頃の可愛らしさはすっかりナリを潜め、凛々しく頼りがいのある美青年へと変貌を遂げている。

 自分の隣を嬉々として歩く美しいルドヴィークを見上げながら、やはり自分は不釣り合いでしかないとエミリオンは再確認した。家柄や身分だけではない、見た目からして自分はルドヴィークに釣り合わない。別れを告げることはやはり正しい判断なのだと確信しつつ、勇気を出すためにエミリオンは拳を強く握った。

 いつもとはどこか様子がおかしいエミリオンに、すぐにルドヴィークは気付いたらしい。心配そうに顔を覗き込んできた。

「リオン、どうした? 体調でも悪いのか?」
「いや、そうじゃないんだけど……実はルドに大切な話があって来たんだ」
「大切な話?」

 サラサラしたミルクティー色の髪を揺らし、ルドヴィークが首を傾げる。エミリオンはそんなルドヴィークを真っすぐに真剣な表情で見つめた。

「二人の婚約を解消したい」
「……え?」
「というよりも、元々、俺たちは婚約してなかったんだ。隣に住むただの幼馴染でしかなかったらしい。詳しい話は子爵ご夫妻に聞いて欲しい。とにかく、ちょうど良かったよ。実は俺、他に好きな人ができたんだ。その人と結婚したいと思っている」

 一瞬にしてルドヴィークの顔から色が消えた。

 ごめん、傷つけることを言ってごめん、ルド。

 心の中で何度も謝りながらも、エミリオンは無理に作った冷ややかな顔で愛する人を見据えた。

「今まで言わなかったけど、俺、本当は男性よりも女性を恋愛対象として好ましく思っている。結婚しようとしている人も女性なんだ」
「…………」
「これまでの不確かな関係を完全に解消することについて、近い内に当家から子爵家に対して正式な申し入れがなされると思う」
「そんな……そんな、嘘だろう、リオン!」

 美しいルドヴィークの碧の瞳が悲しみに揺れている。それを見て、エミリオンの胸が激しく傷んだ。しかし、ぐっと歯を食いしばる。

 許さなくていい。酷いことを言う俺のことを憎んでくれていい。
 だから、ルド。どうか幸せになって。
 この先の未来、俺が得られる筈の幸せと幸運のすべてをルドにあげてもいい。
 俺は世界一不幸になってもいい。だから、ルド。俺の大好きなルド。
 誰よりも幸せになってよ。
 俺なんかとは違って、ルドに本当に相応しい素敵な人と結ばれて、どうか、どうか幸せに……。

「言いたいことはこれだけだ。では、これで失礼する」
「リオン!」
「ルド……いや、ルドヴィーク殿にも早く良い人ができるといいな。じゃあ」

 エミリオンは踵を返すと、絶望に打ちひしがれて放心した様子のルドヴィークをその場に残し、足早に伯爵邸へと戻った。冷たい表情を崩すことなく話を終えられたことに、安堵の息が洩れた。

 フェルザー伯爵家の系譜からエミリオンの名を抹消する手続きは、昨日までに届け出を済ませている。平民となったエミリオンが暮らすための家の手配も、家族との別れの挨拶も、すべて昨夜の内に終わらせた。

 今は驚きで混乱しているルドヴィークだが、冷静になった途端、事の詳細を求めるためと婚約破棄の未承諾を伝えるために、フェルザー伯爵家に乗り込んで来るだろう。その前に早く姿を消さなければならない。

 自室に用意していた平民服に手早く着替えると、エミリオンは裏口を使って外へと抜け出した。生まれ育った屋敷を振り返ることなく心の中で別れを告げると、そのまま愛する者たちの前から行方をくらませたのだった。


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