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終章 適応と成長

1巻 最終話

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 ――何時間経ったのか、再び彼が一歩を踏み出すと、


 パリン


 足元から乾いた音が響いた。

 反射的に飛び退き、音の出所に拳を放つ。



 ――彼の動きがビタリ、と止まった。



 辛うじて原形をとどめている菊のブローチが、そこにはあった。



「あぁあ、ああぁぁあぁぁぁ」

 慎重に、慎重に、ブローチを掬い上げる。

 のっぺりとした貌が徐々に剥がれ落ち、大粒の涙が紫の宝石を濡らす。

「あぁぁぁあぅっ」

 全身を包んでいた漆黒が霧散すると同時に、自重に耐え切れず東条が崩れ落ちた。

 彼を蝕む損傷は、既に許容できる限界値を越えている。

「勝ったよ、紗命ぁ。ちゃんと勝てたよ、ははっおぽっ……」

 愛しい人を思い浮かべ、勝利の報告を告げる。

 ブローチを掻き抱き、湧いてくる記憶を一つ一つ確かめる。

 今なら鮮明に思い出せる仲間の顔に、彼は安堵した。


「……そうか、勝てたのか……俺は、勝てたんだ…………勝っちまったっ、勝ったッ、勝てちまったッ、俺がいればッ、俺ガはッいればっ!がでだっ!!、がでたッ!!


 ――ックッッソガァァァァァァアッッッッッ!!……――」


 響き渡る慟哭は、自責と懺悔の色に染まっていた。

 彼が抱くのは、後悔、取り返しのつかない、絶望的なまでの、後悔。

 ……こんなことならば、ずっと、一人でいれば良かった。ずっと、自分の好きなことだけしていればよかった。

 ずっと、楽しいままでいたかった、楽しいままで……、

 脳裏に、微笑む少女の顔が過よぎる。

「……ちくしょうっ、ちくしょうッ」

 丸まって己を攻め続ける東条の頬を、ポツリ、ポツリと降り出した雨が叩く。

 空を見上げれば、汚らしい曇り空だった。


「…………ははっ、もぅいいや」


 次第に強くなる雨露は、彼の頬に線を作る。



「……………………疲れたわ」



 発した言葉は、行きつく先を求めて、……薄く、……儚く、……寂しく、……無情に、




 雨音に流された。









             §







 いつ、どこで、誰が死のうと、私達には関係ない。

 苦しみ、嘆き、絶望する人がいても、世界は大して変わらない。


 あなたは、今この時誰かが泣いてるとして、手を差し伸べられるか?

 あなたは、今この時誰かの命が消えたとして、涙を流せるか?


 無理だろう。


 あなたはそれを知ることもない。


 一つ一つの事象など、

 例えそれがどれだけ大きな事件、成果であっても、

 世界という概念の前では一いち事象、些細なことにすらなりはしない。


 例え何処かで男が冒険に胸躍らせても、

 それは風が吹くのと同じこと。

 例え何処かで手を取り合う仲間が生まれたとしても、

 それは川が流れるのと同じこと。

 例え何処かで少女が恋をしても、

 それは雲が揺蕩うのと同じこと。

 例え何処かで男が残酷な運命に打ちひしがれようとも、

 それは雨が降るのと同じこと。


 私達が世界に興味が無いように、

 世界も私達に興味が無い。




 ――鼻孔を撫でるのは雨に濡れた血の味。

 ――耳を通り抜けるのは吹き抜ける寂しさの色。

 ――舌に薫るのは血染めの若葉が紡ぐ痛ましさ。

 ――肌を刺激するのは穏かな死を待つ静けさ。

 目に映るのは、眼前に満ちる破壊の痕跡と、自分以外誰もいなくなった真っ赤な屋上。


 ここは、東京都にある池袋駅周辺、つい先日までは人で溢れかえり、喧騒に満ちていた場所である。








              §








 ――彼の手が、とさり、と地面に落ちた。






 現実なんて、こんなものだ。


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