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第二章:海流に連れられてきたように

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 伊織さんの言った島、という言葉の意味はわからなかったけれど、伊織さんに抱きかかえられたまま辺りを見回す私の目にはどこまでも続く海が映っていた。その向こうに薄らと島のようなものが見える。伊織さんの言った島というのが本当なら、まさかあれが本州なの……? じゃあ、ここはいったいどこの島なの……?

「ここは、どこなんですか……?」
「ここは小豆島です」
「しょうど、しま……?」

 どこだったっけ……。日本地図を頭の中に思い浮かべると、必死に思い出す。たしか、四国と本州の間に浮かぶ離島……だったような……。え、じゃああの向こうに見えるのは、本州だと思ったけれど、もしかして四国……? いったい私、なんでそんなところに? だって、私は……。

「私、高原にいたんです。山です、山」
「そうなんですか……?」
「海里とかたくさんの人とキャンプをして……」
「キャンプ……ええっと、野営のことですね? 外来語を使いこなしているところをみると、どこかの国の……」

 伊織さんは一人ぶつぶつと何かを言っていたけれど、私の耳には入ってこなかった。そんなことよりも、どうして私がこんなところにいるのか。そっちの方が大問題だったから。
 状況がわからず、私は伊織さんに抱きかかえられたまま、頭を抱えることしかできなかった。そして、不思議な光景を目にした。
 伊織さんに「おはようございます」と挨拶をして通り過ぎていく人たち。その人たちが着ていたのは、着物だった。まるで、テレビで見る江戸時代や明治時代に着ていたような私たちが思い描く着物よりもずいぶんと質素な……。
 伊織さんはここを小豆島だと言っていた。それが本当なら私が住んでいる場所からはかなり距離のある離島だ。だとしても、今の時代に着物姿の人が、それも一人や二人じゃなく何人も歩いているなんて……。

「…………」
「もうつきますよ」

 伊織さんの声に顔を上げる。すぐそこにあるんです、という言葉の通り、伊織さんの家は海から歩いて五分ほどの場所にあった。けれど、その家はなんというか……私が想像した家とは違っていた。

「ここです」
「ここ……ですか」

 それは、まるで田舎のおばあちゃんちのような…… 。ああ、そうだ。この間テレビで見た昔の家に似てる。あれは、えっと……明治? それとも大正……。ああ、もっとちゃんと見ておくんだった。とにかく、それぐらい昔の家によく似ている。

「狭いところですが、どうぞ」
「ありがとう、ございます」

 伊織さんに抱きかかえられたまま入った家の中は、外から見るよりも綺麗だった。でも、やっぱりどこか違和感を覚える。本当にここは、現代なのだろうか。だって、家の中には囲炉裏があり、台所らしきところにはかまどが見える。これじゃあまるで、テレビの中の時代劇の世界に迷い込んできたみたい……。

「っ……」

 自分自身の考えに、ゾッとした。そんなことあるわけない。たまたまこの家が古い作りなだけで、他の家はきっと普通の作りに決まっている。ううん、他の家ももしかしたらこんな感じかもしれないけれど、きっとそれはこの島が昔からの家を受け継いでるだけで。だから、絶対そんなわけない。タイムスリップなんて、非現実的なこと、起きるわけが……。

「足を見せてください」
「え……?」
「痛めてるんでしょう?」

 伊織さんは私の足の腫れを確認すると、塗り薬のようなものを塗ると包帯を巻いた。普通、ここは湿布だと思うんだけど……。不思議に思っていると、伊織さんが説明してくれた。

「東京の方ではもう少しいい薬もあるかもしれませんが、ここではこれで勘弁してくださいね。軟膏を塗っておいたのでそのうちマシになると思います。肘は……これは洗い流すだけでよさそうですね。乾かした方が早く治ります」
「ありがとうございます……。あの、ところで今、東京って……」
「東京がどうかしましたか?」
「えっと、その……」

 東京がどうかしたのか、そんな聞かれ方をすると困る。東京を知ってるんですか? なんて質問はどう考えても変だし……。でも、当たり前のように伊織さんが東京という地名をいったところをみると、やっぱりタイムスリップなんてあるわけなくて、たまたま田舎なこの島に流れ着いただけのようだ。そう思うと少しホッとする。
 ただ、それにしては、服も濡れていないけれど……。
 と、思ったところで伊織さんが私をまじまじと見ていることに気付いた。

「あの……」
「ああ、すみません。それにしてもそんな下着のような格好であんなところにどうしていたのですか?」
「下着……?」
「それとも異国の方なのでしょうか? それにしては、日本語が堪能ですが……」

 言われている言葉の意味がわからず、身体を動かした拍子にかけてくれていたジャケットがズレ落ち、伊織さんが慌てて顔を背けた。そんな顔を背けられるほど変な格好はしていないはず。別に濡れて下着が透けているわけでもないし……。私は自分の格好を改めて見て、それから小首を傾げた。

「そんなに変ですか? たしかにそんなに高い服じゃないけど、でも別に流行りからめっちゃ遅れてるとか、ダサいとかそんなことはないと思うんですけど……」
「っ……! と、とりあえずその羽織を着てもらえませんか……? 目のやり場に、困ります……」
「は、はい」

 切実に伊織さんが言うので、私はいろいろと腑に落ちないけれど、言われた通りに借りた上着を着る。

「着ましたか?」
「はい」

 私の答えに、伊織さんは少し安心したようにこちらを向いた。

「安心しました」
「なんか、すみません」
「いえ……。ところで、あなたのお名前を伺ってもいいですか?」
「あ……」

 その言葉に、ようやく私は自分が名乗ってすらいないことに気が付いた。
 ……にしても、名乗っていない私が言うのもなんだけど、どこの誰かも知らない人間を家まで連れて来ちゃうなんて、この人ちょっと変な人なんじゃあ……。
 思わずジロジロと見てしまう私に、その人は少し困ったように頬をかく。

「いや、あの他意はなくてですね……。名前がわからないと、あなたのことをなんとお呼びしたらいいかもわかりませんし……」
「あ、いえ。それもそうですよね。えっと、私は――菫です」

 それでもやっぱり警戒してしまった私は名前だけを告げた。別に名字を隠したところで何がどうなるわけじゃないけれど、でもなるべくなら隠せる情報は隠したい。特にこの人がどういう人なのかわかるまでは。
 ……こういう、年相応じゃない考え方がダメだったのだろうか。たまにクラスで私の発言が浮いてしまうことがあった。そういうときは、海里がよくフォローしてくれてたんだけど……。海里、今頃心配してるかな……。私がいなくなったことで海里のおばちゃんから怒られたりしてないといいなぁ。私が勝手に抜け出したのであって海里は関係ないんだから。

「菫さん?」
「あ、すみません」

 そんなことを考えていると、何度か私の名前を呼んでいたようで、目の前で伊織さんが心配そうな表情で私を見ていた。

「大丈夫ですか? 具合でも悪いのですか?」
「あ、いえ……。そんなことは……」
「ならよかった」

 優しく微笑むその笑顔に――私は、なんとなくこの人は別に悪い人じゃないんじゃないか、と思った。ただの勘だけど、でも外れてない気がする。

「あの、もう一度聞いてもいいですか?」
「はい」
「ここは、どこなんですか?」
「ここは小豆島です。西村地区、という名前に聞き覚えは?」
「うーん……。小豆島って名前は聞いたことあるし地図上でもなんとなくあの辺っていうのはわかるんですが、地区名までは……」
「そうですか」

 眉間にしわを寄せて、うーんと唸ると伊織さんは引き出しから一枚の紙を取り出して広げて見せた。そこには、日本の地図が書いてあったのだけれど……。

「ここが小豆島。この辺が西村ですね」
「私が住んでいる場所はここです」

 地図を指さすと、もう一度伊織さんは唸る。それもそのはずだ。私が住んでいる県から小豆島までは海を渡らないとたどり着かない。ううん、海を渡るまでにもだいぶ距離だってある。ちょっとやそっとじゃたどり着けるわけがない。

「数年前なら戦争から逃げるための船が難破してたどり着くこともあったのですが、今は……」
「戦争……?」

 耳なじみのない言葉が聞こえる。だって、戦争なんて私のおばあちゃんのうんと小さな頃に起きたっきり日本では起きていない。そりゃあ世界の中では今も戦争が起きている地域があるってことは知っているけれど、日本に船でたどり着けるような場所じゃないし……。

「あの、戦争って……」
「四年ほど前に世界を戦火とした戦いがあったでしょう? このあたりも……」
「え……?」

 伊織さんの口から出たその単語に、私は言葉を失った。
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