さざ波の向こう いつかの君へ

望月くらげ

文字の大きさ
9 / 39
第二章:海流に連れられてきたように

2-5

しおりを挟む
 そのぬくもりが伊織さんの体温だと気付いたのは、先ほどまで全身を襲っていた震えが止まってからだった。
 すぐそばで聞こえる心臓の音が心地いい。

「大丈夫……?」
「は、はい。わ、私……すみません!」

 慌てて身体を離す私を、伊織さんは心配そうに見つめている。

「謝らなくていい。……けれど、いったいどうしたんだ?」

 伊織さんの口調が砕けたものになっていて、丁寧な言葉を使う余裕がないぐらいに心配させたんだと思うと申し訳なくなる。

「そ、その……」

 なんて言えばいいのだろう。どう言えばごまかせるだろう。
 一瞬、そんな考えが頭をよぎった。けれど、そんな思いとは裏腹に、口から出たのはもう思い出したくもないあの日のことだった。

「私……父親を殺したんです」
「……どういう」

 伊織さんが言葉に詰まったのがわかった。せっかく優しくしてもらえたのに、もうダメかもしれない。でも、もう止められなかった。

「子どもの頃、お父さんにケーキが食べたいって泣いたことがあって」

 あれは、私が9歳、椿が5歳の時だった。お母さんが私と椿に買ってきてくれたイチゴのショートケーキ。それを私は床に落としてしまった。泣いて泣いて泣き止まない私をお父さんが自転車でケーキ屋さんまで連れて行ってくれることになった。

「家を出る時点で雨が降りそうだったのをよく覚えてます。案の定、ケーキ屋さんまであと少しというところで雨が降り出して……。イチゴのケーキを買い直して慌てて家に帰ろうとしました」

 小雨だったらよかったんだけれど、思ったよりも強い雨が降ってきて視界が悪くなった。一瞬で地面には水たまりができて……。

「危ない、って思う間もなかったです。気付いたときには私は田んぼの中で泥だらけでした。おとうさっ……、お父さんは……視界の悪さに気を取られたトラックに……ひかれて……」

 お父さんは私の目の前ではね飛ばされた。どんどんと血が流れて、雨と混じって辺りを真っ赤に染めていく。自転車のハンドルはあり得ない方向に折れ曲がってるし、はねられた拍子に潰れたイチゴのショートケーキは、ぐじゃぐじゃに潰れて跡形もなかった。
 そのあとのことはよく覚えていない。ただ動かないお父さんをたくさんの人が助けている間、ずっと田んぼの中で泥まみれになっていた。私の存在に気付いてくれるまで、ずっと。

「あの日から、泥を見るとお父さんが死んだときのことを思い出してしまって……。さっきは、それで……。すみません」
「いえ……」

 カタカタと震える指先を反対の手で握りしめる。今日会ったばかりの人に、どうしてこんな話をしているのか。自分でもよくわからなかった。でも、自然と口が動いていた。今まで、海里にしかこんな話したことなかったのに……。

「だから、こんな形でだけど家から出られてホッとしているところもあるんです」
「どういう……」
「私のせいで――ううん、私がお父さんを殺しちゃったから……お母さんや椿に恨まれても仕方ないから……。そんな二人のそばにいるのが辛かったから……」

 二人とも何も言わない。でも、本当はずっと私のことが疎ましかったに違いない。お父さんを殺した私のことが憎くて仕方なかったに違いない。

「そんなこと思ってるわけ……」
「思ってるんです! だって、お父さんが死んだあとお母さん言ってたもん! 『「どうしてあの人が。どうしてケーキなんか。あの日、菫があんなことを言わなければ……!』って! お母さんが夜、仕事に行かなきゃいけなくなったのも、椿が寂しい思いをするようになったのも、全部、全部私のせいなんだから……!」

 頬を涙が伝う。私に泣く資格なんかないのに……。
 でも、そんな私の頬に伊織さんの指先が触れた。そっと涙を拭うと、伊織さんは私の身体を優しく抱きしめる。

「泣かないで」

 伊織さんはまるで幼い子どもに言い聞かせるように、優しく私の背中を撫でながら話した。

「菫は悪くない。お父さんが亡くなったのは、菫のせいなんかじゃない」
「ちが……!」
「少なくとも、僕はそう思う。だから、もう苦しまないで」

 伊織さんの優しい言葉が、私の心に染みこんでいく。出会ったばっかりで、私のことなんてなんにも知らないのに……なのにどうして、私が一番欲しかった言葉をくれるの……。

「っ……」
「君のせいじゃない。大丈夫、大丈夫ですから」
 
 顔を上げると、伊織さんが優しく、でも寂しそうに微笑んでいた。その表情が気になって思わず名前を呼んでいた。

「伊織、さん?」
「……菫の話だけ聞いて、自分のことを言わないのは卑怯ですね。僕の母親は、僕を産んだときに死にました」
「え……?」

 伊織さんを、産んだときに……?

「元々、身体が強くなかったこともあって、兄を産んだあともう子は作らない方がいいと言われたそうです。ですが、僕ができて――母は産むことを決めたそうです。絶対に大丈夫だから、と。ですが……」

 伊織さんは顔を歪める。こんな表情をさせたかったわけじゃないのに……。私は、さっき自分がしてもらったみたいに伊織さんの背中を撫でる。そんな私に、伊織さんはそっと微笑んだ。

「ありがとうございます。……菫は、僕のせいで母が死んだと、そう思いますか?」
「思わない! だって、伊織さんのお母さんはきっとそんなふうに思うことを望んでないと思うもん!」
「はい、僕もそう思います。そう思わせてくれたのは、父や兄がどれだけ母が僕の誕生を心待ちにしていたかを何度も何度も話して聞かせてくれたからだと思います。僕は愛されていたんだと。……菫もそうじゃないですか?」

 伊織さんの言葉に、私は何も言えなくなる。私は、どうだっただろう。お母さんが口を開くと、責められてるとばかり思っていたけれど、本当はいったいどういう気持ちで私にお父さんの話をしていたんだろう。わからない。ううん、わかろうとしなかったんだ。自分のせいだと責められていれば、みんなが私を責めるんだと悲劇のヒロインぶって全てを遮断していたんだから。

「…………」
「これ、ちょっと洗ってきますね」

 何も言わなくなった私の頭を優しく撫でると、伊織さんは立ち上がり泥だらけになった上着を持って洗面所へと向かった。
 そういえば、いつの間にか伊織さんの口調が元に戻ってたな……。そんなことを考えながら窓の外を見ると、まだ雨が降り続いていた。
 残された私は、しとしととふる雨の音を聞きながら、お母さんや椿のことを思い出す。本当は、私のことをどう思っていたのか――。もう二度と聞けないかもしれない質問の答えを。



 その日の夜、私は伊織さんがかまどや囲炉裏を使って作ってくれたご飯を食べて、伊織さんが出してくれた布団に入った。
 ちなみに私が寝ているのは居間で、伊織さんは別の部屋で眠っていた。そちらは普段伊織さんが寝室として使っているようで、最初は自分が今に布団を敷いて私にそこで寝るようにと言っていたのだけれど、さすがにそこまで甘えられないと言うとしぶしぶ予備の布団を渡してくれた。

「っ……」

 一人布団に入って目を閉じると、涙が溢れてくる。思い出すのは「あなたのせいじゃないのよ」と寂しそうに微笑むお母さんの顔。それから「お姉ちゃん!」と私を呼ぶ椿の声。どちらもずっと私を責めていると思っていたのに、今になってあれは私のことを心配していたのではないかと思う。

「お母さん……。椿……」

 名前を呼ぶと、嗚咽が混じる。ぐしゃぐしゃに濡れた顔を、伊織さんに借りた浴衣のような寝間着の袖で拭うと、ぎゅっと目をつぶった。いつか、もう一度会えたら、ごめんなさいって伝えたい。そんな日が、いつか来るのなら――。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

時間を止めて ~忘れられない元カレは完璧な容姿と天性の才能を持つ世界一残酷な人でした 【完結】

remo
恋愛
どんなに好きになっても、彼は絶対に私を愛さない。 佐倉ここ。 玩具メーカーで働く24歳のOL。 鬼上司・高野雅(がく)に叱責されながら仕事に奔走する中、忘れられない元カレ・常盤千晃(ちあき)に再会。 完璧な容姿と天性の才能を持つ世界一残酷な彼には、悲しい秘密があった。 【完結】ありがとうございました‼

12年目の恋物語

真矢すみれ
恋愛
生まれつき心臓の悪い少女陽菜(はるな)と、12年間同じクラス、隣の家に住む幼なじみの男の子叶太(かなた)は学校公認カップルと呼ばれるほどに仲が良く、同じ時間を過ごしていた。 だけど、陽菜はある日、叶太が自分の身体に責任を感じて、ずっと一緒にいてくれるのだと知り、叶太から離れることを決意をする。 すれ違う想い。陽菜を好きな先輩の出現。二人を見守り、何とか想いが通じるようにと奔走する友人たち。 2人が結ばれるまでの物語。 第一部「12年目の恋物語」完結 第二部「13年目のやさしい願い」完結 第三部「14年目の永遠の誓い」←順次公開中 ※ベリーズカフェと小説家になろうにも公開しています。

これって政略結婚じゃないんですか? ー彼が指輪をしている理由ー

小田恒子
恋愛
この度、幼馴染とお見合いを経て政略結婚する事になりました。 でも、その彼の左手薬指には、指輪が輝いてます。 もしかして、これは本当に形だけの結婚でしょうか……? 表紙はぱくたそ様のフリー素材、フォントは簡単表紙メーカー様のものを使用しております。 全年齢作品です。 ベリーズカフェ公開日 2022/09/21 アルファポリス公開日 2025/06/19 作品の無断転載はご遠慮ください。

☘ 注意する都度何もない考え過ぎだと言い張る夫、なのに結局薬局疚しさ満杯だったじゃんか~ Bakayarou-

設楽理沙
ライト文芸
☘ 2025.12.18 文字数 70,089 累計ポイント 677,945 pt 夫が同じ社内の女性と度々仕事絡みで一緒に外回りや 出張に行くようになって……あまりいい気はしないから やめてほしいってお願いしたのに、何度も……。❀ 気にし過ぎだと一笑に伏された。 それなのに蓋を開けてみれば、何のことはない 言わんこっちゃないという結果になっていて 私は逃走したよ……。 あぁ~あたし、どうなっちゃうのかしらン? ぜんぜん明るい未来が見えないよ。。・゜・(ノε`)・゜・。    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 初回公開日時 2019.01.25 22:29 初回完結日時 2019.08.16 21:21 再連載 2024.6.26~2024.7.31 完結 ❦イラストは有償画像になります。 2024.7 加筆修正(eb)したものを再掲載

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~

馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」 入社した会社の社長に 息子と結婚するように言われて 「ま、なぶくん……」 指示された家で出迎えてくれたのは ずっとずっと好きだった初恋相手だった。 ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ ちょっぴり照れ屋な新人保険師 鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno- × 俺様なイケメン副社長 遊佐 学 -Manabu Yusa- ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 「これからよろくね、ちとせ」 ずっと人生を諦めてたちとせにとって これは好きな人と幸せになれる 大大大チャンス到来! 「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」 この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。 「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」 自分の立場しか考えてなくて いつだってそこに愛はないんだと 覚悟して臨んだ結婚生活 「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」 「あいつと仲良くするのはやめろ」 「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」 好きじゃないって言うくせに いつだって、強引で、惑わせてくる。 「かわいい、ちとせ」 溺れる日はすぐそこかもしれない ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 俺様なイケメン副社長と そんな彼がずっとすきなウブな女の子 愛が本物になる日は……

~春の国~片足の不自由な王妃様

クラゲ散歩
恋愛
春の暖かい陽気の中。色鮮やかな花が咲き乱れ。蝶が二人を祝福してるように。 春の国の王太子ジーク=スノーフレーク=スプリング(22)と侯爵令嬢ローズマリー=ローバー(18)が、丘の上にある小さな教会で愛を誓い。女神の祝福を受け夫婦になった。 街中を馬車で移動中。二人はずっと笑顔だった。 それを見た者は、相思相愛だと思っただろう。 しかし〜ここまでくるまでに、王太子が裏で動いていたのを知っているのはごくわずか。 花嫁は〜その笑顔の下でなにを思っているのだろうか??

処理中です...