かけ違えたボタンホールを、今

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かけ違えたボタンホールを、今(下)

かけ違えたボタンホールを、今.9

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 撮影と共に一日の仕事が終わりを告げる月夜、瑠璃は挨拶もそこそこに済ませ、マネージャーが手配してくれたタクシーに乗り込もうと建物を出ていた。

 疲労感が体に重くのしかかる。仕事の影響もあったが、どちらかという精神的なもの――自分が千鶴にかけてしまっている迷惑を反芻してしまっていることが一番大きな理由だった。

 両想いだと分かって以降、心の距離感を詰めすぎているのが自分でも分かるほどだった。

 本当は、今すぐにでも一緒に暮らしたかった。

 太陽の目覚めを、月のきらめきを、星々の挽歌を、共に感じ続けていたい。でも、そんな気持ちを押しつけすぎて千鶴を困らせては本末転倒だ。

 階段を下りつつ、一瞬だけ立ち止まって携帯を確認。千鶴に送ったメッセージには既読のマークがついても、返事はなかった。

(…嫌われていたら…どうしよう)

 短くため息を吐き、見つけたタクシーに乗り込む。それから、いつもどおりに目的地を告げて発進してもらおうというところで、予期せぬことが起きる。

「すみませーん!」

 階段を駆け下り、タクシーに近づいてくるのは花蜜カレンだ。

「あの子…」と瑠璃がぼやいているうちに、何を勘違いしたのか、運転手が扉を開け、彼女を車内に招き入れた。

「ちょっと」と勝手な真似に苦情を伝えようとしたのだが、それよりも速く、隣の座席に滑り込んできたカレンが扉を閉めた。

「あ、どうぞ出発して下さい!」

「カレンさん」

「いいから、いいから」

 朗らかに笑うカレンの声に、ちらり、と運転手がミラー越しにこちらを見やる。その瞳が、『よいのですか』と言っているような気がしたから、一瞬の逡巡の後、軽く頷いてみせた。

 ぶぅん、と鈍いエンジン音を立てて動き出す車。その窓の向こうに、プロデューサーやらアシスタントやらの姿が見えた。

 あの中には、たしか女性タレントにしつこく言い寄る男もいたはずだ。自分はレズビアンであることをカミングアウトしているからかさすがに寄って来ないが、他の女性陣はその限りではあるまい。

 遠くなっていく男性陣の姿。それをさりげない様子で確認したカレンは、ほっと一息吐いて胸を撫でおろしてから瑠璃の横顔を見上げた。

「あの、紫電さん」

「構いません」

 言葉を遮るように返した瑠璃に、カレンは目を丸くする。

「何もおっしゃらないで下さい。聞かずとも、何となくは分かりますから」

 本当は、それを聞くことで自分が巻き込まれるのを避けただけだ。恐怖心や不安からではない。ただ、面倒だからというシンプルな感情だ。

 千鶴以外の人間の事情など、自分は興味もない。そこに割くリソースはこの頭のどこにもないのである。

 だが、カレンはそんな淡白な瑠璃の反応を大人の気遣いと捉えたらしく…。

「しつこいんですよね、あの人。もう五十も過ぎるようなおじさんなんですよ?私に言い寄ってくるって、頭おかしくないですか?」

 明らかな嫌悪感をみなぎらせ罵るカレン。こういうとき、信頼のおけるタクシー運転手を手配してもらっていることを幸運に思う。

「娘さん、私と同じくらいの歳だって聞いてます。どんな気分で抱くんでしょうね、娘と同じ年頃の相手を」

 発言がヒートアップしそうな気配を感じ取った瑠璃は、ちらり、と細めた目でカレンの顔を一瞥する。そうすれば、『余計なことをペラペラと言うな』という彼女の内心がいくらか伝わったらしく、途端にカレンはしょんぼりとした様子で肩を丸めた。

「…すみません。聞かなかったことにして下さい」

 言外の意図を汲み取ることに苦手のある瑠璃にとって、カレンのした素直な謝罪は好感が持てた。加えて、その後しばらくの間、おしゃべりな口を閉ざしてくれていたこともありがたいことだった。

 だが、カレンの横顔は依然として晴れないまま。瑠璃にとってそんなことは昨日の天気並みにどうでもよいことだったが、今後のことを考え、恩を売ることに決めた。

「地位とお金を持っている男性は、往々にして若い女性を好むと耳にしたことがあります。つまりはそういうことなのでしょう」

 瑠璃が話題に乗ってくれたことが嬉しかったのだろう。カレンは少しばかり顔を綻ばせて瑠璃を見つめる。

「なんか、勘違いしてますよね。世の中の女が全員お金に寄ってくるって」

「ええ、不愉快なことです。まぁ、お金をそういうものにしてしまった社会にも問題はありますが」

「社会が?」

「人を形作るのは遺伝子よりも環境です。家庭、学校、職場、社会…。問題の始まりの多くは、個人ではなく環境だと私は思います」

「な、なるほど」

 感心した様子で目を輝かせるカレン。どうやら、ミステリアスな相手がタイプ、というのは本気らしい。彼女の瞳には明らかな尊敬の念が見られた。

「なんか、小難しい話。でも、紫電さんっぽい」

「…そうですか」

 気に入られるのも、それはそれで面倒だ。

 瑠璃はそっけなく車窓の外を眺める。夜闇を犯すようにきらきらする照明の数々は、彼女の目には酷く冒涜的に映った。

 淡白な応対がかえって瑠璃の世間離れした雰囲気を助長してしまったのだろう。カレンはどこか嬉しそうにシートを詰め、瑠璃に近づく。

「紫電さん」

「…なんでしょう」

「この後、ご飯でもどうですか?私、奢ります!」

「ありがとうございます。でも、結構です」

「えぇ、いいじゃないですか。私、紫電さんのこと色々と知りたいんですよぅ」

「いや、ですから…」

「お願いしますよぉ」

 両手を重ねて小首を傾げる姿は、なるほど、確かに可愛らしい。世の中が彼女の愛くるしさを讃えることも理解できた。

 ただ、理解できないことが二つあった。

「…理解できない」

 思わず、素の口調に戻ってしまったまま、瑠璃は続けた。

「どうして私のことを?何の意味がある?」

 口調が砕けたからだろう。カレンは目を輝かせてぴったりと瑠璃に寄り添い、彼女を見上げた。

「紫電さん、ミステリアスでかっこいいですし。仲良くなりたいんですよ。こういうのに、理由っていります?」

「いるよ。理由のない物事ほどぞっとするものはない」

「わ、素敵。素の喋り方ってそんな感じなんですね」

 瑠璃は美しく片眉をひそめると、そのままカレンの瞳を覗き込んだ。

「…まぁ、理由はもういい。もう一つ、理解できないことがある。聞いてもいい?」

「はい、はい、もちろん!」

 尻尾が彼女についていれば、今頃左右にぶんぶんと振っているだろうという、無味無臭の感想を抱きながら、瑠璃は尋ねる。

「しつこい相手から逃げおおせ罵った君が、どうして私にしつこくする?」

 刹那、カレンの表情がぎこちなく固まった。

 あぁ、答えはつまらないものみたいだ。

 瑠璃は隠しきれない失望をため息に込めて窓の外へ視線を移すと、ぼんやりとした口調でさらにこう重ねる。

「黄金律。知ってる?」

 返答はない。ただ、カレンが焦っていることだけはなんとなく分かった。

「『自分がされて嫌なことは、他人にもするな』。モラルの鉄則だ。そのくせ、みんな忘れてしまう」



 カラン、と音を立てて倒れたコーヒーカップから、茶色い液体がデスクの上に広がっていくことすら、今の千鶴にはどこか膜一枚隔てた先の出来事のように感じられていた。

 その原因になったのは、手のひらサイズの携帯画面で流れていたとある番組であった。

『だって瑠璃さん、ミステリアスなお姉さんって感じで、私のタイプですもん!』

 最近目にする若いタレント――たしか、花蜜カレンだとかいう女だったろうか。とにかく、その女が瑠璃の口にした理想のタイプ論に食いつき、あろうことか両腕を瑠璃の腕にからめたのだ。

 どういう相手が好みなのかとか、今までの恋愛経験はどうなのかとか…そういった類の質問からは逃れられない、と瑠璃が辟易するのはいつものことだ。千鶴自身、瑠璃の職業性質上、そういう絡み方をされても我慢する立場にあることも理解しているつもりだった。

 しかし、これは別物だ。

 人の見ていないときだけ自分の腕に絡められる、紫野瑠璃のしなやかな腕。いわば、恋人とか家族のためにあるものだ。それなのに、この小娘は我が物顔で触れていた。

「ちょ、ちょっと相沢さん!コーヒー!こぼれてる!」

 上司の大竹が慌てて千鶴の不注意を指摘するも、彼女はゆっくりと浮上するみたいな速度でしかコーヒーを拭こうとしない。

 幸い、今は昼休みだったし、大事な資料やキーボードなどにかかっていなかったから、大竹も不可思議な顔でその場を後にしたのだが、千鶴にとって最も大きな問題は何も解決していなかった。

 画面の中の瑠璃は酷く淡々とした瞳で、でも、どこか真意が読み取れない色彩を秘めたままでカレンの肩をやんわりと押した。

『ふふ、私、カレンさんのファンに怒られてしまいませんか?』

 口元がわずかに綻ぶとても品のある微笑み方に、一瞬だけ魅入ってしまう千鶴だったが、それが向けられているのが自分ではないことを思い出し、ぐっと力強く右手を握り込む。

(紫野…!何をそんな悠長なこと言ってんの…!?さっさと押しのけてよ!)

 しかし、瑠璃はそれ以上強引に相手を引き剥がそうとはせず、カレンが大丈夫だと根拠なく笑う姿を穏やかに見つめるばかり。

(受け入れてるみたいに見えちゃうじゃん!あぁ、もう…!イライラするなぁ!)

 ちっ、と舌打ちしながら画面を睨みつける。そんな千鶴に向けて同僚たちが気づかわし気な視線を送っていることなど、彼女は気づきもしない。

 いつになったら腕を解くのだろうかと画面に食い入っていた千鶴を嘲笑うみたいに、そのまま番組はCMへと移る。いっそう募った苛立ちは、CMが明けて再び映し出された二人の姿が自然なものに戻っているのを確認するまで、ごうごうと燃え盛っていた。

 千鶴はガシャ、と音を立てながら、オフィスチェアの背もたれに思い切り体重を預ける。そして、番組の途中にも関わらず動画アプリを閉じ、代わりにメッセージアプリを開いて紫野とのトークルームを起動する。

『なんか、花蜜カレン?とかいうのと仲良いんだね。番組見たよ』

 よし、嫌味成分は十分…なんて考えたところで、どうにか成熟しつつある千鶴の精神が顔を出し、“送信”のボタンを押すことを躊躇わせた。

 これじゃ、すごい性格悪い。

 瑠璃がああした仕事に就いたのは、話によれば私のためらしい。いや、どこをどうしたらそうなるのかは今でも分からないけれど…。

 だけど、今の瑠璃はきっと仕事を楽しんでいる。本人はなかなか言語化しないけれど…とにかく、彼女が色々と有名になるのなら、どんなことだって目をつむるのがパートナーである私の仕事ではないだろうか?

 ぐるぐると思考が回る。

 千鶴は一先ず、メッセージを送りつける前に花蜜カレンのSNSを検索して、彼女のパーソナリティを知ろうと思った。そうすることで、カレンがパーソナルスペースの狭い、誰とでも親密なコミュニケーションを取る人間である証明を見つけられると予想したのである。

 しかし…これはむしろ、千鶴の火に油を注ぐ行為にしかならなかった。

(な、なにこれ…!)

 最近の花蜜カレンの投稿。それらはほとんど、紫野瑠璃――もとい、紫電瑠璃との写真か、彼女に関するコメントばかりだったのだ。

 次から次に出てくる、きらびやかな写真。称賛と共感を得るコメント。

 そこには、千鶴の知らない瑠璃の姿があった。写真は瑠璃に許可を取って撮影したのかも疑わしくなるものが多かったが、一部はきちんとツーショットらしいものもあった。

(こんなの、熱狂的なファン…いいや、彼女面してるファンじゃない!)

 ろくに知りもしないカレンへの恨みは、すぐさまそれを許している瑠璃へと向かう。この場合、具体的には『送信』ボタンにである。

『なんか、花蜜カレン?とかいうのと仲良いんですね!色々と拝見しましたよ』

 怒っていることを伝えるため、わざと丁寧な言葉も混ぜてみる。

 瑠璃からの返事はすぐにやってきた。

『なに、その変な話し方』

 ぶちっ。

 怒りに任せ、素早くメッセージを送る。

『花蜜カレンって、なに。なんなの』

『カレンさんがどうした?』

『いや、どうしたじゃなくて。こっちが質問してんの』

『…なにって…何が聞きたいの?』

 円滑に行われてない文字だけのコミュニケーションは、今の千鶴にとって着火剤にしかならない。

「ちっ!」

 ガタン、と自分の席から離れた千鶴は、まだ昼休みに余裕があることを確認してから、会社の屋上テラスへと向かった。

 テラスは少し肌寒かったものの、神経が昂ったことで体温も上昇している千鶴にとっては程よいものである。

 出ないかもしれない、と思いつつも、出なきゃ許さない、とも思いながら電話をかける。相手はもちろん、パートナーであり、怒りの矛先でもある紫野瑠璃だ。

 幸か不幸か、電話は2コールでつながった。

『もしもし?』

「あの子、なんなの」

 開口一番、攻撃的な口調になってしまう。

『あの子?カレンさん?』

「そう」

『カレンさんが何?』

「だからぁ、なんなの?腕組んだり、写真撮ったりさぁ…!必要なの?ああいうやり取りって」

『腕?…あぁ…』

 瑠璃はようやく合点がいったようで、早口になっている千鶴とは対照的にゆったりと事情を説明した。

『腕は急に組まれたんだよ。仕事柄、引き剥がすわけにもいかない。写真は…うん、必要、なんだろうね。あんまりしつこいときは咎めるけど、彼女の影響力に便乗できて仕事が増えるのは、正直美味しい』

 淡々と、事務的。

 あぁもう、そうじゃない…!

 紫野は、何も分かっていない。事の重大さを、私が何に怒っているのかを。

「紫野」

『なに?』

「私がどうして怒ってるのか、分かってる?」

『…ごめん、あんまり』

 だろうね、と心の中で毒づく。でも、予測できていたおかげで感情を爆発させずに済んだことは僥倖だっただろう。

 大きく息を吸い、神経を少しでも落ち着かせてから千鶴は続けた。

「…しょうがないとは分かってるんだよ、私も。でもね、やっぱり、面白くないよ」

 できるだけ感情を乱さず気持ちを口にしたつもりだ。だけど、瑠璃は何も言葉を返さない。

 黙して辟易としているのでは、と心配になった千鶴は、沈黙を厭うようにして言葉を重ねた。

「紫野はさ…誰の恋人なの」

 うわっ、痛いなぁ…と後で振り返ったら悶絶するような台詞にも自分で気づかない千鶴に待っていたのは、思わず赤面してしまうような瑠璃の言葉だった。

『…違っていたらごめん。嫉妬?』

「なっ…!」

 嫉妬?

 私が、花蜜カレンとかいうよく分からない人間相手に?

 そんなわけない、と口にしかけて、よくよく自分の発言を振り返る。そうすれば、この頭の大部分を占めていた感情は、純度百パーセントの嫉妬であったと思い知らされて言葉に詰まってしまう。

 いっそ、ああそうだよ、と開き直ってやろうかと、変な汗を珠のように額に浮かせた千鶴が考えていると、やおら瑠璃が笑い声を発した。

『ふふっ』

 それは、天の祝福みたいに綺麗なさえずりだった。

 幸せが音色に変わることがあれば…きっと、こんな音だろうという響き。

『可愛いね、千鶴』

 どうして私が怒っているのに、そんな幸せそうな声を出せるのか、とか。

 どうして私からは見えない場所なのに、幸せそうに微笑むのか、とか。

 どうして瑠璃の言葉は、単純なのに私の一番大事な部分を震わせるのか、とか。

 千鶴には、言いたいことがたくさんあった。

 でも、それを正しく言語化する術を彼女は持ち合わせていない。

 だから、千鶴は何度も何度も言葉を紡ぎかけてはやめ、また紡ぎかけては…と繰り返していたのだが、そのうち、携帯越しに瑠璃を呼ぶ声が聞こえてきた。

『ごめん、千鶴。仕事だ、戻らなきゃ』

「あ…うん…」

 憤りを覚えていたはずなのに、口からこぼれたのは名残惜しそうな返事だ。

『千鶴』

 電話を切る直前、瑠璃が囁くように言った。

『愛してるよ』

 電話の声って、本当の本人の声ではないと聞いたことがあるが…あんなの、嘘だ。

 そうでなかったら、こんなに胸が高鳴っている自分は馬鹿みたいじゃないか。
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