散華

null

文字の大きさ
5 / 6

呪いの言葉は言わないで

しおりを挟む
 生まれて初めて、時間の無常さに反吐が出そうになった。

 今までは、流れゆく時が季節を運んでくるのを、嬉々として迎え入れていたのだが、今日ばかりはその限りではなかった。

 病室の窓から、外を見やる。ベッドから大して離れていないので、車椅子もいらない。

 ここから見える裏庭の花壇には、色鮮やかな花々が咲いている。
 生命を謳歌するような咲きっぷりに、むしろ、小馬鹿にされているような心地にさえなった。

 歯軋りしながら、窓枠を握りしめる。ノックの音が聞こえる。

「入るよ?」と美月の声。

 今は正直、会いたくなかった。

 だが、母も父も見放した私を気にかけてくれるのは、美月ぐらいのものなので、どんなときでも無下にも出来ない。

 何も答えずにいると、扉が開かれ、美月の息遣いが感じられた。

 顔を見なくとも分かる。初めは不思議そうだった彼女の気配が、素早く不安そうなものに変わった。

 だから嫌だった。
 私の半身は、私のことをよく分かっている。

 黙っているだけでも、美月は私の懊悩おうのうを見破っていた。

「どうしたの、美陽?」

 どうしたも、こうしたもない。

 乾いた笑いが口元に浮かんだ。
 自分らしくない、と分かっていながらも、私はニヒルな表情をそのまま美月へと向けた。

「どうしたの、何かあった?」

 もう一度、美月が同じ問いをぶつけてくる。

 別に、と口にしたつもりだったが、唇が動いただけで声が出なかった。

 病室の白が、酷く目障りだ。
 これならいっそ、白と黒で、喪に服したようなデザインにしてほしかった。

 そうだ、それがいい。
 そうすれば、自分が死を待つ存在であることを忘れずに済むし、
 この場所が、どういう場所なのかを忘れずにいられる。

 春風に揺れるロングヘアを抑えながら、美月が私のそばに立った。
 窓の外の花壇を眺めるフリをして、自分の様子を観察していることが容易に分かる。

 窓枠に置いた私の手に、美月がそっと、自分の手を重ねた。

 昔は私よりも細くか弱かった指先が、今では私よりも強く、しなやかだ。

 ――…分かっている。変わったのは私だ。

 それがどうしてか、やけに気に入らない。

 ――…私たちは、元は同じものだったはずだ。それなのに…。

 ほとんど払いのけるようにして、美月の手をどける。
 驚き、傷ついたふうに、目を見開いた彼女に、さらに苛立つ。

 胸に抱いている絶望感を、自分の片割れである美月にも、味あわせてやりたくなった。

「死んだって」あえて、どうでもよさそうに告げる。「し、死んだ?」

 頷きながら、美月の様子を窺う。
 私からの拒絶と、『死』という単語からくるショックで、固まっている。

「香菜ちゃん」

 猫の目みたいに、さらに大きく見開かれていく美月の瞳を、横目で確認する。
 信じがたい、という思いか。
 それとも、言葉が出ない、というだけか。

 口をぱくぱくさせた後、項垂れた彼女を見るに、どうやら後者のようだ。

 言葉にすることなど、無意味だ。
 言葉は、現実を変えない。
 変えられるのは、ほんのわずかな事象だけ。

 私は、言葉ほど無力なものを知らなかった。

 ふらりと、脱力していくようにベッドへ腰を下ろした美月が呟く。

「…どうして、手術の日程、決まったって」

「あれって、一か八かだったらしいよ」

「一か八か…?」と怒りを滲ませた美月。

「元々、移植手術の順番が間に合いそうになかったんだって。だから、このまま時の流れに委ねて、ゆっくり死なせるよりは、生き残れるかもしれない可能性に賭けたんだってさ」

「そんなことって…」

乾坤一擲けんこんいってきの勝負だったんだよ。まぁ、結果的に、トスしたコインは裏だったみたいだけどね」

 自分よりも幼い人間の死が、私の心を捨て鉢に、荒んだものにさせていた。きっと、事務的な様子で医者の話を聞いていた、少女の両親を目にしたことが、何よりもの原因だ。

 しかし、そんなことは知らない美月は、美陽のシニカルな発言に目くじらを立てた。
 普段温厚で、物静かな彼女が、これだけ真剣に怒りを露わにすることは珍しかった。

「やめさない、美陽。そういう物言いで、自分を慰めるのは」

 ただ、私の本当の裏側を、ここぞというときに鋭敏に察するのは、さすがと言わざるを得ない。

「…っ!」

 痛いところを突かれて、言葉を詰まらせながらも、頭に血を上らせる。
 一瞬だけ、くらりとしたが、それも怒りの濁流に飲まれて、消えた。

「現実を皮肉っても、誰も報われない、救われないわ。貴方の品位を落とすだけなのよ」

「品位…?今更そんなものに、一体どれだけの価値があるって言うの!」

「美陽、大声出さないで」途端に弱々しい声に変わった彼女。「美月は、自分が死ぬかもしれないなんて、考えたこともないからそんなことが言えるんだよ!」

 言ってしまった。

 脳内では、すでにアクセル全開で後悔を募らせている自分がいた。

 だが、一方で、ようやく言うことが出来た、とすっきりとした心地になっている自分もいた。

 美月が傷つくことは分かっていた。
 それでも、彼女にこの想いを知ってもらいたかった。
 一緒に、傷ついてほしかった。

 それなのに…。

 美月は、罵声を浴びせられても表情を崩さなかった。それどころか、儚く、いつもどおりの美しさで微笑むと、告げた。

「違うわ、美陽。私も死ぬのよ、貴方が死んだときに」
「はぁ?」
「貴方は、私だから」満足そうにも聞こえる声で続けた。「貴方の命が散るとき、私も散るのよ」

 その、ややもすれば狂気じみているように思える台詞を聞いたとき、私は得も言われぬ感情に支配された。

 筆舌に尽くしがたい、とはこういうことを言うのだと、初めて知った。

 美月が口にした、あまりにも勝手で独善的な言葉に、爆発しそうな怒りを覚えた。
 半身が口にした、あまりにも自己満足的で狂愛的な言葉に、身が焦がされるような熱を覚えた。
 みつきが口にした、あまりにも優しくみはるに溶け込む想いの込められた言葉に、震えるほどの愛情を覚えた。

 様々な感情が、スクランブル交差点みたいに行き交い、混じり合う。

 私は、ほとんど倒れかかるような動きで、ベッドに座っていた美月に体をぶつけた。押し倒した、という表現が適切なのかもしれない。

「やめなさいなんて、言ったくせに、お姉ちゃんだって同じじゃん。そんな小綺麗で、自己満足的な言葉で、自分を慰めないでよ」
「み、美陽――」

 さすがに驚いた声で、美月が言葉を紡ごうとした。

 それを、無理やり自分の唇で塞ぐ。

 息が、出来なくなっていた。

 キスのせいじゃない。

 肺が、血液が、酸素を取り込むことを、運ぶことを、諦めていた。
 重ねた唇を離す。
 突然の接吻と、私の青白い顔つきに驚かされた美月の顔が、みるみるうちに血の気を失っていった。

 何で、キスなんてしたんだろう。

 聞きたくなかったのかな。それともただ、刻みつけたかったのかな。
 ずっと美月と一緒にいたから、何気に初チューだ、今の。

 あぁ、さすがにそれくらいは済ませておきたいと思ったのかな。
 そういうことにしとこ。

 死に逝く私に、それ以上を知るのは、毒だ。

 ひゅー、ひゅーと、と酸素を何とか取り込もうとする喉が鳴る。

 警報だ、と暗闇に座り込んでいた、諦めの良い私が呟く。

 体内に残っている、わずかな酸素を――いや、生命を絞り出して、言葉を紡ぐ。

「ごめん…」

 みはる、と美月の澄んだ声が私を呼んだ。しかし、それは今の彼女の声ではない。
 ずっと昔に聞いた、幼い彼女が私を探すときに出す声であった。

 渾身の力で、もう一度だけ美月の口元に顔を寄せた。

 だがそれも、私の意識のほとんどを侵食していた暗闇に引き止められて、叶わずに終わる。

 世界が、明滅する。

 壊れかけの電球みたいに、
 チカチカと、
 白と、黒が、
 生と死が、
 混じる。

 どうやら、白の監獄から釈放されるときが来たようだ。

 力が抜けていく、という感覚すらなかった。
 どちらかというと、透けていく、というのが正しい気がする。

 周囲から、空気が絶滅したみたいに何も聞こえなかった。
 それでも、懸命に口を開く。
 喉が震えているかどうかも、私にはもう分からない。

 ――置いていって、ごめん。美月。

 ――独りにして、ごめんね。

 ちゃんと、言葉になったのだろうか。

 大好きだよ、という呪いの言葉だけは、あえて言わずに。
 私は、私たちを迎えに来た暗闇に身を委ねた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合短編集

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

春に狂(くる)う

転生新語
恋愛
 先輩と後輩、というだけの関係。後輩の少女の体を、私はホテルで時間を掛けて味わう。  小説家になろう、カクヨムに投稿しています。  小説家になろう→https://ncode.syosetu.com/n5251id/  カクヨム→https://kakuyomu.jp/works/16817330654752443761

〈社会人百合〉アキとハル

みなはらつかさ
恋愛
 女の子拾いました――。  ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?  主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。  しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……? 絵:Novel AI

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

小さくなって寝ている先輩にキスをしようとしたら、バレて逆にキスをされてしまった話

穂鈴 えい
恋愛
ある日の放課後、部室に入ったわたしは、普段しっかりとした先輩が無防備な姿で眠っているのに気がついた。ひっそりと片思いを抱いている先輩にキスがしたくて縮小薬を飲んで100分の1サイズで近づくのだが、途中で気づかれてしまったわたしは、逆に先輩に弄ばれてしまい……。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...