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四章 だから勘違いしないでくださいよ、天上院さん!
だから勘違いしないでくださいよ、天上院さん!.2
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こればかりは避けようがないのだと、私は自分に言い聞かせるようにして心の中で呟いた。
平均的な身長より、少し低い私の体の前にはイーゼル。その向こう側には、真剣な顔でキャンバスと私とを見比べながら筆を動かす天上院華の姿。
不気味な彫刻とよく分からない絵画にぐるりと囲まれた美術室は、それこそ、美術の授業でしか立ち入らない。
(……くじ引きの結果だもん。しょうがない、よね)
肖像画を描く。一体全体、今後の人生にどう生かされるのか、疑問しか残らないカリキュラムに文句を言っても意味がないように、運命が神様に委ねられている以上、それに文句を言ってもどうしようもないのだ。
しかも、本来であれば天上院さんとペアになれるなんて、幸運以外の何物でもないのである。実際にさっきから、私のことを羨ましそうに見やるクラスメイトは多かった。それも男子生徒ばかりではない。彼女のことを美しく慈悲深い女神と信じて止まない女子生徒も同様だ。
(みんな、天上院さんが変態だって知らないもんなぁ)
少し責めるような眼差しで、ちらりと天上院さんを盗み見る。
人形のように大きな瞳に、長いまつ毛。白い頬や筆を手繰る繊細な指先。血色の良い唇は、リンゴみたいに赤い。
(…私、あの唇と…)
禁断の果実と交じり合ったことを思い出してしまった私は、全身が熱くなる感覚を覚えて、気を紛らわすために窓の外へと顔を向ける。
すると、そんな私の逃げ道を塞ぐみたいに天上院さんが口を開く。
「澄香」その一声だけで、近くのクラスメイトたちが私たちのほうを向く。「集中していますか?」
よそ見をしていたことを責めているのだろう。彼女にしては少し冷ややかな口調だった。
「…すみません」
誰のせいだ、と心の中だけで毒づきつつ、口だけの謝罪をする。
「謝る必要はありませんよ。澄香。ただ…そうですね、肖像画を描く練習なのですから、きちんとその可愛いお顔をこちらに向けていて下さると嬉しいです」
「っ…」
リップサービスとはいえ、その発言だけで何人かのクラスメイトがひそひそと声を上げる。羨ましがる声がほとんどだが、中には私を軽く中傷する言葉もあった。
自分でも、『言うほど可愛くない』ことなんて分かっている。教えてもらう必要なんかない。
「…どうも。天上院さんにそう言ってもらえるなんて光栄です」
「まあ、お世辞が上手ですね」
「……はぁ」
本当ならば、『そのままそっくり返してあげる』と嫌味の一つでも言いたかったのだが、クラスメイトが聞き耳を立てているのが分かっていたから、曖昧に濁して終わった。『調子に乗ってる』と睨まれるのはごめんだ。
私と天上院さんの関係性の変化に気づかないクラスメイトのほうが、数は少ない。それもそのはず、天上院華は基本的に同級生を苗字で呼ぶし、冗談とか皮肉めいたことをほとんど言わない。
私は特別なのだ。
そのキラキラした箱には、何が詰まっているのだろう?
幸福?地位?誇らしさ?
いや、きっと違う。いつか飽きられて捨てられてしまうそのときに思い知る、現実の非情さだ。
だから私は、それを自分から覗き込まない。
人を最も苦しめるものは、与えられないことではない。
与えられたものを奪われることのほうだ。
「どうしょうか?素敵に描けていますか?」
授業の終わりに天上院さんが私に見せてくれた絵は、なんだか、私ではないような気がする代物だった。
どこか気難しい顔をしているのは分かるが、瞳の奥が、深い感情で渦巻いているふうだ。
彼女の見る私か。彼女の見たい私か。
「楽しい授業でした」
美術室から出て、廊下を歩いている途中に少しだけ先を歩いていた天上院さんがぼそりと言った。
「それは良かったですね」
生徒たちの喧騒にかき消されない程度に返事をした私を、天上院さんが立ち止まって振り返るから、私も同様に足を止める。
「最近は、ちゃんとお話しできませんでしたもの。良い機会でした」
「…はぁ」
無言で交差する視線。私には、天上院さんの眼差しに込められた感情が読み取れなかったが…彼女はどうなのだろう?
私たちを追い越していく何人もの生徒たちが怪訝な視線を向けてくるが、天上院華の行動に文句を言える人間なんていない。
みんなが先に教室へと入っていったのを見届けたタイミングで、天上院さんが口を開く。
「まだ、怒っていますか?」
「…別に」
「別に、というようなお顔ではありませんが…まぁ、澄香がそうおっしゃるのであれば」
天上院さんが子どもをあやすように微笑むから、なんとなく、悔しくなる。心の余裕があるのは、消そうと思っても消えてくれない彼女への憧れを見抜かれているようで…。
ふと、天上院さんが窓の外に目線をやった。
初夏を象った広い蒼天を背景に、青々とした葉が揺れている。開け放たれた窓から舞い込む風にすら、夏の匂いを感じられる。
「もう目の前ですね」
ぼんやりと天上院さんが呟く。
「夏?」
「ええ、そうです。さすがは現国トップクラス。文脈と行動から予測されたのですね」
「まぁ…」と眉を曲げた私に、天上院華は美しく、でもどこか悪戯っぽく微笑んで続ける。
「プールの時期も、もう目の前です」
「あぁ、そうだね、プール…」
学校の敷地の隅っこで、今もきらきらと水面を輝かせているだろうプールを想像しながら話を聞いていた私は、次の瞬間、ハッとして天上院さんをじっとりとした目で睨みつける。
「――…ちょっと、天上院さん」
「はい、なんでしょうか?」
「絶対の絶対のぜっったいに…!変なことしないでよ」
これでもかと渾身の気合いを込めて伝えたのだが、当の本人は驚いたみたいな表情で、「まぁ」と口に手を当てると、にこにこと怪しい笑顔を浮かべてこちらに近寄って来た。
「変なこと、とはどういうことでしょうか?」
「分かってるくせに」
半歩後ずさりながら、天上院さんをじろりと睨む。
「存じ上げません」
「あっそ」
どうせ、これ以上の問答は無駄だ。天上院さんはこちらが反応すればするほど喜ぶのだから、私のほうから喜ばせてやる必要はない。
止まっていた時間が動き出したみたいに、私は彼女の横をするり、とすり抜ける。その一瞬で香った天上院華の優雅で甘い香りに、不覚にも胸がときめく。
「澄香」
「なに…ですか」
クラスメイトたちの何人かが教室から出て来るのに気がついて、私は少しでも口調を丁寧なものに戻す。
「申し訳ありません。呼んでみたかっただけです」
「は…?」
振り返った天上院さんの顔は、相変わらず何の感情も読めず、その思惑は理解できない。
「そうですか!」
そして同時に、たったこれだけの、意味なんて何もないようなやり取りで疼く、この胸の痛みも。
塩素臭い香りに包まれながら、私はプールの更衣室で盛大にため息を吐いて肩を落とした。
足元はちょっと気持ちの悪い湿り気。そして視線の先には、私の着替えを入れておいたはずのバスケット。
制服は上下きちんとある。白のシャツも。もちろん、下着も。
ただ……今回は肌着が、紺のキャミソールがなかった。
(だから…やめてって言ったよねぇ、ほんと!)
振り返って彼女の姿を探せば、わいわいとはしゃぎながら着替えているクラスメイトたちの雑踏の中、自分は素早く制服に着替えている天上院さんと目が合った。
彼女は私が振り返る前からずっとこちらを見ていたのだろう。視線が交差するや否や、ちょっとだけはにかんで、誰にも分からないように手を振ってみせる。
(なに、その顔。ってか、何を呑気に手なんて振ってるのか…)
私はのんびり着替えているフリをして天上院さんと二人きりになるのを待った。途中、お調子者で有名なクラスメイトが私の肩を軽く叩き、「遅いぞ、小森。恥ずかしがってんなよぉ」なんて言い残していった。
突然のことでびっくりしたが、嫌な気分ではなかった。彼女は私の苗字をきちんと覚えている数少ない生徒だ。
とはいえ…別に恥ずかしがっているわけではない、と弁明はしたかった。
すべてはこの女神の皮を被った変態、天上院華のせいなのだと。
「天上院さん」
私は『怒っているぞ』というのがきちんと伝わるよう、刺々しい口調で彼女の名前を呼んだ。
「はい、なんでしょう」
「なんでしょう、じゃないですよ。私、やめろって言いましたよね」
「…何をでしょうか」
「しらばっくれないでよ!キャミソール!盗ったでしょ」
「盗っただなんて、人聞きが悪いのではありませんか?私はただ『勝手に借りた』だけなのですから」
開き直ってそんなことを口にする天上院華が、私が一瞬、目を白黒させたのを見て満足そうに含み笑いなんてするから、つい大声を上げてしまう。
「それを世間一般では『盗んだ』って言うんでしょ!開き直らないでよ!」
「まぁ」
「まぁ、じゃなくて…!」
これでは埒が明かない。
私はずんずんと大げさな足取りで天上院さんに近寄ると、真っすぐ彼女の胸の前に手を差し出して、「ん」と唇を尖らせる。
そんな私の手を、天上院さんは不思議そうに見やった。
「これは?」
「決まってるでしょ。返して、早く」
内心、これで素直に返してくれるのであれば、こんな問題になっていないことも理解していた。だから、私は天上院さんがしばしの沈黙を抱え、じっとこちらを見ていることを特段奇妙だとは思わなかった。おおかた、どうしたら私が困るかを考えているのだろう…と。
「澄香」
まだ蝉も鳴いていない初夏だった。
プールの水は清冽で、澱みなく、これから灼熱の季節が到来するなんて、信じられないくらい爽やかな午後。
天上院さんは、プールの更衣室という薄暗く、じめじめした場所でそっと呟く。
「水着、可愛いです。似合っていますよ」
「えっ…」
水着?似合っている、私に?というか、私が可愛いって?
十秒ほど、私は自分が天上院さんに何を言われているのか理解できず、目を丸くして彼女を見返すだけの時間を作り出した。しかし、喉に詰まった魚の小骨を無理やり飲み込むふうにしてその言葉を処理すると、キッと意識して険しい顔をしてみせた。
「なにそれ。意味分かんない」
「ですから、水着姿の澄香も可愛いと――」
「っていうか天上院さんさぁ、自分がそんなふうに言えば、女の子は誰でも喜ぶと思ってない?」
今度は天上院さんが目を丸くする番だった。私ほどあからさまではないが。
「お生憎様。それは天上院さんの本性が他人の残り香を堪能する変態ってことを知らない人だけにしか効かないよ。そもそも、スクール水着が似合うって言われても、別に嬉しくないし。子どもっぽいって言いたいのなら納得するけど!」
天上院さんの今までの発言を顧みるに、『えー、ありがと』なんて言って済ませられるものではないことは間違いない。どうせこの後、ろくでもないことを考えているのだ。困惑して赤面した私をもっとからかおうとか、変態的要求をしようとか。
私は胸の奥がモヤモヤするのを感じていた。とりあえず可愛いと言っておけば、私が簡単に喜ぶとか、なびくとか思われていたことが不満だった。
すると、私の言葉を悩まし気な顔で聞いていた天上院さんが顔を上げた。
「澄香」
じめっとした更衣室。こんな場所、早く出たいのに、不思議と足は動かない。もしかすると、天上院さんを打ち負かしたいと思っているのかもしれない。
「私、今、澄香の気持ちが分かりかねています。…澄香は、どんなふうに言ってほしかったのでしょうか?」
「は?」
相手の言葉が理解できず、私は顔をしかめる。
「欲しい言葉とは違った。だからご不満だったのでしょう?」
「は、ちょ、違うし。勘違いしないで」
「果たして本当に勘違いでしょうか?聡明な澄香は、勝手に私の気持ちを決めつけるような発言はしないと思います。ですが、さっきのお言葉はなんと申しますか、独り相撲というか…」
私は、私自身でさえ気づいていないような私の心に触れられるような気がして、とっさに目くじらを立てて誤魔化そうとした。しかしながら、どれだけ強く自分を主張しても、私自身が何もかもハリボテのような感じがしていた。天上院さんも同じように感じていたのだろうか、酷く納得できていない様子で首を傾げると、驚いたことに、自発的に盗んでいたキャミソールを返してきた。
「え…」
キャミソールに視線を落とし、目を白黒させる。
「どうされたのでしょう。返せとは、こちらのことですよね」
「あ、うん。ありがと――って、なんで私がお礼を言うの!」
「ふふ、勝手に澄香が言ったのでしょう。あ、そうです」
私は天上院さんの手からシャツを奪い取ろうと手を伸ばしていた。だが、彼女は思い出したかのように何事か呟くと、私の眼前でいつぞやの如く私の多少汗ばんでいるだろうキャミソールを顔に当て、嗅いだ。
「――はぁ…。はい。大丈夫ですよ」
頬を上気させ、再びキャミソールを差し出してくる天上院華。
「なっ、うっ…!」
やはり、信じられない人間だ。こんなケダモノじみた人間に女神のような顔と声とを与えた神は、絶対に何かしらのミスを起こしてしまったとしか考えようがない。
「返して変態っ!」
今度こそ、天上院さんの手から自分のキャミソールをひったくる。
「ふふ」と幸せそうに笑う彼女の声が、この薄暗い更衣室にひっそりと消えた。
平均的な身長より、少し低い私の体の前にはイーゼル。その向こう側には、真剣な顔でキャンバスと私とを見比べながら筆を動かす天上院華の姿。
不気味な彫刻とよく分からない絵画にぐるりと囲まれた美術室は、それこそ、美術の授業でしか立ち入らない。
(……くじ引きの結果だもん。しょうがない、よね)
肖像画を描く。一体全体、今後の人生にどう生かされるのか、疑問しか残らないカリキュラムに文句を言っても意味がないように、運命が神様に委ねられている以上、それに文句を言ってもどうしようもないのだ。
しかも、本来であれば天上院さんとペアになれるなんて、幸運以外の何物でもないのである。実際にさっきから、私のことを羨ましそうに見やるクラスメイトは多かった。それも男子生徒ばかりではない。彼女のことを美しく慈悲深い女神と信じて止まない女子生徒も同様だ。
(みんな、天上院さんが変態だって知らないもんなぁ)
少し責めるような眼差しで、ちらりと天上院さんを盗み見る。
人形のように大きな瞳に、長いまつ毛。白い頬や筆を手繰る繊細な指先。血色の良い唇は、リンゴみたいに赤い。
(…私、あの唇と…)
禁断の果実と交じり合ったことを思い出してしまった私は、全身が熱くなる感覚を覚えて、気を紛らわすために窓の外へと顔を向ける。
すると、そんな私の逃げ道を塞ぐみたいに天上院さんが口を開く。
「澄香」その一声だけで、近くのクラスメイトたちが私たちのほうを向く。「集中していますか?」
よそ見をしていたことを責めているのだろう。彼女にしては少し冷ややかな口調だった。
「…すみません」
誰のせいだ、と心の中だけで毒づきつつ、口だけの謝罪をする。
「謝る必要はありませんよ。澄香。ただ…そうですね、肖像画を描く練習なのですから、きちんとその可愛いお顔をこちらに向けていて下さると嬉しいです」
「っ…」
リップサービスとはいえ、その発言だけで何人かのクラスメイトがひそひそと声を上げる。羨ましがる声がほとんどだが、中には私を軽く中傷する言葉もあった。
自分でも、『言うほど可愛くない』ことなんて分かっている。教えてもらう必要なんかない。
「…どうも。天上院さんにそう言ってもらえるなんて光栄です」
「まあ、お世辞が上手ですね」
「……はぁ」
本当ならば、『そのままそっくり返してあげる』と嫌味の一つでも言いたかったのだが、クラスメイトが聞き耳を立てているのが分かっていたから、曖昧に濁して終わった。『調子に乗ってる』と睨まれるのはごめんだ。
私と天上院さんの関係性の変化に気づかないクラスメイトのほうが、数は少ない。それもそのはず、天上院華は基本的に同級生を苗字で呼ぶし、冗談とか皮肉めいたことをほとんど言わない。
私は特別なのだ。
そのキラキラした箱には、何が詰まっているのだろう?
幸福?地位?誇らしさ?
いや、きっと違う。いつか飽きられて捨てられてしまうそのときに思い知る、現実の非情さだ。
だから私は、それを自分から覗き込まない。
人を最も苦しめるものは、与えられないことではない。
与えられたものを奪われることのほうだ。
「どうしょうか?素敵に描けていますか?」
授業の終わりに天上院さんが私に見せてくれた絵は、なんだか、私ではないような気がする代物だった。
どこか気難しい顔をしているのは分かるが、瞳の奥が、深い感情で渦巻いているふうだ。
彼女の見る私か。彼女の見たい私か。
「楽しい授業でした」
美術室から出て、廊下を歩いている途中に少しだけ先を歩いていた天上院さんがぼそりと言った。
「それは良かったですね」
生徒たちの喧騒にかき消されない程度に返事をした私を、天上院さんが立ち止まって振り返るから、私も同様に足を止める。
「最近は、ちゃんとお話しできませんでしたもの。良い機会でした」
「…はぁ」
無言で交差する視線。私には、天上院さんの眼差しに込められた感情が読み取れなかったが…彼女はどうなのだろう?
私たちを追い越していく何人もの生徒たちが怪訝な視線を向けてくるが、天上院華の行動に文句を言える人間なんていない。
みんなが先に教室へと入っていったのを見届けたタイミングで、天上院さんが口を開く。
「まだ、怒っていますか?」
「…別に」
「別に、というようなお顔ではありませんが…まぁ、澄香がそうおっしゃるのであれば」
天上院さんが子どもをあやすように微笑むから、なんとなく、悔しくなる。心の余裕があるのは、消そうと思っても消えてくれない彼女への憧れを見抜かれているようで…。
ふと、天上院さんが窓の外に目線をやった。
初夏を象った広い蒼天を背景に、青々とした葉が揺れている。開け放たれた窓から舞い込む風にすら、夏の匂いを感じられる。
「もう目の前ですね」
ぼんやりと天上院さんが呟く。
「夏?」
「ええ、そうです。さすがは現国トップクラス。文脈と行動から予測されたのですね」
「まぁ…」と眉を曲げた私に、天上院華は美しく、でもどこか悪戯っぽく微笑んで続ける。
「プールの時期も、もう目の前です」
「あぁ、そうだね、プール…」
学校の敷地の隅っこで、今もきらきらと水面を輝かせているだろうプールを想像しながら話を聞いていた私は、次の瞬間、ハッとして天上院さんをじっとりとした目で睨みつける。
「――…ちょっと、天上院さん」
「はい、なんでしょうか?」
「絶対の絶対のぜっったいに…!変なことしないでよ」
これでもかと渾身の気合いを込めて伝えたのだが、当の本人は驚いたみたいな表情で、「まぁ」と口に手を当てると、にこにこと怪しい笑顔を浮かべてこちらに近寄って来た。
「変なこと、とはどういうことでしょうか?」
「分かってるくせに」
半歩後ずさりながら、天上院さんをじろりと睨む。
「存じ上げません」
「あっそ」
どうせ、これ以上の問答は無駄だ。天上院さんはこちらが反応すればするほど喜ぶのだから、私のほうから喜ばせてやる必要はない。
止まっていた時間が動き出したみたいに、私は彼女の横をするり、とすり抜ける。その一瞬で香った天上院華の優雅で甘い香りに、不覚にも胸がときめく。
「澄香」
「なに…ですか」
クラスメイトたちの何人かが教室から出て来るのに気がついて、私は少しでも口調を丁寧なものに戻す。
「申し訳ありません。呼んでみたかっただけです」
「は…?」
振り返った天上院さんの顔は、相変わらず何の感情も読めず、その思惑は理解できない。
「そうですか!」
そして同時に、たったこれだけの、意味なんて何もないようなやり取りで疼く、この胸の痛みも。
塩素臭い香りに包まれながら、私はプールの更衣室で盛大にため息を吐いて肩を落とした。
足元はちょっと気持ちの悪い湿り気。そして視線の先には、私の着替えを入れておいたはずのバスケット。
制服は上下きちんとある。白のシャツも。もちろん、下着も。
ただ……今回は肌着が、紺のキャミソールがなかった。
(だから…やめてって言ったよねぇ、ほんと!)
振り返って彼女の姿を探せば、わいわいとはしゃぎながら着替えているクラスメイトたちの雑踏の中、自分は素早く制服に着替えている天上院さんと目が合った。
彼女は私が振り返る前からずっとこちらを見ていたのだろう。視線が交差するや否や、ちょっとだけはにかんで、誰にも分からないように手を振ってみせる。
(なに、その顔。ってか、何を呑気に手なんて振ってるのか…)
私はのんびり着替えているフリをして天上院さんと二人きりになるのを待った。途中、お調子者で有名なクラスメイトが私の肩を軽く叩き、「遅いぞ、小森。恥ずかしがってんなよぉ」なんて言い残していった。
突然のことでびっくりしたが、嫌な気分ではなかった。彼女は私の苗字をきちんと覚えている数少ない生徒だ。
とはいえ…別に恥ずかしがっているわけではない、と弁明はしたかった。
すべてはこの女神の皮を被った変態、天上院華のせいなのだと。
「天上院さん」
私は『怒っているぞ』というのがきちんと伝わるよう、刺々しい口調で彼女の名前を呼んだ。
「はい、なんでしょう」
「なんでしょう、じゃないですよ。私、やめろって言いましたよね」
「…何をでしょうか」
「しらばっくれないでよ!キャミソール!盗ったでしょ」
「盗っただなんて、人聞きが悪いのではありませんか?私はただ『勝手に借りた』だけなのですから」
開き直ってそんなことを口にする天上院華が、私が一瞬、目を白黒させたのを見て満足そうに含み笑いなんてするから、つい大声を上げてしまう。
「それを世間一般では『盗んだ』って言うんでしょ!開き直らないでよ!」
「まぁ」
「まぁ、じゃなくて…!」
これでは埒が明かない。
私はずんずんと大げさな足取りで天上院さんに近寄ると、真っすぐ彼女の胸の前に手を差し出して、「ん」と唇を尖らせる。
そんな私の手を、天上院さんは不思議そうに見やった。
「これは?」
「決まってるでしょ。返して、早く」
内心、これで素直に返してくれるのであれば、こんな問題になっていないことも理解していた。だから、私は天上院さんがしばしの沈黙を抱え、じっとこちらを見ていることを特段奇妙だとは思わなかった。おおかた、どうしたら私が困るかを考えているのだろう…と。
「澄香」
まだ蝉も鳴いていない初夏だった。
プールの水は清冽で、澱みなく、これから灼熱の季節が到来するなんて、信じられないくらい爽やかな午後。
天上院さんは、プールの更衣室という薄暗く、じめじめした場所でそっと呟く。
「水着、可愛いです。似合っていますよ」
「えっ…」
水着?似合っている、私に?というか、私が可愛いって?
十秒ほど、私は自分が天上院さんに何を言われているのか理解できず、目を丸くして彼女を見返すだけの時間を作り出した。しかし、喉に詰まった魚の小骨を無理やり飲み込むふうにしてその言葉を処理すると、キッと意識して険しい顔をしてみせた。
「なにそれ。意味分かんない」
「ですから、水着姿の澄香も可愛いと――」
「っていうか天上院さんさぁ、自分がそんなふうに言えば、女の子は誰でも喜ぶと思ってない?」
今度は天上院さんが目を丸くする番だった。私ほどあからさまではないが。
「お生憎様。それは天上院さんの本性が他人の残り香を堪能する変態ってことを知らない人だけにしか効かないよ。そもそも、スクール水着が似合うって言われても、別に嬉しくないし。子どもっぽいって言いたいのなら納得するけど!」
天上院さんの今までの発言を顧みるに、『えー、ありがと』なんて言って済ませられるものではないことは間違いない。どうせこの後、ろくでもないことを考えているのだ。困惑して赤面した私をもっとからかおうとか、変態的要求をしようとか。
私は胸の奥がモヤモヤするのを感じていた。とりあえず可愛いと言っておけば、私が簡単に喜ぶとか、なびくとか思われていたことが不満だった。
すると、私の言葉を悩まし気な顔で聞いていた天上院さんが顔を上げた。
「澄香」
じめっとした更衣室。こんな場所、早く出たいのに、不思議と足は動かない。もしかすると、天上院さんを打ち負かしたいと思っているのかもしれない。
「私、今、澄香の気持ちが分かりかねています。…澄香は、どんなふうに言ってほしかったのでしょうか?」
「は?」
相手の言葉が理解できず、私は顔をしかめる。
「欲しい言葉とは違った。だからご不満だったのでしょう?」
「は、ちょ、違うし。勘違いしないで」
「果たして本当に勘違いでしょうか?聡明な澄香は、勝手に私の気持ちを決めつけるような発言はしないと思います。ですが、さっきのお言葉はなんと申しますか、独り相撲というか…」
私は、私自身でさえ気づいていないような私の心に触れられるような気がして、とっさに目くじらを立てて誤魔化そうとした。しかしながら、どれだけ強く自分を主張しても、私自身が何もかもハリボテのような感じがしていた。天上院さんも同じように感じていたのだろうか、酷く納得できていない様子で首を傾げると、驚いたことに、自発的に盗んでいたキャミソールを返してきた。
「え…」
キャミソールに視線を落とし、目を白黒させる。
「どうされたのでしょう。返せとは、こちらのことですよね」
「あ、うん。ありがと――って、なんで私がお礼を言うの!」
「ふふ、勝手に澄香が言ったのでしょう。あ、そうです」
私は天上院さんの手からシャツを奪い取ろうと手を伸ばしていた。だが、彼女は思い出したかのように何事か呟くと、私の眼前でいつぞやの如く私の多少汗ばんでいるだろうキャミソールを顔に当て、嗅いだ。
「――はぁ…。はい。大丈夫ですよ」
頬を上気させ、再びキャミソールを差し出してくる天上院華。
「なっ、うっ…!」
やはり、信じられない人間だ。こんなケダモノじみた人間に女神のような顔と声とを与えた神は、絶対に何かしらのミスを起こしてしまったとしか考えようがない。
「返して変態っ!」
今度こそ、天上院さんの手から自分のキャミソールをひったくる。
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