1 / 14
一章 女神ですよね、天上院さん!
女神ですよね、天上院さん!.1
しおりを挟む
「あれ…」
私――小森澄香は目を点にして更衣室のロッカーを見つめていた。
すでに体育の授業は終わっている。
今日のバレーもまともに活躍できなかったなぁとか、邪魔になっていなかったかなぁとか、そんなことばかり考えて片づけが遅れていた私だったが、直後、自分が陥った状況にそんな悩みは消えていた。
(ない…?)
脱いだ体操服を右手で胸に寄せて、もう片方の手でロッカーの中をあさる。
制服のスカートはある。みんながダサいと言ってやまない水色のスカート。水色のブレザーも、白シャツも。
でも、リボンタイだけがなかった。
(んー…授業の前までは、確かにあったのに…)
初め私は、どこかで落としたのかなぁ、と自分を無理やり納得させるような考えが頭に浮かんでいた。しかし、記憶を遡ると、やっぱりきちんとロッカーに入れた気がして、そうではないと思った。
次に、誰かがちょっとした悪戯でリボンタイを隠したのでは、という考えが浮かんだ。
私はかなり小柄で引っ込み思案なため、どうにも他人にからかわれやすい人間だった。嫌な気持ちになるような悪戯を受けても何も言えないから、今日もそのうちの一つだと考えれば、納得できるような気がした。
シャープペンとか、消しゴムとか、教科書とか…。
たまに姿を消す私物たちを思い浮かべる。なくなっても困らないタイミングで盗っていって、必要なときには勝手に返ってくるから、先生に相談したりしたことはない。
更衣室のロッカーは、蓋も何もないため実質、ただの棚だ。盗ろうと思えば盗れるから、やっぱり誰かが悪戯で持って行ったのだろう。
とはいえ…。
(えー…これで先生に怒られたら嫌だなぁ)
リボンタイの着用は校則で決められている。優しい先生なら軽く注意するか、見て見ぬふりをしてくれるだろうが、厳しい先生だとその場でお咎めをくらう。
私は、廊下でばったり出くわした生徒指導に自分が注意される姿を想像し、身震いした。ヤンチャな生徒も恐れる相手だ。私などでは卒倒ものかもしれない。
自分に降りかかるかもしれない心配事をぼんやりと頭に描いていたからだろう。いつの間にか更衣室にはほとんど誰もいなくなっており、その場には、私ともう一人の生徒だけになっていたのだが…。
無意識的に、もう一人の生徒に視線が吸い寄せられる。それは、夜の誘蛾灯に羽虫が惹かれることに似ていた。
すらりと伸びた背筋、白い肌、鴉の濡れ羽色のふわふわした長い黒髪。
大人っぽい黒い下着。私が着たら絶対に笑われるだろうという艶やかな装いは、まるで彼女のために設えられたもののようにぴったりだった。
私がそうして盗み見ていると、ぱっ、と彼女がこちらを振り返った。
黒曜の夜空を映したような黒い瞳が、私の矮小な宇宙を覗き込む。その瞬間、盗み見ていた自分がどうにも恥ずかしくて仕方がなくなった私は、ぺこ、ぺこ、と何度も頭を下げて顔の向きを元に戻す。
「…どうかされました?小森さん」
冗談みたいに丁寧な口調。それだけで、自分のような芋っぽい人間と彼女の住んでいる世界が天と地ほどに違うことを思い知らされる。
でも、それを知ったとて、悔しさや恥辱を覚えることはない。
“彼女”は誰がどう見ても、特別だ。
自分なんかがその天使が吹くラッパのような声を無視するわけもなくて、慌てて体ごと振り返る。
「な、なんでもないですよ、天上院さん」
天上院華。学年一、いや、学校一の美人だとよく言われているクラスメイトだ。
文武両道、品行方正の天上院さんと私は友だち――とは口が裂けても言えない。彼女が私のような日陰者を認知しているかどうかも怪しいのだ。
だからこそ、こうして天上院さんが私の名前を呼んだことには驚いた。クラスメイトの中には、本気で私のことを『森さん』だとか『小林さん』だとか呼んでくる人もいるのだから、天上院さんの記憶力はさすがと言える。
天上院さんが授業中に答えられない問題はないし、活躍できないスポーツもない。部活には所属していないようだが、学園長の娘でもある天上院さんは本の虫だと聞いたことがあるし、私のような凡人が帰宅部をやっているのとはわけが違う。
もちろん、天上院さんがずば抜けているのは、そうした能力面だけではない。
すらりと伸びた手足。高校二年生とは思えない凹凸に富むボディライン。日本人離れした鼻の高い、端正な顔立ち。腰の位置なんて、冗談抜きで私のあばら辺りなのではないだろうか…?性格も――。
「あの、小森さん?」
脳内天上院さん語りに夢中になっていた私を現実に戻したのもまた、天上院さん自身であった。
彼女は長袖の白シャツを胸に抱くと、呆けている私に向けて、ほんのり顔を赤らめこう言った。
「その…着替えているところをそんなに見つめられると、少し、恥ずかしいです」
ハッ、と呼吸を忘れるほどの愛らしさ。
(か、かわいい…っ!)
同性の私ですらこうも見惚れるのだから、天上院さんと青春時代を共にする男子生徒たちはたまったものではないだろう。
そんなことを考えた数秒後、私は自分如きが天上院さんの下着姿を凝視していたこと、その罪深さに気づき、慌てて飛び上がる。
「ご、ご、ごめんなさい!その、悪気があったわけじゃ、あの…」
「ええ、分かっていますよ。大丈夫です」
聖母のように柔らかな微笑み。後光が差している。
(わ、私如きに、器がお広いお方で…!)
その聖なる光に当てられた私は、安堵するどころかいっそうパニックになって、迂闊にも余計なことをしゃべってしまう。
「り、リボンタイがなくて、こ、困ってましたところを、つい、天上院さんに声をかけられて、あのぉ…!」
「リボンタイが、ない?」
私の拙い状況説明を耳にした天上院さんは、先ほどまでの慈しみ深い表情から一転、深刻で悩まし気な面持ちを浮かべてみせた。
「どこかに落してしまわれたの?」
小首を傾げる天上院さん。かわいい――ではなくて…。
私は一瞬、考えを巡らせた。どう答えるのがこの場において最も相応しいかを考えたのである。
天上院さんほどではないが、私もそんなに頭が悪いほうではない。現代文や古典などの一部科目だけならば、全国模試で天上院さん以上の点数を出せる。まぁ、理系になるとてんでダメなのだけれど…。
私は一人得心してから、天上院さんにこう告げる。
「――いえ、多分、家に置き忘れてきたのだと思います」
人望のあることでも有名な天上院さんのことだ、私が『盗まれたかもぉ…』なんて言ったら、一緒に探すとか、先生に相談しようとか言い出すに決まっている。
事なかれ主義の私は、こうした問題を大きくしたくないという気持ちがあった。返って来ないなら別だが、だいたい、盗られた物は放課後か次の日には人知れず返却されているから、私自身はあまり気にしていなかったのである。
天上院さんは、「そうなのですね」とほっとした表情を浮かべてくれた。
私のような人間の物でも、失くしたとあっては心配してくれるから天上院さんは本当に出来た人だ。
「ご心配おかけして、すみません」
「いえいえ、謝るようなことはありません」
盗まれたことは多少、億劫なことだが…天上院さんと言葉を交わすきっかけを作ってくれたとあれば、案外、ラッキーなことだったかもしれない――とその後に起こることを一ミクロンたりとも想像できなかった私は満更でもない微笑みを浮かべるのだった…。
リボンタイは私が予想したとおり、次の日の朝には教室の引き出しの中に入っていた。しかも、丁寧に折り畳まれていたから、なんとまぁ几帳面な人が意地悪したものだと私は微笑ましくすら思った。
それからまた平凡な一週間が終わって、明くる週、私が誰にも迷惑をかけないようにと気合いを入れてバレーの授業に取り組んだ後のことだ。
「え…あれ?あれぇ?」
思わず、大きな独り言が漏れる。そうすればクラスの気の強い女子が、「小森、独り言でかいよ」と快活に笑う。つられてみんなも笑っていたが、私は愛想笑いもできなかった。
その子は少し訝しがった様子で私を見ていたが、すぐに興味を失ったのか、ぷいっと顔を逸らした。自己主張が強いから苦手だが、彼女は私の名前を的確に覚えている人間の一人だったので、嫌いではなかった。
だから、無視したかったわけではないのだ。
ただ、脳内キャパシティをそちらに割く余裕のない状況に陥っていたのである。
(…ない)
蓋も何もない更衣室のロッカー。ぽかんと空いた、小さな怪物の口の中みたいな薄闇には、つい一時間ほど前に自分が脱いだ衣類が入っている…はずなのだが…。
(ない!)
リボンタイ、スカート、ブレザーはある!だけど!
(しゃ、シャツがない…!?)
ブレザーの下に着用する長袖のシャツが、ロッカーの中から消えていたのだ。
あるべきはずの場所にあるべきものがない。その困惑は誰でも経験があるだろう。でも、自分が脱いだはずのものがない、そんな経験はなかなか体験できるものじゃない。
脳が一生懸命に現実を処理する。リボンタイのときと同じように誰かの悪戯説が真っ先に浮上するが、これほど悪質な悪戯は初めてだったため、落ち着くまでに時間がかかった。
(…どうしよう…)
これでは、残りの授業を体操着で過ごすことになってしまう。ブレザーの下に体操服、という奇妙な出で立ちか、全身体操服か、という二択がよぎる。
そんな困惑の中、福音の如き響きで私を現実に引き戻したのは、何を隠そう、更衣室にただ一人残った天上院さんの優しい声だった。
「どうかされましたか、小森さん?」
「て、天上院さん…」
心底心配そうな声に、不覚にも目頭が熱くなり、喉が詰まった。
その様子を目の当たりにした天上院さんは、「また何かないのですか?」と深刻な顔つきで私に近寄ってくる。彼女はすでに着替え終わっているため、ちゃんと制服を着用している。
「実は、その、シャツがなくて…」
「まぁ…そんな、どこにも?」
「うん」
ちらり、とロッカーの中を一瞥した天上院さんは、意を決したふうに頷くと、「失礼」と呟いて私が脱いだ服たちの中に手を突っ込んだ。
天上院さんの穢れなき美しい指先が、私みたいな庶民が脱ぎ散らかした服をまさぐる光景は、自然と私の胸に罪悪感をもたらす。
(ご、ごめんなさい、いや、すみません、天上院さん…!)
口に出す勇気のない謝罪。それを心のうちで何度か繰り返しているうちに、天上院さんは服の間から手を抜き、物憂げにため息を吐いた。
「…確かに、シャツはないですね」
天上院さんの悩まし気な様子を見ていると、彼女の慈愛が自分みたいなのにも平等に降り注がれることは、天空の太陽が地上の万物を照らすことと近しい現象のような気がしてくる。
「以前のようにどこかへ置き忘れた――というのは、さすがにありえませんよね」
少し手を伸ばせば触れられる至近距離で天上院さんが小首を傾げる。それだけで、私の胸はきゅっと切なさと息苦しさを覚えるが、粟立つ肌に、改めて自分の置かれた状況を思い出させられて、深く頷いた。
「は、はい。さすがに…」
「そうですよね…ということは、誰かに隠されたということでしょうか?」
「あー…」
おそらく、そうだと思うが…私が肯定してしまっては天上院さんがますます心配することは火を見るより明らかだ。そんなことが許されるのだろうか?
そうして逡巡していると、天上院さんは私の心を見透かしたかのように目を細め、少しだけこちらを咎めるような口調でこう告げる。
「小森さん。万が一、他人の物を盗むような輩がこの学園にいるとすれば、そのような人間を庇うことは罪悪ですよ。優しさと甘さをはき違えてはなりません」
ファンタジー小説に出てくる聖女ばりに清冽な言葉。それは私が抱える躊躇の霧を打ち払うのに十分すぎる光を帯びていた。
「多分、悪戯で隠されたんだと思います。たまにあるので…」
「たまにある?」ぴくり、と天上院さんの端正な顔が歪む。「それは聞き捨てなりませんね。私の父がより良くしようとしているこの学び舎で、そのような醜悪な行為が常習化しているなどと…!」
美人は怒ると怖い、というのが世間一般の定評だが、なるほど、なかなかどうしてその通り。鋭く冷たい面持ち。怖い。
天上院さんはすぐに自分の感情が高ぶっていることに気がつくと、「すみません、私としたことが」と丁寧に謝罪してくれた。
それから私たちは、どのようにして学園側に報告するかを二人で考えた。すぐにでも父に報告する、と天上院さんは提案したのだが、私は一日待ってほしい、とお願いした。
その申し出を天上院さんはとても不思議がっていたが、こちらとしては、事を大きくしたいわけではなく、悪戯がエスカレートしないように手を打てさえすればそれでいい、という私の意見を聞くと、少しばかり不満げにそれを承諾してみせた。もちろん、悪戯がエスカレートした場合は即刻、学園長に報告するという約束つきで。
天上院さんにも学園長の娘という立場がある。だからこそ、私みたいな人間の問題でも放置するわけにはいかないと考えたのだろう。
互いに同意を得たところ、不意に、天上院さんが呆れたような、感心したような微笑みを浮かべた。
「それにしても…優しいのですね、小森さんは」
「え、いやぁ…」
私はただ、臆病なだけだ。
問題と直接対峙することで、状況が悪化することを恐れているにすぎない。
「優しいとかじゃなくて、私は――」
日和見主義者とか、事なかれ主義者だとか。とにかく、そうした自称を口にしようとしていた刹那、そっと、天上院さんのたおやかな指先が私の頬に触れる。
「えっ…」
あまりに驚くべき事態に私が身を硬直させていると、彼女は気恥ずかしそうにこう言った。
「その優しさを誰かに利用されないよう、お気をつけ下さいね。小森澄香さん」
更衣室。窓の外からうららかな西日が差し込む、初夏のことだった。
「…フルネーム…」
覚えていてくれた。私なんかの、天上院さんが楽園の花なら、雑草でしかない私の名前を。
天上院さんは、また私の心を読んだみたいにこう続けた。
「ふふっ、覚えていますよ。大事なクラスメイトのフルネームですもの」
たとえリップサービスだとしても、私はこの瞬間、この狭苦しい更衣室の中にもたらされた輝きと甘い香りを一生忘れることはないだろう…という確信を抱いていたのだった。
私――小森澄香は目を点にして更衣室のロッカーを見つめていた。
すでに体育の授業は終わっている。
今日のバレーもまともに活躍できなかったなぁとか、邪魔になっていなかったかなぁとか、そんなことばかり考えて片づけが遅れていた私だったが、直後、自分が陥った状況にそんな悩みは消えていた。
(ない…?)
脱いだ体操服を右手で胸に寄せて、もう片方の手でロッカーの中をあさる。
制服のスカートはある。みんながダサいと言ってやまない水色のスカート。水色のブレザーも、白シャツも。
でも、リボンタイだけがなかった。
(んー…授業の前までは、確かにあったのに…)
初め私は、どこかで落としたのかなぁ、と自分を無理やり納得させるような考えが頭に浮かんでいた。しかし、記憶を遡ると、やっぱりきちんとロッカーに入れた気がして、そうではないと思った。
次に、誰かがちょっとした悪戯でリボンタイを隠したのでは、という考えが浮かんだ。
私はかなり小柄で引っ込み思案なため、どうにも他人にからかわれやすい人間だった。嫌な気持ちになるような悪戯を受けても何も言えないから、今日もそのうちの一つだと考えれば、納得できるような気がした。
シャープペンとか、消しゴムとか、教科書とか…。
たまに姿を消す私物たちを思い浮かべる。なくなっても困らないタイミングで盗っていって、必要なときには勝手に返ってくるから、先生に相談したりしたことはない。
更衣室のロッカーは、蓋も何もないため実質、ただの棚だ。盗ろうと思えば盗れるから、やっぱり誰かが悪戯で持って行ったのだろう。
とはいえ…。
(えー…これで先生に怒られたら嫌だなぁ)
リボンタイの着用は校則で決められている。優しい先生なら軽く注意するか、見て見ぬふりをしてくれるだろうが、厳しい先生だとその場でお咎めをくらう。
私は、廊下でばったり出くわした生徒指導に自分が注意される姿を想像し、身震いした。ヤンチャな生徒も恐れる相手だ。私などでは卒倒ものかもしれない。
自分に降りかかるかもしれない心配事をぼんやりと頭に描いていたからだろう。いつの間にか更衣室にはほとんど誰もいなくなっており、その場には、私ともう一人の生徒だけになっていたのだが…。
無意識的に、もう一人の生徒に視線が吸い寄せられる。それは、夜の誘蛾灯に羽虫が惹かれることに似ていた。
すらりと伸びた背筋、白い肌、鴉の濡れ羽色のふわふわした長い黒髪。
大人っぽい黒い下着。私が着たら絶対に笑われるだろうという艶やかな装いは、まるで彼女のために設えられたもののようにぴったりだった。
私がそうして盗み見ていると、ぱっ、と彼女がこちらを振り返った。
黒曜の夜空を映したような黒い瞳が、私の矮小な宇宙を覗き込む。その瞬間、盗み見ていた自分がどうにも恥ずかしくて仕方がなくなった私は、ぺこ、ぺこ、と何度も頭を下げて顔の向きを元に戻す。
「…どうかされました?小森さん」
冗談みたいに丁寧な口調。それだけで、自分のような芋っぽい人間と彼女の住んでいる世界が天と地ほどに違うことを思い知らされる。
でも、それを知ったとて、悔しさや恥辱を覚えることはない。
“彼女”は誰がどう見ても、特別だ。
自分なんかがその天使が吹くラッパのような声を無視するわけもなくて、慌てて体ごと振り返る。
「な、なんでもないですよ、天上院さん」
天上院華。学年一、いや、学校一の美人だとよく言われているクラスメイトだ。
文武両道、品行方正の天上院さんと私は友だち――とは口が裂けても言えない。彼女が私のような日陰者を認知しているかどうかも怪しいのだ。
だからこそ、こうして天上院さんが私の名前を呼んだことには驚いた。クラスメイトの中には、本気で私のことを『森さん』だとか『小林さん』だとか呼んでくる人もいるのだから、天上院さんの記憶力はさすがと言える。
天上院さんが授業中に答えられない問題はないし、活躍できないスポーツもない。部活には所属していないようだが、学園長の娘でもある天上院さんは本の虫だと聞いたことがあるし、私のような凡人が帰宅部をやっているのとはわけが違う。
もちろん、天上院さんがずば抜けているのは、そうした能力面だけではない。
すらりと伸びた手足。高校二年生とは思えない凹凸に富むボディライン。日本人離れした鼻の高い、端正な顔立ち。腰の位置なんて、冗談抜きで私のあばら辺りなのではないだろうか…?性格も――。
「あの、小森さん?」
脳内天上院さん語りに夢中になっていた私を現実に戻したのもまた、天上院さん自身であった。
彼女は長袖の白シャツを胸に抱くと、呆けている私に向けて、ほんのり顔を赤らめこう言った。
「その…着替えているところをそんなに見つめられると、少し、恥ずかしいです」
ハッ、と呼吸を忘れるほどの愛らしさ。
(か、かわいい…っ!)
同性の私ですらこうも見惚れるのだから、天上院さんと青春時代を共にする男子生徒たちはたまったものではないだろう。
そんなことを考えた数秒後、私は自分如きが天上院さんの下着姿を凝視していたこと、その罪深さに気づき、慌てて飛び上がる。
「ご、ご、ごめんなさい!その、悪気があったわけじゃ、あの…」
「ええ、分かっていますよ。大丈夫です」
聖母のように柔らかな微笑み。後光が差している。
(わ、私如きに、器がお広いお方で…!)
その聖なる光に当てられた私は、安堵するどころかいっそうパニックになって、迂闊にも余計なことをしゃべってしまう。
「り、リボンタイがなくて、こ、困ってましたところを、つい、天上院さんに声をかけられて、あのぉ…!」
「リボンタイが、ない?」
私の拙い状況説明を耳にした天上院さんは、先ほどまでの慈しみ深い表情から一転、深刻で悩まし気な面持ちを浮かべてみせた。
「どこかに落してしまわれたの?」
小首を傾げる天上院さん。かわいい――ではなくて…。
私は一瞬、考えを巡らせた。どう答えるのがこの場において最も相応しいかを考えたのである。
天上院さんほどではないが、私もそんなに頭が悪いほうではない。現代文や古典などの一部科目だけならば、全国模試で天上院さん以上の点数を出せる。まぁ、理系になるとてんでダメなのだけれど…。
私は一人得心してから、天上院さんにこう告げる。
「――いえ、多分、家に置き忘れてきたのだと思います」
人望のあることでも有名な天上院さんのことだ、私が『盗まれたかもぉ…』なんて言ったら、一緒に探すとか、先生に相談しようとか言い出すに決まっている。
事なかれ主義の私は、こうした問題を大きくしたくないという気持ちがあった。返って来ないなら別だが、だいたい、盗られた物は放課後か次の日には人知れず返却されているから、私自身はあまり気にしていなかったのである。
天上院さんは、「そうなのですね」とほっとした表情を浮かべてくれた。
私のような人間の物でも、失くしたとあっては心配してくれるから天上院さんは本当に出来た人だ。
「ご心配おかけして、すみません」
「いえいえ、謝るようなことはありません」
盗まれたことは多少、億劫なことだが…天上院さんと言葉を交わすきっかけを作ってくれたとあれば、案外、ラッキーなことだったかもしれない――とその後に起こることを一ミクロンたりとも想像できなかった私は満更でもない微笑みを浮かべるのだった…。
リボンタイは私が予想したとおり、次の日の朝には教室の引き出しの中に入っていた。しかも、丁寧に折り畳まれていたから、なんとまぁ几帳面な人が意地悪したものだと私は微笑ましくすら思った。
それからまた平凡な一週間が終わって、明くる週、私が誰にも迷惑をかけないようにと気合いを入れてバレーの授業に取り組んだ後のことだ。
「え…あれ?あれぇ?」
思わず、大きな独り言が漏れる。そうすればクラスの気の強い女子が、「小森、独り言でかいよ」と快活に笑う。つられてみんなも笑っていたが、私は愛想笑いもできなかった。
その子は少し訝しがった様子で私を見ていたが、すぐに興味を失ったのか、ぷいっと顔を逸らした。自己主張が強いから苦手だが、彼女は私の名前を的確に覚えている人間の一人だったので、嫌いではなかった。
だから、無視したかったわけではないのだ。
ただ、脳内キャパシティをそちらに割く余裕のない状況に陥っていたのである。
(…ない)
蓋も何もない更衣室のロッカー。ぽかんと空いた、小さな怪物の口の中みたいな薄闇には、つい一時間ほど前に自分が脱いだ衣類が入っている…はずなのだが…。
(ない!)
リボンタイ、スカート、ブレザーはある!だけど!
(しゃ、シャツがない…!?)
ブレザーの下に着用する長袖のシャツが、ロッカーの中から消えていたのだ。
あるべきはずの場所にあるべきものがない。その困惑は誰でも経験があるだろう。でも、自分が脱いだはずのものがない、そんな経験はなかなか体験できるものじゃない。
脳が一生懸命に現実を処理する。リボンタイのときと同じように誰かの悪戯説が真っ先に浮上するが、これほど悪質な悪戯は初めてだったため、落ち着くまでに時間がかかった。
(…どうしよう…)
これでは、残りの授業を体操着で過ごすことになってしまう。ブレザーの下に体操服、という奇妙な出で立ちか、全身体操服か、という二択がよぎる。
そんな困惑の中、福音の如き響きで私を現実に引き戻したのは、何を隠そう、更衣室にただ一人残った天上院さんの優しい声だった。
「どうかされましたか、小森さん?」
「て、天上院さん…」
心底心配そうな声に、不覚にも目頭が熱くなり、喉が詰まった。
その様子を目の当たりにした天上院さんは、「また何かないのですか?」と深刻な顔つきで私に近寄ってくる。彼女はすでに着替え終わっているため、ちゃんと制服を着用している。
「実は、その、シャツがなくて…」
「まぁ…そんな、どこにも?」
「うん」
ちらり、とロッカーの中を一瞥した天上院さんは、意を決したふうに頷くと、「失礼」と呟いて私が脱いだ服たちの中に手を突っ込んだ。
天上院さんの穢れなき美しい指先が、私みたいな庶民が脱ぎ散らかした服をまさぐる光景は、自然と私の胸に罪悪感をもたらす。
(ご、ごめんなさい、いや、すみません、天上院さん…!)
口に出す勇気のない謝罪。それを心のうちで何度か繰り返しているうちに、天上院さんは服の間から手を抜き、物憂げにため息を吐いた。
「…確かに、シャツはないですね」
天上院さんの悩まし気な様子を見ていると、彼女の慈愛が自分みたいなのにも平等に降り注がれることは、天空の太陽が地上の万物を照らすことと近しい現象のような気がしてくる。
「以前のようにどこかへ置き忘れた――というのは、さすがにありえませんよね」
少し手を伸ばせば触れられる至近距離で天上院さんが小首を傾げる。それだけで、私の胸はきゅっと切なさと息苦しさを覚えるが、粟立つ肌に、改めて自分の置かれた状況を思い出させられて、深く頷いた。
「は、はい。さすがに…」
「そうですよね…ということは、誰かに隠されたということでしょうか?」
「あー…」
おそらく、そうだと思うが…私が肯定してしまっては天上院さんがますます心配することは火を見るより明らかだ。そんなことが許されるのだろうか?
そうして逡巡していると、天上院さんは私の心を見透かしたかのように目を細め、少しだけこちらを咎めるような口調でこう告げる。
「小森さん。万が一、他人の物を盗むような輩がこの学園にいるとすれば、そのような人間を庇うことは罪悪ですよ。優しさと甘さをはき違えてはなりません」
ファンタジー小説に出てくる聖女ばりに清冽な言葉。それは私が抱える躊躇の霧を打ち払うのに十分すぎる光を帯びていた。
「多分、悪戯で隠されたんだと思います。たまにあるので…」
「たまにある?」ぴくり、と天上院さんの端正な顔が歪む。「それは聞き捨てなりませんね。私の父がより良くしようとしているこの学び舎で、そのような醜悪な行為が常習化しているなどと…!」
美人は怒ると怖い、というのが世間一般の定評だが、なるほど、なかなかどうしてその通り。鋭く冷たい面持ち。怖い。
天上院さんはすぐに自分の感情が高ぶっていることに気がつくと、「すみません、私としたことが」と丁寧に謝罪してくれた。
それから私たちは、どのようにして学園側に報告するかを二人で考えた。すぐにでも父に報告する、と天上院さんは提案したのだが、私は一日待ってほしい、とお願いした。
その申し出を天上院さんはとても不思議がっていたが、こちらとしては、事を大きくしたいわけではなく、悪戯がエスカレートしないように手を打てさえすればそれでいい、という私の意見を聞くと、少しばかり不満げにそれを承諾してみせた。もちろん、悪戯がエスカレートした場合は即刻、学園長に報告するという約束つきで。
天上院さんにも学園長の娘という立場がある。だからこそ、私みたいな人間の問題でも放置するわけにはいかないと考えたのだろう。
互いに同意を得たところ、不意に、天上院さんが呆れたような、感心したような微笑みを浮かべた。
「それにしても…優しいのですね、小森さんは」
「え、いやぁ…」
私はただ、臆病なだけだ。
問題と直接対峙することで、状況が悪化することを恐れているにすぎない。
「優しいとかじゃなくて、私は――」
日和見主義者とか、事なかれ主義者だとか。とにかく、そうした自称を口にしようとしていた刹那、そっと、天上院さんのたおやかな指先が私の頬に触れる。
「えっ…」
あまりに驚くべき事態に私が身を硬直させていると、彼女は気恥ずかしそうにこう言った。
「その優しさを誰かに利用されないよう、お気をつけ下さいね。小森澄香さん」
更衣室。窓の外からうららかな西日が差し込む、初夏のことだった。
「…フルネーム…」
覚えていてくれた。私なんかの、天上院さんが楽園の花なら、雑草でしかない私の名前を。
天上院さんは、また私の心を読んだみたいにこう続けた。
「ふふっ、覚えていますよ。大事なクラスメイトのフルネームですもの」
たとえリップサービスだとしても、私はこの瞬間、この狭苦しい更衣室の中にもたらされた輝きと甘い香りを一生忘れることはないだろう…という確信を抱いていたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
久しぶりに帰省したら私のことが大好きな従妹と姫はじめしちゃった件
楠富 つかさ
恋愛
久しぶりに帰省したら私のことが大好きな従妹と姫はじめしちゃうし、なんなら恋人にもなるし、果てには彼女のために職場まで変える。まぁ、愛の力って偉大だよね。
※この物語はフィクションであり実在の地名は登場しますが、人物・団体とは関係ありません。
身体だけの関係です‐三崎早月について‐
みのりすい
恋愛
「ボディタッチくらいするよね。女の子同士だもん」
三崎早月、15歳。小佐田未沙、14歳。
クラスメイトの二人は、お互いにタイプが違ったこともあり、ほとんど交流がなかった。
中学三年生の春、そんな二人の関係が、少しだけ、動き出す。
※百合作品として執筆しましたが、男性キャラクターも多数おり、BL要素、NL要素もございます。悪しからずご了承ください。また、軽度ですが性描写を含みます。
12/11 ”原田巴について”投稿開始。→12/13 別作品として投稿しました。ご迷惑をおかけします。
身体だけの関係です 原田巴について
https://www.alphapolis.co.jp/novel/711270795/734700789
作者ツイッター: twitter/minori_sui
〈社会人百合〉アキとハル
みなはらつかさ
恋愛
女の子拾いました――。
ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?
主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。
しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……?
絵:Novel AI
ダメな君のそばには私
蓮水千夜
恋愛
ダメ男より私と付き合えばいいじゃない!
友人はダメ男ばかり引き寄せるダメ男ホイホイだった!?
職場の同僚で友人の陽奈と一緒にカフェに来ていた雪乃は、恋愛経験ゼロなのに何故か恋愛相談を持ちかけられて──!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる