盗人猛々しいですよ、天上院さん!

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一章 女神ですよね、天上院さん!

女神ですよね、天上院さん!.2

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 長袖のシャツに飲み物をこぼしてしまった――という理由をつけて、クラスメイトにからかわれながらも一日を乗り切った次の日。私が想像していたとおり、長袖のシャツは引き出しの中に綺麗な畳まれ方で返されていた。

 あの後、何かと気にかけてくれていた天上院さんにそれを報告すれば、安心半分、奇妙さ半分といった面持ちで私の話を聴いてくれた。

「何はともあれ、今後体育の授業があるときは最後に更衣室を出るように致しましょう」

 そんな言葉でしめくくった天上院さんに、私が深々と頭を下げて感謝を述べれば、彼女は穏やかな顔つきのままこちらの肩に触れ、「気にすることはありませんよ」と言ってくれた。

 悪戯の被害を受けて、唯一嬉しいことがあるとしたら、やはり天上院さんと話す機会が増えたことだろう。

 私にとっては今まで高嶺どころか天空の華に等しかった天上院さん。そんな彼女が目線を合わせて、私の心配をしてくれるのだ。嬉しくないはずがない。

 天上院さんと話すようになって一番意外だったことは、思っていた以上にスキンシップが多いということだった。

 天上院さんは、よく私の肩や頭に触れる。

 話の内容の多くが悪戯に関することだったため、私を安心させるためのコミュニケーションだとは分かっていたが、やはりドギマギした。人目につかない場所では、頬に触れることもあったから、なおのことだ。

 変な勘違いをしてはいけない。天上院さんにとって私は、路傍の石。ただそれが、目の前に転がってきた…それだけである。

 それでも、同級生はそんな私たちを微笑ましそうに見ることが多かった。まあ、周囲からすれば学園一の美少女がマスコットとたわむれているように見えるだろうから、なんとなく納得できた。

 そうして、私のシャツが悪戯で盗まれてから一か月が過ぎた。

 あの後、天上院さんの言うことを聞いて更衣室を最後に出るようにしてからは、悪戯に遭っていなかったので、漠然ともう自分の衣類が盗まれることはないだろうな、なんてことを考えていたある日、事件は起きた。

 思えば、その日を境に色んなものがおかしな方向へと転がり始めていた。

 私の学生生活、魂の平穏、そして――天上院華との関係が。



「あっ…」

 今度は大きな独り言を発さずに済んだ。

 虚しい学習のメカニズム。驚きはしたが、ある種、慣れてしまっていたのだ。この状況に遭遇することに。

 更衣室のロッカーを落ち着いた動きで調べる。危惧していたとおり、そこにはあるべきものがなかった。

(うわー…また私のシャツがない…。油断したなぁ)

 さて、どうしようか、なんて以前と比べて余裕のある態度でじっと混沌とした衣服の抜け殻を見つめていると、天上院さんが遅れて更衣室に入ってきた。

 彼女は父親の立場もあって、よくよく先生に呼び出されている。大人が子どもにお伺いを立てる様子は見ていてなんともいえない気持ちにさせられるが…天上院さんは決して横柄な態度はせず、腰を低くして対応している。

 私はまた、天上院さんと二人になれるまでその場でじっと待機していた。迷惑かもしれなかったが、天上院さんも私の異変を察知した様子で、着替えているふりを続けていた。

 やがて、私と天上院さん以外の人間がいなくなると、彼女は心配そうな顔つきで私のそばにやって来て、「また盗られているのですか?」と尋ねた。

「あ、はい。そうみたいです」

「…そう。ここ最近は大丈夫でしたから、少し油断しましたね」

「あはは…そうですね」

 軽く肩を竦めた私に、上は長袖シャツ、下は体操服といった奇妙な姿の天上院さんが――それでも麗しいのだが――続ける。

「どうしましょう。また飲み物をこぼした、と言うのは無理がある気がしますが…」

「まぁ、確かに…」

 しかも、次の授業の教師は厳しい人で有名だ。怒られたらたまらないし、勘繰られても大事になるだろうから面倒だった。

(本当に、すぐ返してくれればいいのに…いや、そもそも盗らないでって言うべきかぁ)

 そうしてこちらが答えに窮していると、不意に、天上院さんが名案が浮かんだ、とでもいうふうに手のひらを叩いて顔を上げた。

 頭脳明晰の天上院さんが考えることだ。絶対にナイスアイデアに決まっている。

 私は期待を隠さず天上院さんの瞳を覗き込む。そこには、星の瞬く銀河のようなガラス玉があって、薄っすらと私の影を映していた。

「小森さん。私のシャツをお貸しします」

 なるほど。天上院さんのシャツを私が借りる…。

 天上院さんの…シャツを…。

 私の頭に、学生服で微笑む天上院さんの姿がぼうっと浮かび上がる。

 手を振ってくれる天上院さんの、凹凸に富んだボディラインが…長袖白シャツの表面を湾曲させて…?

「――は?」

 加速度的な勢いで私は現実に引き戻される。そんな天上院さんの姿を目の当たりにしたことなどない。

「ですから、私のシャツを――」

「いや、いやいや…!」

 私はすぐそばに立つ天上院さんが口にした、到底理解不能な提案を跳ね除ける。

「結構です。結構ですよ、天上院さん」

「あら、どうしてでしょう?」

「いや、どうしても何もないですって…天上院さんが私にシャツを貸したら、天上院さんはどうするんですか」

「まぁ…!」

 まぁ、じゃない。何よりも心配するべき点だろうに。

 天上院さんは小首を傾げて天井を見上げると、「それならば、ブレザーの下は肌着でいます」なんてことを言ってのけたから、私は今まで見せたこともない素早さで首を左右に振った。

「絶対、駄目です!」

「え、ど、どうしてでしょうか?」

 予想だにしない口調で返されたからか、天上院さんは少し怯んだ様子で尋ねてくる。

 私は、そんなことも説明しないと分からないのか、という天上院さんに抱くにはあるまじき考えを胸に、下から彼女をじっと見つめた。

「周りからいやらしい目でじろじろ見られますよ!特に男子は!」

「そ、そうでしょうか」

「そうです!」

 この人は、自分の体つきを鏡で見たことがないのだろうかと不思議になる。

「だけど、それで男子を責めるのはあまりに酷ですよ!だって、天上院さんは――…」

 そこまで口にして、私はこれから自分が言おうとしている言葉に気づき、ハッと口をつぐんだ。

 でも、そんな奇妙な振る舞いを天上院さんが見過ごすわけもなく、彼女はこてん、と首を倒して、「私が…なんでしょうか?」と無邪気に尋ねた。

 言うか言うまいか、非常に悩んだ。結果、私はどうにか誤魔化せないかと視線を逸らしたが、執拗に問い質す天上院さんによってそうもいかなくなる。

「…天上院さんは、その、スタイル、いいですから…」

 とても同年代とは思えないプロポーションには、もはや嫉妬も羨望もない。ただ、次元が違う生き物だという認識しかないのだ。

 私の呟きを耳にした天上院さんは、さっと頬を染めて唇をつぐむと、そのうち、落ち着きのない仕草で自分の髪を撫でた。

「小森さんが、そのようにおっしゃられるのであれば…分かりました」

「そ、そうですか…それは何より…」

 気恥ずかしい空気が流れるが、その甲斐もあって天上院さんは私の忠告を聞き入れてくれたようだった。

 しかし、天上院さんも目の前で起こった問題を放置して教室に戻る気はさらさらないようで、改めて他の案をこちらに提示してくれた。

「では、予備を使いましょう」

「よ、予備?そんなもの持ってるんですか?」

「ええ。まぁ、予備とは言っても、校則指定の長袖シャツの見本として先生方がお持ちのシャツを頂くだけです」

 そんなものがあるなら、最初から教えてほしかったのだが…。いや、天上院さんの温情にケチをつけていては天罰が下る。

 そもそも、私が面倒がらずに先生たちに報告すれば万事解決のところ、ワガママを言って話をややこしくしているのだ。それに付き合ってくれている天上院さんには感謝のみ抱くべきだ。

「迷惑ばかりかけてますけど…お願いしてもいいですか?天上院さん」

「もちろんです」と微笑んだ天上院さんは、次のように続けた。「それに、私は少しだけ今回の件、ラッキーだなぁなんて思っているのです。あぁ、ごめんなさい、不謹慎でしたね」

「ラッキー、ですか?」

 どういうことなのだろう。天上院さんからしたら、迷惑でしかないと思うのだが…。

 天上院さんは私の困惑を手のひらですくうと、ほんの少しだけ朱に染まった頬を綻ばせて言った。

「小森さん、教室では物静かで、話す機会がなかったものですから…。これを機会に仲良くなれて、嬉しく思います」

 私は天上院さんの言葉を耳にして、何も言えなくなった。

 こんな女神のような人が、たとえリップサービスだとしても、私なんかと仲良くなれて嬉しいと言ってくれている。

(め、女神ですよね、天上院さん…!)

 地に平伏してお礼を述べるべきシーンなのだろう。それなのに、照れ臭そうにこちらを見つめる天上院さんを目の前にすると、私はただ、ただ頭を下げるくらいしかできなくなってしまう。

 幸運。そんな言葉で、私の鼓動は静まらない。

 あの天上院さんと、こうして二人きりでいられる…そのオニキスの瞳が、ただ私だけを映しているような時間を…幸運なんて言葉だけでは、とても……。

  
(4)



 その後、天上院さんの口利きのおかげで、私はすぐに替えの長袖シャツを手に入れた。

 汚れ一つない純白の布地。まるで天上院さんの白い肌を模したようなそれは、私のサイズにぴったりだった。

 シャツを更衣室に運んできてくれた天上院さんは、あろうことか、私と一緒に次の授業に遅刻してくれた。

 普段は遅刻や私語にうるさい先生も、天上院さんが口にした、「先生の手伝いで遅れてしまって…」という言葉一つで何事もなかったかのように授業を再開した。こういうところもやはり、他の生徒とは一線を画するところだ。

 無事に一日の授業が終わると、天上院さんは真っ先に私の席まで来てくれて、「お返しになられるのはいつでも構いませんから」と私にしか聞こえない小さな声で教えてくれた。

 本当に気遣い上手で、大人びた人だ。クラスで動物みたいにはしゃぐ男子や、高い声でなんでもかんでも『可愛い』と誉める女子とは大違いである。――まぁ、私とはもっとかけ離れているのだが。

 次の日、私は誰よりも早く学校へと到着した。理由は、天上院さんから借りたシャツを直接彼女に返すためだった。

 天上院さんは学園のすぐ隣に家があるだけあって、毎朝、誰よりも早く学校に着いていると聞いたことがある。そうして、花壇の花々に水をやったり、教室の掃除をしたりしているというから、どこまでも聖人じみた人である。

 絵に描いたように出来た人間である天上院華。そんな彼女に目をかけてもらっていることは、私の平平凡凡とした人生において、最も輝かしい時間のような気がしていた。

 あわよくば、天上院さんが教室を綺麗にするお手伝いができれば――そんなことを考えながら昇降口に入り、階段を足早に駆け上がって教室に足を踏み入れる。

 触らずとも分かる、ふわふわの黒髪。すらりと伸びた手足と背筋。

(天上院さん…!)

 机の上を拭きあげているところなのか、天上院さんは机が乱立する教室の中心に立っていた。

 ちょうど窓から差し込む朝日が影を作っている辺り…あぁ、私の席だ。

 日陰者の机すらも黙々と綺麗にしてくれているのだろうと思うと、私は何とも言えない気持ちで胸がいっぱいになる。

 神様に愛されている女性が、その神々しい指先で庶民の机の埃を払う。なんて甘美で罪深い刹那なのだろう…!

「天上院さん、おはよ――」

 私は、彼女が驚くかもなんてことも考えず、珍しく大きな声で挨拶をしようとしていた。しかし、弾かれたように振り返った天上院さんの鋭く、冷え切った眼差しに息が詰まってしまった。

 獣が自らの縄張りに入られたときに見せるような、敵対的な表情。およそ天上院さんには似つかわしくない威圧感がそこにはみなぎっていた。

「…小森、さん。おはようございます」

 声をかけてきたのが私であることに気づいた天上院さんは、ぎこちない微笑みを浮かべながら、さっと自分の背後に左手を回した。

(今…何かを隠した…?)

 白い、残像が見えた。そう、まるでシャツのような…。

 一瞬、埃っぽい静寂が流れた。私と彼女の間には流れたことのない空気感だった。

 私はどうにか声を振り絞り、「お、おはようございます」と挨拶を返したのだが、天上院さんは間髪入れずに、「小森さんがこんな時間に来られるなんて、珍しいですね」と早口で紡いだ。

「は、はい…その、天上院さんからお借りしたシャツを早めに返したいと思って…」

 正確には天上院さんの物ではないのだが…彼女が自分に返すよう言ったのも事実だ。

「そうですか…急がずとも構いませんのに」

 ふっと口元を綻ばせた天上院さんは、いつも通りの姿に見える。その眼差しが凍りついた薔薇のように感じたのは勘違いだったのだろうか?

 私はどうしてか拭い切れない疑問から、動けずにいた。いつもなら、こういうときに自分から距離を詰めてくれる天上院さんも、今は微動だにしない。

 鞄からシャツを取り出し、じっと天上院さんを見つめる私と、それを視線で射止めるように見やる彼女。

 なんだか、動いてはいけないような気がした。でも、他の同級生がやって来て、私たちのやり取りについて尋ねられることのほうがよほど面倒なことになると考え直した私は、珍しく自分のほうから天上院さんに近寄った。

 すると…。

 ばっ、と天上院さんが後ろ手に何かを動かした。

 ぎこちない微笑みが、ぴくり、と動く。

(天上院さん…?)

 不可解な行動のために、私も足が止まる。ただ、ちょうど、手を伸ばせばシャツを渡せる距離だった。

「あの…」と綺麗に畳んだシャツを天上院さんに差し出す。

「…丁寧にありがとうございます。小森さん」

 ふっと、微笑む天上院さん。でも、やっぱりどこかぎこちない。

 私はぺこり、と頭を下げて、一度教室から出た。そうしないと天上院さんが動き出させないと思ったからだ。

 ――私のシャツを盗んでいたのは、天上院さんなのではないか?

 ほとんど直感的な疑いだった。確証があるわけではないし、ありえないことでもあった。

 でも、しばらくして教室に戻った私の席に、今日はいつものように盗まれたシャツが置いていなかった。

 置けなかったからではないかと思った。彼女自身も、自分の行動の不審さに気がついていたのではと…。
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