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二章 立派な犯罪ですよ、天上院さん!
立派な犯罪ですよ、天上院さん!.1
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舌なめずりする天上院さんを前にした私は、言葉にならない悲鳴を上げて教室から飛び出した。
混沌とする頭の中を振り切りたくて家から学校まで全速力ダッシュしたが、心の安寧は随分と彼方にあった。
肩で息をしながら、家に入る。
「あぁ、おかえ――って、どうしたの!?」
ぜいぜい言っている私を見た母が心配して声をかけてきたが、「へ、平気…たまには、は、走ろうと思っただけだから……」と虚勢をはる。
「そ、そう…なに、変質者でも出た?」
半分冗談で聞いているのだろうが、その言葉に、私はびくん、と肩を竦めた。
幸い、母は私の異常に気付いていないようだったから、「そうそう」とでも適当に返したものの、自分の部屋に入って扉の前でずるりと崩れ落ちた私の頭の中には、その“変質者”の姿がフラッシュバックする有様だった。
ちろり、と真っ赤な舌で唇を舐めた天上院華。
その宝石のように鮮やかな赤で塗られた唇から紡がれたのは、とても信じがたい言葉たちだった。
『小森さんの、柑橘系を彷彿とさせるくせに、酷く甘い香りを…胸いっぱいに吸い込むためですよ』
柑橘系?甘い香り?私の臭いって、そんな感じなの?
いや、っていうか、胸いっぱいに吸い込むってなに?なんで?
なんで、そんなことを天上院さんがしなきゃいけないの?罰ゲーム?いや、違うよね、あれは、あの顔は……。
思い起こされる、恍惚とした表情。およそ同級生、十代とは思えないほどに煽情的な姿。
あれは、自分の意志でやっていた。
誰かに強要されてとか、唆されてとかじゃなく。
自分の中の何かを満たすための、本能的な行動だ。
「い、意味が、分からない…」
扉にもたれかかったまま、両手で頭を抱える。
「うぅー…!分からない…っ!」
そうして、がしがしと自分の髪の毛をかき回した私は、たっぷり十分ほどそこに蹲っていたかと思うとやおら立ち上がり、ある種の決意を胸に自分の部屋を飛び出した。
春めく日々が終わりかけている、五月のこと。
私は罪の扉を開いた。
ガチャリ、とレバー式のドアノブを押して進み入るのは、妹の――小森瀬里奈の部屋。
「許せ、妹よ……お姉ちゃんはこのモヤモヤを抱えたまま眠りに就けるほど、強くはない…」
理解不能な状況を無理に飲み込もうとした結果、何だかおかしいテンションになっていることが自分でもよく分かっていた。だが、こうでもしていないと今にも叫び出して、母に病院へと連れて行かれそうだったのだ。
「そ、それにしても…」
久しぶりに足を踏み入れる妹の部屋。実は私は、瀬里奈の部屋に入ることを少しだけ敬遠していたりする。
妹が嫌いなわけではない。根暗な私と違って人付き合いが上手な瀬里奈を羨ましく思うことはあるが、こんな私でも慕ってくれる良い妹だと思っている。『お姉ちゃん』とは呼ばず、『澄香』と呼び捨てにしてくるあたり姉の尊厳は守られていないかもしれないが…。たかが二歳差だ。気にしないことにしている。
では、なぜ瀬里奈の部屋に進み入ることを苦手としているかというと…。
「またすごいことになってる…去年の倍くらいになってないか、これ……」
部屋の壁一面に貼られているのは、可愛い少女たちが仲睦まじくしている数々のイラスト。
机や飾り棚には同様のポストカードが並べられているし、DVDやCDのジャケットにも華やかなイラストが描かれている。
どれも美少女、かつ、二人以上が楽しそうにイチャイチャしている。
小森瀬里奈は、女性同士の恋愛が綴られるとするジャンル――いわゆる、“百合”を好む人間だった。
天真爛漫でスポーツ好きな瀬里奈がそうした趣味を持つことを意外とする人も多いらしいが、ひとたび理由を尋ねれば一時間単位で熱弁される恐れがあるため、賢い人間はわざわざ彼女の深淵に足を踏み入れることはない。君子は危うきに近寄らないのである。
「……でも、虎穴に入らずんば、とも言う…!」
私は一人決意を新たにすると、瀬里奈の聖域である巨大なスライド本棚に近寄り、物色を始めた。
『星屑の少女たち』
『夏、光る』
そんなふうに、美しい背表紙に神秘的なタイトルが綴られているものもあれば…。
『堕落する花園』
『私をお姉ちゃんと呼ばないで』
……というふうなタイトルの本のように、明らかに大人向けの闇が見受けられる作品もあった。
私はそれら――特に『姉妹』を彷彿とさせる作品を視界に入れないようにしながら、おぼろげな記憶を頼りにお目当ての作品を探していた。
「あ…」
ふと、指先が止まる。
『少女回遊』
「たしか、これだ」
本を棚から丁寧に引き出す。瀬里奈はこれらの本をぞんざいに扱うことだけは絶対に許さない。以前、友だちを連れて来ていた瀬里奈が怒鳴り散らしているのを聞いたほどだ。
瀬里奈は布教活動とかいうのにも熱心なほうだから、だれかれ構わず本を読ませようとする悪癖があった。瀬里奈の装甲車くらいの勢いに押され、その車輪の下に引きずり込まれた私が読んだことのある作品がこの『少女回遊』だったのだ。
パラパラと頁をめくる。良い匂いのする紙の上には、儚げなタッチで少女たちの交流が綴られていた。
山奥の学園を舞台にして繰り広げられる少女たちの純愛。私はそうした性的指向を持っていないつもりだが、それでも、心惹かれる美しさがその物語にはあった。
どう形容すればいいだろうか。この刹那的でもありながら、永劫すらも感じさせる恋の美しさを。
私は目的のシーンを読み、登場人物の心理的描写から自分に起きている事態を間接的に把握しようとしていただけだったのに…気づけば、先ほどまでの混乱も忘れて読み耽っていた。
そのうち、とうとう私が求めていた頁に辿り着く。
大人しい少女が、恋焦がれてやまない上級生のシャツをこっそりとかき抱き、その残り香に耽溺する。
罪悪感とは裏腹に充足していく自らの心。気が狂うほどの矛盾を前に、涙して屈み込む少女の口からこぼれるのは、上級生の名前。
渇きを癒すように。
焦がれるように。
でも、責めるように…。
――『どうして、私を見てはくれないのですか……お姉さま……』
少女の唇から血のようにこぼれる言葉に、私がごくり、と喉を鳴らした、そのときであった。
「あー!澄香っ!」
物語に没頭していた私は、背後から轟いた誰かの声にびくっ、と背筋をのけぞらせた。
「ちょっと、勝手に私の部屋に入って、何してるの!?」
反射的に振り返れば、そこには件の人物、小森瀬里奈の憤慨した姿があった。
「せ、瀬里奈、これにはワケがあってね?」
「ワケぇ!?人の部屋に勝手に入ったらいけないって、お母さんに教わらなかったの!」
「…教わりました」
しゅんと肩を落とした私が何をしているのか、瀬里奈が後ろから覗き込んだ。
すると、寸秒、彼女は動きを止めた。かと思えば、急に上機嫌に微笑んで私の横に腰を下ろした。
「なぁんだ、そういうことかぁ」
やけにニヤニヤしている。酷く、嫌な予感がした。
「澄香。コソコソしなくていいんだよぅ?澄香は作品の扱いが丁寧だから、ちゃんと貸すよぅ」
変にすり寄ってくるから、絶対に何かを勘違いされている、と確信した私は、そっと『少女回遊』を閉じながら言った。
「か、勘違いしないで。別に瀬里奈みたいにこのジャンルにはまったわけじゃないの」
「へぇー」
瀬里奈の顔を覗けば、未だに上機嫌。ニヤニヤしている。
「…なに、その顔」
「澄香こそ。百合に興味ないなら、なんで私の部屋に勝手に入ってまで本を読んでたの?たしかにまぁ、澄香はそれだけは特別気に入ってるみたいだったけど」
そう言って、瀬里奈は私が手にしている『少女回遊』を指差した。
それについては同感だったが、このままでは要らぬ疑いをかけられ同志扱いされそうだったため、誤解を晴らすよう努める。
「ただ、気になった描写があっただけ!」
「気になった描写?場面ってこと?」
「そう」
「どこ」
「え…」
「どこ」
「いや、その」
「どこ」
「……」
「どこ」
思わず目を逸らしたくなる瀬里奈の圧。質問に答えるまで、彼女はもう違う言葉を発さないだろう。
こうなってしまうのが怖かったから鬼のいない間に目的を果たしてしまおうと考えていたのに…迂闊だった。
「…しゃ、シャツの匂いを嗅ぐシーン」
「ああ…いいよね、あのシーン。主人公が自己矛盾に苛まれながらも、お姉さまを呪うみたいに名前を繰り返すの、私好き」
「う、うん」
うっとりとした目つきでそう語る瀬里奈。スポーティーなポニーテールが揺れていた。
「『少女回遊』は倒錯的なシーンが多くて好きなんだよね。ほら、なんでもかんでも綺麗で良いものみたいに描かれると、現実感ないじゃん?」
「まあ…現実はそうじゃないんだろうからね」
「現実がそうじゃないから、せめてフィクションの中ではって言う人もいるけど、私はどっちの場合も陰の側面こそ大事にしてほしいなって思う。そうしたら、日陰で生きていてもいいんだって思えるし」
たまに瀬里奈は、こんなふうに持論を語る。色んな本を読んでいる者同士、語り合えることはあるけれど…私の中にはこんな熱はない。瀬里奈と違って私にはリアリティがないからだ。
小森瀬里奈は、同性愛者であることを隠していない。
瀬里奈が自分の外側でたくさんの経験を積み、語る言葉はいつも本物だ。誰かの言葉を寄せ集めて作った偽物の熱では、彼女には勝てない。私はそれがいつも悔しかったけど、瀬里奈を尊敬している一番の点でもあった。
何はともあれ、私はこのまま瀬里奈の疑問をうやむやにできないかと考えていた。しかしながら、一通り持論を語り終えた彼女は、「で、何で気になったの?」と尋ねてきた。
「…たいしたことじゃないんだってば…」
「たいしたことじゃないなら、澄香は人の部屋に勝手に入ったりしない」
「うっ…」
駄目だ。押し負ける。
観念した私は、真実と嘘を混ぜこぜにしながら答えることにする。
「こ、このシーン。なんで主人公はシャツの匂いを嗅ぎたいって考えたのかなぁって…なんとなく疑問に思っただけ。なんとなく!」
「ふぅん。好きだからでしょ」
「す…」
“好き”という単語に思考がフリーズする。
あの優雅で華やかな天上院華と、その俗っぽい言葉があまりにリンクしなかった。それなのに、どうしてだろう、私の体は熱を帯びる。
開けてはならない箱の蓋が、カタン、と音を立てたのが自分でも分かった。
「端的に言えば、だけどね。そこに至る過程には色んな感情があるから、普通、一言では表現でき…」
そこで瀬里奈は言葉を切った。多弁傾向のある瀬里奈が言葉に詰まることはほとんどない。実際、今回もそうではなかった。
「ちょ、澄香、顔、真っ赤だよ。大丈夫?」
私の耳に、瀬里奈の声は聞こえていなかった。
頭に残っているのは、たったの一言。
『好き』
その一言が、天上院さんの清らかな声で再生される。そんな言葉をかけられたことなんてないくせに、あまりに鮮やかに再生された。
「ち、違う」
私はほぼ反射的に言葉を紡いでいた。
「そんなわけない」
幸か不幸か、瀬里奈は私のその言葉を響きのままに受け取るような人間ではなかった。つまり、作品解釈の違いを述べたのではない、と理解していたということだ。
瀬里奈は初め、信じられないものを見るような目で私を見つめていた。しかし、ややあって、ずいっと私に顔を近づけると、「う、嘘、まじ?」と興奮した様子で詰め寄ってきた。
しまった、と後悔するも時すでに遅し。瀬里奈は一人高い声を発しながら、ぐるぐると自分の部屋を歩き回り始めたのだが、その足取りがあまりに激しかったために、下の階から母が𠮟りつけてくるほどだった。
「いやー、まさかねぇー…ふぅん」
この短いやり取りで私の身に起きたことを察したらしい瀬里奈は、ニヤニヤとした面持ちで再び私に顔を寄せた。
「うんうん。それは混乱したよね。しょうがない、しょうがないよ」
「ま、まぁ…」
「ふふん、驚いたけど、まあ、変なことじゃないよ」
少しだけ冷静さを取り戻したらしい瀬里奈が続けた次の言葉に、私は思いもよらず度肝を抜かれることとなる。
「つい、好きな人のシャツの匂いを嗅いじゃったんだよね、澄香。うん。悪いことじゃないからね、気にしすぎないように!」
「…は?」
私は忘れていた。妹の瀬里奈は、一度走り出すと止まらない装甲車みたいな女であることを。
「で!どんな人なの?どんな人のシャツ嗅いじゃったの!?」
「ち、ちが――」
「えぇ!いいじゃん、今さら誤魔化さないでよぉ!」
「話を――」
「澄香って、内弁慶じゃん?表では基本的に大人しいはずなのに、そっかぁ、そんなことしちゃったんだぁ。そんなに素敵な人なんだね、その人」
素敵な人、と聞いて、天上院さんの顔が勝手に脳内に浮かび上がる。
どうしても、ちろりと舌なめずりする場面が優先して想起されるせいで、顔が熱くなる。そうなれば、また瀬里奈がきゃあきゃあ騒ぎ出すから手が付けられない。
結果として、私は瀬里奈の誤解を解くことはできなかった。
よくよく考えれば、『少女回遊』の登場人物と天上院さんを繋げて考えること自体、無理のある話だったのだ。
天上院さんは自己矛盾に苦しんでいるわけでも、涙を流しているわけでも、ましてや、私を狂おしく想っているわけでもない。
天上院さんは言ったのだ。私の香りを胸いっぱいに吸いたいのだと。
つまり、そういうフェチ。変態だ。
私は瀬里奈に『少女回遊』全巻を押しつけられた後、自分の部屋に戻ると、大きなため息と共にベッドへと飛び込むのだった。
混沌とする頭の中を振り切りたくて家から学校まで全速力ダッシュしたが、心の安寧は随分と彼方にあった。
肩で息をしながら、家に入る。
「あぁ、おかえ――って、どうしたの!?」
ぜいぜい言っている私を見た母が心配して声をかけてきたが、「へ、平気…たまには、は、走ろうと思っただけだから……」と虚勢をはる。
「そ、そう…なに、変質者でも出た?」
半分冗談で聞いているのだろうが、その言葉に、私はびくん、と肩を竦めた。
幸い、母は私の異常に気付いていないようだったから、「そうそう」とでも適当に返したものの、自分の部屋に入って扉の前でずるりと崩れ落ちた私の頭の中には、その“変質者”の姿がフラッシュバックする有様だった。
ちろり、と真っ赤な舌で唇を舐めた天上院華。
その宝石のように鮮やかな赤で塗られた唇から紡がれたのは、とても信じがたい言葉たちだった。
『小森さんの、柑橘系を彷彿とさせるくせに、酷く甘い香りを…胸いっぱいに吸い込むためですよ』
柑橘系?甘い香り?私の臭いって、そんな感じなの?
いや、っていうか、胸いっぱいに吸い込むってなに?なんで?
なんで、そんなことを天上院さんがしなきゃいけないの?罰ゲーム?いや、違うよね、あれは、あの顔は……。
思い起こされる、恍惚とした表情。およそ同級生、十代とは思えないほどに煽情的な姿。
あれは、自分の意志でやっていた。
誰かに強要されてとか、唆されてとかじゃなく。
自分の中の何かを満たすための、本能的な行動だ。
「い、意味が、分からない…」
扉にもたれかかったまま、両手で頭を抱える。
「うぅー…!分からない…っ!」
そうして、がしがしと自分の髪の毛をかき回した私は、たっぷり十分ほどそこに蹲っていたかと思うとやおら立ち上がり、ある種の決意を胸に自分の部屋を飛び出した。
春めく日々が終わりかけている、五月のこと。
私は罪の扉を開いた。
ガチャリ、とレバー式のドアノブを押して進み入るのは、妹の――小森瀬里奈の部屋。
「許せ、妹よ……お姉ちゃんはこのモヤモヤを抱えたまま眠りに就けるほど、強くはない…」
理解不能な状況を無理に飲み込もうとした結果、何だかおかしいテンションになっていることが自分でもよく分かっていた。だが、こうでもしていないと今にも叫び出して、母に病院へと連れて行かれそうだったのだ。
「そ、それにしても…」
久しぶりに足を踏み入れる妹の部屋。実は私は、瀬里奈の部屋に入ることを少しだけ敬遠していたりする。
妹が嫌いなわけではない。根暗な私と違って人付き合いが上手な瀬里奈を羨ましく思うことはあるが、こんな私でも慕ってくれる良い妹だと思っている。『お姉ちゃん』とは呼ばず、『澄香』と呼び捨てにしてくるあたり姉の尊厳は守られていないかもしれないが…。たかが二歳差だ。気にしないことにしている。
では、なぜ瀬里奈の部屋に進み入ることを苦手としているかというと…。
「またすごいことになってる…去年の倍くらいになってないか、これ……」
部屋の壁一面に貼られているのは、可愛い少女たちが仲睦まじくしている数々のイラスト。
机や飾り棚には同様のポストカードが並べられているし、DVDやCDのジャケットにも華やかなイラストが描かれている。
どれも美少女、かつ、二人以上が楽しそうにイチャイチャしている。
小森瀬里奈は、女性同士の恋愛が綴られるとするジャンル――いわゆる、“百合”を好む人間だった。
天真爛漫でスポーツ好きな瀬里奈がそうした趣味を持つことを意外とする人も多いらしいが、ひとたび理由を尋ねれば一時間単位で熱弁される恐れがあるため、賢い人間はわざわざ彼女の深淵に足を踏み入れることはない。君子は危うきに近寄らないのである。
「……でも、虎穴に入らずんば、とも言う…!」
私は一人決意を新たにすると、瀬里奈の聖域である巨大なスライド本棚に近寄り、物色を始めた。
『星屑の少女たち』
『夏、光る』
そんなふうに、美しい背表紙に神秘的なタイトルが綴られているものもあれば…。
『堕落する花園』
『私をお姉ちゃんと呼ばないで』
……というふうなタイトルの本のように、明らかに大人向けの闇が見受けられる作品もあった。
私はそれら――特に『姉妹』を彷彿とさせる作品を視界に入れないようにしながら、おぼろげな記憶を頼りにお目当ての作品を探していた。
「あ…」
ふと、指先が止まる。
『少女回遊』
「たしか、これだ」
本を棚から丁寧に引き出す。瀬里奈はこれらの本をぞんざいに扱うことだけは絶対に許さない。以前、友だちを連れて来ていた瀬里奈が怒鳴り散らしているのを聞いたほどだ。
瀬里奈は布教活動とかいうのにも熱心なほうだから、だれかれ構わず本を読ませようとする悪癖があった。瀬里奈の装甲車くらいの勢いに押され、その車輪の下に引きずり込まれた私が読んだことのある作品がこの『少女回遊』だったのだ。
パラパラと頁をめくる。良い匂いのする紙の上には、儚げなタッチで少女たちの交流が綴られていた。
山奥の学園を舞台にして繰り広げられる少女たちの純愛。私はそうした性的指向を持っていないつもりだが、それでも、心惹かれる美しさがその物語にはあった。
どう形容すればいいだろうか。この刹那的でもありながら、永劫すらも感じさせる恋の美しさを。
私は目的のシーンを読み、登場人物の心理的描写から自分に起きている事態を間接的に把握しようとしていただけだったのに…気づけば、先ほどまでの混乱も忘れて読み耽っていた。
そのうち、とうとう私が求めていた頁に辿り着く。
大人しい少女が、恋焦がれてやまない上級生のシャツをこっそりとかき抱き、その残り香に耽溺する。
罪悪感とは裏腹に充足していく自らの心。気が狂うほどの矛盾を前に、涙して屈み込む少女の口からこぼれるのは、上級生の名前。
渇きを癒すように。
焦がれるように。
でも、責めるように…。
――『どうして、私を見てはくれないのですか……お姉さま……』
少女の唇から血のようにこぼれる言葉に、私がごくり、と喉を鳴らした、そのときであった。
「あー!澄香っ!」
物語に没頭していた私は、背後から轟いた誰かの声にびくっ、と背筋をのけぞらせた。
「ちょっと、勝手に私の部屋に入って、何してるの!?」
反射的に振り返れば、そこには件の人物、小森瀬里奈の憤慨した姿があった。
「せ、瀬里奈、これにはワケがあってね?」
「ワケぇ!?人の部屋に勝手に入ったらいけないって、お母さんに教わらなかったの!」
「…教わりました」
しゅんと肩を落とした私が何をしているのか、瀬里奈が後ろから覗き込んだ。
すると、寸秒、彼女は動きを止めた。かと思えば、急に上機嫌に微笑んで私の横に腰を下ろした。
「なぁんだ、そういうことかぁ」
やけにニヤニヤしている。酷く、嫌な予感がした。
「澄香。コソコソしなくていいんだよぅ?澄香は作品の扱いが丁寧だから、ちゃんと貸すよぅ」
変にすり寄ってくるから、絶対に何かを勘違いされている、と確信した私は、そっと『少女回遊』を閉じながら言った。
「か、勘違いしないで。別に瀬里奈みたいにこのジャンルにはまったわけじゃないの」
「へぇー」
瀬里奈の顔を覗けば、未だに上機嫌。ニヤニヤしている。
「…なに、その顔」
「澄香こそ。百合に興味ないなら、なんで私の部屋に勝手に入ってまで本を読んでたの?たしかにまぁ、澄香はそれだけは特別気に入ってるみたいだったけど」
そう言って、瀬里奈は私が手にしている『少女回遊』を指差した。
それについては同感だったが、このままでは要らぬ疑いをかけられ同志扱いされそうだったため、誤解を晴らすよう努める。
「ただ、気になった描写があっただけ!」
「気になった描写?場面ってこと?」
「そう」
「どこ」
「え…」
「どこ」
「いや、その」
「どこ」
「……」
「どこ」
思わず目を逸らしたくなる瀬里奈の圧。質問に答えるまで、彼女はもう違う言葉を発さないだろう。
こうなってしまうのが怖かったから鬼のいない間に目的を果たしてしまおうと考えていたのに…迂闊だった。
「…しゃ、シャツの匂いを嗅ぐシーン」
「ああ…いいよね、あのシーン。主人公が自己矛盾に苛まれながらも、お姉さまを呪うみたいに名前を繰り返すの、私好き」
「う、うん」
うっとりとした目つきでそう語る瀬里奈。スポーティーなポニーテールが揺れていた。
「『少女回遊』は倒錯的なシーンが多くて好きなんだよね。ほら、なんでもかんでも綺麗で良いものみたいに描かれると、現実感ないじゃん?」
「まあ…現実はそうじゃないんだろうからね」
「現実がそうじゃないから、せめてフィクションの中ではって言う人もいるけど、私はどっちの場合も陰の側面こそ大事にしてほしいなって思う。そうしたら、日陰で生きていてもいいんだって思えるし」
たまに瀬里奈は、こんなふうに持論を語る。色んな本を読んでいる者同士、語り合えることはあるけれど…私の中にはこんな熱はない。瀬里奈と違って私にはリアリティがないからだ。
小森瀬里奈は、同性愛者であることを隠していない。
瀬里奈が自分の外側でたくさんの経験を積み、語る言葉はいつも本物だ。誰かの言葉を寄せ集めて作った偽物の熱では、彼女には勝てない。私はそれがいつも悔しかったけど、瀬里奈を尊敬している一番の点でもあった。
何はともあれ、私はこのまま瀬里奈の疑問をうやむやにできないかと考えていた。しかしながら、一通り持論を語り終えた彼女は、「で、何で気になったの?」と尋ねてきた。
「…たいしたことじゃないんだってば…」
「たいしたことじゃないなら、澄香は人の部屋に勝手に入ったりしない」
「うっ…」
駄目だ。押し負ける。
観念した私は、真実と嘘を混ぜこぜにしながら答えることにする。
「こ、このシーン。なんで主人公はシャツの匂いを嗅ぎたいって考えたのかなぁって…なんとなく疑問に思っただけ。なんとなく!」
「ふぅん。好きだからでしょ」
「す…」
“好き”という単語に思考がフリーズする。
あの優雅で華やかな天上院華と、その俗っぽい言葉があまりにリンクしなかった。それなのに、どうしてだろう、私の体は熱を帯びる。
開けてはならない箱の蓋が、カタン、と音を立てたのが自分でも分かった。
「端的に言えば、だけどね。そこに至る過程には色んな感情があるから、普通、一言では表現でき…」
そこで瀬里奈は言葉を切った。多弁傾向のある瀬里奈が言葉に詰まることはほとんどない。実際、今回もそうではなかった。
「ちょ、澄香、顔、真っ赤だよ。大丈夫?」
私の耳に、瀬里奈の声は聞こえていなかった。
頭に残っているのは、たったの一言。
『好き』
その一言が、天上院さんの清らかな声で再生される。そんな言葉をかけられたことなんてないくせに、あまりに鮮やかに再生された。
「ち、違う」
私はほぼ反射的に言葉を紡いでいた。
「そんなわけない」
幸か不幸か、瀬里奈は私のその言葉を響きのままに受け取るような人間ではなかった。つまり、作品解釈の違いを述べたのではない、と理解していたということだ。
瀬里奈は初め、信じられないものを見るような目で私を見つめていた。しかし、ややあって、ずいっと私に顔を近づけると、「う、嘘、まじ?」と興奮した様子で詰め寄ってきた。
しまった、と後悔するも時すでに遅し。瀬里奈は一人高い声を発しながら、ぐるぐると自分の部屋を歩き回り始めたのだが、その足取りがあまりに激しかったために、下の階から母が𠮟りつけてくるほどだった。
「いやー、まさかねぇー…ふぅん」
この短いやり取りで私の身に起きたことを察したらしい瀬里奈は、ニヤニヤとした面持ちで再び私に顔を寄せた。
「うんうん。それは混乱したよね。しょうがない、しょうがないよ」
「ま、まぁ…」
「ふふん、驚いたけど、まあ、変なことじゃないよ」
少しだけ冷静さを取り戻したらしい瀬里奈が続けた次の言葉に、私は思いもよらず度肝を抜かれることとなる。
「つい、好きな人のシャツの匂いを嗅いじゃったんだよね、澄香。うん。悪いことじゃないからね、気にしすぎないように!」
「…は?」
私は忘れていた。妹の瀬里奈は、一度走り出すと止まらない装甲車みたいな女であることを。
「で!どんな人なの?どんな人のシャツ嗅いじゃったの!?」
「ち、ちが――」
「えぇ!いいじゃん、今さら誤魔化さないでよぉ!」
「話を――」
「澄香って、内弁慶じゃん?表では基本的に大人しいはずなのに、そっかぁ、そんなことしちゃったんだぁ。そんなに素敵な人なんだね、その人」
素敵な人、と聞いて、天上院さんの顔が勝手に脳内に浮かび上がる。
どうしても、ちろりと舌なめずりする場面が優先して想起されるせいで、顔が熱くなる。そうなれば、また瀬里奈がきゃあきゃあ騒ぎ出すから手が付けられない。
結果として、私は瀬里奈の誤解を解くことはできなかった。
よくよく考えれば、『少女回遊』の登場人物と天上院さんを繋げて考えること自体、無理のある話だったのだ。
天上院さんは自己矛盾に苦しんでいるわけでも、涙を流しているわけでも、ましてや、私を狂おしく想っているわけでもない。
天上院さんは言ったのだ。私の香りを胸いっぱいに吸いたいのだと。
つまり、そういうフェチ。変態だ。
私は瀬里奈に『少女回遊』全巻を押しつけられた後、自分の部屋に戻ると、大きなため息と共にベッドへと飛び込むのだった。
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