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二章 立派な犯罪ですよ、天上院さん!
立派な犯罪ですよ、天上院さん!.2
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次の日の朝、私は何事もなかったかのように天上院さんに声をかけられた。
「おはようございます、小森さん。今日はじんわり汗ばむ陽気ですね」
「……そ、そうですね」
「もう初夏だなんて、一日、一日、あっという間です」
「は、はぁ」
一体、どういう神経をしていたら、あんな変態的発言の後に平気な顔をしていられるのだろう…。
私には天上院華という別世界の人間の頭の中が全く理解できないままに適当な相槌を打った。
すると、天上院さんは何でもない顔で小首を傾げ、こちらに手を伸ばしてきた。
「あら、寝ぐせが…」
白魚のような指先が私の髪に触れかけた刹那、びくっ、と私は身をひいた。
妙な反応をしてしまっただろうか、と目だけを動かしてクラスメイトの様子を窺うも、誰も私の動きなんかに興味を示していない。当たり前と言えば当たり前か。
不意に、天上院さんが小さな声で笑った。鳥がさえずるみたいに美しい旋律だった。
「ふふっ…意識、されていますね」
女神の顔で、彼女は囁く。誰にも聞こえないように。
教室から差し込む朝日が、きらきらと輝いていた。それなのに、天上院さんの艶やかな微笑みや天使の輪を描く黒髪は、光の中でも際立って見えた。
眩しいものほど、目を背けたくなるものなのに。天上院さんはそれとは逆で、私の瞳を釘付けにしてくる。それこそ、憎らしいまでに。
「これなら、私の間抜けなミスも悪いことばかりではなかったかもしれません。“そんな顔”の小森さんが見られるのですから…」
そんな顔?
どんな顔してるって言うんだ、私が。
私にはそれを確認する術はない。いや、あったとしても、絶対に確認することはなかっただろう。
だって、私の頭にはまたあの『好き』という言葉が蘇っていたから、確認してもろくなことはないと分かっていたのだ。
とにかく、天上院華は良くも悪くも私から大きく距離を取るということはしなかった。
そのせいで、私は度々ドキリとさせられる学生生活を強いられたのだが、肝心要の問題は、天上院さんが本性を現してから一週間ほどが経ってから私の前に立ち塞がった。
「……っ」
ちゃんと対処していたのに。先生に小言を言われてでも、一番遅く更衣室を出たのに。
いや、もうそこが問題じゃない。一番問題なのは…。
私は、ゆっくりと誰にも不審がられない程度の速さで振り返った。
視線の先には、他の生徒に気取られない程度に私を盗み見ている天上院さんの姿がある。彼女は私の恨めしい眼差しに気がつくと、照れ臭そうに微笑んで手を振ってきた。
(な、何を楽しそうに…!私のシャツ、返してよぉ…!)
警戒していたのに、一体どのタイミングで盗まれたのか。思い返してみても、バレーの授業中に天上院さんが姿をくらました様子はなかったはずだ。
こんなところでまで余計な才能を披露しなくてもいい、と小さくため息を吐きながら、今までと同じようにみんなが出て行くのを待つ。
更衣室の中が私と天上院さんだけになったとき、「ふふっ」と静かに笑いながら天上院さんが体ごとこちらを向き直った。
天上院さんも私と同じで着替えていないから体操服姿だったのだが、薄い生地の上に描かれた流線形のボディラインが妙に蠱惑的な印象を与えていた。
私は、いつまで経っても天上院さんが口を開かないから、やむを得ず言葉を発した。
「……天上院さん」
「はい。どうされましたか?」
白々しい…。分かっているだろうに。
「また盗りましたよね、私のシャツ」
天上院さんは一拍置いて、満面の笑みで答える。
「ええ、盗りました」
「なっ…」
何を堂々としているのだろう。この人は。
「ひ、人の物を盗むのは、立派な犯罪ですよ!天上院さん!」
さすがの私も黙っていられず、そんなふうに珍しく語気を荒げた。自分なりに勇気を出してのことだったのだが、あろうことか天上院さんはコロコロと鈴を鳴らすみたいに笑っていた。
「ふふ、そうですね。確かに犯罪です」
「何を、そんな呑気に…!」
すると、天上院さんがこんなことを言った。
「それで?」
「そ、それで?」
意味も分からずオウム返しにすれば、天上院さんはこてんと小首を傾げる。
「それで、何だと言うのでしょう?犯罪だとして、それで?」
「なっ…」
これには私も絶句する。この人は今、自分の犯した行為を受け入れた上で、平気な顔をしているのだ。
(清廉潔白で慈悲深い、天上院さんが…)
女神の幻想は潰えた。あぁ、さらば、私の理想の天上院さん像…。
(そ、それなら、ちゃんと言わないと。人として、言うべきことを…)
私は首を左右に振り、無理やりにでも気持ちを切り替えてから、天上院さんを睨みつけた。まあ、私がしても何の威圧感もないのだが。
「天上院さんが行動を改めてくれないのなら、私――」
「言いつけますか?先生方に」
言葉を遮られ、思わずわずかに狼狽する。そうすれば、天上院さんは自信満々といった表情で言った。
「失礼ですが、小森さん。みなさんは私と小森さん、どちらを信用するでしょうか?」
「え」
「私は誰から見ても完璧な優等生を演じきれているつもりです。みなさんが『天上院華』に求めている姿を示していますから、自然と人望や信頼が集まる。『天上院さんなら大丈夫』と。そのうえ、父が学園長という立場も、先生方相手にはなかなかの効果を持ちます。…では、改めてお尋ねします、小森さん。小森さんが仮に、『天上院さんが人のシャツを盗んだんです、しかもそれを目の前で嗅いだんです!』と報告したとして…誰が信じますか?」
驟雨の如く、言葉を紡いで私の克己心を折りにきた天上院さん。それにしても、途中のやたらと高い声は私の物真似だろうか?私、あんなに馬鹿みたいなのか…。
何はともあれ、私は天上院さんの問いかけに対する効果的な答えを持ち合わせてはいなかった。
日陰者で友だちも少ない、真面目だけが取り柄の私では、天上院さんを取り巻く分厚い信頼を突破することなど不可能なのは明白だ。
「う、うぅ…」
私は早々に牙を折られ、涙ぐんだ目で天上院さんを見つめた。
どうにか彼女の罪悪感を刺激して、良心の呵責を起こさせられないだろうかと思ったのだが、その考えはあまりに甘すぎた。
「まぁ…そのように可愛いお顔、おやめ下さい。意地悪をするのが癖になってしまったらどうするのですか…!」
反省してくれるどころか、天上院さんは酷く興奮した様子で嬉しそうに手を頬に当てるばかり。上気した頬がほんのり赤いのが可愛らしいが、言っていることは変態そのもの。彼女が他人なら、即刻交番に駆け込んでいる。
(ど、どう転んでも、私じゃこの変態――天上院さんに太刀打ちできそうもないよ…)
諦観と焦燥の中、口ごもるしかできずにいる私に天上院さんが告げた。
「シャツ、返してほしいですか?」
「も、もちろん…」
「では、可愛くおねだりして下さい」
「お、おねだり…?」
「はい。可愛らしく」
「いや、意味が…」
分からないんですけど、と続けようとするも、微笑んだまま一切微動だにしない天上院さんの表情から、妙な威圧感を覚えて口をつぐむ。
どうにかやり過ごせないかと時間を稼ぐも、無駄そうである。昨日の装甲車を思い出して、諦観がよりいっそう強まった私は、仕方がなく言われた通りにすることとした。
「……お願いします」
「『シャツ、返してほしいな』でお願いします。小首も傾げながら」
「……」
だったら、初めからそう言えよ…というか、なんだ、その恥ずかしい要求は。
「あ、あの、本当にやらなきゃダメですか?」
「…」
無視された。さっきからこの調子である。関係ないことは無視。
しばしの逡巡の後、深いため息と共に私は覚悟を決める。
「しゃ、シャツ、返してほしいな」
こてん、と首を横に倒して作り笑いを浮かべる。
自分の今の様子を客観的に想像すると、可愛らしいどころか気持ち悪いだろと思ったが、天上院さんは満足した様子で頷き、「なんて可愛らしい…!なんでも言うことを聞きたくなりますね」などと抑揚を強くして言った。
(それじゃあ、二度と盗まないでほしいんだけど…)
天上院さんは鮮やかに踵を返すと、自分の服が置いてあるところに移動し、その手にシャツを持ってからまた戻ってきた。
思いのほかあっさり返してくれるなとか、そこにあったのかとか色々考えたが、私の予測は外れることとなる。
「では、次はこれを着てからお願いします」
そう言って彼女が差し出したシャツには、『天上院華』の刺繍が施されていた。
「え?え?」
私は差し出されたシャツと天上院さんの顔を何度も交互に見比べ、狼狽えた。
「ど、どういうこと?これ、私のシャツじゃないですよ?天上院さん」
「え?ふふっ、何を当たり前のことをおっしゃられているのでしょう。そうですとも、こちらは私のシャツです」
あどけなく笑う天上院さんは素直に可愛いと思えた。しかし、彼女が重ねて要求してくる行動が可愛さとはかけ離れていた。
「私のシャツを着て、おねだりしてみせてほしいのです。さぁ、お願いします」
抑圧しようとはしているが、その俗欲な興奮を隠しきれてはいない天上院さんの言葉を真っ向から受け止めたとき、私はとうとう諦観を通り越して理不尽への怒りを抱いてしまった。
「いや、いやいや、無理…!」
「無理ではありません、ほら」
「無理。無理だって。天上院さん、さすがに自重したほうがいいって、絶対。変態が過ぎる」
私は基本的に、クラスメイトには敬語を使っている。それは心の距離感が近い相手がいないことの表れなのだが、今日、この場で天上院さんに口調を崩したのは友好の証などではない。天上院さんに遠慮することが馬鹿らしくなったのである。
しかし、天上院さんは私の率直な言葉を受けて自重するどころか、むしろ、明らかな不満を示して唇を尖らせる。
「変態と簡単に言いますが、人類、みんな等しく変態です。誰もが、蓋を開けてみれば人には言えないことの一つや二つ必ず内に抱えているもの。私は、たまたま小森さんのような女の子が困っているのを見るのが好きな人間であっただけです」
もっともらしい言い分に納得しかけるが、ぐっと踏み止まる。
「そ、それを誰かに押しつけたらダメだよ。趣味嗜好とか考え方の問題じゃなくて、手段の問題だと思う」
「……小森さんは、現国の成績だけは私を凌駕しますものね。理屈をこねあって勝てるとは思っていません」
「いや、国語力の問題じゃなくて、モラルの…」
「そうとなれば、私も手段を問いません。自らの理想を実現するために些事を犠牲にできる者こそ、夢を叶えられるとは思いませんか?」
「さ、些事…」
今、天上院さんは何を些事としたのだろう。法律?私の尊厳?それとも、天上院華という人間の偶像?
とにかく、天上院さんは頑として自分の意見を譲ろうとはしなかった。
私が要求を飲まないことを告げると、「では、シャツは返しません」と冷たい目をしたし、意地を張って体操服のまま外に出ようとすると、「来月からはプールの授業ですね」と脅しとも取れる発言をしてきた。
下着など盗られた日には本当にたまらない。結局、私は天上院さんの言う通りにすることを余儀なくされた。
顔を赤くしてシャツを受け取った私を見て、天上院さんが言う。
「照れておいでなのですね。どうぞ、お気になさらず、着て下さい。さあ」
「うっ…うぅ…」
次の授業まで時間もほとんどない。また天上院さんが融通を利かせるのだろうが、あまり遅くなってはそれも限界があるのでは、という心配が強まる。
今は、言うことを聞くほかなさそうだ。
私は覚悟を決めて、頭から天上院さんのシャツを被った。
(う、わ…)
その瞬間、私の身を包んだのは、金木製みたいに甘い香り。
(や、やばい…すっごく、良い匂い…くらくらしそう…)
体だけではなく、心さえも痺れさせてしまう魅惑の芳香に息を止める。これ以上、彼女の匂いを吸収してしまっては、穴の底から戻れなくなる気がした。
「ふふ、お似合いです。袖丈がまるで合っていないのが、また…」
ぺろり、と舌なめずりする天上院さん。最高に上機嫌なのが手に取るように分かる。
私はなるべく早くこの甘い檻から逃れるべく、勢いのままに天上院さんが欲していた言葉を並べた。
「シャツ、返してほしいな」
私の言葉を聞いて、ごくりと天上院さんが喉を鳴らすのが聞こえた。それがまた、私の羞恥を駆り立てる。
「ど、どうでしょうか、私のシャツ。匂い」
「え、えー…」
変態丸出しのコメントなのに、天上院さんの熱い眼差しを独り占めにしているとなっては、どこか優越感みたいなものも覚えてしまう。
そんな満更でもない状態で、「ま、まさか、臭いですか…?」などと天上院さんが不安そうに尋ねてくるものだから、私は照れ臭さから俯きつつ、「いや、その、良い匂い…だよ」と返す。
(う、嘘はいけないから。ただ、それだけ。良い匂いなのは事実だし。うん)
すると、天上院さんはほっとしたような顔で、「そうですか」と告げ、それから淀みない動きでロッカーに戻ると、おそらく私の物なのであろうシャツを取り出し、また戻ってきた。
普通にそこにあったのか、となんとなく様子を窺っていると、天上院さんは驚くべきことに、先週彼女がそうしてみせたのと同じように私のシャツを顔に当て始めた。
「なっ…」
すぅ、はぁ、と規則的に繰り返される呼吸音。前回より長い。
この執拗さ、羞恥を失った振る舞い。生粋の変態である。
「い、いけません。あまりに小森さんが可愛くて我慢できず、つい…」
とうとう興奮を隠さず、にっこりと笑ってみせた天上院さん。変態という枠すら手狭に見える彼女の振る舞いに、私は大声を発しながら殴りつけるようにシャツをひったくる。
「変態っ!返してよ!」
「おはようございます、小森さん。今日はじんわり汗ばむ陽気ですね」
「……そ、そうですね」
「もう初夏だなんて、一日、一日、あっという間です」
「は、はぁ」
一体、どういう神経をしていたら、あんな変態的発言の後に平気な顔をしていられるのだろう…。
私には天上院華という別世界の人間の頭の中が全く理解できないままに適当な相槌を打った。
すると、天上院さんは何でもない顔で小首を傾げ、こちらに手を伸ばしてきた。
「あら、寝ぐせが…」
白魚のような指先が私の髪に触れかけた刹那、びくっ、と私は身をひいた。
妙な反応をしてしまっただろうか、と目だけを動かしてクラスメイトの様子を窺うも、誰も私の動きなんかに興味を示していない。当たり前と言えば当たり前か。
不意に、天上院さんが小さな声で笑った。鳥がさえずるみたいに美しい旋律だった。
「ふふっ…意識、されていますね」
女神の顔で、彼女は囁く。誰にも聞こえないように。
教室から差し込む朝日が、きらきらと輝いていた。それなのに、天上院さんの艶やかな微笑みや天使の輪を描く黒髪は、光の中でも際立って見えた。
眩しいものほど、目を背けたくなるものなのに。天上院さんはそれとは逆で、私の瞳を釘付けにしてくる。それこそ、憎らしいまでに。
「これなら、私の間抜けなミスも悪いことばかりではなかったかもしれません。“そんな顔”の小森さんが見られるのですから…」
そんな顔?
どんな顔してるって言うんだ、私が。
私にはそれを確認する術はない。いや、あったとしても、絶対に確認することはなかっただろう。
だって、私の頭にはまたあの『好き』という言葉が蘇っていたから、確認してもろくなことはないと分かっていたのだ。
とにかく、天上院華は良くも悪くも私から大きく距離を取るということはしなかった。
そのせいで、私は度々ドキリとさせられる学生生活を強いられたのだが、肝心要の問題は、天上院さんが本性を現してから一週間ほどが経ってから私の前に立ち塞がった。
「……っ」
ちゃんと対処していたのに。先生に小言を言われてでも、一番遅く更衣室を出たのに。
いや、もうそこが問題じゃない。一番問題なのは…。
私は、ゆっくりと誰にも不審がられない程度の速さで振り返った。
視線の先には、他の生徒に気取られない程度に私を盗み見ている天上院さんの姿がある。彼女は私の恨めしい眼差しに気がつくと、照れ臭そうに微笑んで手を振ってきた。
(な、何を楽しそうに…!私のシャツ、返してよぉ…!)
警戒していたのに、一体どのタイミングで盗まれたのか。思い返してみても、バレーの授業中に天上院さんが姿をくらました様子はなかったはずだ。
こんなところでまで余計な才能を披露しなくてもいい、と小さくため息を吐きながら、今までと同じようにみんなが出て行くのを待つ。
更衣室の中が私と天上院さんだけになったとき、「ふふっ」と静かに笑いながら天上院さんが体ごとこちらを向き直った。
天上院さんも私と同じで着替えていないから体操服姿だったのだが、薄い生地の上に描かれた流線形のボディラインが妙に蠱惑的な印象を与えていた。
私は、いつまで経っても天上院さんが口を開かないから、やむを得ず言葉を発した。
「……天上院さん」
「はい。どうされましたか?」
白々しい…。分かっているだろうに。
「また盗りましたよね、私のシャツ」
天上院さんは一拍置いて、満面の笑みで答える。
「ええ、盗りました」
「なっ…」
何を堂々としているのだろう。この人は。
「ひ、人の物を盗むのは、立派な犯罪ですよ!天上院さん!」
さすがの私も黙っていられず、そんなふうに珍しく語気を荒げた。自分なりに勇気を出してのことだったのだが、あろうことか天上院さんはコロコロと鈴を鳴らすみたいに笑っていた。
「ふふ、そうですね。確かに犯罪です」
「何を、そんな呑気に…!」
すると、天上院さんがこんなことを言った。
「それで?」
「そ、それで?」
意味も分からずオウム返しにすれば、天上院さんはこてんと小首を傾げる。
「それで、何だと言うのでしょう?犯罪だとして、それで?」
「なっ…」
これには私も絶句する。この人は今、自分の犯した行為を受け入れた上で、平気な顔をしているのだ。
(清廉潔白で慈悲深い、天上院さんが…)
女神の幻想は潰えた。あぁ、さらば、私の理想の天上院さん像…。
(そ、それなら、ちゃんと言わないと。人として、言うべきことを…)
私は首を左右に振り、無理やりにでも気持ちを切り替えてから、天上院さんを睨みつけた。まあ、私がしても何の威圧感もないのだが。
「天上院さんが行動を改めてくれないのなら、私――」
「言いつけますか?先生方に」
言葉を遮られ、思わずわずかに狼狽する。そうすれば、天上院さんは自信満々といった表情で言った。
「失礼ですが、小森さん。みなさんは私と小森さん、どちらを信用するでしょうか?」
「え」
「私は誰から見ても完璧な優等生を演じきれているつもりです。みなさんが『天上院華』に求めている姿を示していますから、自然と人望や信頼が集まる。『天上院さんなら大丈夫』と。そのうえ、父が学園長という立場も、先生方相手にはなかなかの効果を持ちます。…では、改めてお尋ねします、小森さん。小森さんが仮に、『天上院さんが人のシャツを盗んだんです、しかもそれを目の前で嗅いだんです!』と報告したとして…誰が信じますか?」
驟雨の如く、言葉を紡いで私の克己心を折りにきた天上院さん。それにしても、途中のやたらと高い声は私の物真似だろうか?私、あんなに馬鹿みたいなのか…。
何はともあれ、私は天上院さんの問いかけに対する効果的な答えを持ち合わせてはいなかった。
日陰者で友だちも少ない、真面目だけが取り柄の私では、天上院さんを取り巻く分厚い信頼を突破することなど不可能なのは明白だ。
「う、うぅ…」
私は早々に牙を折られ、涙ぐんだ目で天上院さんを見つめた。
どうにか彼女の罪悪感を刺激して、良心の呵責を起こさせられないだろうかと思ったのだが、その考えはあまりに甘すぎた。
「まぁ…そのように可愛いお顔、おやめ下さい。意地悪をするのが癖になってしまったらどうするのですか…!」
反省してくれるどころか、天上院さんは酷く興奮した様子で嬉しそうに手を頬に当てるばかり。上気した頬がほんのり赤いのが可愛らしいが、言っていることは変態そのもの。彼女が他人なら、即刻交番に駆け込んでいる。
(ど、どう転んでも、私じゃこの変態――天上院さんに太刀打ちできそうもないよ…)
諦観と焦燥の中、口ごもるしかできずにいる私に天上院さんが告げた。
「シャツ、返してほしいですか?」
「も、もちろん…」
「では、可愛くおねだりして下さい」
「お、おねだり…?」
「はい。可愛らしく」
「いや、意味が…」
分からないんですけど、と続けようとするも、微笑んだまま一切微動だにしない天上院さんの表情から、妙な威圧感を覚えて口をつぐむ。
どうにかやり過ごせないかと時間を稼ぐも、無駄そうである。昨日の装甲車を思い出して、諦観がよりいっそう強まった私は、仕方がなく言われた通りにすることとした。
「……お願いします」
「『シャツ、返してほしいな』でお願いします。小首も傾げながら」
「……」
だったら、初めからそう言えよ…というか、なんだ、その恥ずかしい要求は。
「あ、あの、本当にやらなきゃダメですか?」
「…」
無視された。さっきからこの調子である。関係ないことは無視。
しばしの逡巡の後、深いため息と共に私は覚悟を決める。
「しゃ、シャツ、返してほしいな」
こてん、と首を横に倒して作り笑いを浮かべる。
自分の今の様子を客観的に想像すると、可愛らしいどころか気持ち悪いだろと思ったが、天上院さんは満足した様子で頷き、「なんて可愛らしい…!なんでも言うことを聞きたくなりますね」などと抑揚を強くして言った。
(それじゃあ、二度と盗まないでほしいんだけど…)
天上院さんは鮮やかに踵を返すと、自分の服が置いてあるところに移動し、その手にシャツを持ってからまた戻ってきた。
思いのほかあっさり返してくれるなとか、そこにあったのかとか色々考えたが、私の予測は外れることとなる。
「では、次はこれを着てからお願いします」
そう言って彼女が差し出したシャツには、『天上院華』の刺繍が施されていた。
「え?え?」
私は差し出されたシャツと天上院さんの顔を何度も交互に見比べ、狼狽えた。
「ど、どういうこと?これ、私のシャツじゃないですよ?天上院さん」
「え?ふふっ、何を当たり前のことをおっしゃられているのでしょう。そうですとも、こちらは私のシャツです」
あどけなく笑う天上院さんは素直に可愛いと思えた。しかし、彼女が重ねて要求してくる行動が可愛さとはかけ離れていた。
「私のシャツを着て、おねだりしてみせてほしいのです。さぁ、お願いします」
抑圧しようとはしているが、その俗欲な興奮を隠しきれてはいない天上院さんの言葉を真っ向から受け止めたとき、私はとうとう諦観を通り越して理不尽への怒りを抱いてしまった。
「いや、いやいや、無理…!」
「無理ではありません、ほら」
「無理。無理だって。天上院さん、さすがに自重したほうがいいって、絶対。変態が過ぎる」
私は基本的に、クラスメイトには敬語を使っている。それは心の距離感が近い相手がいないことの表れなのだが、今日、この場で天上院さんに口調を崩したのは友好の証などではない。天上院さんに遠慮することが馬鹿らしくなったのである。
しかし、天上院さんは私の率直な言葉を受けて自重するどころか、むしろ、明らかな不満を示して唇を尖らせる。
「変態と簡単に言いますが、人類、みんな等しく変態です。誰もが、蓋を開けてみれば人には言えないことの一つや二つ必ず内に抱えているもの。私は、たまたま小森さんのような女の子が困っているのを見るのが好きな人間であっただけです」
もっともらしい言い分に納得しかけるが、ぐっと踏み止まる。
「そ、それを誰かに押しつけたらダメだよ。趣味嗜好とか考え方の問題じゃなくて、手段の問題だと思う」
「……小森さんは、現国の成績だけは私を凌駕しますものね。理屈をこねあって勝てるとは思っていません」
「いや、国語力の問題じゃなくて、モラルの…」
「そうとなれば、私も手段を問いません。自らの理想を実現するために些事を犠牲にできる者こそ、夢を叶えられるとは思いませんか?」
「さ、些事…」
今、天上院さんは何を些事としたのだろう。法律?私の尊厳?それとも、天上院華という人間の偶像?
とにかく、天上院さんは頑として自分の意見を譲ろうとはしなかった。
私が要求を飲まないことを告げると、「では、シャツは返しません」と冷たい目をしたし、意地を張って体操服のまま外に出ようとすると、「来月からはプールの授業ですね」と脅しとも取れる発言をしてきた。
下着など盗られた日には本当にたまらない。結局、私は天上院さんの言う通りにすることを余儀なくされた。
顔を赤くしてシャツを受け取った私を見て、天上院さんが言う。
「照れておいでなのですね。どうぞ、お気になさらず、着て下さい。さあ」
「うっ…うぅ…」
次の授業まで時間もほとんどない。また天上院さんが融通を利かせるのだろうが、あまり遅くなってはそれも限界があるのでは、という心配が強まる。
今は、言うことを聞くほかなさそうだ。
私は覚悟を決めて、頭から天上院さんのシャツを被った。
(う、わ…)
その瞬間、私の身を包んだのは、金木製みたいに甘い香り。
(や、やばい…すっごく、良い匂い…くらくらしそう…)
体だけではなく、心さえも痺れさせてしまう魅惑の芳香に息を止める。これ以上、彼女の匂いを吸収してしまっては、穴の底から戻れなくなる気がした。
「ふふ、お似合いです。袖丈がまるで合っていないのが、また…」
ぺろり、と舌なめずりする天上院さん。最高に上機嫌なのが手に取るように分かる。
私はなるべく早くこの甘い檻から逃れるべく、勢いのままに天上院さんが欲していた言葉を並べた。
「シャツ、返してほしいな」
私の言葉を聞いて、ごくりと天上院さんが喉を鳴らすのが聞こえた。それがまた、私の羞恥を駆り立てる。
「ど、どうでしょうか、私のシャツ。匂い」
「え、えー…」
変態丸出しのコメントなのに、天上院さんの熱い眼差しを独り占めにしているとなっては、どこか優越感みたいなものも覚えてしまう。
そんな満更でもない状態で、「ま、まさか、臭いですか…?」などと天上院さんが不安そうに尋ねてくるものだから、私は照れ臭さから俯きつつ、「いや、その、良い匂い…だよ」と返す。
(う、嘘はいけないから。ただ、それだけ。良い匂いなのは事実だし。うん)
すると、天上院さんはほっとしたような顔で、「そうですか」と告げ、それから淀みない動きでロッカーに戻ると、おそらく私の物なのであろうシャツを取り出し、また戻ってきた。
普通にそこにあったのか、となんとなく様子を窺っていると、天上院さんは驚くべきことに、先週彼女がそうしてみせたのと同じように私のシャツを顔に当て始めた。
「なっ…」
すぅ、はぁ、と規則的に繰り返される呼吸音。前回より長い。
この執拗さ、羞恥を失った振る舞い。生粋の変態である。
「い、いけません。あまりに小森さんが可愛くて我慢できず、つい…」
とうとう興奮を隠さず、にっこりと笑ってみせた天上院さん。変態という枠すら手狭に見える彼女の振る舞いに、私は大声を発しながら殴りつけるようにシャツをひったくる。
「変態っ!返してよ!」
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