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第1章 始まりはショパン
親父の留守に
しおりを挟む都合の良いことに親父は留守だった。
「今夜は遅くなるようでしゅよ」
還暦を三回くらい過ぎたのではないかと思う住み込みのカメは、差し歯が抜けるのを気にして喋るので、「す」の発音が「しゅ」になる。
「タコシュ、もう少しでできましゅよ」
「有り難う、カメ。友達に持っていくんだ」
幼い頃にいきなり死んだと聞かされた母親もタコスが好きだった。ふと割り込む社長の面影を振り払って、大急ぎでシャワールームに駆け込む。
キッチンではカメが涙ぐんでいる。
「カゲ坊にお友達が……ううっ」
烏の行水でバスローブのまま父親の部屋に忍び込んだ大影はクローゼットから黒いチョッキとシルクの白いドレスシャツをこっそり拝借して(体型が似ているって便利だなぁ、こんな時)と喜ぶ。
『電話の声も似ていましたよ。違うのは年期とじゅ脳と髪型くらいのものでしゅかね』
普段使わないウエットジェルで髪に艶を与えオールバックにしてから二筋ほど額に垂らす。鏡に向かって(イケメン気分だ)とにんまり微笑む大影は結構ナルシスト。
小道具のアームガーターに(よし、これでクラブボーイに見えんこともないだろう)と、またもや鏡の前で決めポーズを取る大影はかなりのナルシスト。
キッチンから出てカメは目を丸くした。
「おやまあ、しゅ敵なバーテンさん。でも何かたりましぇんねぇ」
自室から小さなボタンを持ってきて大影の耳たぶに強力瞬間接着剤でくっ付けた。
「流石はカメ」
「ふふふ、伊達に年ばかり食ってきた訳じゃないでしゅよ。でもね、お年寄りを誉めるときに『流石』は御法度でしゅ」
「親父には内緒」
「ラジャー。お友達って、カメは何でもお見通しでしゅよ。ホシュトクラブでバイトでしょ。即採用でしゅから自信を持って何でも体験、体験」
カメはウインクした。皺しわの中で目が埋まる。
(ウインクだよな)
大影も思わずウインクを返す。
(しまった。何かあったときにホストクラブに行ったというデマで首が締まるかも。親父は検察だからな)
しかしカメは弁解の余地も与えず背を伸ばして大影の肩をポンポンと縁起付けた。
「もう、どこから見てもホシュト。でもね、今時は顔だけではないんでしゅよ。話術でしゅからね。話術で女の子のハートをゲットしてモテモテも夢ではないでしゅから、頑張ってらっしゃい」
激励する。
励まされた大影もその気になって「うん、頑張る」
と明るい声で宣言してからタコスの入った紙袋をもらってガレージに入った。
バイクのサイドミラーに映るニヤケ顔。ふっと不愉快になる。
(僕様がタコス持ってホストの面接なんてあり得んだろう。しかし……話術ね。話術……モテモテ……)
カメはキッチンで(ホストの面接って本当でしゅかね。お友達ができたと喜んであげた方が良かったでしゅかね)と、今更遅い悩みに身を任せてキャベツを刻み始めた。
こらこら、それはタコスの余りキャベツだろう、そんなに刻んでどうする気だと誰かに言わせたいらしい。
ガレージの大影はアルミホイルを開いて綺麗に並べられたタコスの上に、例の超強力アメ製ヤバい下剤をスポイトで思い切り注入した。旨そうなタコスの匂い以外は何も臭わない。
(何かで読んだけど片耳ピアスはホモさんの印で、ホモクラブで相手を探す時はこれをしなきゃあ声も掛からないとか……いや、今の沖縄ではお洒落は自由だから、片耳ピアスがホモだなんて、わははは……)
フルスロットルで国道330号線を走り姫百合通りを神原小学校前で右に折れた。
空が怪しく光っている。銀灰色に垂れ込めた雲の光散作用で街は異様に明るんでいた。沖縄中が待ちに待った雨がやっと降りだしそうだ。
そんな気配の中を(降るな、今は降らないでくれ、少しの間で良いんだ)と、祈る神を持たない大影は、二段に積んで紙袋の中に収まっているタコスの心配をした。
(雨に降られたら千二百円の下剤が台無しになる)
百五十円値切ったのは何処の誰だったのだろう。
パレット前のスクランブル交差点で信号に引っ掛かった。横断歩道を往く人波からふいに白いものがひらひらと数枚舞い上がり、その一枚を手にした大影は、楽譜であることに気づいた。
(あれ、ショパンの雨だれの前奏曲だ。小説家のジョルジュ・サンドと迷える島で過ごした間に作った曲だっけ……懐かしいなぁ。ガキの頃、死ぬほど練習したやっさぁ)
それでも、秋月のようには弾けない。弾く度にだんだん胸が痛くなって息苦しくなった。
(しかし、雨垂れか。不吉な前兆かも)
歴史上の噂では、ショパンはジョルジュサンドに迷ったが、二人で過ごしたスペインの小島はマヨルカ島という。お前は迷うなよ、大影。
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